これも浜松の時代舎で見つけたのだが、菱山修三詩集『荒地』を購入してきた。菱山はヴァレリーの訳者として知っていたし、中井英夫の『虚無への供物』におけるエピグラフの「海にささげる供物にと/美酒少し海に流しぬ/いと少しを」も菱山による訳だったように記憶している。
また同じく時代舎で以前に菱山訳ヴアレリイ詩文集『海を瞶めて』(青磁社、昭和十七年)も入手していている。しかし先の一節が含まれていると思われる『海辺の墓』(椎の木社、同八年)にはめぐりあえていない。それらはともかく、菱山の詩集を手にしたのは初めてで、これは驚くことでもないし、あらためて彼が詩人であったことを確認する。
『日本近代文学大事典』を繰ってみると、かなり長い立項があり、それを簡略に抽出してみる。菱山は明治四十二年東京生れの詩人で、東京外語仏語科卒。堀口大学編集『オルフェオン』に詩を発表し、早熟な詩才が注目され、第一詩集『懸崖』(第一書房、昭和六年)において、詩と批評精神の高度な統一をめざす詩的散文により、いち早く新進として認められ、ヴァレリのー『テスト氏』などの影響も著しいとされる。
これは第一詩集刊行の頃までをたどっただけだが、その第二詩集として『荒地』は上梓されている。版元は『近代出版史探索Ⅴ』844の平井博の版画荘で、昭和十二年の刊行である。版画荘は詩集も出版していたことになる。B6判函入、並装八四ページで、「荒地」「病気」「飢渇」の三部からなり、三八編の詩が収録されている。タイトルの『荒地』からわかるように、ここにはヴァレリーならぬT.S.エリオットの『荒地』の影響が歴然で、英国での『荒地』の出版は一九二二年=昭和十一年であることを考えると、同時代におけるタイムラグなきインターナショナルな詩の伝播と共鳴をうかがうことができよう。西脇順三郎訳『荒地』(創元社、昭和二十七年)は戦後を迎えてからだった。
菱山修三詩集『荒地』から、どの詩を紹介しようかといささか迷ったのだが、やはり「荒地」のセクションから選ぶべきだと考え、対をなす「『暗』の話」と「『ひかり』の話」を取り上げてみよう。
生前私の父はその凡庸な生涯を賭けて、大きな、おそらく自分よりも大きな、暗(やみ)に向つて大方(おおかた)は黙つたまんま歩いてゐたのだ。歩きながら、みたものはしかし、いつも小さな影ばかりだつた。それでも笑ひながら、私には話した、「道といふものはよく出来てゐるよ、修三」と。父は半ば期待してゐたのだ、散りぢりの小さな影を積み重ねた向うに、大きな暗(やみ)が強く、劇しく、荒波にもまして打ち寄せて来はしないかと。だが、そのまま、荒涼とした旅は終つた。何も彼も元の杢阿彌だ。そうして父は死んだ。――それにしても、自分がやはり大きな暗(やみ)だつたと父は知つてゐたであらうか?
ここまでで「『暗』の話」の半ばということになる。「私の父」は何者だったのか。「凡庸な生涯」であったにしても、「大きな暗」の中を生き続け、自らも「大きな暗」として死んだ。「荒涼とした旅が終つた」のである。そして「後註」として、「一九三三年十二月廿四日午後一時十一分実父房次郎没す。享年六十五歳也」が付されている。
「『ひかり』の話」では「ひかりの底」にいて、「真珠のやうに、あなたは休み、あなたは眠る……。亡き父上よ! 私はあなたの青春なのだが、否、私はあなたの青春を回復しなければならなのだが!」と発せられている。だがそれは不可能だったようで、「病気」のセクションの「夏の栞(しおり)」において、「父が死に、私は久しく深い、暗い、底のない井戸のまはりを歩く夢ばかり見てゐた。その穴のなかに何遍も太陽が落ちて消えた。来る夏も、来る夏も、私は寒かつた」と結ばれている。
この『荒地』からヴァレリーを想起させる詩的散文というよりも、こうした父との関係と死をテーマとする三編を抽出紹介したのは適切であるかわからないけれど、昭和十年代において、父性の存在の喪失に言及している詩もまた、菱山ならではの時代のメタファーのように思えるからだ。それこそ「四季」派の詩人たちにしのび寄っていた影のようにも思えてくる。
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