出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1550 高村光雲『光雲懐古談』と田村松魚

 高村光太郎のことは父の光雲を抜きにして語れないし、吉本隆明『高村光太郎増補決定版』においても、『光雲懐古談』は参照され、この父と子について、「ぬきんでた器量をもって世に出た職人と、そのだいじな優等生の総領息子の関係にほかならなかった」と述べている。

   (『光雲懐古談』)

 そして高村の留学は森鷗外、夏目漱石、永井荷風のそれとも異なるもので、吉本は高村の「出さずにしまった手紙の一束」から光雲が東京の小さなあばら家でパリの息子にしたためた手紙の「身体を大切に、規律を守りて勉強せられよ」を引き、それを読んだ高村の衝撃にふれている。これは吉本思想の基調音とも見なすべきで、ここには吉本父子も重ねられているはずだ。

 父親が夜の目もみずに稼ぎためた金をだましとって、ブルジョワ息子と遊び呆ける貧乏人の息子の心理と同じものであった。もちろん、芸術というものが豊富な物質的基礎と、閑暇のうえにしか開花しないものであるとするならば、芸術を志す貧乏息子は、りちぎものの父親の金をだましとっても、ブルジョワの息子を範とするよりほかない。それでは、自分はおよばぬまでも、息子だけは――という発想をするこの父親は、否定されねばならないのか。むろん、そのいじらしい心理が否定されねばならないのだ。わたしのみるところでは、あからさまにこの問題にぶつかった留学は、近代文学史のうえでは、高村光太郎だけであった。

 それを吉本は高村だけがなした「社会的留学」であるとして、高村が味わった衝撃は「西欧と日本との眼もくらむばかりの文化と社会と人間意識の落差」に他ならず、そこから生じた父子のコンプレックスと排反を直視するしかなかった。その父のプロフィルを『日本近代文学大事典』から引いてみる。 

 高村光雲 たかむらこううん 嘉永五・二・一八~昭和九・一〇・一〇(1852~1934)彫刻家。江戸の生れ。はじめ中島光蔵、通称幸吉。仏師高村東雲の徒弟として木彫を学ぶ。岡倉天心らに見いだされて草創期より東京美術学校彫刻科を指導。三代の巨匠とうたわれた。帝室技芸員、帝国美術院会員。座談に長じ多くの談話筆記類を残したが、単行書としてまとめられたものに、『光雲懐古談』(昭四・一、万里格)があり、いくつかの版によって世に行われている。光太郎、豊国の父。 

 吉本も参照し、個々にも挙げられている『光雲懐古談』をその父子の間に置いてみる。私は吉本の高村論を読んだ後に、『高村光雲懐古談』(新人物往来社、昭和四十五年)を入手し、読んでいるのだが、吉本は万里閣版、もしくは別の版によっているのかもしれない。岩波文庫化されたのは近年になってからだ。高村は明治四十二年に帰国し、詩を書き、『近代出版史探索Ⅶ』1395などの翻訳によって文学や芸術の紹介につとめ、彫刻や絵画を手がける一方で、智恵子と結婚し、父とは異なる芸術家の道を歩んでいった。 

 幕末維新懐古談 (岩波文庫 青 467-1)

 しかしそのかたわらで、大正十一年に高村は田村松魚とともに光雲の聞書に従い、父の字でともいうべき物語を決実させている。志賀直哉の「和解」(『夜の光』所収、新潮社、同七年)が発表されるのは大正六年であり、やはり父との確執とその解決を描いた作品の影響を考えることもできよう。

 

ところで『高村光雲懐古談』の「筆録後記」は田村名で記されているので、こちらも『日本近代文学大事典』の立項を引いてみる。

田村松魚 たむらしようぎよ 明治七・二・四~昭和二三・三・六(1874~1948)小説家。高知県宿毛町生れ。本名雅新(まさとし)、別号入江新八。(中略)上杉慎吉博士の父に才を見いだされ、上杉家の学僕となり、のち、幸田露伴の門に入る。松魚という筆名は郷里土佐にちなみつけたという。(中略)三六年から四二年までアメリカに留学。その間インディアナ大学に一年学んだ。帰国後露半同門の佐藤とし(田村俊子)と結婚。万朝報社に勤務する。単行本として『三湖楼』(明三五・二 春陽堂)『北米の花』(明四二・九、博文館)『脚本家』(明四三・二、嵩山堂)『小仏像』などがあるが、結婚後はもっぱり妻の俊子を作家として世に出すことに尽力し、自分の作家活動は衰えた。俊子に去られてのち、再婚し、日暮里や神明町で骨董屋を開いていた(後略)。
 明治42年初版/ 北米の花 田村松魚 別刷図版入 博文館 田村俊子(元妻) 幸田露伴師

