浜松の典昭堂でもう一冊、戦記物を入手してきたばかりなので、これを続けて書いておこう。
それは比島派遣軍報道部編『比島戦記』で、昭和十八年に文藝春秋社から刊行されている。A5判上製、裸本で褪色しているが、ジュートによる造本は横書き題簽タイトルが付されていなければ、戦時下の出版物と思われないほどのシックな印象を生じさせている。
本文だけで三二三ページ、比島派遣軍の歌と曲譜を始めとして、原色版口絵、多くの挿絵とカットを配し、作戦経過要図も付し、写真に至っては四〇ページ近くに及び、アメリカ軍の降伏と捕虜の写真も含まれ、勝利を飾った「比島戦記」を表象する構成となっていよう。拙稿「近代文学と近代出版流通システム」(『古雑誌探究』所収)で博文館の『日清戦争実記』、『近代出版史探索Ⅶ』1345で同じく『日露戦争実記』を見てきているが、大東亜戦争下の文藝春秋社版『比島戦記』に至って、印刷技術と造本の洗練に加え、戦記レポートは文学者、画家、写真家たちも総動員されたことによって、輝かしい勝利の一冊であるかのようだ。
和知鷹二少将はその「序」でいっている。
今や、比島戡定作戦は終焉を告げた。比島は、三世紀以上にわたる西班牙支配の後に引き続き四十五年の米国統治に屈服し、最近に於ては、米国の東洋侵略の拠点として、其の露骨にして狡猾なる資本主義の金城湯池であつた。かくて、東洋民族たる比島人は其の固有の性格を喪失し、民族の矜持を忘却して、東洋の海は汚濁されんとしつつあつた。この危機を救ふ為壮偉なる皇師の遠征は決行されたのである。
それは『比島戦記』の表記に従えば、リンガエン湾上陸、マニラ攻略戦、バタアン半島攻城戦、コレヒドール要塞覆滅線、ビサヤ地方戡定作戦などが尾崎士郎、火野葦平、上田広、三木清、石坂洋二郎、今日出海たちによって語られていく。「耀かしき戦果」を通じて、「新比島建設の基礎は打ち樹てられ」「今次大東亜戦争の一大命題」は実現されようとしているのだ。
文学者たちの他に口絵や挿絵を担っている向井潤吉、田中佐一郎、鈴木栄二郎たちも同じく徴用されたであろうし、それ以外の多くの執筆者たちはまさに報道関係者であろうし、これも十人を超える写真家も同様だと考えられる。管見の限り、この『比島戦記』などを参考資料として、川西政明は『昭和文学史』(中巻所収、講談社)の『日本とアジア 日本統治下の文学』で「フィリピン」の一節を設けている。その他の資料として、今日出海『比島従軍』(創元社)、尾崎士郎『戦影日記』(小学館)、寺下宗孝『比島作戦従軍記』(揚子江社)なども挙げられ、それらによって再現したと付記されている。私も『近代出版史探索Ⅳ』620で上田広の『緑の城』を参照し、バタアンコレヒドール戦記に言及しているが、川西はそれを入手していなかったのか、取り上げられていない。それでも上田も登場している。
川西の示している文学者の徴用は次のようなものである。徴用先は甲乙丙班に分かれ、甲はフィリピン派遣軍班員として昭和十八年十一月二日に麻布の東部軍司令部へ集合せよとの指定が出されていた。それを川西は次のように書いている。
尾崎士郎は午前八時に家を出て自動車で東部軍司令部へ駆けつけた。家族の見送りは禁止されていた。東部軍司令部に入ると右手に衛兵所があり、左手に待合所がある。その待合室に徴用された文士、画家、新聞記者、写真家、映画人、放送関係者、伝記関係者、宗教家、通訳の人々が集まっていた。このとき集まった甲班の文士は、石坂洋次郎、尾崎士郎、今日出海、島木健作の四人である。
このうちの島木が『比島戦記』に見えてないのは軍医によって、肺結核の既往症があり、はねられていたからだ。その軍医からの情報で、甲班が南方に送られることを知ったのである。ちなみに神谷忠孝、木村一信編『南方徴用作家』(世界思想社、平成八年)によって補足すれば、乙班はビルマ方面で、高見順、榊山潤、清水幾太郎、丙班はジャワ・ボルネオ方面で、阿部知二、大木惇夫、大宅壮一、丁班はマレー方面で、井伏鱒二、海音寺潮五郎、神保光太郎たちだった。
また『南方徴用作家』所収の『南方徴用作家』作品年表(単行本)を繰ってみると、昭和十七年から二十年にかけて、驚くほど多くの「戦記」に類する作品が刊行されていたことを教えられる。しかもそれらの版元は大日本雄弁会講談社が突出しているけれど、その他の多くの出版社はここで初めて目にする。そうした事実は大東亜戦争下の出版の謎を浮かび上がらせているし、それらの出版物の収集がもはや困難であることを伝えてもいよう。
実際に『比島戦記』と文学者の南方徴用に関して、『文藝春秋七十年史』『同[資料篇]』は戦時下の出版物を収録していないし、それは講談社のいくつもの社史も同様で、それが戦前の出版史の空白を生み出しているひとつの要因に他ならないだろう。
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