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『珍作ビデオのたのしみ』⑩【SF・ファンタジーの巻】『ターミネーター』“Terminator”

【SF・ファンタジーの巻】 『ターミネーター』“Terminator”   

『ターミネーター』
    ターミネーター [Blu-ray]
 1984年 アメリカ ベストロン 107分 カラー
[監督] ジェイムズ・キャメロン [脚本] ジェイムズ・キャメロン、ゲイル・アン・ハード [出演]アーノルド・シュワルツェネッガー、リンダ・ハミルトン、マイケル・ビーン



 アーノルド・シュワルツェネッガーがその特異な存在を初めて映像の中に明確に刻印した作品である。

 戦禍の未来から現在のロスアンジェルスにやってきた殺人マシーンの役はシュワルツェネッガーが演じていなかったら、その迫力とリアリティを減少させていたに違いない。 

 裸で未来からやってくるその姿、衣服を奪い、銃砲店で銃を強奪し、電話帳で暗殺する人間を捜すその一連の過程の中に、すでにこれから起ころうとする破壊と殺戮の予兆がこめられている。

 ターミネーターの出没する場所はそのままただちに破壊と殺戮の現場と化し、殆んど無言のままで銃を発射し、オートバイに乗り、殺人マシーンの不気味さを十全に発揮しながら主人公たちを追跡して行く。

 負傷したターミネーターが静かな部屋の中で自らの肉体―それはロボットの肉体だーを修理する場面。眼球を取り出し、腕を修復しようとする場面の不気味な感触は忘れられない。


* 配信で観ようとしたら、ボックス入りの『ターミネーター』『ターミネーター2』が家にありました。
  ターミネーター2 [DVD]

*「核戦争後の焼け跡で
  機械は再び立ち上がり
  人間を滅ぼす戦いを続けた
  だがその最終戦は未来ではなく
  現代のLA で行われようとしている」

 ここから物語が始まります。
 1984年の制作ですが、想定は2029年のロサンゼルス。
 4年後の世界はどうなっているのでしょうか。

* 逃げても逃げてもターミネーターはどこまでもどこまでも追いかけてくる。
 いくら撃たれても撃たれても起き上がり、死ぬことはないのです。
 シュワルツェネッガーの裸体がすごすぎます。

* 街角の電話ボックス、分厚い電話帳、「サラ・コナー」のページを引きちぎってポケットに・・・。
 将来の息子が大切に持っていたサラの写真は、メキシコの少年がポラロイドカメラで撮影したのを5ドルで求めたもの。
 モーテルの調度品の数々も、1980年代の生活が垣間見えて懐かしさを覚えます。

『珍作ビデオのたのしみ』⑨【珍品邦画の巻】『新宿酔いどれ番地 人斬り鉄』

【珍品邦画の巻】 『新宿酔いどれ番地 人斬り鉄』

『新宿酔いどれ番地 人斬り鉄』
 1977年 日本 (東映) 87分 カラー

 

[監督] 小平裕 [脚本]小平裕、松田寛夫、掛礼昌裕 [出演] 菅原文太、佐藤允、生田悦子、にしきのあきら、館ひろし


 文太はこの映画の中でいつも怒鳴っている。吠えている。不貞腐れている。苛立っている。刑を終えて出所したが、組にはすでにいる場所もなく、新宿の街は変わり、求めるかつての恋人や兄貴分も行方不明だ。

 ヤクザ映画を支える様式美はとっくに解体し、残されているのは文太の持つアナーキーな破壊衝動とバイオレンスだけなのだ。

 そんな文太に組からまた鉄砲玉の命令が下される。文太によりそうはぐれ者たち。刑事くずれ、ボクサーくずれ、八百長レーサー、バーテン、そして片腕の兄貴分。彼らを率いての福生での暴力闘争が始まる。

 そんな中で、彼らは次々と死んでいき、最後に文太は組の親分を殺害する。自らも傷をおってよろめきながら、ゴールデン街のゴミ箱に倒れてしまう。通りがかりの主婦の罵声を浴びながら。みじめな死に様だ。

