ゾラからハードボイルドへ
前回で「ゾラからハードボイルドへ」というタイトルの連載の目的は終わりにこぎつけたのであるが、番外編として、もう一編付け加えておきたい。このような機会を逸すると、あらためて書くこともないように思われるからだ。これまで書いてきたように、私見に…
二一世紀に入ってスウェーデンから送り出されたスティーグ・ラーソンの『ミレニアム』三部作は、今世紀初頭を飾る力作であり、これまでのミステリ、ハードボイルド、警察小説、スパイ小説、サイコサスペンスなどの物語ファクターの最良のエキスを集約したシ…
初めてブラック・ダリアを目にしたのは、ケネス・アンガーのHollywood Babylon 2 (Dutton Adult,1984)においてだった。『ハリウッド・バビロン』 についてはこの連載の12で既述しているが、『ハリウッド・バビロン2』 (明石三世訳)も同じくリブロポ…
ロス・マクドナルドの影響は日本だけでなく、同時代のスウェーデンにも伝播し、それはマイ・シューヴァル/ペール・ヴァールーの「マルティン・ベックシリーズ」として出現している。シューヴァルとヴァールーは夫婦で、いずれも新聞、雑誌社に勤めた後、結婚…
ロス・マクドナルドの影響は日本のハードボイルドやミステリだけでなく、広範な分野に及んでいて、意外に思われるかもしれないけれど、時代小説にもその投影を見つけることができる。それは藤沢周平の「彫師伊之助捕物覚え」三部作の『消えた女』『漆黒の霧…
ロス・マクドナルドの娘リンダ失踪事件を背景にして書かれ、彼の代表作と見なされる『ウィチャリー家の女』『縞模様の霊柩車』『さむけ』の三部作は、それぞれ昭和三十七年、三十九年、四十年と続けて「ハヤカワポケットミステリ」として翻訳刊行された。訳…
ロス・マクドナルドの個人史における悲劇はさらに繰り返されていく。それはやはり リンダをめぐる事件であった。これもまた既述したように、トム・ノーランの評伝Ross Macdonald : A Biography によって、よく知られた事実となった。オイディプスが娘のアン…
『三つの道』に象徴的に表われたギリシャ神話や悲劇、及びアメリカ特有の精神分析的自我心理学を物語のベースにすえ、「リュウ・アーチャーシリーズ」は書き始められたと考えていいだろう。それらはシリーズの第二作『魔のプール』において、はっきりとした…
ゾラが『テレーズ・ラカン』(小林正訳、岩波文庫)や『クロードの告白』(山田稔訳、河出書房)を書いた後、「ルーゴン=マッカール叢書」へと向かったように、ロス・マクドナルドもまた「リュウ・アーチャーシリーズ」以前には、本名のケネス・ミラー名義で…
ここでようやく「ハメット・チャンドラー・マクドナルド・スクール」と称された三人目のロス・マクドナルドを登場させることができる。この命名はミステリー評論家アンソニー・バーチャーによるもので、アメリカの正統的ハードボイルドの系譜を表象している…
ハードボイルドとフランス小説の関連といえば、かならずケインの『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』 がもたらした、カミュの『異邦人』 (窪田啓作訳、新潮文庫)への影響について語られる。実際に渡辺利雄も『講義アメリカ文学史』 でふれているし、『英…
ハメットやチャンドラーがヒーローとしての私立探偵を造型することで、二人のハードボイルドの世界にくっきりとした華を添えたことと異なり、ジェームズ・ケインの『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』 において、そのようなキャラクターやヒーローは出現し…
昨年、このブログでも述べておいた、前リブロの今泉正光へのインタビューが実現に至り、三月初旬に彼が住む長野を訪ねてきた。興味深い話題をつめこんだ内容のインタビュー集の編集を終えたところだ。「今泉棚」と称されたリブロ時代の、まさに当人によるオ…
『ハヤカワミステリマガジン』一月号の「ハメット復活」特集で、小鷹信光と対談している諏訪部浩一は、〇八年に『ウィリアム・フォークナーの詩学1930−1936』(松柏社)という著作を上梓し、フォークナーにおける新世代の研究者として出現した。 この諏訪部…
