出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

出版状況クロニクル185(2023年9月1日~9月30日)

23年8月の書籍雑誌推定販売金額は711億円で、前年比11.3%減。
書籍は378億円で、同10.6%減。
雑誌は333億円で、同12.0%減。
雑誌の内訳は月刊誌が277億円で、同12.0%減、週刊誌は55億円で、同12.0%減。
返品率は書籍が40.2%、雑誌が44.4%で、月刊誌は43.7%、週刊誌は47.6%。
推定販売金額は23年4月の12.8%に続く二ケタマイナスで、書店売上の低迷はいずれも40%を超える高返品率となって表われている。
23年も残すところ3ヵ月となっているが、このように販売金額も推移していけば、かつてない最悪の数字とデータを招来することになろう。


1.『日経MJ』(9/6)の2022年度「卸売業調査」が出された。
 そのうちの「書籍・CD・ビデオ部門」を示す。

■書籍・CD・ビデオ卸売業調査
順位社名売上高
(百万円)
伸び率
(%)
営業利益
(百万円)
伸び率
(%)
経常利益
(百万円)
伸び率
(%)
税引後
利益
(百万円)
粗利益率
(%)
主商品
1日版グループ
ホールディングス
444,001▲12.1▲417▲158▲21813.4書籍
2トーハン402,550▲6.0238▲81.4351▲70.231214.7書籍
3図書館流通
センター
52,3402.51,809▲15.52,044▲9.81,18518.0書籍
4日教販26,87639238728710.5書籍
10楽天ブックス3,917▲91.8書籍
11春うららかな書房2,561▲3.04014.314▲56.3931.5書籍
MPD139,238▲6.3▲444▲434▲6283.4書籍


 前年の本クロニクル173で、取次状況はTRCの一人勝ちであること、その流通メカニズムは中村文孝との対談『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』を参照してほしいと既述しておいた。
 22年度「経営指標」から見ても、「書籍・CD」は売上高前年比12.1%減と13業種のうちの最悪で、しかもこれで下げ止まりではなく、さらに加速していくだろう。
 日販GHDとMPDの売上高マイナスが本格化するのはこれからであり、前者は4000億円を割りこみ、トップの座をトーハンに譲ることは明らかだ。それとパラレルにMPDもどのように変貌していくのだろうか。
  



2.『新文化』(8/24)が「日販グループ『出版流通』再構築へ」との大見出しで、日販GHD吉川英作社長にインタビューしている。
 これは王子流通センター太田紀行所長への「ESG推進」インタビューとの併載だが、吉川の発言の「共同会社構想」「MPD事業再編」のほうを要約してみる。


日販グループの7つの事業のうちの取次事業と書店事業は赤字だが、その他の5事業は24億円の経常利益を計上している。しかし取次事業の大きな赤字をカバーできていない。
生活者が本を買って読む機会は減り、大量送品、大量返品の時代はすでに終わった中で、祖業である取次事業を復活させたい。
これからは身の丈に合ったサイズで仕事の仕方を変え、取引書店の販売・収益力を最大化させ、書店経営が持続できるように全力で取り組みたいし、出版文化を守っていきたい。
日販、紀伊國屋、CCCの3社共同会社の目的は「書店主導」で粗利益の向上に取り組み、書店を持続可能な業種・業態に再生していくことである。このままでは日本に書店がなくなってしまうからだ。
 そうした強い危機感と日本の書店を守らなくてはいけないという観点から、議論を突き詰め、書店の粗利益率を改善するために、書店主導での改革という結論に至った。
日販、紀伊國屋、CCCの3社の運営書店は1000店に及ぶので、その事業基盤を活かし、具体的な話し合いを行なっている。
新会社は書店と出版社の新たな直仕入れスキームを構築し、返品条件付き買切、粗利益率30%以上となる取引を増やしていく。
 つまり新会社は返品条件付き買切制の仕入れ共同会社となる。従来の委託性流通は日販とMPDが担う。
MPDはカルチュア・エクスペリエンス(CX)と社名変更し、企業体としてCCCのFC事業を統合する。これまでは卸事業とFC事業に分かれ、MPDは流通する商品代、CCCはFCからの手数料を売り上げ計上していたが、それがひとつになる。

 日販、MPD、CCCの三位一体の関係が終わりを迎えている。その始まりは拙著『出版業界の危機と社会構造』(論創社、2007年)において、「CCCと日販」「次世代TSUTAYA三〇〇〇店構想」「日販とCCCによるMPDの立ち上げ」「MPDとTSUTAYAの関係の謎」として言及している。
 そのコアはレンタル、FC、Tポイントであり、それらの失墜が現在の状況を招来させたことになろう。『出版状況クロニクル』シリーズに先行する拙著が読み直されることを切に願う。



