出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1437 上田尚と洋々社『釣魚大全』

 前回の文化生活研究会の著書や実用書は昭和を迎えると、円本企画へとも結実していったのである。それを体現したのは『釣の呼吸』や『釣り方図解』の上田尚に他ならない。

 私はかつて「川漁師とアテネ書房の「『日本の釣』集成」(『古本探究』所収)を書き、アテネ書房という直販出版社の経営者だった山縣淳男にインタビューした上で、昭和五十四年刊行の復刻「『日本の釣』集成」に言及したことがあった。その際に大正から昭和戦前にかけての釣の古典ともいうべき全二十巻のリストも挙げておいた。

古本探究   (「『日本の釣』集成」)

 そこにも上田の『釣竿かついで』(富士書房発行、春陽堂発売、昭和四年)の一冊も含まれていた。またその第二十巻『解題 日本の釣集成』における金森直治「《釣り文献》刊行目録―明治から終戦時までの略年譜」によれば、上田は『釣の研究』(警醒社、大正十年)から始まり、前掲の『釣の呼吸』を刊行して以来、文化生活研究会との関係が深まったようで、『釣り方図解』だけでも八冊刊行し、大正時代の著者として第一人者の趣を伝えている。昭和に入ると、上田に続くのが『近代出版史探索Ⅵ』1154の「アカギ叢書」の訳編者村上静人であるのだが、これは『同Ⅱ』331の安谷寛一とも絡むので、稿をあらためることにしよう。

 (『釣竿かついで』)

 実はかなり前に浜松の典昭堂で、上田の『釣魚大全』第九巻の一冊だけを拾っている。これは昭和五年に洋々社から刊行されたもので、四六判上製の文化趣味にふさわしいシックな装幀である。その「くろだい(チヌ)釣」のところを拾い読みしてみると、次のような一節に出会う。
   

 鯛のうるはしさもなく、スズキほどくひ込みのよい魚でもなく、それでゐて、魔性の女と知りつゝ、つひ深入りして、手も足もでないやうに翻弄されるやうな思ひをしながら、さてこの魚を釣りかけると、もう頭にこびりついて、釣損ねると意地づくでも出かけたくなり、大きなのがまぐれ当たると、一層熱が高くなつてかけ出す。なぜ斯うもチヌ釣が面白いのか。

 このような語り口で、くろだい(チヌ)ばかりか、他の魚も俎上に載せられ、縦横に論じられ、それが上田をして釣書の分野でも第一人者たらしめた要因だと思われる。同書を入手したことで、著者の上田の住所が神戸市熊内町、版元の洋々社が大阪市北区絹笠町にあり、発行人が井上信明だと初めて知ったのである。その事実を知って、やはり神戸出身の淀川長治を連想し、上田が釣における淀長に当たるのではないか、また各種人名事典に立項が見当たらない理由なのではないかと思い至ったのである。

 また洋々社や井上の方も『近代出版史探索Ⅱ』の279、280の脇阪要太郎『大阪出版六十年のあゆみ』や湯川松次郎『上方の出版と文化』には見つけられず、これも何らかの事情が潜んでいるように思われるし、大阪において、『釣魚大全』という円本に類する全集を刊行したこととも関係しているはずだ。この『釣魚大全』『全集叢書総覧新訂版』に全十二巻の刊行が掲載されているし、先の「《釣り文献》刊行目録」に一冊ずつたどられているので、それをリストアップしてみる。
全集叢書総覧 (1983年)

 1 『釣百味』
 2 『釣百味』
 3 『川魚之釣』(鮎、ワカサギ、イワナ、ヤマメ)
 4 『川魚之釣』(こひ、にごい、まぶな、ひがい、いとを、もろこ、へらぶな)
 5 『川魚之釣』(なまづ、うぐひ、はす、はや、他数種)
 6 『海魚之釣』(はぜ、きす、べら、めばる、他二十余種)
 7 『海魚之釣』(たい、あぢ、さば、たこ、いか、ぼら、いしかれい、ひらめ、他数種)
 8 『海魚之釣』(すゝき、いしだい、えそ、いさぎ、他数種)
 9 『海魚之釣』(くろだい(チヌ)、さはら、ぶり、他数種)
 10 『海魚之釣』(まぐろ、かつを、しいら、他数種)
 11 『婦人子供の釣 釣の手引』
 12 『冬の釣及び釣百味』

