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古本夜話1399『戦艦ポチョムキン』と映画評論社『定本世界映画芸術発達史』

 中野重治の『空想家とシナリオ』でただちに連想されたのはエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』のことであった。この作品の中で、彼が想定しているシナリオとは『戦艦ポチョムキン』のように思われてならないのだ。『空想家とシナリオ』は高杉一郎の要請によって書かれ、昭和十四年=一九三九年、『文芸』に連載された作品である。

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 『戦艦ポチョムキン』は一九二五年にモスクワで公開された映画であるけれど、日本ではフィルムが輸入禁止にして、上映禁止となっていたので、戦後の昭和三十四年まで観ることのできない映画と化していた。そして四十二年にアート・シアター・ギルド(ATG)の配給によって一般公開されるに至ったのである。それゆえに当然のことながら無数の映画を観てきたとされる『空想家とシナリオ』の主人公もこの映画を実際に観ていない。だが共産主義プロパガンダ映画と見なされ、フィルムも輸入禁止となった『戦艦ポチョムキン』のシノプスや内容に関して、中野が知らなかったはずもない。それならば、リアルタイムで『戦艦ポチョムキン』はどのように受け止められていたのであろうか。

 これもたまたま浜松の時代舎で、『定本世界映画芸術発達史』という函入菊半上製、口絵写真二四ページ、本文六〇八ページの大冊を入手してきた。同書は昭和八年に映画評論社から刊行され、その口絵写真や「ロシヤ篇」には『戦艦ポチョムキン』も取り上げられ、「この映画こそ、ソヴエート映画とエイゼンシュテインの名を世界の最前線に齎した作品である」として、次のような紹介がなされていた。

 この作品の内容は(中略)一九〇五年の革命事件を取り扱つたものである。先づ事件は、黒海上で起る。防波堤に当つて砕ける波を示した暗示に富む力強い画面数個から成るクロスカツトで始まる。軍艦内の軍医は不正な御用商人より購入した蛆の湧いた牛肉を異常なしといひ、これを水兵に食はせやうとする。然し、一団の水夫等は食事を摂らぬ。艦長は、反抗者の捕縛を命じ、これに防水布をかぶせ、銃殺を強要する。然し発砲の刹那、銃を持つた水夫達は仲間を撃つべき銃先を突然下士官の方へ向ける。遂に、反抗水夫のリーダーは斃されて、オデッサの港に揚げられる。市民の多くは、これを悼む。新鮮な食物が続々艦内に運ばれる。オデッサ港口の石階段には、赤児を抱いた母親等やお婆さん達が海上を眺め、微笑さへしてゐる。然るに、俄然この群衆の背後から、一隊のコサック兵が散兵線を布き、発砲しながら海岸に迫り来つて、ポチョムキンの奪回を企つ。群衆は乱暴な射撃に追ひ詰められ、海中に落し込まれるもの数知れずである。だが翌朝、一戦の後、射撃が止むと、艦上に赤旗が飜り、海陸共に凱歌を奏する所で終る。

 しかしこの後に、ドイツ、フランス、アメリカなどの三十六国で封切られた、イギリスでは上映禁止とされ、「日本は横浜から返還されてしまつた」と述べられている。念のために封切館まで明記している。田中純一郎『日本映画発達史』(中央文庫)を繰ってみたが、『戦艦ポチョムキン』は見出せず、戦前は上映されなかったことを裏づけている。

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 現在は映画館にたよることなく、DVDやネット配信でほとんどの映画を観ることが可能だし、前々回挙げた『総長賭博』すらもネット配信されているのだ。だが戦前においては映画館で観るしかなかったし、中野にしても同様だったはずだ。もちろん一部の人たちは配給会社の試写室で観ることができたであろうが、近代読者が書店を通じて形成されていったように、映画の観客もまた映画館よって誕生してきたことはいうまでもあるまい。そこにはこのような外国映画をめぐる大冊も寄り添っていたのである。

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 中野が戦後になって、いつどこで『戦艦ポチョムキン』を観たかに関してはあらためて調べてみるつもりだが、この『定本世界映画芸術発達史』は当時の外国映画の集大成であり、『空想家とシナリオ』を書くにあたって、彼が参照してきた一冊のように思える。同書は映画評論社同人編著で、編纂、執筆者として、飯島正、岩崎昶、内田岐三雄、海南基忠、奥平英雄、来島雪夫、安田清夫、馬上義太郎、松井壽夫、西郷徳男が挙げられ、奥付の編纂者は太田国夫、発行人は寺崎廣載とある。

 『日本近代文学大事典』第五巻「新聞・雑誌」によれば、『映画評論』の第一次は同人誌として、大正十四年に佐々木能理男、寺崎広節、太田国夫たちによって創刊された。だが四号まで出たところで中断し、寺崎広節の兄の広載が中心となって映画評論社を起こし、大正十五年に第二次『映画評論』を創刊し、それは『キネマ旬報』と並ぶ二大映画誌として、昭和十五年まで続き、研究誌『季刊映画研究』、海外の映画理論書や研究書も刊行したとされる。

 『同大事典』に言及はないけれど、いってみれば、『定本世界映画芸術発達史』は『映画評論』同人だけでなく、海南の「はしがき」にあるように、キネマ旬報社や各映画会社の協力も得て、その金字塔に位置づけられたのであろう。キネマ旬報社の田中純一郎の名前も挙がっているが、彼の『日本映画発達史』というタイトルも、この映画評論社の一冊にならっていることになろう。 しかも第一次と第二次関係者が総出演であることは奥付編纂者の太田、発行人の寺崎広載の名前からも明らかで、奥付の検印は「太田」であることからすれば、寺崎のみならず、太田も資金繰りを担っていたと考えるべきで、昭和八年にこのような大部の映画書を刊行することの苦労がしのばれる。

 『近代出版史探索Ⅳ』628、784で言及した河出書房の『シナリオ文学全集』にしても、私の手元にある昭和十年代の岩崎昶『映画の芸術』(協和書院)や津村秀夫『映画と批評』(小山書店)にしても、映画評論社の映画書の出版を範にして刊行されていったのではないだろうか。

(『シナリオ文学全集』)(『映画と批評』)


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