 破壊と略奪、夥しい死、ちょうどそれは東映ヤクザ映画に対する挽歌のようにみえる。


*配信で観ました。

*最初から最後まで、とにかく怒り、暴れ回る菅原文太。
 豪華な脇役陣に囲まれながら、吠えまくっています。
 それはヤクザ世界だけでなく、社会全体に対しての行き場のないやるせなさだったのかもしれません。

*小田光雄はこの映画に何を見たのでしょうか。
 何か破滅願望があったのではないかと思わされます。
 兄弟分の藤原が言う「俺たちはしょせん鉄砲玉よ」という言葉にも、「みじめな死に様」にも共感しているように見えました。

*粋がって、菅原文太のかけるレイバンサングラスと同じものを所有していました。


 

『珍作ビデオのたのしみ』⑧【珍品邦画の巻】『やくざの墓場 くちなしの花』

 【珍品邦画の巻】 『やくざの墓場 くちなしの花』

『やくざの墓場 くちなしの花』

  1976年 日本 (東映) 90分 カラー

やくざの墓場 くちなしの花 [DVD]

[監督] 深作欣二  [脚本] 笠原和夫  [出演] 渡哲也、梅宮辰夫、佐藤慶、梶芽衣子、室田日出夫


 渡哲也はこの作品を最後に銀幕から消えてしまった。作品の完成度からいえば、前作の『仁義の墓場』を挙げるべきかもしれないが、現在のところ、渡の最後の映画ということでこちらをとろう。


 お馴染みの東映ヤクザ映画の俳優たちが渡哲也という日活のスターによってすっかり異化され、また同時に彼らの存在によって渡哲也自身もかつての日活映画の中のヒーロー性を異化させている。


 大手の暴力団と癒着した警察組織の中で、ひとり鬱屈した怒りを秘めて、小組織の暴力団と内通し、破滅し死んで行く刑事のどうしようもない内面を、渡哲也は病み上がりの後の疲労を顔に刻印しながら演じている。


 徹夜の朝、帰宅する高層団地の風景、鳥取砂丘での梶芽衣子との不器用なラブ・シーン、最後の場面で指を二本立てて梶に見せて死んで行く姿、不幸な男たちと女たちの織りなす破滅的な予感をポリフォニックに響かせている。


 仁義の墓場 [DVD]



*配信で観られます。

*最初にいきなり「昭和51年度文化庁芸術祭参加作品」と大きくテロップが出るので、びっくりしました。やくざ映画が?
 最終的に取り下げたようですが・・・字幕は残った? 残した?のでしょうか。
 「県警対組織暴力」の世界を描いていますし、殴り合いのシーンが頻出しますので、まさか!です。

*なかなか映像的にも見せます。
 鳥取砂丘の場面では、渡哲也が梶芽衣子に
 「海いうても怒っている時もあるし、笑うている時もある。それにこの辺の海は色も変わるんや」
 と話して聞かせます。
 そしてふたりの満州や韓国出自の話になります。

*小田光雄が亡くなる半年前の元日に、家族で浜松の中田島砂丘を散策しました。
 その時、小田光雄はまったく元気で、高低差のある広い砂丘を歩き回りました。
 キラキラ輝いて穏やかな海でした。
 しかしその夕方、能登半島は地震にみまわれ、大変なことになったのでした。

*最後の場面での渡哲也の指ポーズをよく真似ていました。ヤクザ映画の美学でしょうか。
 主題歌の「くちなしの花」も好きで、庭にくちなしの花を植えました。
 今は大木に育ち、毎年6月に甘い香りを漂わせながら、純白の花を咲かせています。

 くちなしの花
 

『珍作ビデオのたのしみ』⑦【コメディの巻】『おかしな おかしな おかしな世界』“It’s A Mad, Mad, Mad,Mad World”


【コメディの巻】『おかしな おかしな おかしな世界』“It’s A Mad, Mad, Mad,Mad World”

『おかしな おかしな おかしな世界』
 1963年 アメリカ  154分 カラー

おかしなおかしなおかしな世界 [DVD]  
 