 まさに釣の趣味の集成としての『釣魚大全』で、アテネ書房の「『日本の釣』集成」に半世紀先行する企画だったように思える。ただやはり気になるのは、この定価三円の『釣魚大全』が釣の実用書ではあるのだが、幻の歴史や考現学なども含んだ文化史の側面も付帯し、それなりの読者を得たのかということである。私が入手した一冊は「静岡県立水産試験場」の印が打たれているので、明らかにその廃棄本であることからすれば、『釣魚大全』は出版社・取次・書店という近代出版流通システムによるものではなく、これも『近代出版史探索Ⅵ』1173の書籍専門取次と外交販売によっていたとも考えられる。実際に「『日本の釣』集成」にしても、それに類したルートで二千セットを完売していた。

 そのように考えてみると、昭和二十八年に財団法人開国百年記念文化事業会の『明治文化史』全十四巻が、こちらは東京の洋々社で発行者は梅田道之として刊行されている。この『明治文化史』も洋々社のそうした外交販売ルートを主として企画されたのではないだろうか。


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古本夜話1436 森本厚吉と文化生活研究会出版目録

 前々回の石垣綾子『わが愛、わがアメリカ』における彼女の自由学園をめぐる回想を読むと、あらためて大正時代において、新たなる学校や雑誌、思想や文化が立ち上がってきたことが臨場感をもって浮かび上がってくる。彼女はその時代の只中を通過してきたのだ。

 

 それは『近代出版史探索Ⅱ』228の羽仁もと子による『婦人之友」創刊や自由学園の創設などに象徴的で、その学習は実生活に基づくものをめざし、一泊の取材旅行をさせ、レポートを書かせたりした。石垣の場合は近江ミッションで、宣教師ヴォーリスの営むメンソレータム会社による収益を投じる社会福祉事業が対象だった。そうしたレポート活動は自由学園の卒業生を婦人之友社の記者として迎え入れるためのものであった。 

 石垣を社会主義運動や婦人運動へと誘った矢部初子にしても、津田塾を出て、吉野作造の『文化生活』の編集、『婦人公論』への寄稿、翻訳などに携わり、平塚らいてう、市川房枝、奥むめおたちが結成した新婦人協会に加わっていた。『近代出版史探索Ⅶ』1331で明治三十年代後半から大正時代にかけて婦人誌の創刊が続き、昭和に入ると全盛を迎えていることを既述したが、それら以外にも多くの関連雑誌が創刊されていたのである。

 そこで想起されたのは文化生活研究会のことである。同会に関しては拙稿「岡村千秋、及び吉野作造と文化生活研究会」(『古本探究Ⅲ』所収)で取り上げているが、その際には詳細がつかめておらず、伊庭孝の『音楽読本』に言及しただけであった。だがその後、これも拙稿「三宅やす子『偽れる未亡人』『未亡人論』」「『ウーマンカレント』と文化生活研究会」(いずれも『古本屋散策』所収)で述べておいたように、同会の『未亡人論』を入手し、その巻末広告で、文化生活研究会が『文化生活研究』という講義録を十二冊刊行していたことを知った。

古本探究〈3〉 古本屋散策  (『音楽読本』)

 この講義録の主幹は森本厚吉、顧問は有島武郎、吉野作造で、吉野の大学普及運動に基づく講義録『国民講壇』のラインと森本や有島の文化生活運動がリンクしたところで成立したと考えられる。『日本出版百年史年表』を繰ってみると、大正九年五月のところに、「文化生活研究会創業(福永重勝1894・11・3~)事務所を警醒社書店内におく。《通信大学講座、文化生活研究会》その他出版」とある。ちなみに森本も『日本近代文学大事典』の立項を引いてみる。


 森本厚吉 もりもと・こうきち 明治一〇・三・二~昭和二五・一・三一(1877~1950)評論家。舞鶴市生れ。増山純一郎の三男。森本活造の養子となる。札幌農学校卒、米国に留学、北海道帝大教授となる。「文化生活」を創刊、女子文化高等学院を創設し、生活文化の向上に寄与した。有島武郎と親交があり、札幌農学校在学中、有島をキリスト教に入信せしめ、『リビングストン伝』(明治三四・三 警醒社)を共著として刊行、また晩年農場解放に尽くした。著書『成人より生活へ』(大一一・一〇 文化生活研究所)ほか十余冊あり。

 この森本の立項によって、『文化生活研究』が『文化生活』の創刊に結びつき、石垣がふれていた矢部初子の『文化生活』編集とはそれらをさしているのではないかということ、また『リビングストン伝』の版元だったことから、警醒社内に文化生活研究会が置かれ、警醒社の福永文之助の息子らしき福永重勝が発行者となった事情が了解される。

 また先の拙稿で、文化生活研究会の出版物を引き続き追跡したいとも記しておいたのだが、それから十年以上も過ぎてしまった最近になって、浜松の典昭堂で大正十四年刊行の尾佐竹猛『維新前後に於ける立憲思想』を入手している。これは四六判上製七〇〇ページを超える大冊で、サブタイトルに示されているように「帝国議会史前記」をたどり、その「立憲思想」の系譜をトレースした労作といえる大著である。その「本書推薦の辞」をしたためているのは吉野作造に他ならない。

 それに加えて、この尾佐竹の著書には拙稿「上海の内山書店」(『書店の近代』所収)のラベルが貼られているままで残り、この一冊が百年以上前に上海で購われ、どのような経路をたどったのか、私の手元に届いたことになる。それも想像すると興味深いのだが、今回言及したいのはその巻末広告の「文化生活研究会版」書籍のことなのである。それは五十冊以上に及び、しかも関東大震災後の小出版社の在庫としては充実しているという印象を受ける。煩をいとわず、それらをリストアップしてみる。番号は便宜的に振ったものであり、タイトルに付された角書部分は省く。

書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)

1 内田清之助 『鳥の研究』
2 石井時彦 『カナリヤ』
3 及部辰之助 『セキセイインコ』
4 石井時彦 『文鳥と十姉妹』
5 間島謙一 『鷓鴣と鶉』
6 宮本謙吉 『窯辺雑記』
7 鳥居龍蔵 『極東民族』第一巻
8 越智真逸 『生理衛生の解説』
9 小林光茂 『声の教育』  
10 北村政治郎他 『無線電話と無線電信』
11 佐々木諦 『無線電話の基礎と其応用』
12 村島帰之 『歓楽の墓』
13 杉田直樹 『誰か狂へる』
14 中村左衛門太郎 『地震』
15 徳富健次郎 『太平洋を中にして』
16 吉野作造 『新井白石とヨワン・シローテ』
17  〃   『露国帰還の漂流民幸太夫』
18  〃   『斯く信じ斯く語る』
19 越智真逸 『夫婦読本』
20 穂積重遠 『婚姻制度講話』
21 三宅やす子 『未亡人論』
22 賀川豊彦 『愛の科学』
23 古屋芳雄 『崇高への道
24 永井潜 『反逆の息子』
25 西村伊作 『現代人の新住家』
26 ヴォーリス 『吾家の設計』
27  〃    『吾家の設備』
28 佐野利器 『住宅論』
29 上原静子 『家庭園芸と庭園設計』
30 田村剛 『庭園の知識』
31 永井潜 『医学と哲学』
32 木村俊臣 『漢学・時間・空間』
33 福島東作 『スポーツマンの心臓』
34 第一外国語学校編 『英語研究苦心談』
35 上田尚 『釣の呼吸』
36  〃  『釣り方図解』
37 田辺尚雄 『蓄音機の知識』
38  〃   『レコード名曲解説』
39 田辺八重子 『家庭踊の踊り方』
40 田辺尚雄 『現代人の生活と音楽』
41 西村伊作 『生活を芸術として』
42 有島武郎 『生活と文学』
43 西村アキ子 『ピノチヨ』
44 加藤正徳編 『フランス童話集』
45 手塚かね子 『家庭向西洋料理』
46  〃   『西洋料理の正しい食べ方』
47 湯川玄洋 『食養春秋』
48 近藤耕蔵 『家庭物理学十二講』
49 西村伊作 『我子の教育』
50 三宅やす子 『我子の性教育』
51 高橋ミチ子 『新育児法と看護の仕方』
52 佐賀房子 『こども服』
53 西村光恵 『子供服の新しい型とその裁ち方』
54 井上藤蔵 『楽しいゲームの遊び方』

(『カナリヤ』) 主張と閑談 (第1輯) (『新井白石とヨワン・シローテ』)(『フランス童話集』)

 これに「近刊予告」として吉野作造『公人の常識』『現代政治講和』、さらに森本の著書やその他のものも含めれば、百冊近くに及ぶのではないだろうか。しかもそのラインナップからうかがわれるように、鳥の飼い方、囲碁、釣りなどの趣味、夫婦の生活と子どもの教育、住居と設備設計、レコードと音楽やダンス、西洋料理のレシピや食べ方、子供服の仕立て方といった新しい生活様式に関する実用書的なものが並んでいるし、それが「文化生活研究会版」書籍の特質だといえよう。

 それは関東大震災後の姿を著わし始めた『近代出版史探索Ⅵ』1041の郊外文化住宅の生活のイメージと重なり合っているのだろうし、「文化生活研究会版」書籍はそれを表象し、昭和以後の実用書の範となったように思われる。


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古本夜話1435 坂井米夫『ヴァガボンド・襄』

 前回のジャック・白井に関連して、もう一編書いておきたい。

 『日本アナキズム運動人名事典』の「白井・ジャック」の立項における参考文献として、坂井米夫『ヴァガボンド通信』(改造社、昭和十四年)が挙げられていた、それは著者にしても書名にしても、石垣綾子『スペインで戦った日本人』にも見えていなかったし、坂井の名前も人名事典などに見当たらず、どのような人物なのかも不明であった。それでもいずれ『ヴァガボンド通信』には古本屋で出会えるのではないかと思っていた。

 日本アナキズム運動人名事典   (『続ヴァガボンド通信、改造社)

 ところがいつになってもまみえることなく時が過ぎてしまったのだが、その代わりに坂井米夫『ヴァガボンド・襄』という一冊を拾ったのである。同書は昭和二十三年に板垣千鶴子を発行者とする板垣書店から刊行されたB6判並製三九〇ページの書籍で、用紙は戦後の出版状況を反映した上質なものとはいい難い。だが装幀は戦後混乱期の社会世相をまったく感じさせないイエローのポップな絵によるもので、ライトな都市風景を描いている。

 ヴァガボンド・襄 (1948年)

 そして著者の名前の横には「ワシントンにて」との言葉が添えられ、これが日本ではなく、アメリカの光景、ワシントンの街の風景などだと察せられる。装幀者は寺田竹雄で、坂井と異なり、『日本近代文学大事典』に立項があり、明治四十一年生まれの画家で、大正十一年から昭和十年にかけて渡米し、昭和六年にカリフォルニア美術学校を卒業し、二科展に出品し、新聞小説に才筆を示したとされる。