3.『朝日新聞](9/3)が「書店主導の出版流通改革狙いは」と題して、紀伊國屋書店の高井昌史会長にインタビューしている。これも要約してみる。

日販、CCC、紀伊國屋の3社傘下書店を合わせると、書店経由の売り上げの20%を占めるし、それだけの規模の書店が直仕入れするようになるかもしれない。
日販は大きな判断をしたと思うし、かつての大量配本、大量返品は非効率で、今は適正な送品で返品を減らすとともに、欠品も防ぐべきだ。
紀伊國屋は在庫の自動補充システムを自社開発したり、出版社に対して積極的に配本指定したりして、返品率を27~28%まで下げてきたし、業界全体でもそこまで抑えたい。
川下の書店が努力して、川上の出版社にとっても利益を生む仕組みを作らなければならない。場合によっては8~9割を委託販売ではなく、買切制にすることも、交渉の中で出てくるだろう。
地域によっては蔦屋書店しかない町もあるし、そういう町でこそ、行政、図書館、学校、家庭と手を組み、本屋をひとつの文化サークルの拠点とし、町おこしのモデルをつくっていきたい。
仕入れで大切なのはAIに全部をまかせるのではなく、書店の現場やバイヤーの力によって、小さな地方出版社の本も含めてチェックし、良い本が店に並ぶようにしなければならない。読者が行きたいと思う本屋をどんどん作っていきたい。

 前回の本クロニクルのCCCの高橋誉則代表兼COOへのインタビューと並んで、日販GHDと紀伊國屋の会長の見解が公表されたことになる。
 3者の共通項を一言でいえば、低正味買切制への移行ということになるだろう。
 しかし返品条件付きにしても、その実現は難しいし、紀伊國屋一社であればともかく、日販傘下書店とCCCのFC書店まで含んでの低正味買切制は絵に描いた餅のようにしか思えない。それを高井会長が承知していないはずもない。
 低正味買切制を実現できるのは1980年代の全盛期のリブロしかなかったし、そのような時期にしてもすでに外してしまったと考えられる。
 それに再販制の問題はクリアできていない。また現在のアマゾンのマーケットプレイスだけでなく、ヤフーやメルカリにおける新刊書籍出品は驚くほどで、すべてが売られているといっても過言ではない。そうした新刊割引商品がすでに確固として存在しているし、その事実も直視しなければならないのだ。



4.CCCは旗艦店「SHIBUYA TSUTAYA」を改装のために、10月1日から一時休業し、インバウンドに対する新施設として、2024年春に再開業する。
 1999年に「SHIBUYA TSUTAYA」はDVDやCDのレンタル業態の旗艦店として開店し、地上2Fから屋上まで11フロアを有し、DVD、CD、雑誌、書籍も販売していた。

 再開業に際して、本クロニクル182でふれた「Tポイント」は三井住友カードの「Vポイント」へと統一され、新業態店舗へと移行するとされている。
 その一方で、TSUTAYAの大型店閉店は続き、8月も6店を数えている。また未来屋、アシーネ、西友内書店などの閉店も10店以上に及び、スーパー系書店もビジネスモデルとしての退場を告げているようだ。
 なお『朝日新聞』(9/24)の「朝日歌壇」に永田和宏選として、次の一首が選ばれていた。

 ぎっしりの本描かれたシャッターに「週休七日」三月書房      (京都府 島多尋子)



5.いささか旧聞になるが、『週刊東洋経済』(6/24)が、「伝説の起業家が見た天国と地獄」というタイトルで、アスキー創業者西和彦へのインタニューを掲載していた。
 それを簡略にたどってみる。

 西は債権者から第三者破産を申し立てられた。その経緯と事情は5年ほど前に出版社のアスペクトの借金の連帯保証がきっかけだった。
 当時の高比良公成社長に経営が悪化したので助けてくれないかといわれ、3億円を出資した。ところがその直後、三菱UFJ銀行がアスペクトへの融資を連帯保証してくれなければ、資金を引き揚げるといってきた。そうなると出資した3億円も消えてしまうので、断腸の思いで連帯保証した。
 アスペクトの高比良はCSK創業者大川功の秘書で、西をつなぎ、アスキーに100億円出資してくれたので、その借りを返すかたちだった。
 だがアスペクトは経営が改善せず、三菱UFJ銀行が債権を金融会社に売り渡し、その金融会社がアスペクトと西に第三者破産を申し立てたのである。
 週刊東洋経済 2023年6/24号[雑誌](富裕層のリアル)  本の世界に生きて五十年―出版人に聞く〈5〉 (出版人に聞く 5)