[監督・脚本] スタンリー・クレイマン [出演] スペンサー・トレイシー、ミルトン・バール、シド・シーザー バディ・バケット


 一台の車がハイウェイを暴走してくる。そして崖下に転落する。これが始まりである。救出に谷底に降りた四台の車に乗った五人の男は、死にかけている事故車の主から公園に三十五万ドルが埋められてあることを聞く。

 それから本格的に始まってしまう金の亡者たちの先を争っての目的地へのスピード競走。車で、飛行機で、自転車で。また行く先々で様々な人々を巻き込みながら展開される金に憑かれた人間たちのあさましくも、愚かな争いをエネルギッシュなドタバタ喜劇として描いている。

 亡者は彼らばかりではない。彼らを追う警部もまたその金を狙い、最後には結局奪った金もビルの屋上からすべて舞い散ってしまうのだ。

 壮大でエネルギーとスピードに溢れる喜劇に、私たちはこの映画で初めて出会ったのだ。そして金を求心とする劇が人間にとってより直截的で、生々しく、それでいながら一番滑稽であることをむき出しにして示している。


*残念ながら、配信では観ることができませんでした。

*軽快な音楽にのり、砂塵を巻き上げて疾走する車、そのカーチェイス、軽飛行機のアクロバット飛行、人々のオーバーな身体表現など、YouTubeの映像でもスラップスティック・コメディの一端を味わうことができます。

 “It’s A Mad, Mad, Mad,Mad World”
www.youtube.com

*往年の喜劇俳優バスター・キートン 、三ばか大将 、ジェリー・ルイスなどコメディアンなどが多く出演した豪華ドタバタ喜劇で、この映画はシネラマ方式で撮影され、初のスーパーシネラマとして上映されたとのことです。

*公園に埋められていたスーツケースを覗き込む大勢の人々のギラギラした表情が、穴からの撮影で滑稽さを増します。
 全編観たかったです。

『珍作ビデオのたのしみ』⑥【ミステリー&アクションの巻】『ブルーベルベット』“Blue Velvet”

【ミステリー&アクションの巻】⑦『ブルーベルベット』“Blue Velvet”

 『ブルーベルベット』“Blue Velvet”
 1986年 アメリカ  121分 カラー


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[監督・脚本] デビッド・リンチ [出演] カイル・マクラクラン、イザベル・ロッセリーニ、デニス・ホッパー、ローラ・ダーン


 変哲もない夢ならすぐにも忘れ去ることが出来る。だが悪夢は繰り返し反芻され、夜の闇の世界ばかりではなく白昼にもその影を落とし、日常そのものを侵食していくのだ。

『ブルーベルベット』は紛れもなくそんな悪夢の映画だ。白昼夢のような日常生活の場面から始まり、主人公の青年が耳を拾う場面から次第に闇の世界へと侵入して行く。そしてその闇の世界を彩る奇妙な人々の群れ。クラブの女性歌手、彼女をいたぶるサディスト、麻薬を密売するおかま、わけても彼がアテレコで歌を歌う場面の奇怪さよ!


 彼らの存在によって悪夢の世界は闇の中の悪の祝祭のようなものへと化していく。そして物語は唐突な殺人と女性歌手の全裸の場面で終結したかのようにみえる。最後の場面では主人公たちの幸福な家庭生活の明るい場面が追加されている。闇の世界の片鱗も残さない日常の光景。あの悪夢の世界が夢にしかなかったかのような。だが忘れることは出来ない。この映画こそはとびっきりの悪夢なのだ。


*上は1989年の『珍作ビデオのたのしみ』の中の紹介文ですが、2013年8月19日のブログにおいても、小田光雄は次のように書いていて、『ブルーベルベット』をずっと温めていたことがわかります。

“ もし八〇年代にビデオで観た外国映画を一本と問われれば、ただちにリンチの『ブルーベルベット』を挙げるであろうし、この一作は日本においても様々な分野に多くの影響を及ぼしたと見なせるからだ。”

* 是非、この記事の全文を読んでいただきたいと思います。
  少し長いですが、「混住社会論33 デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』」をそのまま転載します。

