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古本夜話 番外編その四の2書肆ユリイカとパトロンヌ米川丹佳子

 書肆ユリイカに米川丹佳子というパトロンヌがいたことを、伊達得夫の『詩人たち ユリイカ抄』(日本エディタースクール出版部)の大岡信の「解説」における「陰の有力な協力者」という指摘、及び長谷川郁夫の伊達の評伝『われ発見せり』(書肆山田)の中での言及によって教えられた。彼女の存在に興味を覚えたので、以前にその夫である米川正夫の自伝『鈍・根・才』(河出書房新社)を読んでみた。

  われ発見せり 書肆ユリイカ・伊達得夫  

 ところが丹佳子夫人関してはパトロンヌ的側面はまったく描かれておらず、妻に先立たれ、三人の子供を抱えた米川の再婚の経緯についても、「新妻はつい近所のM夫人の妹で隆(たか)、私の四十五歳に対して、三十歳であった。M夫人が直接私のところへ持って来た話が纏ったのである」とそっけなく記されているだけだった。それに加えて、妻の妊娠中絶と不妊手術に起因する健康衰弱、夫婦の不仲や妻の家出、戦後になって妻との間が正常に復したことなどが述べられ、夫が描いた妻の印象からすれば、書肆ユリイカとの関係など片鱗もないように思われた。ただし彼女の美しさは夫の自伝所収の写真からうかがわれた。

 だから米川正夫の描く妻のプロフィルと「出版は当然のことながら芸術ではない。それは商行為だ」との伊達の言葉が結びつかず、両者の関係について、そのまま忘れてしまっていた。

 しかし中村稔の『私の昭和史・戦後篇』下巻を読んでいくと、「米川丹佳子夫人のこと」から始まる一章があり、そこでの夫人は夫によって描かれた妻と異なり、まことにパトロンヌにふさわしい女性として登場してくる。中村の筆によって浮かび上がってくる北軽井沢の別荘における彼女の姿は、堀辰雄が描いた第一書房のパトロンヌ片山廣子と重なるイメージがあり、そこに集った青年たちもそのことを意識していたのではないだろうか。

私の昭和史 戦後篇 下

 『世代』の仲間たちは様々な関係から、米川夫妻の面識を経て、その家に出入りするようになり、よく泊りこむことになった。中村もその一人だった。誰もが「何となしにぐずぐず」泊りこんだりしていたことの理由について、彼は「米川丹佳子夫人の魅力をおいてない。その魅力とは美貌もさることながら、サロンとしての客あしらいのたくみさにあったのではないか」と述べている。

 

 丹佳子夫人はお茶の水、東京女高師出身の才媛で、彼女も最初の夫と死別し、再婚であった。再婚するに至って、隆の字に丹佳をあてたのは高見順だったという。また彼女は再婚によって、先妻の遺児である三兄弟の継母にもなったが、傍目にはそう思われないほど仲睦まじかったようだ。

 これは米川もその自伝で書いているように、戦後の出版ブームとロシア文学の盛況が重なり、彼は大作の大部分を翻訳していた。それを支えたのが丹佳子夫人で、彼女が口述筆記を担当し、一日に四十枚から六十枚を書き、『トルストイ全集』『ドストエフスキー全集』の並行翻訳を可能ならしめ、サロンにふさわしい経済力の担い手でもあった。美貌、知性、経済力、聞き上手といった客あしらいのたくみさによって、彼女は「サロンの女主人公」そのものだった。中村は繰り返し書いている。「米川夫人は楚々たる容姿と共に、そうしたサロンの女主人にふさわしい資質をおもちであった。米川家のサロンは当時の私にとって開かれた知性の窓であった」。

  

 伊達得夫が詩誌『ユリイカ』の創刊を構想したのは昭和三十一年のことだった。中村は清岡卓行の「詩誌『ユリイカ』のパトロンヌ―米川丹佳子と伊達得夫」(『桜の落葉』所収、毎日新聞出版)を援用し、その経緯について記している。伊達は『世代』グループが米川家に出入りしていたことから、資金を借りるにふさわし丹佳子夫人に「狙い」をつけ、その仲介者として橋本一明を頼み、当初三十万円の予定だったが、出版不況もあって十万に変更された。これらの経緯に対する清岡の証言に中村は疑問符を付し、伊達は返済できなくても苦情を言わない彼女に「狙い」をつけたのであり、「ここでも伊達はしたたかに米川夫人の善意を利用した」と付け加えている。

   

 また北軽井沢に清岡と一緒に伊達が十万円を借りにいった記述、詩誌創刊の半年後に年一割の利子半年分と柏水堂のマロングラッセを持って、伊達が丹佳子夫人を訪ねたが、お菓子しか受け取らなかったこと、伊達の死後に借金を帳消しにしてもらったことなどについて、それぞれ清岡の証言を訂正してもいる。清岡の彼女に対する視線にある種の「軽蔑感」のようなものが含まれ、それが様々な棘を含んだ意図的証言の原因ではないかと中村は判断している。彼は「そうした夫人のふるまいに反撥、反感を覚える人々があったことも事実だ」と書いているので、清岡もその一人だったと考えているのだろう。

 女性の真の姿は捉え難い。米川正夫の目から見た妻、清岡の視線に映った出版社のパトロンヌ、中村のいう「サロンの女主人公」のどれもが彼女のある一面であったかもしれないのだ。しかし中村は「彼女のような女性を他に知らない」と結び、昭和六十二年に死去した彼女を追悼している。

 なお最後に付け加えれば、思潮社の小田久郎の証言によると、当時の十万円はかなりの大金で、『ユリイカ』の三〇号分の諸経費に価し、それで初めて伊達は当座を開き、小切手や手形を発行できるようになり、出版業の資金繰りを助けたという。


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