 それに加えて、奥付の著者名は Y・SAKAIと記され、その住所はWashington D.C.U.S.A.とある。また本扉も同じ寺田の挿画だが、タイトル、著者名、出版社とすべて英語表記で、表紙の体裁も含めて、『ヴァガボンド・襄』の内容をうかがわせるものである。ただ本扉次ページには「日本の民主化のために」という献詞めいた言葉が掲げられ、その下には「本書の内容、人物、人名など類似又は一致するようなことがあっても、小説ですから単なる符号過ぎません」との言も添えられ、何よりも同書が「小説」であると断わられている。

 またその「はしがき」を記しているのは『近代出版史探索』196などの井上勇で、それは次のように書き出されている。

 坂井米夫の名は知る人は知つているはずである。「ヴァガボンド通信」は十数年前、「改造」誌上に連載されて、やがて単行本となり、当時の読書界に、欧米の新声をつたえ一抹清冽の気をふきこんだ。彼はかつて平野咸馬雄君あたりとともに、詩人たらんとして、四十年前の東京の塵埃裡を彷徨していた。アメリカに渡つた動機は、本篇の主人公「襄」の行跡のうちに、ある程度想像出来る。私との交遊もすでに三十年をかぞえるが、彼はアメリカに渡つて以来、日本人を廃業して世界市民となつた。(中略)このヴァガボンドは文字通り、世界を股にかけて、放浪の旅をつづけ、(中略)一九三六年夏、頽勢ようやく明らかになつたバルセロナの国際軍に投じようとする途上、パリの陋居に、突然、私を訪れ(中略)、風のように立ち去つてしまつた。

 この井上が寄せた「はしがき」によって、坂井米夫が『ヴァガボンド通信』も著わしていたことが明らかになる。井上がジャーナリストで、同盟通信社パリ支局長であったことから類推すれば、坂井もヴァガボンド的なジャーナリストであり、その理由は定かでないにしても、スペイン革命に参じようとしていた事実が浮かび上がってくる。『ヴァガボンド通信』は未読だし、ジャック・白井との関係もわからないが、それらのスペイン革命と坂井の関係が述べられているために、「白井・ジャック」の参考文献として挙げられていたのではないだろうか。

 また井上は『ヴァガボンド・襄』は自分が多少の削除を施し、タイトルも勝手に命名したと述べ、襄という世界市民がアメリカ在住日本人社会にあって記録した貴重なもので、アメリカとその民主主義を理解し、「日本の民主化のために」役立つことを期待するとも記している。それからこれは確認していないけれど、日本版と同時に英語版も刊行されたようだ。

 さて「小説」としての『ヴァガボンド・襄』ということになるが、渡米し、日本語新聞の記者となった襄が悪達者ともいえる筆致によって、ニューヨークを主とする在米日本人社会を描いたものだ。それは紛れもないひとつの階級社会として存在し、それがアメリカ社会とのコントラスト、歴史の推移に伴う変容、太平洋戦争と強制収容所、日本の敗戦と占領、天皇性の問題までがたどられ、小説という領域からはみ出してしまうドキュメント的色彩が強い。もし「襄」という主人公名が与えられなければ、リアルなノンフィクションとして読まれていたように思われるし、それが井上の配慮によっていささか緩和されたのではないだろうか。

 ところが坂井米夫がジャーナリストであるとの見当はついたので、念のために『[現代日本]朝日人物事典』を繰ってみた。すると何と立項されているではないか。しかもそれは『「週刊読書人」と戦後知識人』(「出版版人に聞く」17)の植田康夫によるもので、彼の生前に坂井のことを尋ねておくべきだったと思った次第だ。坂井のプロフィルが判明したこともあり、引いておこう。

    『週刊読書人』と戦後知識人 (出版人に聞く)

 坂井米夫 さかい・よねお 1900.9.1~78.11.21 新聞人。佐賀県生まれ。明治学院文科中退。1926(大5)年渡米し、サンフランシスコの『日米新聞』、ロサンゼルスの『羅府日米』記者を経て、31(昭6)年『朝日新聞』特派員となり、スペイン内乱、中近東、インドシナを取材した。日中戦争を取材後の38年に再渡米し、47年から『東京新聞』特派員となり、ワシントンに滞在し、対日講和原案の特報やダレス特使との単独会見をスクープ、48~52年NHKラジオの「アメリカ便り」でアメリカ事情をリポートし好評を博した。64年から『産経新聞』特派員となり、在ワシントン日本人記者団の最長老として活躍した。


