『比島戦記』の第二部「戦塵抄」において、石坂洋次郎、今日出海、三木清たちと並んで、寺下辰夫が「比島遠征詩抄」を寄せている。それは「リンガエン湾敵前上陸」「戦線素描」「バタアン激戦戡定の朝」「戦野傷心」の四編の詩からなり、「戦線素描」から引けば、その詩風は「傷ついた戦友を救ふために/自己の生命をなげすてて/十字砲火の下で/黙々として、働く患者輸送隊よ!」といったものである。この事実からすれば、寺下も詩人として徴用されたと考えらえるが、ここで初めて寺下の名前を目にするし、それは詩人としても同様である。
だが川西政明の『昭和文学史』中巻で、この寺下が唐突に出てきて、川西は出典を示すことなく、次のように述べている。
増上寺境内で今日出海は大日本興亜同盟の部長で陸軍大尉の寺下宗孝と名刺を交換した。そこへ尾崎士郎がやってきた。尾崎士郎寺下宗孝は旧知の間柄だった。この寺下宗孝が詩人の寺下辰夫であろう。
その後で、徴用された人々の点呼を不慣れな尾崎にかわって寺下がとり、尾崎が徴用された文学者としての特権的待遇を得たことも、寺下が絡んでいると補足している。これらの事情に関して詳らかにしないけれど、あらためて神谷忠孝、木村一信編『南方徴用作家』を確認すると、昭和十六年の第一次徴用者の三十名のリストに寺下を見出すことができる。ちなみにこれらの人選は参謀本部の依頼で、『近代出版史探索Ⅳ』635などの大宅壮一、『同Ⅶ』1332の陸軍画報社の中山正男が担ったとされる。
また同書所収の「『南方徴用作家』作品年表(単行本)」をたどっていくと、昭和十八年五月に寺下の『星條旗墜ちたり――比島戦従軍手記』が刊行されているとわかる。版元は揚子江社で、長きにわたって留意してきた出版社にここでようやく遭遇したことになる。実はかなり前に、西村皎三『詩集・遺書』という一冊を拾っていて、それは昭和十五年に揚子江社から刊行されている。ところが西村も発行者の坂名井浮蔵もプロフィルがつかめず、著者、出版社、版元も不明という三拍子が揃い、ずっと放置されたままになっていたのである。
それでも『詩集・遺書』は背も一部が剥がれ、傷んだ裸本だが、風情を感じさせる川端龍子装幀で、印刷は『近代出版史探索Ⅳ』796の細川活版所、挿入写真も八ベージに及び、この詩集が単なる戦場詩集ではないことを告げている。「墜」から始まり、「活火山」までの六部構成の詩集は二十七編が収録され、タイトルにちなんで、「初めて空戦を予想して出版するを送る」と示された「遺書」の前半を挙げてみる。
彼は昂然と謂へり
「わが家憲に遺書なる文字なし!」と
さればにや大空の青のなかに たゞ手をふれり
モナ・リザの微笑もて
白く 小さく 手をふれり
貝殻のごとく。
本文一三三ページに対し、一八ページに及ぶ長い「後記」を読むと、西村が志那事変に伴う広東攻略戦にあって、航空隊主計長と副官の職務につき、その間に書きとめた詩を選んで上梓したと述べられている。そのために「飛行乗りの詩」も多いが、「地上員の眼」と通じてであり、「私の詩はどれをみてもごつゞゝしてゐる」との言も見える。その一端は「遺書」からも類推されるであろう。
それならば、西村とは誰かということになるのだが、写真は小石清の他に衣笠貞之助、それから佐藤春夫と長谷川伸に謝辞がしたためられている。衣笠、佐藤、長谷川という奇妙な感を受ける三角ラインに西村は位置していたことになろう。そこで寺下辰夫に戻るのだが、寺下は『日本近代文学大事典』に立項されていないが、その索引には見出せる。それは第五巻「新聞・雑誌」の『演劇芸術』の解題のところで、その編集発行者としてで、この演劇映画雑誌は昭和二年から三年にかけて全十一冊が刊行され、寺下は西條八十の門下だと記されていた。
ということは寺下の場合、本探索1547の西條の愛国詩の系譜に連なる詩人で、そのために徴用文学者の中でも、軍部と親しい関係にあり、揚子江社にしても、そうしたことから設立された出版社だったのかもしれない。それゆえに西村の『詩集・遺書』も刊行されたと考えられる。揚子江社からはまだ他にも、同様の詩集類が出版されているのではないだろうか。
それにしても大東亜戦争下の出版は謎が深いというしかない。
[関連リンク]
過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら