出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1499 第一書房『パンテオン』の直接販売

 前回、城左門の詩集を取り上げたばかりだが、浜松の時代舎で『PAMTHÈON (汎天苑)』Ⅳを見つけた。以下『パンテオン』と表記する。B4判をひと回り小さくした判型で、表紙にはフランス語表記でタイトルと発行年月日が記されている 。確か城もこの詩誌の同人だったはずだと繰ってみると、彼の「月光」「草の賦」というふたつの詩が寄せられていた。これらは城の「第三期」の詩に当たるのだろうし、「第四期」の『終の栖』とまったく異なる詩であり、「月光」(An extravaganza)の第一連を引いてみる。

 (『PAMTHÈON (汎天苑)』Ⅳ)  (『終の栖』)

 白銀の 月魂石の彩(あいろ)に
 街衢(まち)は冷えびえと蒼く沈下(しづ)み
 大理石(ないし)の舗道に陰影(かげ)を落とす
 僧形(そうぎやう)のものがふたり 五人

 そして「僧形のもの」たちが夜の月の白光に包まれた街路を「青い神々の古(あや)怪い彌撒(みさ)」を求めて彷徨っている姿とイメージが提出されていくのである。この「月光」に北原白秋の『邪宗門』(易風社、明治四十二年)の影響をうかがうこともできる。だがそれだけでなく、日夏耿之介をメインとする『パンテオン』という特異な詩誌によるところも大きいと思われる。

(『邪宗門』)

 『パンテオン』『日本近代文学大事典』第五巻に解題があるので、まずそれを要約してみる。同誌は昭和三年四月に創刊され、翌年の十月までに全十冊が刊行された。裏表紙に第一書房刊行、編輯責任者長谷川巳之吉との記載が見えるが、実際には日夏耿之介、堀口大学、西條八十の三人による合同編輯だった。それは全体を四つのセクションに分け、日夏は「ヘルメスの領分」、堀口は「エロスの領分」、西條は「サントオルの領分」を受け持ち、もうひとつの「テゼウスの領分」は三つの領分に属さない詩人たちの寄稿によるものだった。
 
 手元にあるⅣを見てみると、確かに「ヘルメスの領分」「エロスの領分」「テゼウスの領分」はそのままだが、「サントオルの領分」はすでになく、これは西條が編集者を降りてしまったことを示しているのではないだろうか。先の城の詩は「ヘルメスの領分」に発表され、彼が日夏門下でにあったことを伝えている。それゆえに先の「月光」にしても、日夏の影響下で書かれたと考えられるし、思いがけないことに、『近代出版史探索』82の大槻憲二がクローチェの「詩歌の形式に就いて」という翻訳も寄せ、彼も日夏門下だったことを伝えていよう。

 それに「エロスの領分」には『近代出版史探索』54の西谷操が詩「括弧」、同57の矢野目源一が翻訳と思われる「紫摩黄金上人伝」を寄せ、また他の号には同63の平井功も寄稿している。先の編集者や執筆者たちのことを考えると、『パンテオン』は大正十三年に創刊され、昭和二年までに十三冊出された『奢灞都』の後継誌というべきであろう。したがってゴシック・ロマン主義の色彩が強かった。『奢灞都』ほどではないにしても、『パンテオン』も城の詩にうかがえるように、高踏的な詩誌であったことは言うまでもないだろう。だがⅩ号を出したところで、日夏と堀口の間に意見の相違が生じ、突然廃刊となってしまった。そのために堀口は『オルフェオン』、日夏は『近代出版史探索』62の『游牧記』、西條は『蠟人形』を創刊することになる。『游牧記』の一冊は親切な読者からコピーを恵送され、それが印刷造本において、『パンテオン』以上に画期的なものであったことを実感しているし、『蠟人形』に関しては後に取り上げるつもりでいる。

 日夏耿之介監修/平井功編 游牧記 全4冊揃 木炭紙刷本限定618のうち貮百捌拾漆(287)番(同番号揃い) 蔵印 (『游牧記』)