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古本夜話1434 石垣綾子、ジャック・白井、青柳優

 前回の石垣綾子『回想のスメドレー』ではないけれど、石垣の「回想」によって、記憶に残された人たちがいる。彼らはジャック・白井と青柳優で、前者は『日本アナキズム運動人名事典』、後者は『日本近代文学大事典』に立項されているので、まったく無名の人物ではないのだが、私にとっても石垣の「回想」の印象が強い。

回想のスメドレー (1967年) (みすず叢書) 日本アナキズム運動人名事典

 ジャック・白井のことを知ったのは石垣の『オリーブの墓標』(立風書房、昭和四十五年)によってだった。その「プロローグ」には次のような一節が見出された。「ジャック・白井という男は全く無名で、片隅に忘れ去られた存在に過ぎない。しかしその彼は苦難にみちた反ファシズムのスペイン戦場にとびこんで、そこで死んだただひとりの日本人である。/ジャック・白井がかつて日本人のだれもがえらばなかった道をえらび、そして死んだ」と。

 当時はジョージ・オーウェルのスペイン革命に兵士として加わったルポルタージュ『カタロニア讃歌』(鈴木隆、山内明訳、現代思潮社、昭和四十一年)がよく読まれていたし、筑摩書房版、角川文庫版も続けて出されていたのである。そのような時代であったからこそ、出版経緯は詳らかでないが、立風書房から『オリーブの墓標』、増補改訂版『スペインに死す』(昭和五十一年)、後に『スペインで戦った日本人』(朝日文庫、平成元年)も刊行されたのであろう。

カタロニア讃歌    スペインで戦った日本人 (朝日文庫)

 ジャック・白井は函館に生まれ、船員としてニューヨークに移り住んだが、孤児だったことから白井という苗字以外は知られていない。一九三〇年代にニューヨークのジャパニーズレストランでコックとして働き、片山潜とつながる日本人労働者クラブに加わり、そこで石垣と知り合っていたのである。そしてスペイン内戦に際し、共和国防衛のためにアメリカ人義勇兵の一人として第15国際旅団リンカン大隊に属し、三一年七月にマドリード西方のブルネテ戦線で戦死するに至る。

 このようなジャック・白井にしても、石垣のレクイエムというべき「回想」が書かれなかったら、その存在は忘れられたままになっていたかもしれない。しかし幸いにして『オリーブの墓標』が刊行されたことによって、ジャック・白井はその後のスペイン市民戦争をめぐる物語において、様々な痕跡をとどめていくことになるのである。逢坂剛『斜影はるかな国』(朝日新聞社)はジャック・白井以外にも日本人義勇兵、それも政府軍の国際旅団に加わった男がいたことを物語のコアにすえている。

斜影はるかな国

 もう一人の青柳優は本探索1405でその名前と著書を挙げておいたが、石垣の『我が愛―流れと足跡』(新潮社、昭和五十七年、後に『わが愛、わがアメリカ』(ちくま文庫、平成三年)において、「青柳優を残して」という章が残されている。石垣は府立第一高女を卒業、大正十年に創立されたばかりの自由学園に入学した。そこで後の村山知義の妻となる岡田寿子を通じて、社会主義グループの赤潤会の活動に関わっていた矢野初子を紹介された。矢野は吉野作造の『文化生活』の編集や翻訳に携わり、石垣もその仲間に加わっていったのである。

 

 しかし大正デモクラシー後退の中で、有島武郎の情死は「理想と現実の接点にぽっかりあいた亀裂のよう」でもあり、それに続く関東大震災と大杉栄、伊藤野枝の虐殺は「権力の冷血な本質を見せつけた最初の事件」だった。石垣は雑誌社を辞め、早大の聴講生となり、女子大生の研究会を開いていく中で、連れ立って築地小劇場に通うようになり、青柳の存在が初めての恋の対象となった。彼は信州出身で、松本中学時代は唐木順三、臼井吉見が同窓であった。

