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6 「女王」中村うさぎ

一九七〇年代半ばに起きた戦後日本の消費社会化に続いて、主要幹線道路沿いにロードサイドビジネスが林立する郊外消費社会が形成され始めたのは八〇年だった。全国的に広がった郊外消費社会の出現は風景、生活、環境、産業構造のすべてをドラスチックに変え、必然的に大量の消費者を生み出した。老若男女を問わず、これほど多くの消費者が誕生した時代はこれまでなかった。

それゆえにこの三十年間に生きた人々は消費者であることを宿命づけられた存在なのだ。だが郊外消費社会とはほとんど消費の前史がなく、急速に出現した空間であるにもかかわらず、商品やサービスがきわめてコンビニエンスに得られる場所と見なせるし、消費への欲望の実現がすみやかに展開されるエリアだとも言える。その凝縮した形態が巨大な郊外ショッピングセンターであろう。

そのことによって、消費に対する欲望のかたちも大きく変化したのではないだろうか。いやむしろ、消費への欲望そのものが主たる生活のドライビングフォースとして機能するようになったとも考えられる。そしてまた郊外消費社会はネオンや看板といった高性能の照明装置によって、郊外のかつての闇を追放することに成功したが、それ以上に深くて暗い欲望の闇を生み出したのではないだろうか。

ここでは読者を「民」と呼ぶ「女王」中村うさぎを読むことで、一応は占領が終わった高度成長期に生を享け、七〇年代の消費社会化の中で成人した世代の欲望のかたちをたどってみたい。表面的には郊外消費社会と彼女は関係ないように見えるが、欲望のかたちでつながっているように思われるからだ。
うさぎの行きあたりばったり人生

そのテキストとして、彼女の『うさぎの行きあたりばったり人生』(角川文庫)を使用する。同書は中村うさぎの多くの著作の中にあって、とりわけビジュアルなブランド物の写真満載の自伝でもある。しかも内容はそのタイトルと異なり、消費社会を過剰消費者として生きてきた女性の、あまりにも真摯な半生記となっているからだ。彼女は写真に示されたブランド物を「夢と野望の残骸コレクション」と呼び、次のように書き出している。

 中村うさぎ……それは、ジュニア向けファンタジー作家でありながら、稼いだ印税をすべてブランド物に注ぎ込み、抑えがたき物欲と衝動的な浪費と地獄の借金にまみれて生きる、日本一の大バカ女の名前である。

そして「幼い頃からの自己顕示欲、お姫様欲望、イナカ者コンプレックスの三種の神器」から始まる「ひとりの女の人生のゴミ溜め記録」が語られていく。だが彼女は目配りもよく、「三種の神器」もさることながら、その「時代背景と中村うさぎ」の関係も書きこんでいる。

高度成長期における物心ついた瞬間からのモノの増殖を目にしての「豊かさ=モノ」という図式の刷り込み、七〇年代の突然の「ブランド物ブーム」のと到来と入手の挫折、それから八〇年代のバブルと転職、および結婚と離婚を経て、ファンタジー作家になり、「一発当てて」シャネルのコートを買い、そのまま一直線に彼女は「ショッピングの女王」への道を歩み出す。後半は彼女の個人史であるが、前半はオキュパイドジャパン時代と異なる高度成長期に生まれた同世代の女性たち共通の体験だったのではないだろうか。

しかしそのような踏み外しの原因が、少女漫画と小説とエッセイとの出会いによって生まれ、自らの欲望を目覚めさせたと語り、慧眼な彼女はそれらの本の中から「間違ったメッセージ」を受け取ったと回想する。それらはいずれもベストセラーで、「流行に弱い」彼女にとって、「罪深い本」だったことになる。それらの書名と彼女が受け取った「間違ったメッセージ」を挙げてみる。

 1. 池田理代子『ベルサイユのばら』→「愚民は黙っとれ!」
 2. 田中康夫『なんとなく、クリスタル』→「何が何でもシャネルをお買い!」
 3. 神足裕司渡辺和博『金魂巻』→「この世は、金持ちと貧乏人の二種類で構成される。そして、金持ちにならねば、クズ同然である」

ベルサイユのばら なんとなく、クリスタル

確かに中村うさぎのその後の人生は、これらの三冊から受け取った「間違ったメッセージ」の体現であるかのように見える。しかし私たちは彼女のことを笑えないのだ。本から「間違ったメッセージ」を受け取ったのは彼女ばかりではなく、私たちも同様であり、同じ過ちを繰り返してきたのではないかという思いにつきまとわれるからだ。