 この立項は瀬戸内晴美によるもので、彼女は他ならぬ評伝といっていい『田村俊子』(角川文庫)を著わし、そこに当然のことながら田村も登場していることから指名されたのであろう。どうも高村父子と田村の組み合わせはしっくりこないけれど、単純の田村の骨董屋の仕事から結びついたと考えていいのかもしれない。それは版元の万里閣も同様だ。これは以前にも、拙稿「水野葉舟と『心霊問題叢書』」(『古本探究Ⅲ』所収)でふれておいたが、吉本の指摘によれば、高村が生涯にわたって相許したただ一人の友人が水野だったという。だが水野が柳田国男の『遠野物語』の触媒であったこと、及び吉本の『共同幻想論』『高村光太郎増補決定版』の関係をリンクさせれば、それだけが見えない糸でつながっているのかもしれない。

  改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫) 古本探究 (3)


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1549 高村光太郎『道程』と抒情詩社

 少し飛んでしまったが、吉本隆明の『抒情の論理』にふれたわけだから、『高村光太郎』(春秋社)に言及しなければならない。その前に高村の『道程』の版元の抒情詩社を取り上げておく。あらためて近代文学館複刻の高村光太郎『道程』を保護函から取り出してみると、その装幀が発行者の内藤鋠策によるものだとわかる。

  

 『近代出版史探索Ⅵ』1023で、内藤と抒情詩社、詩雑誌『抒情詩』創刊に言及し、やはり『同Ⅶ』1329の中西悟堂の証言を引き、大正二年に内藤の『旅愁』、北原白秋『桐の花』、齋藤茂吉『赤光』が出揃い、歌壇史的に見て、興味深い年だったことを既述しておいた。内藤は大正元年に抒情詩社を立ち上げ、三年に『道程』の自費出版を引き受けている。

(『旅愁』)(『桐の花』)

 しかしその際に抒情詩社のその他の詩歌書の十冊ほどを挙げておいたが、その出版物の全貌はつかめていなかった。これも『近代出版史探索Ⅵ』1008で百田宗治の椎の木社にふれたところ、読者から椎の木社出版物のリストの恵送を受け、それが百冊を超えていたことに驚かされた。そうした事実は抒情詩社にしても、中西の言によれば、「実に夥しい歌集を釣瓶打ちに出し」ていたようなので、椎の木社と並ぶ点数に及んでいたことを告げているのかもしれない。

 ところが古本屋でも抒情詩社の詩歌集は見かけることは少なく、かろうじて浜松の時代舎で、黒田忠次郎編『評釈句撰現俳壇の人々』、尾山篤二郎『旅他六歌仙』(いずれも大正六年)を入手しているだけである。二冊とも函入の菊半截判で、前者は五千円という古書価だったことからすれば、私はそうした分野に門外漢だが、抒情詩社の書籍は稀覯本となっているものも多いとも考えられる。

 それでもこの二冊を入手したことで、抒情詩社の流通販売に関する疑問も解けたこともあり、それを書いておきたい。実は『道程』の場合、抒情詩社の取次が不明だったので、それは自費出版も関係しているのかと思っていたのだが、こちらの二冊には奥付に発売元として取次が挙げられていたのである。それは東京堂、東海堂、北隆館、上田屋、至誠堂、登美屋書店、第四有隣堂である。つまり抒情詩社は発行所で、流通販売を担っていたのはこれらの取次に他ならない。

 そのうちの五社は清水文吉の『本は流れる』(日本エディタースクール出版部)を参照するまでもなく、大正時代の大取次で、それらの取次口座を通じて、全国の書店での流通販売がなされていったことを意味している。登美屋書店や第四有隣堂は小取次も兼ねていた書店だと推測されるが、清水の著書に示された大正期創業の東京、大阪、京都における新たな小取次リストには見えていない。それらの小取次に象徴されるように、おそらくこの時代において、出版物によっては取次も兼ねる書店が簇生していたことを物語っていよう。

