やはり昭和十三年に「菊岡久利詩集」と銘打たれた『時の玩具』が刊行されている。それは四六変形判並製の一冊だが、表紙は「詩集」らしからぬ装幀で、下町を背景として、そこで暮らす人々のどよめきが伝わってくるような絵が使われている。その扉裏には題簽が頭山秀三、装画は絵本「カリカレ」同人、表紙は小野澤亘、扉は久米宏一、著者カリカチュアは太田耕士とあり、『時の玩具』の装幀などの芸術関係人脈をうかがわせていよう。また扉を開くと「ここに一握の詩を年月育みたまへる横光利一先生に献ず」とある。それらのことに言及する前に、菊岡も忘れられた詩人と見なせるので、まずは『日本近代文学大事典』の立項を引いてみる。
菊岡久利 きくおかくり 明治四二・三・八~昭和四五・四・二二(1909~1970)詩人、小説家。弘前市生れ。本名高木陸奥男(みちのくお)、別号鷹樹寿之介。父親から文人的稟賦を継ぎ、幼少より詩、絵画に秀づ。海城中学二年で「日本詩人」の選に入り、尾崎喜八らと「海」を創刊。大正一四年中退し、秋田で鉱山争議に関わり、黒色青年連盟に加盟。投獄数十回におよぶ実践活動のかたわら、昭和二年新居格らと「リベルテ―ル」創刊。「文学市場」「弾道」「反対」などに執筆を重ねる。九年横光利一から詩作を奨められ、菊岡久利の名を貰う。詩集『貧時交』(昭一一.一 第一書房)『時の玩具』(昭一三・一二 日本文学社)、詩文集『見える天使』(昭一五・四 大観堂)など、庶民的感情に根差した野性的、叙事的な発想でアナキズム詩人として、思想生活と行動や倒れた同志への友愛などを、直接的に、暖かく、表現、ムーラン・ルージュの企画部に入り、戯曲集『野鴨は野鴨』(昭一五・一〇 三笠書房)も刊行。「槐」「現代文学」でも活躍。戦時中、一種の天皇主義に転じ、頭山秀三門下に入る。(後略)
(『貧時交』)
これは立項の戦前の部分を引いただけであるけれど、菊岡の特異な軌跡の一端をうかがうことができよう。詩人から鉱山争議への参加、アナキストとしての黒色青年連盟への加入、横光との関係と詩集の刊行、戦時中における天皇主義への転向はそのまま先述の『時の玩具』成立へと装幀芸術人脈との関りを浮かび上がらせるし、頭山は頭山満の三男で、右翼結社天行会を結成していたのである。
それに加えて、『時の玩具』には「主客通信」として、金子光晴、岡本潤、草野心平、小野十三郎、壺井繁治、北川冬彦、宮崎孝政たちの「序文」が収録され、萩原恭次郎はその代わりに「訃報」が掲載されている。しかしこれらの詩人たちと菊岡が萩原の葬儀写真を示し、言及している人たちを交差させると、その時代の奇妙なまでの人脈が浮かび上がってくるのである。
私などが菊岡の名前を知ったのは壺井繁治を襲った黒色青年連盟の一員としてであって、その後壺井とは袂を別ったと思われていた。ところがその壺井が「序文」を寄せ、菊岡が石川三四郎の千歳村の家に厄介になっていた頃、二人で『近代出版史探索Ⅶ』1323などの望月百合子が「赤ん坊よりも大切に育てたジャガイモ」を失敬して「大騒動」になったエピソードを語っている。その頃は壺井も若く、菊岡は「ほんの子供で、美しく、『少年』といふ」通り名だったという。「カリカチュア」にその面影はまったくない。
それから体調が悪かった菊岡の代わりに萩原の葬儀に寄り添ったのは前田淳一で、彼は黒色青年連盟の代表だったと思われるが、『日本アナキズム運動人名事典』では生没年不明で謎の人物とされている。だが菊岡によれば石川の近傍にもいたようで、萩原とも親交があったとされる。戦後は銀座の顔役で、菊岡とともに梶山季之の『銀座遊侠伝』(文藝春秋)のモデルになっているようだが、まだ入手に至っていない。
その他にも『時の玩具』の編集者の新屋敷幸繁の名前が挙がっているが、『日本アナキズム運動人名事典』では索引に見えるだけで、鹿児島の詩人ということしかわからない。それは日本文学社も同様で、目黒区上目黒を住所としているが、発行者は荏原区中延町の古田泰造で、こちらもプロフィルはつかめない。それでも奥付裏の出版広告は創作集として、葉山嘉樹『山の章』、南川潤『風俗十日』、丸岡明『柘榴の芽』、小説集として赤沼三郎『怒涛時代』が出され、それらに新屋敷の『国語読本新教授法(巻十二)』が加わっている。
推測するに、日本文学社は新屋敷が教科書準拠のサブテキスト『国語読本新教授法』を出版するために設立した版元で、古田はそのスポンサーであり、それに併走するかたちで菊岡の詩集なども企画されたと思われる。
なお『時の玩具』にはふれられなかったが、このような入り組んだ菊岡の軌跡をそのまま反映した詩集、作品集と見なすことができよう。
その後の調べで、新屋敷幸繁が鹿児島、沖縄で活動した詩人で、詩作のかたわら教育書を出版し、大学長までつとめていることを知った。
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