だがそれはともかく、ここで「女王」に対して野暮は承知の上で、1のマリー・アントワネットフランス革命のことを考えてみよう。フランス革命絶対王政を倒し、「自由・平等・博愛」という普遍的な人間の権利を宣言し、民主主義の原点ともなった。その代わりに、ファッションと流行を追いかけ、浪費の限りを尽くした「王妃」マリーは断頭台へと送られた。

しかし王妃は死んでも、ファッションや流行やブランドも消えはしなかった。それらにまつわる欲望も王政の専有ではなく、王室御用達のブランドも平等に開放された。そして二世紀を経て、極東の島国も郊外消費社会化するに及んで、誰もが「女王」になれる時代を迎えたのである。だがその一方で、誰も「自由・平等・博愛」を語らなくなった。中村うさぎもマリーの「わが亡き後に洪水はきたれ」を意識し、別のところで、「女王様」の自分が残すのは、「欲望に食い荒された空っぽの荒野だけ」だと語っている。

かつての「王妃」は死によって、「自由・平等・博愛」を実現させたが、現在の「女王」は「民」に「空っぽの荒野」を残すだけなのだろうか。もちろんそれが「日本一のバカ女」の言葉だと承知していても、リアルな言葉として迫ってくる。実際に郊外消費社会は「空っぽの荒野」のような商店街を生み出してしまったからだ。

ここで最初の郊外消費社会の欲望の問題に戻る。それが出現する以前には生活空間としての町や村があり、それが所謂「世間」を形成し、良くも悪しくも前消費社会特有の欲望を抑制する規範が保たれていた。確かにそれはコンビニエンスではなく、不便な社会でもあったが、長きにわたって営まれてきた生活の思想が織りこまれてもいた。

しかしそこに中村うさぎが体験した七〇年代の「ブランド物ブーム」のように、八〇年代に急速に郊外消費社会が出現した。しかもその特色はそれ以前の商店が二階やバックヤードを住居としていたことと異なり、店舗だけであることだ。そのために生活は排除され、「世間」が形成されなくなった。だから「世間」から切り離された商品、サービスの売買がメインとなり、また消費者も「世間」に加担することなく、かつてない自由でコンビニエンスな生活を送ることが可能になった。

その過程でひとつの逆転が起きた。それは生活と消費の逆転である。イベント的な「消費生活」が中心にすえられるようになったと思われる。中村うさぎが伝える「女王」の生活はその過剰なまでの体現に映る。つまりかつてない消費への欲望によって突き動かされ、また管理される社会が出現したことになる。それを巨大な郊外ショッピングセンターの中における群衆と化した消費者の中に見ることができるような気がする。そこには彼女がいう消費によるナルシズムの補充さえも禁じられたら、何を快楽にして生きればいいのかという声なき声が充満しているかのようだ。

しかし郊外ショッピングセンターは町や村が失われた後に出現した人工の空間であり、その中をさまよう消費者たちはゾンビの群れのようにも見える。だから表面的には豊かであっても、商品と消費者の背後には「空っぽの荒野」が横たわっているイメージがつきまとっている。

「空っぽの荒野」といえば、出版業界も同様である。「女王」中村うさぎもその「抑えがたき物欲と衝動的な浪費と地獄の借金」の大半を原稿料と印税、それをベースにした前借りに負っているわけだから、出版業界の危機のあおりを受け、その「女王」の終りが近づいているのではないか。それは彼女の本を売ってきた書店の大半が「空っぽの荒野」のような郊外消費社会に位置しているのである。近年彼女も告白しているように、本も売れなくなり、収入も減り始めているらしい。「女王」の運命はいかにという日が遠からず訪れるのではないだろうか。

この一文では中村うさぎについて多くを論じるつもりでいた。それらは太宰治の徒で、「女太宰」と称していること、それでいて太宰の「自己憐憫とは一線を画していたい」と自覚していることなどを考慮すると、彼女のファンタジー小説『ゴクドーくん漫遊記』角川スニーカー文庫)がユダ的「女太宰」の消費社会における『お伽草紙』新潮文庫)ではないかとの推論、あるいは『私という病』新潮文庫)に至る哲学的、フェニミズム的自己言及をめぐってである。だからそれにふれようとすれば、半端でない分量が必要であることに気づいた。別の機会を求め、あらためて論じたい。

ゴクドーくん漫遊記 お伽草紙 私という病
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