 だが青柳の父は大地主で高名な医者であり、後継ぎの長男が急死したことで、学生の身の青柳と異分子の石垣の結婚を許すはずもなかった。そのような時に姉の夫のワシントン赴任辞令が下り、一緒にこないかという話が持ち上がった。彼女は息苦しい日本を逃れ、女が自由に生きられる国というアメリカのイメージに捉われていたし、アメリカ行きの熱望が高まっていった。

 青柳は石垣のアメリカ行きに賛成し、帰ってくるまでの一年間は「将来のために互いに耐える別離」だとして、それをお互いに信じ、彼女はアメリカへと旅立つことになる。早大講師だった猪俣津南雄にニューヨークの知り合いの紹介を頼むと、友人の彫刻家石垣栄太郎の名前を名刺の裏に書いてくれた。だが結局のところ、一年で帰ることなく、彼女はニューヨークで栄太郎と結婚するに至り、日本に帰国したのは戦後になっての昭和三十年を迎えてからだった。

 青柳のほうは『日本近代文学大事典』の立項において、「当時女子大生であった後の石垣綾子(評論家)との相思は遂げられずながい傷心となった」と記されている。ということはこれもよく知られた恋の顛末ということになるのだろうか。また彼は『近代出版史探索Ⅶ』1227の加藤朝鳥の妹と結婚したようだ。

 それらはともかく、古本屋で青柳の著書には出会っていない。先の立項には昭和十年代の早稲田派新進評論家として活躍し、小学館の『近代日本文学研究』上下巻を編集したとある。こちらは端本を古本屋で見かけているので、売れ残っていたら、今度買い求めることにしよう。


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古本夜話1433 スメドレー『女一人大地を行く』、白川次郎、尾崎秀実

 アグネス・スメドレーは一九二八年にデンマークに赴き、その海辺で数ヶ月を過ごし、『大地の娘』(原題Daughter of Earth)という自伝的作品を書き上げた。それが次のように始められているのはそのことによっている。

  Daughter of Earth

 私の前にはデンマークの海がひろがってゐる――寒々と灰色に涯しもなく。水平線といふものはなく海と灰色の空とは融けて一つになつてゐる。翼をひろげた一羽の鳥が海原を越えて飛んで行く。
 こゝに来て数ケ月私は海を眺め、そして一人の人間生活の記録を書いて来た。私の書いたものは誰かゞ一時をそれによつて愉快に過すやうにと作られた絵画でもなく、また精神を鼓舞して生存の憂鬱から解放する和楽でもない。それは絶望と不幸の中に描かれた人生の物語りでもある。
 私はわれわれが皆ある奇妙な事情でたまたま生を受けるやうになつたこの地上のことを書いてゐるのだ。私は卑賤なものゝ喜びと、悲しみと、孤独と、苦悩と愛情とを書く。

 これは昭和九年に改造社から白川次郎訳『女一人大地を行く』として刊行されたものからの引用である。ただ同書は入手しておらず、昭和二十九年の酣燈社版によっているのだが、こちらは白川のペンネームではなく、尾崎秀美実訳にあらためられている。それは序文に当たる「アグネス・スメドレー女史の顔」も同様である。この戦後の版元に関しては拙稿「酣燈社と水野成夫」(『古本探究Ⅱ』所収)を参照されたい。