  

 そうした事実によって、『道程』の巻末広告に見える「  出版書目」としてとしての『乃木大将夫人言行録』や「昭憲皇太后御製謹釈」の意味がわかるような気がする。詩雑誌と詩歌書の版元である抒情詩社の出版物は並製本ばかりか特製本も含まれ、不可解に思われたが、そのような取次=採用ルートを確保していたゆえなのかと了解するのである。あるいはこれらの二書の刊行を通じて、抒情詩社の本格的な流通販売は成立することになったのかもしれない。

 それらのこと、及び前者の『乃木大将夫人言行録』に関して、『乃木将軍余香』(三越呉服店、昭和二年)にもふれてみたい。『乃木大将夫人言行録』は実物を見ていないが、『道程』の出版が大正三年十月であることからすれば、それ以前の刊行であり、明治天皇死去に伴う乃木夫妻の殉死が大正元年九月であるので、大正二年、もしくは三年前半と考えられる。夏目漱石の乃木の殉死に触発された『こころ』が『朝日新聞』に連載されたのは大正三年四月から八月にかけてで、単行本として岩波書店から刊行されたのは九月である。

(『乃木将軍余香』)

 これらのことを考慮すれば、『乃木大将夫人言行録』の出版は大正三年と考えられるし、私たちが想像する以上に乃木夫妻の殉死は衝撃的で、将軍に寄り添った夫人は時代のアイコンと化していたように思われる。『乃木将軍余香』は殉死十五年を記念して、昭和二年に三越呉服店で開催された「乃木将軍遺墨遺品記念展覧会」のA4判、一一〇ページほどの「図録」であり、その構成は「乃木将軍の肖像」から始まり、「乃木将軍夫人の書簡と絵」で閉じられていることも、昭和に入っても衰えていない夫人のアイコン化を象徴しているように思われる。


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1548 西條八十と丸尾末広『トミノの地獄』

 しばらくぶりで西條八十にふれたので、気になっていたことを書いてみる。大正の詩の時代と多くの詩集の出版が昭和を迎えての雑誌、映画、新聞などのマスメディアの到来にあって、広範な分野に影響を及ぼしたはずだ。だがそれをあらためて俯瞰検証しようとすると、まとまった詩集や詩書などのテキストの不在に突き当たる。本当に筑摩書房から刊行予定だった『大正文学全集』が未刊に終わってしまったことを想起してしまうし、本当に残念だというしかない。

 『近代出版史探索Ⅲ』557で、『大正文学全集』全五十巻の明細を挙げておいたように、37『高村光太郎・萩原朔太郎集』、38『山村暮鳥・宮沢賢治・野口米次郎・日夏耿之介・佐藤惣之助・堀口大学集』、39『大正詩人集』で、これに短歌、俳句まで含めると、さらに五冊が加わることになる。これらの全集全五十巻のうちの八巻を占めていることからわかるように、小説や評論、様々な言説に比肩する大正の詩歌の隆盛をうかがうことができよう。

 ただ西條八十は名前が見えておらず、『大正詩人集』に組みこまれ、『近代出版史探索Ⅱ』380で言及した処女詩集、『砂金』にしても、抄録という編集になったと思われる。その場合、おそらく『トミノの地獄』はその凶々しさゆえに、省かれてしまったのではないだろうか。それを挙げてみる。
砂金 (愛蔵版詩集シリーズ)

