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古本夜話1377 大谷光瑞『見真大師』と上海の大乗社

 前々回は村松梢風の『魔都』において、その不夜城にして物騒な都市の領域をクローズアップすることに終始してしまった。だが村松は上海の魔都だけに注視しているのでなく、思いがけない人々とも交流し、それらに言及している。例えば、「唯一の新芸術雑誌」である『創造』によっていた郭沫若、郁達夫、田漢、成灝たちで、彼らはほとんどが日本に留学し、帰国して上海で「新興芸術の先駆者」となっていた。村松は佐藤春夫の紹介状を持って、日本の博文館に相当する中華書局編集局に勤める田漢を訪ね、『創造』同人たちと親交を結ぶ。本探索1315の魯迅とエロシェンコではないけれど、一九二〇年代には中国においても新しい出版社が成長し、それに伴って新たな文学運動が起きていたのである。

 

 村松は彼らと交流するだけでなく、大谷光瑞も訪ね、それを『魔都』所収の「無憂国訪問記」として残している。これも中里介山が『遊於処々』で、大谷が長崎丸によく乗り、上海に住居もあるらしいと書いていることと符合するものだ。大谷に関しては『近代出版史探索Ⅳ』675で取り上げ、明治後期から大正にかけての西本願寺法主で、三次にわたる大谷探検隊を組織し、仏教東漸の遺跡を探る中央アジア調査を行ない、当時の日本の敦煌学に大きな影響を与えた人物で、昭和に入ってからは南進論者へと変貌していったことなどにふれておいた。

 だがその後、浜松の時代舎で大谷の『見真大師』を入手している。これは第一章「総序」に示されているように、徳富蘇峰の慫慂によって書かれた親鸞論であり、「大師に関する現代の通俗流伝せる悪書の妄を弁じ、併て其の真相を世に公示」し、「大師の裔孫にして、祖徳を紹述するは孝道是より大なるはなし」との意図に基づく一冊ということになる。しかしここではその内容に立ち入らず、同書と介山の証言、村松の「訪問記」をリンクさせてみよう。

 その前に先の拙稿ではふれてこなかった大谷の軌跡を補足説明しておかなければならない。彼の教団改革や大谷探検隊などは西本願寺の莫大な財政負担と疑獄を生じさせ、その責任をとり、大正三年に法主を辞任する。そして中国で農園を経営し、八年に光寿会を結成して総裁となり、機関誌『大乗』を創刊し、仏教の立場から大アジア主義を唱えたとされる。

 実際にこの『見真大師』は上海の大乗社からの刊行で、大正十一年十二月発行、十二年二月七版、その発行者は上海星加坡十五号の橘瑞超とある。彼は深田久弥『中央アジア探検史』(白水社)で大谷とともに章が割かれ、写真入りで、大谷の探検隊の随行員や事業秘書だったとされている。発売所は大阪市南区の中山太陽堂太陽閣、東京市京橋区の民友社となっている。前者は拙稿「大佛次郎と『苦楽』」(『古雑誌探究』所収)などでふれている、後のプラトン社と見なせるし、後者は本探索1346で示しておいたように、徳富蘇峰との関係から日本での発売所を引き受けたと考えられる。

中央アジア探検史  古雑誌探究

 また奥付裏の巻末には『大乗』の二面広告が掲載され、一ページは破れて欠けているが、そのメインコピー「読め!! 智者は大乗を読むが故に世界の進歩に後れず。愚者は大乗を読まざるが故に世界の進歩に後る」が目に入る。このようなコンセプトからすると、大谷は上海発の『大乗』を総合雑誌的に目論んで創刊したのかもしれない。それをうかがわせているのは『大乗』の「大売捌所」で、民友社と中山太陽堂の他に、京都市の共盛社、上海の日華仏教会、大連市の大阪屋号、朝鮮京城の本願寺別院の文書伝道部が列挙されている。これらは大乗社の取次で、外地だけでなく、このルートで東京堂などの大取次や全国の書店にも流通販売が可能だったと考えられる。このうちの日華仏教会は「大谷光瑞師著作書目」として、『大無量寿経義疏』などの書籍を刊行し、その広告も『見真大師』に同じく併載されているのである。

 このように大谷は上海において、仏教と出版活動を併走させていたことになるし、村松は紹介者を得て、その大谷を訪問する。その三日前に、三井物産の園遊会に招かれ、そこに「霜降の背広に茶の中折帽を冠つてゐる赭顔無髯の大兵肥満の男が居て、数名の人々に取り巻かれつゝ園内を横行濶歩してゐる有様が一と際目立つ」ていた。それが大谷だったのである。大谷は上海の郊外のシンガポールロードの宏大な邸宅と庭園を有する「無憂国」に住んでいた。村松の目的は「当代の傑物」と世間で評判の大谷に会って教えを受けることにあった。

 大谷の立て続けの談話を聞きながら、村松は尋ねる。「物には中心がある筈です。一体先生の本領は何処にあるので御座います? 私はそれが承はり度い」。するとそれに対して、大谷は「海外といふ観念をば日本の国民の頭に注入することを生涯の仕事と致して居る」と答え、続けている。「大谷光瑞は坊主でも政治家でも其の他の何者でも御座りません、只、海外観念の教育家を以て私(ママ)かに任じて居る男で彼のする一切の事が其の方便である」と。それを聞き、村松は大谷が「海外観念の教育家」だと、「天下に向って公弁する」気になったのである。だがそのうちに大谷は日本の労働者の移民には反対で、日本人は「智力労働」には適しているが、「筋肉労働」には不適当だといい始め、「筋肉労働者は労働のうちで最も卑しいもの」で、「総理大臣は智力労働者の最上位に位するもの」だと語るのである。

 その大谷に言説を受け、村松は「無憂国訪問記」を次のように閉じている。

 不幸にして私は総理大臣が一番偉い労働者とも亦一番偉い人間だとも思つてゐない。私は大谷光瑞先生と自分との間に根本的に思想の扞格のある事が分つたので、最早此の高説を拝聴することは止めにして、蒼惶としてお暇を頂戴した。


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