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【自治会、宗教、地方史】No. 42 第二部16  市政による偽史の肯定、O寺と仏像のお開帳の歴史

市政による偽史の肯定、O寺と仏像のお開帳の歴史

 
小田 : それらのことはひとまずおくにしても、現実的には先代からの申請が出され、T王寺とT應寺=T応寺は同一であり、薬師如来は藤原仏で、定朝の真作として、市の指定文化財として認められてしまった。

A : でもいくら何でもいい加減というか、出鱈目な文化財指定で、教育委員会や文化財専門審議委員会の見識を疑ってしまう。先代の答申がまったくの検証もなく、通ってしまったことになるわけだから。

小田 : それに加えて唖然とするのは、申請した先代にしても、教育員会や文化財専門審議委員会の人たちにしても、『市誌』を読んでいないどころか、リテラシーがまったく欠如していることを露呈させている。

A : それにまったくの美術眼の欠如も付け加えておきたい。だって提出された薬師如来の写真を見ただけで、それが定朝作の藤原仏に値しないことは一目瞭然ではないかといいたい。

小田 : 本当にそうだね。私もこの事実を知って、あきれ果てて言葉もないくらいだ。でもこのようにして偽史と偽仏が成立してしまったことになる。

A : ひどい話だね。しかも教育委員会も共犯ということになるのだから。

小田 : それだけじゃないんだ。その文化財指定絡みで、昭和49年に戦後2回目のお開帳が行なわれ、それに合わせるように、O寺が大修理され、現在の薬師堂へと改装された。

 細部までいっても、あまり意味がないので、ひとつだけ挙げると、真ん中にあった囲炉裏がなくなってしまったことだ.。これは考えてみれば、O寺が村の集会所だったことの象徴で、J寺の薬師堂とするためにはその囲炉裏をなくしてしまわなければならなかった。

A : 確かにそうだ。囲炉裏のある薬師堂なんてのは聞いたことがないから、それは必然的にして象徴的イニシエーションだったことにもなる。

小田 : それに合わせて新たな仏具などが備えられ、薬師堂らしき体裁が整えられていった。
 でも残念なことに私は東京にいたので、そうした変貌に立ち合っていないのだが、そのようなプロセスを経たことによって、58年には薬師堂として登記されるに至る。そして61年にお開帳となり、それは平成10年、22年と続いていったのである。

A : 老人憩の家の併設はその間の57年だったから、薬師堂登記というのは薬師如来の文化財指定から8年経ち、もはや自治会においても認可されたと考え、屋上屋を重ねるような登記に思われるね。

小田 : そうなんだ。24年の段階で、一応はJ寺名義で登記されているし、どうしてダブルのかたちで登記しなければならなかったのかという疑念が生ずる。しかも老人憩の家の併設後だから、余計にそう思ってしまう。

A : それもそうなんだけど、薬師堂のための改装や仏具などの費用、それに加えて4回に及んだお開帳経費はどうなっているのか。

小田 : それらがJ寺から出されていれば、何の問題もないわけだが、すべて自治会が賄ったと判断できる。

 これは調べているうちに判明したのだが、昭和52年に部農会=自治会名義の土地が3ヵ所売られている。1ヵ所は私の「村から郊外へ」(『〈郊外〉の誕生と死』所収)でもふれられている火の見櫓と消防小屋、農機具倉庫があり、農産物の出荷所だったところ、他の2ヵ所はO寺に隣接した土地で、元は村の共有地としての田んぼだったところだ。

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A : どうして隣接地が売られてしまったのか、だってそれもO寺の土地に組み入れれば、新たに開通した道路に面し、土地としての利用価値も高まるし、願ってもないことのように思われる。
 それに不動産取引の常識からすれば、隣地は借金をしてでも買えというのが原則なのに、逆に売っているのは不可解だ。