さらに仮説を続けてみよう。アメリカプロレタリア文学やハードボイルドだけでなく、私はゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」とフォークナーの「ヨクナパトファ・サーガ」にも多くの共通性を感じてしまうのだ。しかしウィリアム・フォークナーの場合、従来の研…
ハメットのことばかり書いてきたが、チャンドラーについても一章を割いておこう。ハードボイルド小説を読み始めた中学時代には、チャンドラーが先行していたことも事実であるからだ。しかも同じ創元推理文庫で読んだのだ。私たち戦後世代にとってとりわけ顕…
ずっと重いテーマばかり続いてしまったので、少しばかり異なる間奏曲的な一章を挿入してみたい。もはやクイックフォックス社という出版社を覚えている読者は少ないと思われる。これは一九七〇年代に設立された外資系出版社で、詳細は不明だが、数年間の出版…
小鷹信光によるハメットの最後の新訳『デイン家の呪い』 (ハヤカワ文庫)が〇九年十一月に刊行された。これでハメットの五作の長編の小鷹新訳版が出揃ったことになる。とりわけこの『デイン家の呪い』は「ハヤカワポケットミステリ」に収録されていた村上啓…
前回、大修館書店の『篠沢フランス文学講義』 全五巻を挙げたこともあり、またこの連載はゾラをめぐるものなので、渡辺利雄の『講義アメリカ文学史』 に言及しておいて、篠沢の講義にふれないのは片手落ちということになる。だから一章を設けるしかない。そ…
渡辺利雄の「東京大学英文科講義録」のサブタイトルを付した『講義アメリカ文学史』 全三巻が、研究社から刊行されたのは〇七年だった。これはサブタイトルからくるアカデミックな印象と異なり、作家を中心として、多くの原文引用を示し、明晰な語り口で楽し…
ハメットの『血の収穫』 は刊行から半世紀を経て、日本において正統的後継者を出現させた。ここでの使用テキストは、旧訳『血の収穫』(田中西二郎訳、創元推理文庫)であるので、再び邦訳名を『血の収穫』 に戻す。 ハメットの『血の収穫』 に関して、一九…
ゾラの『ジェルミナール』 とハメットの『赤い収穫』 の関連について仮説を述べてきたが、ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」とミステリがダイレクトに結びついた作品が存在する。それは少し時代を隔ててしまうけれど、トレヴェニアンの『夢果つる街』 (北…
ハメットとピンカートン探偵社の関係、それがもたらした彼のハードボイルドの世界への影響について既述してきた。しかしピンカートン探偵社の影響はハメットだけにとどまるものではなく、他のアメリカ文学にも表出し、近代アメリカ史が「私警察」としてのピ…
前回はハメットの『赤い収穫』 をピンカートン探偵社の側から見たが、今回は IWW に焦点を当ててみよう。だがその前に『赤い収穫』 で「世界産業労働者組合」と訳されている IWW について、簡略な説明を加えておくべきだろう。 IWW は Industrial Workers of…
それならば、ジッドが絶賛するハメットの『血の収穫』 とはどのような物語なのか。もちろんゾラの『ジェルミナール』 以上に周知であるにしても、まずはその物語を示しておこう。これまで『血の収穫』 と書いてきたが、ここでは小鷹信光の新訳を使うので、そ…
どのアメリカ文学史でも、スティーヴン・クレイン、フランク・ノリス、シオドア・ドライサー、アプトン・シンクレアたちは、ゾラに代表されるフランス自然主義の影響を受けていると指摘している。ゾラに代表されるフランス自然主義とは、主として「ルーゴン=…
「ルーゴン=マッカール叢書」が近代という新しい時代を迎えて、これまでなかった社会インフラの出現によって新しい欲望に目覚めていく物語ではないかと記したが、それと同時に新しい時代のインフラと欲望についての多くの謎を提出している。それらは遺伝、都…
「消費社会をめぐって」の連載で、ゾラの『ボヌール・デ・ダム百貨店』を取り上げたが、ここではこの小説を含む連作としての「ルーゴン=マッカール叢書」に言及し、その現代的意味と もたらした波紋について、考えてみたいと思う。既述しておいたように、「…