龍星閣といえば、沢田伊四郎の立項にもあったように、「石光真清の手記」全四巻『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』を思い出す。前回の『智恵子抄』の付録にもこの全四巻の完結が謳われ、橋本竜伍が「僕のおじさん」と題する次のような一文を寄せていた。
石光真清という伯父は、ぼうようとした大陸人のはだあいのしみこんだ実にいい人だった。表むきはハルピンで写真屋を開業しながら、ロシアの極東戦略を探査し、日露戦争をはさんで満洲、シベリアと剣の刃をわたるような危険な生活を続けたのだが、それがどれだけむくわれたのか知らない。その後も伯父はずっと満洲活動して昭和のはじめのころ帰国、市井の片すみに埋もれたまま死んでいった。
後にこの橋本竜伍が首相になる橋本竜太郎の父であることを知った。だが確か竜伍は登場していなかったはずだ。
昭和四十年代後半にはこれらの全四巻の端本が古本屋の棚に見出されたが、五十年代になるとほとんど見かけなくなった。するとその代わりのように、昭和五十三年に中公文庫化され、そうして私なども読者となったのだが、その後おぼろげながら「石光真清の手記」は広範な分野にわたって大きな影響を与えたのではないかと察知するに至ったのである。
(中公文庫)
小説では司馬遼太郎『坂の上の雲』(文藝春秋、昭和四十四年)、研究では島田謹二『ロシアにおける広瀬武夫』(朝日新聞社、同三十六年)、ノンフィクションでは高橋治『派兵』(同前、同四十八年)などだ。またそれはミステリーにまで及び、西木正明『間諜二葉亭四迷』(講談社、平成六年)にしても、『曠野の花』の「志士と文士と密林の女」における二葉亭四迷のエピソードにヒントを得ているように思える。
さらに本探索に引きつけていえば、そこには『近代出版史探索Ⅶ』1297の大庭柯公も出てくるし、『同Ⅴ』962の笹森儀助も登場している。それらのことを考えると、『同Ⅳ』623の山田風太郎の「明治開花物」にしても、登場人物は重なっていないけれど、「石光真清の手記」と無縁ではなかったのではないだろうか。そのことを示すかのように、石光は『日本近代文学大事典』に立項されている。
石光真清 いしみつまきよ 慶応四・八・三一~昭和一七・五・一五(1868~1942)軍人、諜報活動家。一生の多くを満州、シベリアなどでの諜報活動に費やし、その膨大な自筆記録を遺した。嗣子石光真人がそれを整理し、龍星閣より『城下の人』(昭三三・六、昭一八・七刊行の二松堂版の再刊)、『曠野の花』(昭三三・七)、『望郷の歌』(昭三三・一〇)、『誰のために』(昭三四・一〇)と出版(昭三三、毎日出版文化賞受賞)。明治国家の裏側を生きつつ、それを内から支えた一日本人の、悲痛な生きざまを描いた自伝作品として高く評価されている。
ここで補正しておけば、「石光真清の手記」の全四巻は『城下の人』の最初におかれた「凡例」部分に断わられていたように、「著者が自ら体験した事件と生活記録」「著者が生きて来た『日本』自らの生活史」「東亜民族の歴史の歩み」であり、「嗣子石光真人」によって「現代風 」に編まれたものである。またそれによって、『城下の人』は昭和十八年、『曠野の花』は同十七年に『諜報記』として刊行されたとわかる。そしてこの立項によって前者が『近代出版史探索』160などの二松堂から出版されたと判明するけれど、後者に関しては明らかでない。
そうした出版の事実については「石光真清の手記」全四巻を刊行した龍星閣に関しても同様で、中公文庫化に際しても、元版が龍星閣ということも記載されていない。そのことは昭和六十三年になって、一冊の単行本にまとめられた中央公論社版石光真人編『石光真光の手記』も同様で、多くの写真と酒田正敏の「解説」、孫の「あとがき――祖父真清、父真人について」が付されたにもかかわらず、全四巻を最初に刊行した龍星閣と沢田伊四郎のことには何の言及もなされていないし、それは『城下の人』『曠野の花』の昭和三十三年の毎日出版文化賞も含めてである。
『城下の人』に始まる昭和五十三年の中公文庫化は『近代出版史探索Ⅴ』859の高梨茂によって進められたと考えられるが、それ以後、龍星閣と沢田の消息は伝えられていないことからすれば、ほぼ同時期に龍星閣は廃業、もしくは倒産状態に追いやられていたのではないかとも考えられる。そして版権をめぐる問題が生じ、ロングセラー、名著とのブランドもあり、第三者にそれが渡ってしまう事態に置かれていたのではないだろうか。
それを文庫化することで、版権譲渡のかたちをとり、中央公論社が買収したと見なすことが妥当な判断のように思える。それゆえに文庫化、単行本化にあっても、龍星閣という元版の出版社名は残されなかったと推測される。
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