 第一書房が『パンテオン』の制作と発売を引き受けたのは、この時期に三人の詩集を刊行していたからであろう。ただ『パンテオン』は仔細に見てみると、表紙裏に小さく「此の雑誌は書店の店頭に出さず直接予約の愛好者にだけ配布いたします。従つて広告をしないので、内容の充実に努めたいと思ひます。どうぞ同好の方々に御伝へを希ひます」との文言が記されている。おそらく発行部数が千部に充たないであろう高等仕立て詩誌にもかわらず、表裏の片隅に小さく「第三種郵便物認可」との記載があるのはそのためだろう。

 簡略にいえば、「第三種郵便物」とは定期雑誌などの配送に通常より安い郵便料金が適用されるもので、なかなか「認可」されないはずだが、それが『パンテオン』に「認可」されたのは何らかの事情があったように思える。ちなみにやはり第一書房の昭和六年五月創刊の『セルパン』にはその記載が見当たらないのである。また『パンテオン』裏表紙には売価一円とされているのだが、「直接年ぎめの方に限り五十銭」という表示が見つかるし、これは『パンテオン』が先の文言に明らかなように、書店市場ではなく、「第三種郵便物認可」を得たことによって、読者への直販を意図していたことになろう。それは『パンテオン』本誌だけでなく、巻末には本探索1478の「野口米次郎ブックレット」も同様で、その全冊に近い三十一冊が挙げられ、「パンテオンの読者に限り/左の書籍定価半額特売」とのキャッチコピーが打たれている。

(「ブックレット」『愛蘭情調』)

 長谷川巳之吉のことであるから、『パンテオン』の発行と編輯責任者を任じた反面には「第三種郵便物」制度を利用した読者への直接販売と既刊書の半額セールの試みも意図されていたことになろう。


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古本夜話1498 ウスヰ書房、城左門『終の栖』、臼井喜之助『京都味覚散歩』

 本探索1495で、湯川弘文社の「新詩叢書」に城左門の『秋風秘抄』が収録されていることを挙げておいた。

 私などの戦後世代にとって、詩人の城左門は馴染が薄く、「若さま侍捕物帖」シリーズの作者としての城昌幸のほうに親しんできた。それは昭和三十年代の東映時代劇全盛時の大川橋蔵主演「若さま侍捕物帖」シリーズをよく観ていたからだし、性懲りもなくその一作である長編『月光の門』(講談社ロマン・ブックス)を拾い、つい読んでしまったばかりだ。

若さま侍捕物帖 [DVD]  月光の門 若さま侍捕物手帖 (ROMANBOOKS)

 それからしばらくして、初めて城左門詩集『終の栖』を見つけたのである。和本仕立ての帙入りの一冊で、定価は二円八十銭、昭和十七年に京都市左京区のウスヰ書房か刊行され、ちょうど湯川弘文社の『秋風秘抄』の一年前に出されたとわかる。奥付裏の広告を見ると、ウスヰ書房は『終の栖』と同じ造本、定価で三好達治詩集『覊旅十歳』、丸山薫詩集『涙した神』も出版していて、これらは湯川弘文社の「新詩叢書」に類するシリーズだったのではないかと推測される。戦時下において、大阪や京都において、このような詩集シリーズ出版の試みがなされたことの経緯は詳らかにしないけれど、それなりの出版事情が秘められているのだろう。

   

 城も巻末に「詩集『終の栖』覚書」を付し、『終の栖』は「詩的精神成長上に於る、その第四期」詩作集で、その三期にあたる詩集は『近世無頼』(第一書房、昭和五年)、『槿花戯書(はちすざれがき)』(三笠書房、同九年)、『二なき生命』(版画荘、同十年)の三冊が挙げられている。それならば、城が至った「詩的精神成長上」の「第四期」とはどのようなものであるのかが問われなければならない。その「終の栖」の表象とでもいうべき「夕餉の歌」の中の「現在」と「過去」の対照的な四連を引いてみる。