 (改造社版) (酣燈社版) 古本探究 2

 尾崎はドイツの新聞の特派員の彼女と上海で知り合っている。『女一人大地を行く』は一九二九年にアメリカで出版され、十二ヵ国で翻訳されているが、邦訳は十三番目になってしまったとの断わりも見えている。それにスメドレーからは自分の協力したドイツ訳版による邦訳を依頼されていたので、英語版に基づき、ドイツ語版も参照したとも述べられている。このドイツ語版はユリアン・グンベルツによるもので、初版は二万三千部だったとされ、十三ヵ国の翻訳といい、この時代にまだ中国へと向かっていなかったけれど、スメドレーもエマ・ゴールドマンやマーガレット・サンガと並ぶ世界的なスーパーヒロインとして位置づけされていたことがうかがわれよう。

 それからこれは高杉一郎の『大地の娘』に教えられたのだが、スメドレーを特派員として中国に送った日刊新聞『フランクフルター・ツァイトゥンク』の一面に、ブレヒトとベンヤミンの共訳による『大地の娘』Eine Frau allein)が連載され始めたという。この「近代出版史探索」シリーズは『同Ⅴ』の「あとがき」で記しておいたように、ベンヤミンの『パサージュ論』(岩波書店)をひとつの範として書き進められてきたので、それは驚きでもあった。その事実は高杉にとっても同じだったらしく、彼も書いている。「この二人の訳者とスメドレーのあいだには親交があったにちがいないが、その後の三人三様の足跡をたどると、はげしい歴史の潮流におし流され、あるいは破滅させられる人間の運命を思って、嘆息しないではいられない」と。

大地の娘―アグネス・スメドレーの生涯   パサージュ論(一) (岩波文庫, 赤463-3)

 この場合、「破滅させられる人間」とは一九四〇年に亡命者としてスペイン国境で自殺に追いやられたベンヤミンを想定しているのだろうが、それに加えて『女一人大地を行く』の訳者である白川次郎=尾崎秀実のことも念頭にあったにちがいない。尾崎もまた昭和十六年にゾルゲ事件に連鎖して検挙され、十九年にゾルゲとともに絞首刑に処せられたからだ。しかし二人はスメドレーを通じて知り合っていたし、後に尾崎は「深く顧みれば、私がアグネス・スメドレー女史や、リヒャルト・ゾルゲに会ったことは私にとつてまさに宿命的であつたと云ひ得られます。私のその後の狭い道を決定したのは、結局これ等の人との会(ママ)逅であつたからであります」と供述するに至る。これは『ゾルゲ事件(二)』(現代史資料』2、みすず書房)における尾崎の上申書の一節だが、高須もこれをアレンジして引いている。
 
  現代史資料〈第2〉ゾルゲ事件 (1962年)

 またこれは石垣綾子の『回想のスメドレー』(みすず書房)の中で、ひとつのエピソードが語られている。それは「ゾルゲ事件」の章においてで、石垣が戦後の一九四六年二月になって、尾崎が四四年に死刑に処せられたことを知らせると、スメドレーは動転し、死人のようにおし黙り、泣き崩れた。それからかぼそい声で、「あのかたは私の……私の大切なひと、私の夫、そう、私の夫だったの」といったのである。それまでスメドレーは石垣に尾崎の名前を明かしていなかったし、「病人のようなもだえる彼女の言葉は、極端にいえば半狂乱の謔言であったが、真剣な告白」で、石垣も衝撃を受けたことになる。ただスメドレーと尾崎の関係は前々回に挙げた『アグネス・スメドレー 炎の生涯』では否定されていることを付記しておく。

回想のスメドレー (1967年) (みすず叢書)   

 それでもここで『大地の娘』の著者と訳者をめぐる「三者三様」ならぬ「四者四様」の行末を見ることになったのである。幸いにしてアメリカに亡命したブレヒトは戦後のマッカーシズムの中で東ベルリンに去り、新たな自己の演劇体系の実践と劇場の仕事で、二十世紀の演劇に多大な影響を与えたとされる。

 なお『女一人大地を行く』の翻訳協力者として、英文学に造詣の深い深沢長太郎と聴濤克己が挙げられているが、風間道太郎『尾崎秀美伝』(法政大学出版局)によって、二人が朝日新聞社の同僚であることを知った。
 
  尾崎秀実伝 (教養選書)


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