 これは続報が出てからと考えていたが、9月になるまでアスペクトと西に関する記事は目にしていない。
 アスキーに関しては能勢仁『本の世界に生きて50年』(「出版人に聞く」5)において、西とアスキー時代が語られているが、能勢が退社して、それほど経っていなかったので、詳細な金融や経営事情はインタビューに織りこめなかったことを思い出す。
 それらのことはともかく、この旧聞記事を取り上げたのは最近になって、地方老舗書店の清算事情が伝えられ、第三者破産ということも絡んでいたのではないかと推測されたからだ。
 その老舗書店は地元で知られた資産家で、繁華街の一等地に店があったが、大型書店の出店の失敗もあってか、いつの間にか閉店し、他業種の店舗となっていた。
 どのような経緯があったのか不明だが、伝わってきた話によれば、自宅だけはかろうじて残されたが、その他の資産はすべて失われてしまったという。
 この間には5、6年が過ぎており、大きな負債がある老舗書店の清算のかたちの一端がうかがわれる。銀行、金融会社、取次などが複雑に絡み、清算に至る過程も一筋縄ではいかないことを示していよう。
 おそらく現在の書店はそれらにFC問題や多くのリース契約も抱えながら閉店に至っているはずだ。とすれば、閉店後の清算も困難な道筋をたどっているように思われる。



6.中央社の決算は売上高202億5447万円、前年比2.2%減で、減収減益となった。
 その内訳は雑誌が113億8316万円、同6.3%減、書籍は76億629万円で6.3%増、特品等は10億4057万円、同20.4%減。
 返品率は27.7%で、4年連続30%を下回り、営業利益は3億1894万円、同10.6%減、当期純利益は7645万円、同17.2%減。

 これまでも中央社がコミックに特化し、低返品率で利益を上げてきたことを既述してきたが、減収減益とはいえ、それが顕著である。
 「雑誌扱いのコミックス」は前年比7.6%減だったが、「書籍扱いのコミックス」が増えたことで、書籍部門の売上の伸びにつながっている。
 ただ出版業界の売上全体がコミック次第という状況において、やはり紙のコミックの行方が焦眉の問題であることは中央社にとっても同様だろう。



7.雑誌、書籍の卸売業を手がける広島市のブックス森野屋が自己破産。
 同社は1966年創業で、広島市内のスーパーや量販店に雑誌、書籍を卸し、2000年には年商24億3500万円を計上していた。
 22年には5億1300万円に落ちこみ、業務改善の見通しがたたず、今回の措置となった。
 負債は6億5600万円。

 ブックス森野屋は1960年代末から70年代にかけて、全国各地で簇生した所謂スタンド業者のひとつだと思われる。
 同社の自己破産はスーパーなどの雑誌スタンド販売も、ビジネスモデルとして限界に達していることを示唆していよう。
 こうしたスタンド業者が全国にどれだけあるのか定かではないけれど、同じような状況に追いやられているとみなすべきだ。



8.集英社の決算は売上高2096億8400万円、前年比7.4%増だが、不動産の減損による135億3400万円の特別損失を計上したことで、当期純利益は159億1900万円、同40.7%減の増収減益決算となった。
 売上高内訳は「出版売上」1274億1700万円、同5.6%増、「広告売上」80億2600万円、同6.7%減、「事業収入」742億4000万円、同12.6%増。
 「出版売上」のプラスは当期から「事業収入」に計上していた「デジタル」を出版売上に移管したことによっている。
 その内訳は「雑誌」157億8900万円、同4.9%減、「コミックス」311億9500万円、同8.4%減、「書籍」118億6500万円、同1.1%減、「デジタル」698億1000万円、同15.9%増。
 「事業収入」は「版権」563億1100万円、同18.2%増、「物販等」179億2900万円、同2.0%減。

 「デジタル」と「版権」売上は1261億円におよび、売上高の半分以上に及んでいる。また「雑誌」「コミックス」「書籍」は合わせても587億円で、その半分にも達していない。
 ここに集英社の現在の実像が浮かび上がるし、もはや取次や書店と密接にコラボレーションしてきた姿は失われてしまったことがわかるであろう。



9.光文社の決算は売上高179億6800万円、前年比5.5%増だが、今期も赤字決算。
 総売上高内訳は「製品売上」70億8000万円、同7.8%減、「広告収入」45億1200万円、同8.2%減、「事業収入他」57億7900万円、同26.0%増、「不動産収入」5億9900万円。
 増収は「製品売上」以外の3部門によるもので、「製品売上」の「雑誌」は43億8100万円、同12.2%減、「書籍」は26億9900万円、同0.5%増。
 返品率は前者が47.6%、後者は39.1%で、高止まりしたままである。
 その結果、特別損失は7億3400万円(前年は16億3200万円の損失)、当期純損失は4億9300万円(同12億400万円の損失)。

