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【自治会、宗教、地方史】No. 44 第二部17 疑問だらけのT応寺の由緒

疑問だらけのT応寺の由緒

小田 : いや、B4判2枚で、先の家康眼病云々に続いて、これまた史資料の提示もなく、T応寺の幕末から昭和57年までが語られ、それに明治18年のT応寺の「伽藍堂宇」と「伝承宝物」「寺禄」のリストが示されている。それがやはり2ページで、最後の1ページは「境内・建物」図となっている。

 これがその現物です。この文書は平成22年に立派なアート紙によって再び作成され、こちらは自治会員に配布されたはずで、私のところにも1部が保管されていた。

A : でも読んでみると、ちょっとひどいね。明治18年の「記録」と「境内・建物」図はともかく、2ページの「由緒」は中学生の作文にも及ばないレベルだ。

小田 : 私も同感で、後述するように、それに対して、教育員会に質問状を出していくことになる。

 ただここでひとつだけ指摘しておかなければならないのは、「伝承宝物」のところに「薬師如来 木像立身像 御丈二尺三寸/当寺開創よりの本尊」とあることだ。

A : あれ、確か『市誌』におけるT王寺の薬師如来は四尺三寸で、それで文化財申請も出されていたよね。

小田 : そういうことで、T王寺の薬師如来とちがうことになる。ここでそれを説明すると質問状と重なってしまうので、その理由を明かすのはもう少し待って下さい。

A : わかった。でも私なりに少し質問していいかな。

小田 : もちろん、かまわないよ。

A : この文書は「由緒」と題しているにもかかわらず、何の歴史軸にも添った説明になっていないし、疑問だらけだ。それこそ「寺伝」に基づいているつもりだろうが、書いている本人が理解しているようには思えないし、それは読めば明らかだ。

 だってT応寺は「安政の大震災により堂宇は残らず潰倒し」、明治2年に再建したものの、明治31年の大暴風でも諸堂は悉く壊滅し、昭和19年には大震災でまたしても倒壊してしまう。そのような3度の大震災で、薬師如来が無事だったと考えるほうが無理だ。19年の大地震後はJ寺に仮安置されていたとあるが、これも本当か疑わしい。大きさの違いはそれを裏づけている。

 それに伽藍堂宇や伝承宝物の「記録」が明治18年12月でとどまっていることも解せないし、31年にも大暴風によって壊滅状態になったとされるので、「境内・建物」そのものが潰滅してしまい、それは薬師如来だって例外ではなかったはずだ。

小田 : それは私も同感で、明治18年の二尺三寸の薬師如来も倒潰してしまったんじゃないのかな。現在のような厨子に入っていたとは思われないので、建物が崩壊すれば、薬師如来だって同様なことは小学生でもわかることだ。

 この「記録」は改竄されていると思う。「記録」の薬師如来のところは「当寺開創よりの本尊」とあるだけだが、その下の「観世音菩薩 木像立身像、御丈八寸」には「当代二代玉岩の発願により慶長7年9月勧請して堂宇を建立す/寛永13年8月豊田一郡観音霊場を選定し諸人結縁の為33ヶ所順礼の木札を定め当観音は6番の札所であった」との長い注釈がついている。

 このことから考えれば、薬師如来にもしかるべき注釈が付されていたはずだが、おそらく「当寺開創よりの本尊」として、その制作年代も記されていたんじゃないか。だがそのまま記載すると、藤原仏として成立しないのでカットされたんじゃないだろうか。

A : なるほど、都合よく切り貼りされたとも考えられる。それにずっと家康眼病治癒と医王山T応寺のことが頭に引っかかっていたんだが、ようやく思い出した。

小田 : 何なの、それは。