  

 ああ、我が家に事は無かり、
 我が妻は我を愛す、
 王侯の食卓に比す可くはあらねど、
 心足らへる我とわが妻の宴ぞ、

 曾て此の身、八千衢(やちまた)にさまよひ出て、
 放縦と無頼と廃頽を賞でて、
 灯取虫のごとく宵宵の燈を慕ひ、
 爛酔して、戻りて長恨を事とす、

 かの長恨は貪婪(どんらん)と我が心を啄み、
 我は亡びんとして懸崖の悲みに狎れたり、
 求むるは下賤の生活(たつき)が彼岸(かなた)に在り、
 我が夢は日毎の後に来ると――

 今宵しも、妻と食卓を囲み、
 妻が手作りに腹を鼓(う)つて哄笑す、
 昨の我や非なりしか、あはれ!
 今(こん)の我の是(ぜ)なるや、あはれ!

 ここでイロニーとしての「あはれ!」が反復され、城の「終の栖」のイロニーそれ自体も浮かび上がってくることになろう。それは翌年の『秋風秘抄』において、どのような境地へと達したのか、気になるけれど、読む機会を得られるであろうか。

 さてここで発行者の臼井喜之助にもふれておかなければならない。彼は『出版人物事典』にも立項されているので、それを引いてみる。

出版人物事典: 明治-平成物故出版人

 [臼井喜之助 うすいきのすけ]一九一三~一九七四(大正二~昭和四九)白川書院創業社。京都市生れ。京都二商卒。星野書店につとめたが、一九四一年(昭和一六)ウスヰ書房(のち臼井書房)を開き、小売のかたわ出版をはじめ、詩の雑誌や随筆書などを出すが、四三年戦時中の企業整備により河原書店に統合、戦後、四六年(昭和二一)四月再開、五〇年白川書院と改称。『詩風土』『京都』『嵯峨野』などの雑誌を出し、京都ブームの種を蒔き、また単行本で多くの詩人や作家を育てた。著書に『ともしびの歌』『京都文学散歩』『京都叙情』『京都歳時記』などがある。

 臼井の著書はここに挙げられた『京都文学散歩』(展望社、昭和三十五年)の他に『京都味覚散歩』(白川書院、同三十七年)を拾っているので、後者にふれてみたい。同書は三七四ページの文庫本であり、タイトルどおりの「京都食べ歩る記」といっていいし、豊富な写真もすべて臼井によるものだ。京都ならではのきわめて早い料亭と飲食店ガイドと見なせよう。臼井によれば、『カメラと詩歌・京都』(現代教養文庫、社会思想社)を上梓したところ、好評を得て、読者から「京名物食べ歩る記」も書くようにとの多くの手紙をもらい、それで『京都味覚散歩』の刊行に至ったという。昭和三十年代の現代教養文庫に関しては、かつて「現代教養文庫と旅行ガイド」(『文庫、新書の海を泳ぐ』所収)で、当時の旅行ブームに伴う多くの文庫本を刊行していたことを既述している。

   文庫、新書の海を泳ぐ: ペーパーバック・クロール

 臼井の白川書院のほうは後日譚があり、それは井家上隆幸『三一新書の時代』(「出版人に聞く」16)で語っている事柄だが、彼の友人の田辺肇が『近代出版史探索Ⅵ』1115の『世界画報』を発行する国際情報社にいた。その仲間の編集者やカメラマンの中に臼井の息子がいて、そこで取次の休眠口座となっていた白川書院の名義を借り、昭和四十年代後半に、田辺を中心として東京白川書院を立ち上げる。そして井家上を編集者とする竹中労の『傾向映画の時代』『異端の映像』『山上伊太郎の世界』『聞書アラカン一代―鞍馬天狗のおじさん』などの映画書を出していくのだが、これはまた別の出版史ということになろう。