 トミノの地獄
姉は血を吐(は)く、妹(いもと)は火(ひ) 吐(は)く、可愛(かは)いトミノは寶王(たま)を吐(は)く。
ひとり地獄(ぢごく)に落(お)ちゆくトミノ、地獄くらやみ花も無き。
鞭(むち)で叩くはトミノの姉か、鞭の朱總(しゆぶさ)が気(き)にかかる。
叩(たた)け叩きやれ叩かずとても、無間(むげん)地獄(ぢごく)はひとつみち。
暗(くら)い地獄へ案内(あない)を頼む、金(きん)の羊(ひつじ)に鶯(うぐいす)に。
革(かは)の嚢(ふくろ)にやいくらほど入れよ、無間地獄の旅仕度(たびじたく)。
春が来て候(そろ)林に谿(たに)に、くらい地獄谷(ぢごくだに)七曲(ななまが)り。
籠(かご)にや鶯、車にや羊(ひつじ)、可愛いトミノの眼にや涙。
啼(な)けよ鶯(うぐひす)、林(はやし)の雨(あめ)に妹戀(いもとこひ)しと聲かぎり。
啼(な)けば反響(こだま)が地獄にひびき、狐(きつね)牡丹(ぼたん)の花(はな)がさく。
地獄(ぢごく)七山(ななやま)七谿(たに)めぐる、可愛(かは)いトミノのひとり旅(たび)。
地獄(ぢごく)ござらばもて来(き)てたもれ、針(はり)の御山(おやま)の留針(とめばり)を。
赤(あか)い留針(とめばり)だてにはささぬ、可愛(かは)いトミノのめじるしに。

 この「トミノの地獄」は西條が「自序」で述べている「心象の記録者」として、国木田独歩から聴かされた「『死』其物の姿」の一つのイメージを書きつけたものだと見なせよう。私はやはり『近代出版史探索Ⅱ』396で『砂金』の「石階」が吉田実の「僧侶」(『僧侶』所収、ユリイカ、昭和三十三年)の範になったのではないかという推論を提出しておいたが、実は昭和ではなく、平成になって、「トミノの地獄」がコミック化されたのである。

 それは丸尾末広によるもので、平成に入ってからの丸尾と『月刊コミックビーム』(エンターブレイン、後KADOKAWA)のコラボレーションは特筆すべきものがあった。それらはビームコミックスの江戸川乱歩原作『パノラマ島綺譚』『芋虫』、夢野久作原作『瓶詰の地獄』として単行本化され、さらに『トミノの地獄』は四巻本としてお目見えしたのである。

パノラマ島綺譚 (ビームコミックス)  芋虫 (BEAM COMIX)  瓶詰の地獄 (ビームコミックス)  トミノの地獄 1 (ビームコミックス)

 もちろん脚色はなされているし、タイトルに関する注記はなされず、英語表記をTomino the Damnedとして始まっているので、西條の詩との連環に気づいた読者は少なかったと思われる。詩のほうは姉妹がいて、妹のトミノが無間地獄の旅に出る物語構成となっているが、コミックは産みの母親に捨てられるように、田舎の親戚に預けられ田双子の姉弟が主人公である。二人は命名されずに捨てられたために、ミソとショウユと名づけられ、貧困と虐待の中で育ち、蚕も食べて成長したゆえなのか、身体に不吉な痣を生じさせていた。そして二人は浅草の見世物小屋に売り飛ばされてしまう。

 双子を捨てた母は怪談女優の歌川唄子で、父はその見世物小屋の国籍不明の興行主の汪(ウォン)だったが、姉弟はそれを知るべくもない。歓楽街の浅草に戸惑いながら、一座のフリークスの案山子、エリーゼ、シンたちによって、トミノとカタンと呼ばれ、虐げられてきた者同士の世界の中で、二人は貧しいけれど、初めて心温まる日々を送ることができたのである。二人はそのセーラー服姿から浅草のヘンゼルとグレーテルのようでもあった。

 ところが汪の思いつきで、姉トミノはイカサマ宗教の教祖となった蛸娘エリーゼのお付きとなり、カタンは火を吐く見世物の練習を強いられ、火傷を負ってしまう。

 これが『トミノの地獄』第一巻のストーリーで、丸尾ならではの妖美にして戦慄的な絵柄によって展開されていく。西條の詩「トミノの地獄」は時代背景はほとんど同じだが、ほぼ百年後に丸尾の世界へと継承されたことによって、倒錯的なロマネスクが独自なかたちで進化し、新たな舞台披露、上演の日を迎えたことになる。それはトミノとカタンのみならず、西條と丸尾にとっても寿ぐべきであろう。

 それにこれは私の思い入れにすぎないかもしれないが、小池一夫原作、上村一夫画『修羅雪姫』とその藤田敏八監督、梶芽衣子主演の映画にも影響を受けて描かれ、成立したのではないだろうか。

修羅雪姫1 (マンガの金字塔)  修羅雪姫 [東宝DVDシネマファンクラブ]


