少し飛んでしまったが、吉本隆明の『抒情の論理』にふれたわけだから、『高村光太郎』(春秋社)に言及しなければならない。その前に高村の『道程』の版元の抒情詩社を取り上げておく。あらためて近代文学館複刻の高村光太郎『道程』を保護函から取り出してみると、その装幀が発行者の内藤鋠策によるものだとわかる。
『近代出版史探索Ⅵ』1023で、内藤と抒情詩社、詩雑誌『抒情詩』創刊に言及し、やはり『同Ⅶ』1329の中西悟堂の証言を引き、大正二年に内藤の『旅愁』、北原白秋『桐の花』、齋藤茂吉『赤光』が出揃い、歌壇史的に見て、興味深い年だったことを既述しておいた。内藤は大正元年に抒情詩社を立ち上げ、三年に『道程』の自費出版を引き受けている。
(『旅愁』)(『桐の花』)
しかしその際に抒情詩社のその他の詩歌書の十冊ほどを挙げておいたが、その出版物の全貌はつかめていなかった。これも『近代出版史探索Ⅵ』1008で百田宗治の椎の木社にふれたところ、読者から椎の木社出版物のリストの恵送を受け、それが百冊を超えていたことに驚かされた。そうした事実は抒情詩社にしても、中西の言によれば、「実に夥しい歌集を釣瓶打ちに出し」ていたようなので、椎の木社と並ぶ点数に及んでいたことを告げているのかもしれない。
ところが古本屋でも抒情詩社の詩歌集は見かけることは少なく、かろうじて浜松の時代舎で、黒田忠次郎編『評釈句撰現俳壇の人々』、尾山篤二郎『旅他六歌仙』(いずれも大正六年)を入手しているだけである。二冊とも函入の菊半截判で、前者は五千円という古書価だったことからすれば、私はそうした分野に門外漢だが、抒情詩社の書籍は稀覯本となっているものも多いとも考えられる。
それでもこの二冊を入手したことで、抒情詩社の流通販売に関する疑問も解けたこともあり、それを書いておきたい。実は『道程』の場合、抒情詩社の取次が不明だったので、それは自費出版も関係しているのかと思っていたのだが、こちらの二冊には奥付に発売元として取次が挙げられていたのである。それは東京堂、東海堂、北隆館、上田屋、至誠堂、登美屋書店、第四有隣堂である。つまり抒情詩社は発行所で、流通販売を担っていたのはこれらの取次に他ならない。
そのうちの五社は清水文吉の『本は流れる』(日本エディタースクール出版部)を参照するまでもなく、大正時代の大取次で、それらの取次口座を通じて、全国の書店での流通販売がなされていったことを意味している。登美屋書店や第四有隣堂は小取次も兼ねていた書店だと推測されるが、清水の著書に示された大正期創業の東京、大阪、京都における新たな小取次リストには見えていない。それらの小取次に象徴されるように、おそらくこの時代において、出版物によっては取次も兼ねる書店が簇生していたことを物語っていよう。
そうした事実によって、『道程』の巻末広告に見える「 出版書目」としてとしての『乃木大将夫人言行録』や「昭憲皇太后御製謹釈」の意味がわかるような気がする。詩雑誌と詩歌書の版元である抒情詩社の出版物は並製本ばかりか特製本も含まれ、不可解に思われたが、そのような取次=採用ルートを確保していたゆえなのかと了解するのである。あるいはこれらの二書の刊行を通じて、抒情詩社の本格的な流通販売は成立することになったのかもしれない。
それらのこと、及び前者の『乃木大将夫人言行録』に関して、『乃木将軍余香』(三越呉服店、昭和二年)にもふれてみたい。『乃木大将夫人言行録』は実物を見ていないが、『道程』の出版が大正三年十月であることからすれば、それ以前の刊行であり、明治天皇死去に伴う乃木夫妻の殉死が大正元年九月であるので、大正二年、もしくは三年前半と考えられる。夏目漱石の乃木の殉死に触発された『こころ』が『朝日新聞』に連載されたのは大正三年四月から八月にかけてで、単行本として岩波書店から刊行されたのは九月である。
(『乃木将軍余香』)
これらのことを考慮すれば、『乃木大将夫人言行録』の出版は大正三年と考えられるし、私たちが想像する以上に乃木夫妻の殉死は衝撃的で、将軍に寄り添った夫人は時代のアイコンと化していたように思われる。『乃木将軍余香』は殉死十五年を記念して、昭和二年に三越呉服店で開催された「乃木将軍遺墨遺品記念展覧会」のA4判、一一〇ページほどの「図録」であり、その構成は「乃木将軍の肖像」から始まり、「乃木将軍夫人の書簡と絵」で閉じられていることも、昭和に入っても衰えていない夫人のアイコン化を象徴しているように思われる。
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