 三一新書の時代 (出版人に聞く 16)  鞍馬天狗のおじさんは ~聞書アラカン一代~


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古本夜話1497 中央公論社と豪華本児童書

 昭和戦前における児童書の大判化に気づかされたのは、ほるぷ出版による「名著複刻日本児童文学館」第一集、二集(昭和四十九年)を通じてであった。この復刻がなければ、それらの児童書に古本屋で出会うことはほとんどなかったであろうし、実物とたがわぬ一冊を手にする機会は生じなかったはずだ。

名著複刻 日本児童文学館 全巻セット 付録・別巻・別冊付き

 その判型の大きさをまず実感したのは、第一集の芥川龍之介著、小穴隆一画『三つの宝』(改造社、昭和三年)で、判型は菊倍判、上製二四〇ページ、函入、定価五円、別刷の絵も収録され、これも児童書というよりも、高価な限定版文芸書の趣があった。それに童話集とされていても、「蜘蛛の糸」や「杜子春」も含まれていたからだ。その出版は芥川の死の翌年であり、彼はその死によって文学と時代のアイコンとされたから、文芸書として売れたのではないかとも思われた。芥川の死と文芸ジャーナリズム状況に関しては拙稿「芥川龍之介の死とふたつの追悼号」(『古雑誌探究』所収)を参照されたい。

名著復刻日本児童文学館版 三つの寶  古雑誌探究

 そうした事柄もあって、『三つの宝』の場合、児童書プロパーの問題と見なしていなかった。だが第二集に前回の『新撰童話坪田譲治集』、また川端康成『級長の探偵』、久保田万太郎『一に十二をかけるのと十二に一をかけるのと』(いずれも中央公論社、昭和十二年)、初山滋『たべるトンちゃん』(金蘭社、同十二年)が収録され、川端と久保田の二冊は縦横二十七センチの正方形の造本、初山の一冊はB4判、いずれも児童書とは異なる造型判型で、昭和十二年十二月の刊行である。

   

 それに翌年の『新撰童話坪田譲治集』も続いていたことを考えれば、戦時下の内務省による児童文学改善の指導に加えて、何らかの流通販売の新しい方針が児童書市場に導入されたのではないかとも思われた。しかも『級長の探偵』の装幀と絵はこれも「少年少女小説集」にふさわしい、『新撰童話坪田譲治集』と同じ深沢夫妻によるものだったのである。それに『一に十二をかけるのと十二に一をかけるのと』の場合は、久保田と演劇上でコラボしていた『近代出版史探索Ⅱ』359の伊藤熹朔の手になるもので、この「少年少女劇集」の時代的位相を表象していた。

 『名著複刻日本児童文学館第二集解説』『級長の探偵』において、中央公論社の編集者であった藤田圭雄が次のように述べている。彼は編集者として長きにわたって児童文学に関係し、戦後に大著『日本童謡史』(あかね書房、昭和四十六年)を上梓するに至るが、当時は『婦人公論』編集部から出版部へと移ったばかりだった。

日本童謡史 (1971年)

 始めて単行本を作る今、一つは破天荒な豪華本を作ってやろう考えた。本の形を在来のものでは面白くないと思い、いろいろ工夫した結果、菊判の全紙は普通に折ると三十二頁の菊判の大きさになるのだがそれを二十四頁に折ると、縦横大体二十センチに近い、ほぼ正方形の本ができることに気がついた。そこで今度は内容を考え、鈴木三重吉の『古事記物語』と久保田万太郎の少年少女劇集と、もう一冊、川端康成の少年少女小説集を作ることにした。何しろ、雑誌の経験はあったが、本作りなどは初めてのことで、それがどんなものかということは知らず、ついでに野上弥生子の『虹の花』という、ジェーン・オースチンの自由訳の本も引き受け、四冊を同時にクリスマスに間に合わせることにした。

 つまり「破天荒な豪華本」は「四冊を同時にクリスマス」プレゼント用に企画され、それに見合った配本がなされたと見なせよう。それは金蘭社の『たべるトンちゃん』にしても、翌年の湯川弘文社の『新撰童話坪田譲治集』にしても同様だったのではないだろうか。いずれも年末の発売であったこともそれを裏づけている。