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1547 西條八十『少年愛国詩集』と帝国在住軍人会『新興日本軍歌集』

 前回、「現代詩人叢書」に西條八十『蝋人形』があることを示しておいたが、『西條八十全集』(国書刊行会)には書影掲載されているけれど、やはり収録されていない。それはアンソロジー詩集という理由にもよっているのだろう。

西条八十全集 (1)

 西條に関してはすでに『近代出版史探索Ⅱ』380で処女詩集『砂金』『同Ⅱ』396などで『西條八十童謡全集』とそれらにまつわる数編を書いている。だがここでその後入手した西條の詩集にもふれておきたい。これも前回の百田宗治の『静かなる時』の巻末広告に、『西條八十童謡全集』(大正十年)が見え、これもかつて「吉行淳之介と冨山房『世界童謡集』」(『古本屋散策』所収)で言及している。『西條八十童謡全集』『近代出版史探索Ⅴ』994の冨山房「模範家庭文庫」のうちの『世界童謡集』を取りこんだ一冊で、ほるぷ出版の「名著複刻日本児童文学館」として、昭和四十九年に復刊されている。菊変型版、上製三七一ページ、定価は二円五十銭とある。

砂金 (愛蔵版詩集シリーズ)  

 同書によって「肩たたき」が西條の童謡、「風」がロセッティの訳謡であることを知った。前者は「母さん お肩をたたきませう/タントン タントン タントントン」、後者は「誰が風を見たでせう/僕もあなたも見やしない/けれど木の葉を顫はせて/風は通りぬけてゆく」と始まるもので、私なども子どもの頃から馴染んでいたが、西條によるものだとは認識していなかった。それにスティーヴンソンの「寝台の舟」が吉行淳之介の短編「寝台の舟」にタイトルも含め、そのまま使われていることを考えれば、『西條八十童謡全集』は広範な波紋と影響をもたらした一冊のようにも思えてくる。

 そうした童謡全集の延長戦上に大日本雄弁会講談社とタイアップしたようなかたちで、西條の『少年詩集』『少女純情詩集』が続いて、昭和十三年には『少年愛国詩集』が刊行されていく。函入上製のちがいはあるけれど、菊半截版のフォーマットと恩地孝四郎による装幀は前回の新潮社の「現代詩人叢書」と同じで、昭和十年代に入り、『少年愛国詩集』も出現してきたのである。西條はその「はしがき」で述べている。

 少女純情詩集 復刻(叢書日本の童謡)  

 支那事変に於ける皇軍の勇ましい活躍、また銃後国民の涙含ましい団結の姿は、おのづから私のペンを動かした。書かずにはゐられない気持に駆られて、私は数多感激の詩篇を綴つた。しまひには自ら、南支の硝煙弾雨の中を渡鳥のやうに彷徨して、この広古の聖戦の感動深い光景を心身に体得した。
 この間に生れた時局中、殊に皇国の少年諸君に是非読み味はつて貰いたひ作品をすぐつてこの集に収めた。(中略)
 未来の大日本帝国を雄々しく背負つて立つ若き諸君! これは君等の花やかな首途を祝ほぐ明朗愉快な軍歌集である。冀はくは常住坐臥、高らかに吟誦し、以て興国の大精神を奮起して欲しい。

 そして「進軍の歌」「愛国の詩」「希望の詩」「偉人の詩」「物語詩」の五つのセクションに及ぶ六十余の「軍歌集」が深川剛一の口絵と挿絵を巻頭にして、伊藤幾久造、川上四郎など九人の画家が続いていくのである。

 私は「軍歌」や「愛国詩」に通じていないし、それらの歴史も確認していない。だが講談社に代表される大手出版社とマス雑誌がそのような分野を開拓したと想像するに難くない。そういえば、澁澤龍彦が軍歌愛好家で歌い出すと止まらないというエピソードはよく知られているけれど、そうした時代の子であったことを象徴しているのかもしれない。

 ちなみに手元に『新興日本軍歌集』という一冊がある。昭和七年に編纂兼発行社名を小原正忠、発行所を牛込区原町の帝国在郷軍人会本部として刊行された一冊で、菊半截判の半分の小型本である。もちろん並製だが、二三五ページ、一一三の軍歌が並ぶ。その中には相馬御風歌、中山晋平曲「帝国在郷軍人会々歌」も楽譜付きで収録されている。そこで『日本近現代史小辞典』を繰ってみると、版元の立項が見出されたのである。