 一九八〇年代にビデオの時代が到来し、それに伴うレンタル店の増殖によって、多くの未知の外国映画を観ることができるようになった。それらの監督の中で、とりわけ私を魅了したのは二人のデイヴィッドである。その一人のクローネンバーグについては本連載18で、スティーヴン・キングの『デッド・ゾーン』を見事に映画化した監督として少しだけふれておいたが、ここではもう一人のリンチを取り上げよう。


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 それはもし八〇年代にビデオで観た外国映画を一本と問われれば、ただちにリンチの『ブルーベルベット』を挙げるであろうし、この一作は日本においても様々な分野に多くの影響を及ぼしたと見なせるからだ。先に続けて三池崇史、青山真治、黒沢清の映画に言及してきたが、彼らの映画における新たなホラーと映像の出現やかたちも、『ブルーベルベット』に表象された謎や色彩と無縁ではないように思える。

 そしてまた、近年突出して派生したと考えられる、タイトルに「ブルー」、もしくはそれに類似する色を含んだコミックに注目し、本ブログで「ブルーコミックス論」として、こちらも一年ほど連載してきた。このコミックの分野においても、もちろん作品によってだが、『ブルーベルベット』の影響は明らかだった。ところが残念なことに、一度はふれなければならないと思いながらも、『ブルーベルベット』に言及する機会を得ずして、終わりを迎えてしまったのである。それがずっと気になっていたので、ここでぜひ書いておきたいのだ。

 あらためて『ブルーベルベット』が八六年の映画であることを確認すると、すでにあれから四半世紀以上が過ぎていることに気づく。それと同時に、日本の八〇年代がロードサイドビジネスの全盛で、郊外がそれらの風景に覆われ、アメリカ的消費社会の出現の時代だったことを思い出す。それは日本の郊外の風景をドラスティックに転換させ、均一化、画一化させていったディケードでもあった。

 さらに付け加えれば、日本の八〇年代は産業構造的にアメリカの五〇年代とまったく同化し、それを象徴するように、八三年には東京ディズニーランドも開園し、バブル景気も続いていたし、消費とエンターテインメントの時代が花開きつつあった。考えてみれば、郊外消費社会も混住社会もアメリカをルーツとしていた。

 そのような日本の時代状況の中に、『ブルーベルベット』は忽然と現われたのだ。しかもその時代と舞台はアメリカの五〇年代の郊外と想定され、そこで起きる事件がテーマであり、それは日本の八〇年代とも、見えないタイムトンネルでつながっているようにも思われた。

 リンチの名は『エレファント・マン』の監督として記憶されていたが、『ブルーベルベット』のような時代と舞台を背景とする映像世界は予想外だった。それにアメリカのみならず、日本においても社会現象ともなった、アメリカのテレビドラマ『ツイン・ピークス』によって、リンチの名が広く知られるようになるのは九〇年代を迎えてのことだった。そこで『ツイン・ピークス』『ブルーベルベット』の集大成のような作品だと知らされるのである。

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 それならば、その先駆としての『ブルーベルベット』とはどのような映画なのか、ストーリーをたどってみる。

 タイトル・クレジットのオープニングの背景となるのは紛れもないブルーベルベットのカーテンで、その奥にこれから始まる物語が隠されていることを想像させる。そのカーテンを開いたかのような景色が冒頭のシーンで、鮮やかな青い空、白いフェンス、赤いバラが映し出される。カーテンと見合った過剰なまでの原色で、それは絵葉書の中にある書割めいた景色のようだが、それこそはアメリカの五〇年代のシミュレーション的風景に他ならない。そしてボビー・ヴィントンなどによるその時代の名曲、かつてのよきアメリカを彷彿させる曲とされる「ブルーベルベット」が流れ出す。

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 この歌に続いて、白いフェンスと黄色のチューリップが映り、郊外の家並みの中を消防車が走り、子供たちが横断歩道を渡っていく。白いフェンスの内側は豊かな緑で囲まれ、その庭で、年配の夫が芝生に水をやり、妻はリビングでテレビのサスペンスドラマを見ている。そのテレビのかたちとドラマは、時代が五〇年代であることを告げ、これらの風景がテレビや雑誌にあふれていたアメリカの五〇年代の郊外のステレオタイプ的生活様式、安全で平和な郊外生活を示唆しているのだろう。