の小学館系列の集英社の好決算と対照的な講談社系列の光文社の連続赤字決算ということになる。
 それはコミック雑誌の集英社と女性誌の光文社の現在の等身大の姿を伝えていよう。
 それもあってか、43年ぶりに講談社から巴一寿社長が就任し、講談社らグループとの連携、DXを推進が伝えらえている。



10. 『文化通信』(9/19)が「ブロンズ新社代表取締役若月眞知子氏に聞く」というインタビューを掲載している。これも簡略に紹介してみる。

 若月は友人たちと広告プロダクションを設立し、テレビCMや企業PR誌を制作していたが、友人の一人がR書房を引き継ぎ、R書房新社を設立した。その一冊目が柳瀬尚紀訳のルイス・キャロル『シルヴィーとブルーノ』で、翻訳書の編集制作を手伝い、すっかり夢中になってしまった。
 そこで自主企画として、伊丹十三訳のサローヤン『パパ・ユーアクレイジー』、岸田今日子訳『ママ・アイラブユー』を手がけ、R書房新社を発売元として出版すると、とんとん拍子に売れた。
 そこで出版社を立ち上げようとして、新泉社の小汀良久から休眠状態だったブロンズ社を紹介され、1983年にブロンズ新社としてスタートし、今年で40周年になる。
 90年代に初の絵本『らくがき絵本』を刊行し、以後ヨシタケシンスケや かがくいひろしなどの絵本や児童書でヒットさせるに至る。

    らくがき絵本: 五味太郎50%

 これは前半だけの紹介だが、まだ長いので、興味のある読者は『文化通信』に当たってほしい。
 ここでR書房とされているのはれんが書房新社のことであり、ブロンズ社がどうしてブロンズ新社として立ち上げられたかを教えられ、ひとつの出版史のミッシングリンクを了承したことになる。



11.『朝日新聞』(8/31)の「声」欄に、「この夏閉じた50年続けた洋書店」という見出しの「無職 多和田栄治(東京都 90)」の投書が寄せられていた。
 「東京・神保町などで約50年営んだドイツ書専門書店を閉じた」ことに関する一文で、ネット通販と書店文化の衰退に抗えずの閉店が語られている。

 この多和田はドイツ在住の作家多和田葉子の父で、彼は閉店理由として「後継者不在」も挙げているが、父の営むエルベ書店はかたちはちがうにしても、正統的な後継者を世界に送り出したことになる。娘の滞独にしても、エルベ書店を抜きにして語れないであろう。
 エルベ書店の誕生はドメス出版の設立と連鎖していて、それは別のところで語ることにしよう。
 なお私はかつて多和田の『犬婿入り』を論じた「犬婿入りっていうお話もあるのよ」(『郊外の果てへの旅/混住社会論』所収)を書いていることを付記しておく。
犬婿入り (講談社文庫)  郊外の果てへの旅/混住社会論



12.やはり『文化通信』(9/5)で、地方・小出版社流通センターの川上賢一が「わたしの新人時代」としての模索舎体験を語っている。

 それに呼応するかのように、句誌『杉』(7月号)の大原哲夫の「私の編集ノート」連載が「地方・小出版社流通センター」に当てられ、小学館の編集者の大原が同センター発行の情報誌『アクセス』のボランティアとして、編集に携わっていたことを教えられた。
 そこに登場する人々は顔見知りの人たちもいるけれど、実に多くの人たちが地方・小出版社流通センターと書肆アクセス、そして情報誌『アクセス』をひとつのトポスとして参集していたのである。
 本当に『アクセス』を読んでいた時代が思い出されるが、そのような時代はもはや戻ってこないことも実感させられる。



13. 『人文会ニュース』(No.144)が届いた。

 そこで日本評論社の休会を知った。
 未来社が退会したことに続けての休会であり、それぞれの事情の反映と見なせよう。
 なお人文会の「人文会販売の手引き」が8年ぶりに改訂され、人文会のHPからダウンロードできる。
 これも昔のことになってしまうが、1980年代の初版刊行の際に『新文化』で書評したことを思い出す。 
jinbunkai.com



14.宮下志朗『文学のエコロジー』(左右社)が届いた。

  文学のエコロジー (放送大学叢書) ヨーロッパ 本と書店の物語 (平凡社新書)

 この「エコロジー」というタイトルにこめられたタームは文学作品が「いかなるプロセスで成立したのか、また、いかなる環境で流通し、受容されたのかといった問題」に言及していることから選ばれている。
 実は拙著『ヨーロッパ 本と書店の物語』(平凡社新書)もそのことをテーマとしている。
 『文学のエコロジー』で関心を持たれたら、読んでいただければありがたい。



15. 「少女マンガを語る会」全記録としての『少女マンガはどこからきたの?』(青土社)読了。

少女マンガはどこからきたの?: 「少女マンガを語る会」全記録    小学館の学年誌と児童書 (出版人に聞く)

 少女マンガは門外漢なので、非常に教えられることが多かった。
 ただひとつ気になるのは、野上暁『小学館の学年誌と児童書』(「出版人に聞く」18)における証言で、「少女漫画は復刻しても売れない」という事実である。野上は小学館クリエイティブの社長も務めていたから、実感がこもっていたし、それがどうしてなのかわからないとも語っていた。
 その疑問はまだ解かれていない。



16.論創社HP「本を読む」〈92〉は「辰巳ヨシヒロ『劇画暮らし』『劇画漂流』と『影』創刊」です。
 
ronso.co.jp

 『新版図書館逍遥』は発売中。
 『近代出版史探索Ⅶ』は編集中。
 中村文孝との次のコモン論は準備中。
新版 図書館逍遙

古本夜話1440 小早川遊竿編『釣りの四季』

 前回の志村秀太郎『畸人佐藤垢石』によれば、『つり人』の創刊が契機となって、佐藤の名声は上がり、マスコミの売れっ子になっていったようで、それは戦後の釣りブームの一端を教えてくれる。大正の『釣の趣味』や昭和戦前の『水之趣味』は、あくまで一定の読者のためのリトルマガジンでしかなかったけれど、『つり人』はいち早く戦後的マスマガジンの地位に躍り出たと考えられる。

畸人・佐藤垢石      

  そのことを象徴するような一冊があり、それは例によって浜松の時代舎で入手した小早川遊竿編『釣りの四季』で、昭和三十一年に誠文堂新光社から刊行されている。同社は釣り雑誌を出していないにもかかわらず、函入B4判、上製二六〇ページ、定価二五〇〇円の当時としては高定価の趣味本を刊行していたのである。もちろん買い上げ条件付き出版だとしても、時代のトレンドを表象していよう。表裏の両見返しには勧進元が市川遊釣会、行司をたなご、真鮒、へら鮒、はぜとする昭和三十五年度十一回本競技会に基づく「昭和三十六年度壱月発表番付」が使用され、小早川がその顧問だとわかる。そして「自序」において、次のように述べている。

 大正五年頃の隅田川は実に美しかった。川面を渡る清風のもと、川辺に立てば詩を吟じ、絵筆を取れば江戸情緒豊かな風情の表現も即興、青葉の下に鮒の泳ぐのも一幅の南画そのものであった。
 春の一日、小使い一銭でポケットに入り切れないほどの焼きいもを買い、近所でミミズを取って、今の厩橋から安田公園裏までを二時間位で釣り歩くと、二四、五糎位を頭に二十匹位の釣果は楽であった。今考えると、子供ながら天才かなあと思うが、さにあらず、魚がたくさんいたのである。
 しかし、こうして何十年もたくさんの魚を釣り楽しませてもらった釣場は、今は遠い過去の夢になってしまった。現今の隅田川は汚水と化し、何の風情も情緒もなく、ふんぷんたる悪臭は、魚ばかりか付近の住人までも転住させるありさまである。隅田川ばかりではない、東京と千葉県境を流れる江戸川もすでに荒れはじめ、悪水のため下流域の魚貝類の死滅は申すまでもなく、河口で育った稚鮎の逆上まで中断されつつある状態である。

 こうした隅田川に象徴される状況において、「河川の浄化、釣場の保護、釣魚の増殖放流等大きな運動を推進しなければ、次代の釣場は夢と消えうせてしまう」ので、「増殖の一助として、産卵期は釣らず、その季節々々の魚を釣って」の「秘中の秘」を公開してもらうために、小早川は『釣りの四季』を編んだことになる。

 『釣りの四季』の刊行は六十年以上前であり、小早川を含め、寄稿者たちはすべてが鬼籍に入り、釣り人としての名前も忘れ去られていると思われるので、それらの人々の受持ち月と釣魚を挙げておこう。

1月 タナゴ釣り 安食梅吉
2月 寒鮒釣り 一之江鮒夫
3月 巣離れ鮒釣り 関沢潤一郎
4月 ハヤ釣り 安芸楽竿坊
  乗込み鮒釣り 高崎武雄  
  ヤマベ餌釣り 若井金吾
5月 青キス釣り 小早川遊竿
6月 ヤマベ蚊鈎釣り 岸田忘筌
  鮎のドブ釣り 福田紫汀
  ヘラ鮒釣り 叶九隻
  白キス釣り 八木幸吉
7月 鮎の友釣り 吉岡愛竿
8月 渓流釣り 鈴木魚心
9月 ハゼ釣り 小早川遊竿
  ヘラ鮒釣り 米森魚衣
10月 ボラ釣り 小早川遊竿
11月 磯釣り 敏蔭敬三
12月 落鮒釣り 関沢潤一郎

 この中のどれを紹介しようか迷ったのだが、私が馴染み深いのは2月の寒鮒釣りであり、やはり昭和三十年代に寒鮒釣りにでかけたものだった。稲刈りが終わって農閑期になると、近くの池が釣り人でにぎわい始めた。といいっても多くが集っていたわけでなく、夏の間には人がいなかったから余計にそう思われただけだ。

 「寒鮒釣り」の一之江には「寒鮒の狙場」として、九つの図を示しているけれど、私の池もそれらのいくつかと共通するものがある。また彼は寒鮒釣りの三枚の写真を示し、そのうちの二枚は佐原向地の篠崎新田蒲割川とされているが、私が釣りにいっていた池も周囲には田の風景が広がり、昭和三十年代には同様の風景が日本のどこにでもあったことを伝えていよう。井伏鱒二ではないけれど、私も不器用な釣り人だったので大物を釣った記憶は残されていない。しかしあのモノクロームの風景が数年しか続かなかったことだけは覚えている。そこに土地改良などの開発の風景が始まりつつあったからだ。私はそれらに関連して、「井伏鱒二『川釣り』と『座頭市物語』」(『古本屋散策』所収)を書いているので、よろしければ参照されたい。

古本屋散策

 そういえば、『釣りの四季』の出版と併走するように、誠文堂新光社の小川菊松が『出版興亡五十年』を刊行したのは昭和二十八年、自死したのは三十七年であった。

 


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1439 佐藤垢石、竹内順三郎『渓流の釣り』

 アテネ書房の復刻には見えていなかったので、前回は佐藤垢石、竹内順三郎共著『渓流の釣り』を取り上げなかった。だが同書は箱入菊半裁判上製三八五ページの一冊で、昭和十年に麹町区丸ノ内の啓成社から刊行され、発行兼印刷者はその代表者の布津純一となっている。また奥付裏には「月刊釣魚界の最高機関雑誌」として『水之趣味』の一ページ広告が掲載され、昭和時代の『釣の趣味』と見なしていいように思われる。それに水之趣味社と啓成社は住所が同一であり、同じだと推測される。

  (『釣の趣味』アテネ書房復刻)

 『渓流の釣り』は口絵写真八ページから始まり、竹内の「はしがき」へと続いている。それによれば、佐藤と渓流魚の話をしているうちに、佐藤が餌釣り、竹内が毛鉤釣りを書こうということになって、次に会ったときにはお互いに書き終わっていた。そこで「折柄渓魚釣りの好季、同好の士にとつていくばくかの参考になれば」と考え、ここに上梓の運びになったと。なお写真は竹内が自らのカメラに収めたもので、装幀は釣人画家太田黙州によっているという。山吹色の布地装に渓流と岩と木々を描き、確かに「釣人画家」らしき味わいを感じさせてくれる。

 その内容はまさしく佐藤の「餌釣り」と竹内の「毛鉤釣り」で構成され、それに二人の「紀行と随筆」が付け加えられ、「渓流の釣り」の快楽が伝わる仕掛けになっている。ここでは「紀行と随筆」から、佐藤の「新秋の渓谷」を紹介してみよう。佐藤は井伏鱒二たちと甲州の木谷川に岩魚と山女魚釣りに出かける。その餌は川虫なので、それを川で捕る「井伏君の姿は、白豚がはひ廻つて居るやうに見える。ムクムクとふとつたお尻を宙に立てて、ノミ取まなこである。漫画人に見せたらと思ふ」と、『川釣り』(岩波新書)の井伏も形なしだが、佐藤は岩魚に関しても書いている。


 岩魚は峡谷の女神であらう。薄藍の鱗の底から、オランダ皿に似た淡い紫の色がうき出して光る。体側を飾る水玉のやうな斑点は何と清麗な造化の神の贈りものだらう。五寸から大きいのは、一尺以上になる。味は素敵である。磧に朽ち落ちた枯木を焚いて、ハゼの木に刺し塩にまぶして焼いた趣は、峡谷の釣に親しむ人でなければ味はへないであらう。

 渓流の岩魚の姿の描写は絵画的であり、佐藤が凡庸な釣人でないことを示している。それにその岩魚を佐藤は釣って、井伏たちに食べさせなければならないのである。佐藤とその著書については拙稿「大泉書店の『旅のいざない』『釣百科』」(『古本屋散策』所収)において、松崎明治著、佐藤垢石補『釣百科』と佐藤の『魚の釣り方』にふれている。その際には志村秀太郎『畸人佐藤垢石』(講談社、昭和五十三年)を読んでいたけれど、佐藤のプロフィルは紹介しておかなったので、『日本近代文学大事典』から引いてみる。