日本近現代史小辞典 (角川小辞典 25)

 帝国在郷軍人会 ていこくざいごうぐんじんかい
(設立1910・11・3~1945・8・31、明治43~昭和20)
 退役軍人団体。日露戦争を契機に軍国主義思想の宣伝・普及と国民の軍事能力維持の必要性が痛感され、寺内正毅陸相、田中義一軍事課長らの指導のもとに、各地にあった退役軍人の尚武団体を統合して結成された。(中略)市町村単位に分会がおかれ、1914年(大正3)10月には海軍軍人も加入した。大正後半期には工場分会も設置し、労農争議に介入するなど社会運動の抑圧にも活動した。満州事変以後は軍部の身代わりとして活躍し、国体明徴運動などの推進力となった。36年(昭和11)9月25日公布の帝国在郷軍人会令により、陸海軍大臣の所管に属する軍の公約機関となり、戦時下の国民動員に大きな役割を果したが、第2次世界大戦敗戦により解散した。

 
 帝国在郷軍人会は『新興日本軍歌集』だけでなく、それに類する多くの出版活動も展開していたにちがいない。しかもそれらは各分会との直接の買切取引であったはずだから、多大の利益が保証されていたことになろう。しかしまだ救いは『少年愛国詩集』と軍歌が重なっていなかったことで、西條のことを考えても、何となく安堵した次第である。


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1546 百田宗治詩集『静かなる時』

 これも浜松の時代舎で、百田宗治の詩集『静かなる時』を買い求めている。これまで『近代出版史探索Ⅵ』1008で百田が詩話会と新潮社の『日本詩人』の中心人物であり、椎の木社と詩誌『椎の木』を主宰していたこと、また同1031で百田のポルトレを紹介しておいた。

  

 だが古本屋で百田の詩集を見つけたのは初めてで、裸本で疲れた状態にあったけれど、それは記憶の片隅に残るものだった。どこで見たのか、その記憶をたどってみると、『日本近代文学大事典』の百田の立項のところではないかと思い出し、繰ってみると、まさに『静かなる時』の書影が掲載されていたのである。それでいて解題は施されておらず、立項のほうに「民衆詩派と別れ、詩集『静かなる時』(大正一四・八 新潮社)の『跋』には「この一巻の詩集を以てわたしはその過去半生涯の詩人としての業績の最後のものとし、そして潔く、然り潔くいまはこの一巻に結実を置いてゐる過去の表現生活に一のアデユーを告げたいと思つてゐると書いた」とある。確かめてみると、「跋」の半ばほどにそれが見つかる。とすれば、百田にとって、この詩集は「民衆詩」に別れを告げる重要な一冊ということになろう。

 しかも百田は実生活も含め、そのことに自覚的であったようで、エピグラフとして次のような詩句が掲げられている。「星々輝きいで/風わたり/地は湿りぬ――いまぞ/殺戮をはる時」と。これは出版年のことを考えれば、関東大震災のメタファーとも受け取れるし、『静かなる時』自体も大正九年から十二年にかけて書かれ、本来は十二年九月刊行予定だったとされる。そして次ページにはこれまでの詩集が列挙され、まさに『静かなる時』がこれまでの詩に「アデユーを告げ」る一冊であるかのようだ。またその装幀も百田自身によるもので、その暗闇の中で銀色に光る三日月によって書影が記憶されていたことになろう。

 しかもそれは冒頭の「吠える犬」の光景と通底しているし、当初はそのタイトルとするつもりだったようなので、その十ページに及ぶ長詩の前半を引いてみよう。

  夜は深い、
  夜はそのかぎりない暗黒の層で続いてゐる、
  ――その底で犬が吠える、
  一匹が吠える、
  つゞいて他の一匹が、
  そして、無数のうら哀しい号音の断続と充満――。
  

  それはものがなしいメロデイをつくつて
  遠く虚空の円天井の方に失はれて行く、
  地上に起伏する山脈のやうに
  高く低く、あらゆる町と平原をつらぬいてこだましてゆく、
  

