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古本夜話1391 片山敏彦とツヴァイク『権力とたたかう良心』

 前回の片山敏彦に関して続けてみる。高杉一郎『ザメンボフの家族たち』に「片山敏彦の書斎」という小文がある。

 高杉は『文芸』の編集者として、昭和十二年から十九年の応召に至るまで、片山の書斎訪問を繰り返し、「片山教室」の「生徒」だったことを語っている。そこではロマン・ロランのこと、欧米の同時代の出版物などが話題となり、片山は「一見して非政治的な芸術の鑑賞者」だと考えられていたが、進行するアジアやヨーロッパの戦時下にあって、「実はテコでも動かない意志にささえられた抵抗者であること」を悟るようになったのである。

 それが機縁となって、高杉は戦後に片山の創案と監修による『ツヴァイク全集』全二十一巻のうちの『権力とたたかう良心』をドイツ語から翻訳することになる。その理由は「戦争中に、片山教室でそれを切実な思いで話題にのせた記憶があったから」だ。あらためてこの小説を読んでみると、それはよくわかるように思われる。

 

 ツヴァイクはユダヤ人の平和主義者であり、豊富な蔵書を備えて書庫を有するザルツブルグの館に住み、伝記文学『ジョゼフ・フーシェ』『マリー・アントワネット』『メリー・スチュアート』(いずれもみすず書房版全集に収録)などによって、イギリスのストレイチー、『近代出版史探索Ⅴ』873のフランスのモーロワとともに二十世紀の三大伝記作家とされ、ロマン・ロランとも厚い友情で結ばれていた。

ツヴァイク全集 11 ジョゼフ・フーシェ   

 ところがナチスの台頭によって、一九三四年に武器の密輸入の疑いで家宅捜索を受け、翌年にイギリスへ亡命する。そしてあわただしい流離の生活の中で、伝記文学というよりも、同時代のナチズムへの嘆きや怒りを宗教改革のルターやカルヴァンに投影させた『エラスムスの勝利と悲劇』(高橋禎二訳、河出書房、昭和十八年)、『カルヴァンとたたかうカステリオン』を書く。この二作はナチスとそのファシズムに対する抗議であると同時に、時代の政治的アナロジーをこめていて、前者は戦前に翻訳されているが、後者は昭和四十七年に高杉訳『権力とたたかう良心』としてようやく刊行されたことになる。それはサブタイトルを「カルヴァンとたたかうカステリオン」とするもので、そのコアを抽出してみる。

(『エラスムスの勝利と悲劇』)

 一五三五年カルヴァン(カルヴィンのフランス語表記)は福音主義の教理の最初の綱要にして、プロティスタンティズムの正典である『キリスト教綱要』を書き上げる。ツヴァイクはこれが歴史の流れを決定し、ヨーロッパの顔を変えてしまった一冊で、ルターの聖書翻訳以後の宗教改革の最も重要なものだったと述べている。カルヴァンは『キリスト教綱要』に基づき、ジュネーブで神政政治を実現するために教会法規を規定し、礼拝の儀式制度から市民の社会生活に至るまでのドラスチックな改革を断行した。反対する者はことごとく排除され、神学者で人文学者のカステリオンは追放され、異端者のセルヴェートは焚刑に処せられたのである。

 そしてカルヴァンはジュネーブを教会都市とすることに成功し、長きにわたってヨーロッパのプロティスタンディズムの牙城とした。神学は「偶発的な時代の衣裳」にすぎないと断った上で、ツヴァイクはいっている。

 それは、無数に生きた細胞をふくんで息づいている国家を硬直した機構に変え、それぞれの感情や思想をもっている民衆をただひとつの体系のなかにおしこめる実験であった。これは、思想の名において住民全体を完全に統制しようとしたヨーロッパで最初の試みであった。

 あたらしいイデオロギイというものは、いつでもこの世にまずあたらしい理想主義を生み出すものである(おそらくこれがあたらしいイデオロギイの形而上学的な意味なのであろう)。なぜかというと、ひとびとに統一と純粋というあたらしい幻影をもたらす人物は誰でも、まず第一に彼らからもろもろの力のうちでも最も神聖な力である献身と熱狂をひきずりだすからである。何百万というひとたちが、まるで魔法にかけられたように自分の方から進んで身をまかせ、はらまさせられ、凌辱されるままにさえなる。

 そのカルヴァンのあらゆる圧制に挑戦したのはカステリオンであった。この孤独な理想主義者は「貧乏学者、居住権も市民権もない外国への亡命者、二重の移民」というべき存在だが、どのような党派にも狂信にも関わりを持たなかった。それゆえにカステリオンとカルヴァンが象徴するのは「寛容と不寛容、自由と監視、人間性と狂信、個性と画一、良心と権力」の両極であり、ここから邦訳タイトルも取られている。

 そのようにして、ツヴァイクは「カルヴァンとたたかうカステリオン」を描いていくわけだが、そこには名指しされていないけれど、カルヴァンと『キリスト教綱要』が『近代出版史探索』116のヒトラーと『我が闘争』に擬せられていることは明白だろう。ちなみにカルヴァンの『キリスト教綱要』は『近代出版史探索Ⅵ』1033の中山昌樹訳で、『同Ⅲ』529の新生堂から全三巻で刊行されているようだが、未見である。

 それゆえに日本の戦時下において、片山や高杉にとっても、このツヴァイクの『カルヴァンとたたかうカステリオン』は重要な一冊だったことになろう。とりわけツヴァイクが挙げていたカステリオンの『疑う技術について』の一節はかみしめる思いを共有したと思われるので、それを引いて本稿を閉じる。

 ひとたび光明がおとずれたあとで、われわれがふたたびこのような暗黒のなかで生活しなければならなかったことを、後世のひとびとはおそらく理解できないであろう。


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