釣百科 (1951年)  (『 魚の釣り方』)畸人・佐藤垢石

 佐藤垢石 さとうこうせき 明治二一・六・一八~昭和三一・七・四(1888~1956)随筆家。前橋の生れ。本名亀吉。親類の農佐藤家の養子。前橋中学四年のとき、校長排斥のストライキを指導し、退校処分。東京の郁文館中学に転じ、早大英文科中退。明治四二年、前橋中学の先輩で報知記者(民謡詩人)、平井晩村の紹介で報知入社。四五年の「ホトトギス」新年号に『美音会(びおんかひ)』掲載。各支局を回り、昭和三年、前橋支局長で退職。酒豪で猥談家。釣に熱中。九年、報知つり欄嘱託。名人の域に達し、『鮎の友釣』(昭和九・七 万有社)出版。『中央公論』などに、飄逸な随筆を発表。(中略)墨水書房からベストセラー『たぬき汁』(昭和一六・九)を出版、第一回日本出版文化協会推薦図書。戦中末期、群馬県農業会嘱託。二一年七月、北浦和で月刊「つり人」創刊。(後略)

 この他にも佐藤が前橋中学で萩原朔太郎と同学年、若山牧水とも酒友だったことを付け加えておこう。

 先の志村は戦前にベストセラーだった『たぬき汁』を読み、戦後になって星書房で、後のつり人社で『続たぬき汁』を刊行し、『つり人』創刊にあたって、その編集に携わることになったのである。もちろん主幹は佐藤だったが、『つり人』の好調な売れ行きと相反して経営は困難で、食える給料ではなく、志村は退職してしまう。それは経営者の川石正男も同様だった。彼は後に山海堂の社長になったという。その後佐藤が社長に就任したが、勤まるはずもなく、結局のところ、元国民新聞記者で、『渓流の釣り』共著者が引き受け、経営を立て直したとされる。それらを描いて「猥談家」の本領を発揮するシーンも挿入されているのだが、これには言及しないでおこう。

  (『続たぬき汁』) 


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古本夜話1438 大橋青湖と『釣の趣味』

 前回アテネ書房の「『日本の釣』集成」に言及したのは久しぶりであり、それに関連して三編ほど続けてみたい。

(「『日本の釣』集成」)

 大正は趣味の時代であり、釣もそのひとつに数えられるし、そのことを象徴するように、『釣の趣味』という雑誌も創刊されている。それは編輯兼発行人を大橋邦之介として、大正八年八月に釣の趣味社から発行されたのだが、十二月号で廃刊となり、わずか五冊出しただけで終わってしまった。釣の時代の到来とはいえ、雑誌読者層の形成は難しく、まだ時期尚早だったことになろう。

 この短命に終わった雑誌は幸いにして、アテネ書房で合本復刻され、創刊号のカラー表紙にはFISHIING TESTと英語タイトルも添えられ、アメリカ人らしき夫婦とその家が描かれている。それらを考えれば、『釣の趣味』は同様の欧米の雑誌を範と仰ぎ、創刊されたように思える。ただ大正時代の趣味雑誌は復刻されたことによって手に取れたのであり、そうでなければ、出会えなかったであろう。

(『釣の趣味』アテネ書房復刻)

 創刊の辞にあたる「釣遊楽の真趣味鼓吹」を寄せているのは大橋邦之介で、後に秀湖、青湖を名乗ることになるのだが、まずはその言に耳を傾けてみよう。ルビは省略する。

 釣魚遊は、郊外水辺で無ければ得がたいこと、これ亦遊楽として最良条件を具備して居る、潮風に吹かれ川風に撫でられながら、朝陰夕暉に対して其技を楽む、真に神仙遊とも謂ふべきである、時の古今を問はず、地の東西を論ぜず、此の遊楽に没頭するものゝ多き、素より恠むに足らないのである。
 他の釣客の研究を聞て、自家の釣技上に裨益を与ふること有らば如何、自家の楽趣を披瀝して他の楽趣を分たば如何、数多の同趣味者、多階級の同趣味者、相親み相近づいて、益々其釣趣を饒多ならしめたならば、これ即ち人類界の幸福増進策の一ではあるまいか 予ら同人が微力を顧みずして、本誌が発刊するもこの目的以外に出でざるのである。