  凍りついた片眼の新月の方にむかつて  
  その唸きは一つのメロデイアスをつくつて連続する。
  

  移動する雲々の間の
  不思議な月かげ、
  宏大な織物の奥に
  點綴し、煌めく星、
  地上は連綿とつゞいて、
  その果を遠く絶海のきり出しの彼方に失はせる・・・
  

  夜は文明の頽廃するときである、
  夜はその幾世紀の障壁をくゞり抜けて
  原始のパントミイムのたちあらはれる時である……
  

  あらゆる建築物は空虚は幽霊のやうに立ち、
  四辻には人影もなく、
  荒涼たる風が白く引裂かれたやうに空中を走る、
  宮殿も議事堂も、
  官街も株式取引所も、
  閴(げき)として声ない寂寞に眠る、
  いま都会はそのあらゆる繫栄と光輝を失つて、
  遠い伝統と歴史を逆流した一個の虚しい広野となる。

 この「吠える犬」は大正時代の詩人たちのアンソロジー『山村慕鳥・福士幸次郎・千家元麿・百田宗治・佐藤惣之助』( 『日本の詩歌』13 、中央公論社)や『近代詩集Ⅱ』(『日本近代文学大系』54、角川書店)などにも収録されていないので、すこしばかり長い引用を試みてみた。『近代出版史探索Ⅶ』1352において、宮嶋資夫の関東大震災と大杉栄たちの虐殺、それらに伴う彼の「遍歴」を見てきている。百田も「五月祭(メーデー)の朝」(『百田宗治詩集』所収)を書き、民衆詩の先端を担っていたことからすれば、この「吠える犬」はその時代の百田の心象風家に他ならないと見なすこともできよう。もちろん本探索の萩原朔太郎『月に吠える』の影響も考えられる。

   (『月に吠える』)

 とりわけ夜の底で犬たちが吠え、それが「高く低く、あらゆる町と平原をつらぬいてこだましてゆく、/凍りついた片眼の新月の方にむかつて」というセンテンスは、そのまま『静かなる時』の表紙と装幀とコレスポンダンスして、それを表象している。この時代にあって、詩は想像する以上に強いインパクトを秘め、伝播していったと考えられるし、大正が詩の時代であったことも大きく影響しているのだろう。

 それは『静かなる時』の巻末広告にも顕著であり、詩話会編『明治大正詩選』第七版出来の広告とともに、新潮社刊行の詩集、及び「現代詩人叢書」の「文字通り飛ぶが如き売行」も謳われている。百田の詩集も含まれているので、それらをリストアップしてみる。

1 野口米次郎 『沈黙の血汐』
2 西條八十 『蝋人形』
3 川路柳紅 『預言』
4 室生犀星 『田舎の花』
5 佐藤惣之助 『季節の馬車』
6 三木露風 『青き樹かげ』
7 千家元麿 『炎天』
8 生田春月 『澄める青空』
9 百田宗治 『風車』
10 日夏耿之介 『古風な月』
11 白鳥省吾 『愛慕』
12 野口雨情 『沙上の夢』
13 堀口大学 『遠き薔薇』
14 萩原朔太郎 『蝶を病む』
15 福田正夫 『耕人の手』
16 正富汪洋 『世界の民衆に』
17 深尾須磨子 『斑猫』
18 大藤治郎 『西欧を行く』
19 多田不二 『夜の一部』
20 金子光晴 『水の流浪』

 

 このように挙げてはみたものの、残念ながら一冊も入手していない。それは菊半截判並製、一六〇ページ前後の小さくて薄い本であり、これまで古本屋で見かけなかったことにもよっている。それに多くが既刊詩集よりのアンソロジーということもあり、それぞれの全集にもそのままの収録を見ていない。だが紅野敏郎『大正期の文芸叢書』には立項も解題も示されているので、それらのアウトラインはつかむことができる。紅野は百田の『風車』の「序」を引き、大正九年から十一年にかけて書いた詩と二冊の別の詩集に編み、『風車』と『吠える犬』にとして刊行する予定だったとの言を示している。

大正期の文芸叢書  

 それから三年遅れ、『静かなる時』として刊行されたことになる。もちろん関東大震災によるゲラの灰燼化もあるにしても、そこには多くの事情が絡んでいたにちがいない。それは『吠える犬』から『静かなる時』へとタイトルが変更されたことにも象徴されているだろう。


 [関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら