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古本夜話1382 田中阿歌麿『趣味と伝説 湖沼巡礼』

 『みづゑ』の「水彩画家大下藤次郎」に収録された水彩画を見ていると、彼が湖を好んで描いていることに気づく。具体的には湖のタイトルを付しているものだけでも「木崎湖」「本栖湖」「猪苗代湖」「久々子湖」「松原湖の秋」「宍道湖の黄昏」などが挙げられる。

 明治三十年代における水彩画の勃興に際し、湖が注目されたのか、それとも大下の好みであったのかは詳らかにしないけれど、写生旅行などで、湖が選ばれる機会も多かったことは確かであろう。もしそれが大下によって主導されたとすれば、志賀重昂の『日本風景論』につながる小島鳥水の山の発見に比肩する注視といえるかもしれない。

日本風景論 新装版 (講談社学術文庫)

 実はすでに二十年以上前になるのだが、気紛れに田中阿歌麿の『趣味と伝説 湖沼巡礼』を拾っている。國本社出版部からの刊行で、昭和二年初版、十一年再版の一冊である。國本社は神田区司町、発行者は古藤田喜助だが、著者の田中だけでなく、どちらも他では見ていない。それでもこの四六判函入上製三二二ページの一冊が十年を経て再版されている事実からすれば、國本社はその間も出版を続けていたと考えるべきであろう。

(『趣味と伝説 湖沼巡礼』)

 野尻湖、白馬大池、諏訪湖の口絵写真に続く再版の「はしがき」で、まず田中は湖沼の研究を初めてから三十九年になると述べている。しかしここでは湖沼学の複雑な記述は後日に譲り、「古事記に於ては主として旅行者の伴侶となるべき記述に止めた」として、次のように続けている。

 之は近年著しく旅行するものゝ多くなり湖畔の如きは昔日の寂寥に引換へ今日は湖上の遊覧、水泳、氷滑其他湖畔の避暑等湖を訪るゝもの日に多くなつて来た。又学生の暑中休暇を利用しての勉強地としての湖畔を選ぶものも著しく増加して来た。即ち之等人士が湖畔に立つた時一通り其湖沼に就ての知識を持つって居るといふことは慥に有意義なことと思ふ、之が本書を著はした主意である。

 つまりここで田中は近年湖畔旅行が流行となってきているので、湖沼ガイドブック、彼の言葉を借りれば、「旅行者の好伴侶」というべき一冊を送り出したことになる。彼には『湖沼の研究』や『趣味の湖沼学』という著書もあるようだが、三十九年にわたる湖沼研究といえば、明治三十年頃に端を発していることになり、大下たちの水彩画による湖沼の発見とほぼ時代を同じくしている。

 それならばどうして昭和に入って湖畔旅行が流行するようになったのだろうか。それは大正時代における鉄道や交通網の進化、日本旅行会などの遊覧団体の旅行斡旋、それに伴う観光や避暑に出かける人々の増加が挙げられよう。そうした旅行インフラの充実に加え、昭和二年の「日本新八景」選定も大きく作用していると思われる。これは旅の文化研究所編『旅と観光の年表』(河出書房新社、平成二十三年)によれば、次のようなものである。

旅と観光の年表

 昭和二年に本探索1330でふれた大阪毎日新聞と東京日日新聞はハガキによる「日本新八景」の人気投票を試み、人口より多い九千万通を超えるという全国的イベントになった。この投票結果をもとに、文人、画家、学者からなる選定委員会は従来と異なり、地形上の特徴から八つの枠を定め、それぞれについて一ヵ所を選び、「日本新八景」は雲仙岳(山岳)、上高地渓谷(渓谷)、華厳滝(瀑布)、木曽川(河川)、十和田湖(湖沼)、狩勝峠(平原)、室戸岬(海岸)、別府温泉(温泉)となったのである。

 選にもれた中から二五勝・百景も挙げられ、選定公開された。これらの選定を通じて、「候補地の間では郷土意識があおられて熱狂的ともいえる盛り上がりをみせ、同時に日本の美しい景観への再認識と、景勝地への旅行が促進される」ことになって。ちなみに「日本新八景」の選定は後の国立公園設定にも影響を与え、自然景観への評価と認識をさらに高めたと伝えられている。

 この事実によって、「湖沼」が観光地として定着したとわかる。そして昭和十五年に高峰三枝子が歌う「山の淋しい/湖に/ひとり来たのも/悲しい心」と始まる「湖畔の宿」(佐藤惣之助詞、服部良一曲)が流行した背景も了承できるのである。それは戦後の高度成長期においても継承され、旅行ガイドだけでなく、一般書のかたちでも、河合茂美『湖畔旅行』(現代教養文庫、昭和三十六年)、川端康成編『湖』(有紀書房、同年)などが刊行されていたことの起源を知ることになる。

高峰三枝子/湖畔の宿   

 なおその後、田中がかなり知名人で、スイス留学中に本探索1325エリゼ・ルクリユに師事し、地理学へと誘われていったことを知った。


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