「辻井喬+堤清二回顧録」である『叙情と闘争』(中央公論新社)を戦後の消費社会のキーパーソンの記録として読み出したところ、この一冊が彼の戦後史のみならず、妹の堤邦子へのレクイエムであることに気づかされた。同書の中に「妹の反乱」「留学の効用」「流浪の人」の三章に加えて、最後の部分に「妹、パリに死す」が置かれ、彼は一歳違いの実の妹に対して、深い追悼の意をこめているように感じられた。
同書には当然のこととはいえ、辻井の第一詩集『不確かな朝』を出版したユリイカの伊達得夫も登場している。そして伊達は兄のみならず。妹の小説刊行にあたっても、その介添役を務め、意外な出版人脈を知らしめている。
(『不確かな朝』)
そこに至る経緯を堤の記述によってたどってみる。堤邦子は子供の頃から一途な性格と抜群の成績の持主で、羽仁もと子の自由学園を経て、府立女子中学へ転校し、戦争が終わった年に卒業した。十七歳の彼女は進学を希望したが、「女に学問は要らん」という父親の反対で、英文タイプを習う道へ進んだ。そして働きながら大学に通っていた青年と恋に落ち、兄だけに行き先を教え、家出した。その後の事情は述べられていないが、彼女は二度目の結婚も破綻し、兄は妹の自立のために夜の銀座の勤め先を探し、彼女は二年ばかり銀座の老舗のバーで働いた。妹の希望は小説を書くこと、そのために収入のこともあるが、バーのようなところで働き、世間にふれたいというものだった。しかしそれも父の耳に入り始めたので、兄は妹を外国に留学させる案を出し、彼女はパリに向けて出発した。一九五六年十月のことだった。
彼女は銀座で働いていた間は兄の紹介で同人誌『文芸生活』に所属し、小説修業に取り組んでいたので、パリに腰を落ちつけてから、堰を切ったように原稿を書き始め、それが日本の兄のもとに届けられた。兄は書いている。
翌年の八月の終わりに、邦子から四百枚ほどの原稿が僕のところに送られてきた。最初の四十枚ほどを読んで、感じとしては甘いけれど文章に力があるので本にしてもらえるかもしれないと思ったが、出版界に知人らしい知人がいなかったので、二年前に詩集『不確かな朝』を出してから時々遊びに行っていた第一次ユリイカの伊達得夫に相談した。この会社は原口統三の『二十歳のエチュード』出版の成功で立ち上がった会社だった。僕が会った数日後、彼は、「面白かった。去年原田康子の『挽歌』を出した東都書房がいいと思う」と言い、僕は彼に紹介を頼んだ。話は驚くほど順調に進み、その年の十一月末に小説『流浪の人』が出版された。
実はこの『流浪の人』の裸本を持っている。かなり前に均一台に出ていたのを拾ったのである。兄が述べているように、この本の巻末に「昭和32・9―パリのリュクサンブル公園にて」とある「著者近影」が付され、『挽歌』のベストセラーで当てた東都書房の目論見がよくわかる。当時はパリに滞在する若い女性が書いた小説というだけで、宣伝効果があったのだろう。だが『流浪の人』についての言及はこれだけでとどめる。またその後の堤邦子にもふれない。
なぜならば、ここで記しておきたいのは東都書房のことだからだ。『講談社七十年史戦後編』などいくつかの講談社社史を参照すると、講談社は新しい出版分野の開拓を計るつもりで、昭和三十一年に独立採算制の自社の別稼働隊として、東都書房を発足させた。処女出版は『永井荷風選集』全五巻と三角寛の『山窩綺談』三巻で、この組み合わせが当時の企画状況を告げている。だが当初の出版ジャンルは若者向け教養書、文芸書、実用書、商業書で、後に児童書と推理小説が加わった。特に文芸書は新人の発掘に力が注がれた。この若者向け文芸書と新人発掘の眼鏡にかなったのが、北海道の同人誌『北海文学』に連載されていた原田康子の『挽歌』で、同年十二月に発売され、翌年の映画化もあって、六十万部を超えるベストセラーになった。
伊達はこのような東都書房の実情に通じていたので、直ちに堤邦子の原稿を紹介できたと考えられる。しかし東都書房のメンバーは戦前の講談社の局長や編集長で占められていて、伊達との関係があるとは思えない。それでは伊達と東都書房をつないだのは誰なのか。
戦前の講談社は雑誌王国を誇っていたにもかかわらず、文学雑誌を手がけてこなかった。戦後の文芸復興の時代を迎え、講談社は昭和二十一年十月に『群像』を創刊する。しかし純文学作家たちとの交流がなかったために、講談社嫌いの風潮は予想外に強く、執筆拒否を宣言する作家たちもいた。そのような中で、創刊号には太宰治の「トカトントン」、三月号には田村泰次郎の「肉体の門」が掲載され、文芸雑誌として順調な船出にこぎつけたのである。その初代編集長が高橋清次で、『挽歌』を生原稿で読んで高く評価し、東都書房はぜひ出版すべきだと提言した。彼の言葉に動かされ、新人の出版が決断されたのである。
(創刊号)
おそらく伊達はこの高橋と面識があったのではないだろうか。伊達は『ユリイカ』を昭和三十一年十月に創刊している。それは奇しくも『群像』創刊の十年後である。高橋は『群像』の執筆人脈を広めるために、詩人も含めて積極的に動き回っていたことから、伊達とも知り合っていたし、伊達もまた詩誌の創刊にあたって、高橋のサジェッションを聞いたりしていたのではないだろうか。高橋と伊達がそのような関係にあったがゆえに、堤清二のいう「話は驚くほど順調に進み」、『流浪の人』の出版が可能になったと思われるのだ。きっと多くの本の出版には、このような目に見えない出版業界における人間関係のドラマが潜んでいるにちがいない。
(創刊号)
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