 ところが水まきのホースが木にからんでしまったために水の調節がうまくいかなくなり、それを何とかしようとしていたところで、彼は発作が起き、芝生の上に倒れてしまう。そのホースから吹き出す水と犬が戯れ、その向こうから幼児がよちよちと歩いてくる。

 これらの短い冒頭のシーンによって、表層の平和な世界が一瞬のうちに反転し、たちまち不安な世界へと誘われていくような予感が漂う。そしてカメラは緑の芝生にもぐりこみ、不気味なまでに蠢く蟻の群れを映し出し、これから展開される『ブルーベルベット』の世界の不吉な行方を暗示しているといえよう。

 実際に倒れた男の息子で、父が倒れたことで大学から戻ってきたジェフリー(カイル・マクラクラン)は見舞った病院からの帰り道に、野原で切り落とされた人間の片耳を見つけた。黄色のチューリップと切られた耳から、ゴッホのひまわりの絵と耳のことがすぐに浮かんでくる。彼は蟻が群がっていた耳を警察に届けるが、その事件の捜査は秘密裡に行われているようで、担当の刑事も口を閉ざすばかりだった。その刑事の娘サンディ(ローラ・ダーン)は地元の高校の後輩で、ジェフリーに近所に住むクラブ歌手ドロシー(イザベラ・ロッセリーニ)が疑われていることを漏らす。そこでジェフリーは手がかりをつかもうとして、ドロシーのアパートに忍びこみ、クローゼットの中に隠れ、彼女の行動を監視する。

 それはブルーベルベットのカーテンの裏側を覗くような行為であり、また彼女はクラブで「ブルーベルベット」を歌い、歌と同様にブルーベルベットの服を着てもいるし、ドロシーこそがこの映画の表象にして、偶像であることは間違いない。そしてクローゼットの中から目撃したのは、ドロシーの裸形の姿、それに彼女をサディスティックに責めたてるドラッグ中毒のフランク(デニス・ホッパー)の倒錯的なセックスの世界だった。彼女の裸体と倒錯的セックスとは、ブルーベルベットに隠されていたものに他ならない。

 つまりブルーベルベットのカーテンの表側には、昼の青い空の下にある原色の花々と緑に包まれた平和な郊外の日常生活が広がり、逆に裏側では切られた耳に象徴される犯罪と暴力、夜の闇の中での性的倒錯と官能性のざわめきが聞こえてくることになる。それは郊外における平和な日常と犯罪や暴力の混住を意味している。

 かくしてジェフリーはそれらの表と裏側を往還する存在として、フランクとその仲間たちとも関わるようになり、悪夢のような世界へと引きずりこまれていく。まさしく『ブルーベルベット』は五〇年代におけるアメリカの郊外の起源を追跡、再現しながら、ステレオタイプ的現実と異なるもうひとつの郊外伝説があったことを提出しているように思われた。

 そしてさらにこの映画における主人公ジェフリーの立場を考えるのであれば、彼はブルーベルベットのカーテンの裏側で起きている事件に巻きこまれていく当事者である。だが一方では郊外における見者ならぬ探偵として、犯罪の痕跡をたどりながら、しかもそれはストーカーと覗く人を兼ね、ブルーベルベットの表象としてのドロシーと一体化しようとする。「ブルーベルベット」の歌詞の最後のところを私訳してみる。

ブルーベルベットよ
それでもいつだって僕の心には残っている
とても大事で暖かい 思い出が
時が経っているのに
僕にはまだブルーベルベットが目に浮かぶ
それに涙はつきものだけれど


 これにもうひとつの歌であるロイ・オービソンの「イン・ドリームス」が重ねられていく。フランクの仲間のオカマが形態模写で歌う「イン・ドリームス」の奇怪にして素晴らしい臨場感は、すべてが夢の中の出来事だったと告げているかのようだ。それは五〇年代のアメリカばかりでなく、日本の八〇年代の郊外消費社会の風景も同じだと歌っているかのようにも思われた。

 こうして風景や物語のみならず、歌を通じても悪夢的な『ブルーベルベット』は、涙は伴わないけれど、いつまでも記憶に残る映画と化してしまったのだ。

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