 とすれば、昭和十年代を迎え、児童書のクリスマスプレゼントという習慣が限られた流通販売市場ではあっても、それなりに定着していたことを物語っているように思える。それは丸善や紀伊國屋書店などの大型書店、福音舎や教文館系列の小書店、それに三越書籍部を始めとする百貨店の書店だったのではないだろうか。三越書籍部は『近代出版史探索Ⅱ』289の中村書店のマンガも常備し、そのステータスの向上に貢献したようだし、それは児童書も同様だったと考えられる。

 当時の取次による書店配本を考えれば、その流通は木箱によっていたし、装幀と造本を特徴とする高価な大判児童書はそうした流通システムに不向きで、当然のことながら、書店からの注文を受けての指定、注文配本が主流だったはずだ。それでなければ、流通配本段階において、大型本の痛みを避けられないし、クリスマスプレゼントにふさわしい児童書ではなくなってしまうからだ。そうした昭和十年代の児童書出版社の営業に関して、管見の限り、まったく伝えられていないし、そのことについて、児童書出版史も研究書も何も語っていない。それゆえに、児童書における出版販売史の空白が生じてしまったように思える。


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古本夜話1496 湯川松次郎と『新撰童話坪田譲治集』

 前回の「新詩叢書」の版元が大阪の湯川弘文社であることにふれておいたが、どうしてこのような詩のシリーズを刊行するに至ったのかは詳らかでない。もっともそれは湯川弘文社に限らず、東京に支店を設けた大阪の多くの出版社に共通していることであるし、その例として本書1409で錦城出版社を取り上げてもいる。

 しかし湯川弘文社の場合、創業者の湯川松次郎は『出版人物事典』にも立項されているし、『近代出版史探索Ⅱ』280で取り上げた大阪出版史の貴重な文献『上方の出版と文化』(上方出版文化会、昭和三年)を著わしてもいるので、まずは前者の立項を紹介してみる。

出版人物事典: 明治-平成物故出版人

湯川松次郎 ゆかわ・まつじろう]一八八五~一九七一(明治一八~昭和四六)弘文社創業者。和歌山生れ。一三歳で大阪の小谷書店に入店、一九歳で大阪東区に書籍小売店を開業。一九〇九年(明治四二)明文館の称号で出版業を興す。昭和初年創刊の『美久仁文庫』は一時、『立川文庫』の人気を奪う勢いだったという。三〇年(昭和五)湯川弘文社(学習社)と改め、一般書・参考書・教科書を出版、三二年(昭和七)刊の佐佐木信綱・武田祐吉の『国語読本』(中等教科書)は著名であった。戦中・戦後にかけて藤沢桓夫、太宰治、吉井勇などの文芸書も多数出版した。日本書籍出版協会相談役、大阪出版協会相談役などをつとめた。『上方の出版と文化』の著書がある。

 これに湯川自身が語っている『上方の出版と文化』の一節を重ねてみれば、さらに彼の出版人としてのプロフィルがリアルで詳細になる。そこでその「自序」の部分も引いておく。


 背負いの本屋から小売屋、小間屋、そして赤本出版から雑誌・教科書・文学書、自然科学・人文科学・小説・参考書と数千種に亙る何千万冊になるかも知れぬ書籍を社会へ送り出し、物心ついて書籍屋一筋に本と共に生き本を出版することを唯一の楽しみに六十余年の年月を多忙の中に過ごして来た(後略)。

 この述懐をイントロダクションとして、湯川は「上方の出版文化史」を語り、ここでしかお目にかかれない大阪書籍業界人物物語」と「出版業者の面影」を描いていく。だがそこでは自らの湯川弘文社と出版に関しては言及されておらず、コンクリートに文学書や小説などの書名が記されているわけではない。湯川の先の立項や「上方の出版文化史」にも述べられていないけれど、実は児童書も出版され、その一冊が手元にある。それは昭和十四年の『新撰童話坪田譲治集』で、架蔵しているのはほるぷ出版「名著複刻日本児童文学館」の一冊だ。

