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古本夜話1556 戦記名著刊行会『青島戦記・北清観戦記』

 本探索1547『新興日本軍歌集』の版元として、帝国在郷軍人会本部を挙げておいたが、そのような軍人出版社絡みで考えてみると、了承される円本企画もあるので、ここで取り上げておきたい。

 それは戦記名著刊行会の『戦記名著集』で、編者は戦記名著刊行会編輯部、発行者は同会代表の大谷忠二郎、住所はいずれも神田区錦町である。ただ私が拾っているのは昭和五年七月刊行・第十四回配本、第十五巻『青島戦記・北清観戦記』の一冊だけで、十四冊は既刊だとわかるが、最終的に何冊出されたのか、また完結に至ったのかは確かめていない。それは『全集叢書総覧新訂版』にも見当たらないことにもよっている。

(『戦記名著集』)(『青島戦記・北清観戦記』)全集叢書総覧 (1983年)
 
 さらに奥付のことを付け加えれば、検印のところには戦記刊行会の印が打たれ、原稿が印税の発生しない買切だとわかる。だが定価の記載や非売品表記もないことから、全巻一括払いの直販システムによる出版だと見なせよう。それゆえに手がかりは少ないけれど、この一冊からたどってみるしかない。四六判函入、上製四四三ページで、先述したように、『青島戦記』『北清観戦記』の二著が収録され、前者は大阪朝日新聞社編、後者は坪谷善四郎著となっている。

(『青島戦記』)

 『青島戦記』は「緒言」にあるように、「欧州大戦争」=第一次世界大戦の勃発を受け、「日英同盟の大義と東洋大局の平和」のための「青島の役」のレポートで、「日たる僅に七旬、兵を用ふる数万に過ぎず、過去二大戦役と同日に講ず」るものではなかった。それでも新聞には最初のカメラ従軍記者を派遣したとされ、それが口絵写真に反映されているのだろう。また青島陥落に際しては英国大使館周辺などで、祝賀の提灯行列がなされたという。大阪朝日新聞には『近代出版史探索Ⅶ』1330で記述しておいたように、紙名は異なるが、東京日日新聞社を合併しているので、実質的に同じだし、この『青島戦記』にしても、両紙に発表されたと考えられる。

 さて坪谷の『北清観戦記』のほうだが、こちらは明治三十二年の「北清の野に起りたる義和団の騒乱」、それに伴う北京入城、清朝による列強への宣戦布告、日英などの八国連合軍による北京陥落などのレポートである。義和団の乱は本探1453で記述していることも留意されたい。坪谷の報告は「凡例」に見られるように、「著者が親しく北清戦乱地を、跋渉し、戦況、地形、風土、習俗及び各国軍隊の行動等、見聞するに随ひ筆録し、時々、本国へ通信したるものを集めたるなり」とされる。

 この坪谷は本探索でもしばしば参照してきた『博文館五十年史』の著者だが、その出版人としてのプロフィルはまだ紹介してこなかったので、『出版人物事典』から引いてみる。

出版人物事典: 明治-平成物故出版人

[坪谷善四郎 つぼや・ぜんしろう、号、水哉]一八六二~一九四九(文久二~昭和二四)博文館取締役、大橋図書館館長。新潟県生れ。東京専門学校(早大の前身)政治科ならびに行政科卒。在学中博文館に入社、創業者大橋佐平に師事、編集局長、内外通信社に主幹、取締役となる。佐平死後、その遺志をつぎ、長男新太郎が一九〇二年(明治三五)設立した大橋図書館の館長に就任した。日露戦争では編集主幹として従軍、『日露戦争実記』を発行して大成功を収め、博文館の事業を躍進させた。『大橋佐平翁伝』『博文館五十年史』をはじめ四〇余冊の著書がある。俳人としても知られた。日本図書館協会会長、東京市議会議員をつとめ、市立図書館建設に尽力、図書館事業の功労者である。

 念のために『博文館五十年史』の「出版年表」を確認してみたけれど、『北清観戦記』はリストアップされておらず、その掲載誌と出版社は判明していない。しかし坪谷にとって重要なのは『北清観戦記』をレポートしたことで、『近代出版史探索Ⅶ』1345の『日露戦争実記』への企画にダイレクトに結びつき、印刷や写真も含め、『日清戦争実記』よりもはるかに洗練され、バージョンアップした戦記を送り出すことができたのではないだろうか。

  (『日露戦争実記』第1号)(『日清戦争実記』)

 また拙稿で示しておいたように、それに寄り添っていたのは博文館写真部員に加えて、田山花袋であり、森鷗外でもあったのだ。ちょうど『北清観戦記』に田口鼎軒たちが同伴していたように。自らいう如く、「観察の利便」と「多くの観察を了したる」は「諸氏の賜ものなり」。

 そうして戦記レポートはポリフォニックにしてビジュアルであることが効果的だと実感し、それが『日露戦争実記』へと反映されていったように思われる。


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