 

 その奥付に『新撰童話坪田譲治集』は昭和十三年十二月発行、同十四年九月第三版との記載が見えているのだが、同書の扉下に湯川弘文社名で、本書は以前に『をどる魚』として刊行されたものの改題改装だという断わりが付されているように、同社の既刊書のリニューアル出版ということになる。そこで『名著複刻日本児童文学館第二集解説』を繰ってみると、『をどる魚』は双書「日の丸標準童話」十二冊のうちの一冊として刊行されたもので、それは坪田の「あとがき」に当たる「小松原米造君にさゝぐ」が昭和十年十二月付で記されていることからすれば、十一年初頭に出版されていたと推測される。ちなみにタイトルは冒頭の作品「をどる魚」から取られ、装幀、挿絵は深沢紅子、深沢省三によるもので、『新撰童話坪田譲治集』は内容、装幀、挿絵もそのまま踏襲し、判型を変えての刊行とされている。

 さてここで考えてみたいのはその判型の変化をめぐってである。それは四六倍判函入、上製二四七ページで、上質な紙を使っているで、厚さも二センチを超え、児童書というよりも、豪華本仕立ての文芸書といった印象が強い。それでも紙型を再利用していることもあってか定価は一円八十銭とあるが、児童書としては高定価であることはいうまでもない。そうした事柄に加えて、この大判の児童書がどこで売られていたのか気になってしまう。それはこの判型の場合、大型書店は少なかったし、児童書部門を設けている書店も同様だったし、現在と異なり、児童書専門書店もほとんどなかったと考えられるからだ。

 また湯川弘文社は大阪の版元であり、元版の『をどる魚』はおそらく菊判の一冊のはずだ。その一冊だけを『新撰童話坪田譲治集』として大判化したのはどのような流通販売イノベーションが生じていたのであろうか。神田小川町に東京支店を設けたことと不可分のはずだ。そのことを考えるために、もう一編続けて書いてみたい。

 なお坪田の『子供の四季』(新潮社、昭和十三年)に関してはかつて「坪田譲治と馬込文化村」(『古本探究Ⅱ』所収)で言及していることを付記しておく。

 古本探究 2


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古本夜話1495 竹中郁『龍骨』と湯川弘文社「新詩叢書」

 前回、『詩と詩論』同人の竹中郁が実際にパリのシェイクスピア・アンド・カンパニイ書店を訪れていたことを既述しておいた。それは昭和三年から四年にかけて、洋画家の小磯良平と渡欧し、パリに滞在し、ジャン・コクトーとも会っていた頃だと思われる。

 

 その帰国後に上梓したエスプリ・ヌーヴォーの輝かしい業績とされる詩集『象牙海岸』(第一書房、昭和七年)は未見だけれど、戦時下に刊行された『龍骨』を入手している。例によって浜松の時代舎で見つけた一冊で、戦時下の詩集と思われないほどの鮮やかな紋様の装幀となっている。それはこの詩集の一章が「首里逍遥」と題されていることから類推すると、沖縄の紋様ではないかと考えられる。

(『象牙海岸』)龍骨 竹中郁詩集 (新詩叢書12) (『龍骨』)

 この『龍骨』はB6判上製、一八〇ページ、頒価一円五十銭、背の下の部分に「新詩叢書」12とあるように、竹内自身が企画編集したもので、この「叢書」は『龍骨』と同じフォーマットで刊行されたと見なせよう。版元は大阪の湯川弘文社である。奥付裏に次のようなコピーが謳われている。「詩人のこのたびの大戦にいち早く感応してその筆を鋭くせる、他の文芸分野にその比をみず。又その朗読の気運大いに世に起りて詩集の翹望せらるる今に優る時なく、ここに本邦中堅詩人の詩集を蒐めて新詩叢書となす」と。おそらく竹中の手になるものであろう。そしてそのリストが挙げられているのでこれらも示す。

1 竹村俊郎 『麁草(あらくさ)』
2 岩佐東一郎 『二十四時』
3 城左門 『秋風秘抄』
4 笹澤美明 『海市帖』
5 小野十三郎 『風景詩抄
6 岡崎清一郎 『夏館』
7 安藤一郎 『静かなる炎』
8 村野四郎 『珊瑚の鞭』
9 阪本越郎 『益良夫』
10 津村信夫 『或る遍歴から』
11 竹中郁 『龍骨』
12 安西冬衛 『大学の留守』
13 中山省三郎 『豹紋蝶』
14 近藤東 『紙ノ薔薇』
15 田中冬二 『菽麦集』
16 蔵原伸二郎 『天日の子ら』
1 7福原清 『催眠歌』

(『麁草』)(『菽麦集』)

 ナンバーは便宜的にふったものであり、『龍骨』がその背表示によれば、12であることを先述したが、ここでは11になってしまう。そこで念のために『日本近代文学大事典』第六巻所収の「叢書・文学全集・合著集総覧」を繰ってみると、刊行順は異なるが、昭和十八年から十九年にかけて全冊が出されている。ここでも『龍骨』11が変わっていないのは、その前に丸山薫詩集が予定され、未刊となったことによるのだろう。

 ただ詩人たちも昭和十八、十九年という敗戦の気配が漂い始め、B29の空襲が現実化しようとする逼迫する戦時下にあって、詩を書きあぐねていた感も拭えない。それは竹中にしても同様で、最初の章の「一刹那」の三番目の詩「七月炎天」には次のような言葉が見える。

  三月のあいひだに私は
  四つの詩を書くのがやつとだつた
  しかし又 詩を書く人間も要るのだと
  強い太陽を吸つては刻々のびる稲の姿を
  帰りの汽車の窓から見やりながら
  ひとり秘かに云ひきかせた

  稲はそだつ 国のちから
  みいくさは仇を討つ 国のちから
  小さな机に凭れて私はつつましく書く 国のちからの一部分

 残念ながら「新詩叢書」は『龍骨』しか目を通していないけれど、他の詩集にしても、「国のちからの一部分」のような詩のかたちを表象していたのではないだろうか。それにもかかわらず、戦争末期という状況下で「新詩叢書」はほぼ全点が刊行されたのである。これは本探索でも繰り返し指摘してきたように、昭和十六年に国策取次の日配が「出版物は紙の弾丸だ!」というスローガンを掲げ、営業を開始している。そして海外の植民地も含めた一元配給を実現させ、十八年からは書籍の買切制を導入していった。

 「新詩叢書」は昭和十八年から刊行され始めているので、ほぼこの日配の買切制とパラレルに出されたことになる。そのために戦時下において、「本邦中堅詩人」ですら初版二千部が出版できたのであり、詩人たちには三百円の印税がもたらされたことになろう。それは詩人ばかりでなく作家たちも同様で、日配下の一元配給システムと買切制は、同じく文芸出版社にも多大な利益をもたらしたのである。

 それは本探索でもしばしば取り上げ言及してきた第一書房、新潮社、河出書房の詩集や叢書にも当てはまるもので、岩波書店においたってはその渦中において、戦時立法ともいうべき版元としての買切制を導入し、今に至っていることになろう。このような戦時下における翻訳も含めた文芸、人文書出版の隆盛をベースとして、戦後の詩書出版も続いていったと考えられよう。

 なおこの一文を脱稿後、しばらくして同じく浜松の時代舎で、10の津田信夫『或る遍歴から』も入手した。この詩集には言及しないけれど、装幀はやはり沖縄の紋様とおぼしきもので、竹内によると思われるカバー装が「新詩叢書」に共通して使われていたことをあらためて教えられた次第だ。

(『或る遍歴から』)
 
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