 階級を横断する「趣味の共同体」の夢が語られている。『近代出版史探索Ⅵ』1130の石井研堂を始めとする二十人近い寄稿者たちもその夢に賛同し、創刊に際して馳せ参じたのかもしれないし、それは関東大震災以前の大正デモクラシーのひとつの反映だったのではないだろうか。それに大橋の定かなプロフィルは判明していないけれど、その名前からして博文館の大橋一族の一人とされているので、雑誌への思い入れは強かったはずだ。その証左として、B6判、六十余ページの『釣の趣味』には東京堂、博文館、博文館印刷所のそれぞれの一ページ広告、奥付に見られる六大取次の配置、これも一ページを占める釣竿、釣道具店が一堂に会した発刊祝儀広告とそれらの特約販売は広告と取次も含め、バックに有力な営業担当者名が控えていることを示唆していよう。

 創刊号もさることながら、私にとって興味深かったのは第二号で、幸田露伴(談)の「釣の極意は唯一句」、秋風生「徳川慶喜公の釣」、国木田治子「独歩の釣竿」は初めて読んだ。「独歩の釣竿」にだけにふれるが、独歩は釣り好きで、石井研堂や『近代出版史探索Ⅴ』805の小杉未醒と釣友達でもあったこと、及び病床でも釣竿と弄び、遺言はその釣竿を片見として石井にというものだったことを知った。かつて治子の小説『破産』を参照し、「出版者としての国木田独歩」(『古本探究Ⅲ』所収)を書いているが、ここで釣り好きの独歩を教えられたことになる。露伴にしても治子にしても、聞き書きであり、この第二号の編集は石井によると思われる。

古本探究〈3〉

 ところが五冊出したところの十二月号で、「本誌、江潮同好諸君の愛顧に背くは遺憾の至りなれど、本号に限り廃刊し、又機を見て再び諸君と相見ることもあるべし」といい、「本誌廃刊」を告知する。かくして「日本最初の釣魚雑誌」は廃刊へと追いやられたのである。しかし皮肉なことに、アテネ書房の復刻を確認すると、釣の名著は昭和に入って多くが出版されていったと見なせよう。それは大橋青湖もしかりで、『釣魚夜話』(第一書房)、『襍筆 釣魚譜』(博文館、いずれも昭和十八年)が挙げられる。

 (『襍筆 釣魚譜』)

 前回の上田尚の『釣魚大全』(洋々社、昭和五年)、『釣の趣味』に出てくる松岡文太郎の正続『釣狂五十年』(いずれも青野文魁堂、同八年)、釣書の第一人者となった佐藤垢石の『鮎の友釣』(万有社、同九年)、『釣の本』(改造社、同十三年)、『釣趣戯書』(三省堂、同十九年)も同様である。それこそ石井研堂の『釣遊秘術 釣師気質』(博文館、明治三十九年)は例外としても、大正八年の『釣の趣味』には出版広告として、高橋清三『釣魚独案内』(東文堂)、渡辺義方『釣師必携釣遊案内』(水産社)、岸上鎌吉『趣味の魚』(日新聞)の三冊しか見えていなかったことに比べれば、本当に時代が変わったと実感される。それは時代の出版トレンドを表象しているように思われる。
   
   


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古本夜話1437 上田尚と洋々社『釣魚大全』

 前回の文化生活研究会の著書や実用書は昭和を迎えると、円本企画へとも結実していったのである。それを体現したのは『釣の呼吸』や『釣り方図解』の上田尚に他ならない。

 私はかつて「川漁師とアテネ書房の「『日本の釣』集成」(『古本探究』所収)を書き、アテネ書房という直販出版社の経営者だった山縣淳男にインタビューした上で、昭和五十四年刊行の復刻「『日本の釣』集成」に言及したことがあった。その際に大正から昭和戦前にかけての釣の古典ともいうべき全二十巻のリストも挙げておいた。

古本探究   (「『日本の釣』集成」)

 そこにも上田の『釣竿かついで』(富士書房発行、春陽堂発売、昭和四年)の一冊も含まれていた。またその第二十巻『解題 日本の釣集成』における金森直治「《釣り文献》刊行目録―明治から終戦時までの略年譜」によれば、上田は『釣の研究』(警醒社、大正十年)から始まり、前掲の『釣の呼吸』を刊行して以来、文化生活研究会との関係が深まったようで、『釣り方図解』だけでも八冊刊行し、大正時代の著者として第一人者の趣を伝えている。昭和に入ると、上田に続くのが『近代出版史探索Ⅵ』1154の「アカギ叢書」の訳編者村上静人であるのだが、これは『同Ⅱ』331の安谷寛一とも絡むので、稿をあらためることにしよう。

 (『釣竿かついで』)

 実はかなり前に浜松の典昭堂で、上田の『釣魚大全』第九巻の一冊だけを拾っている。これは昭和五年に洋々社から刊行されたもので、四六判上製の文化趣味にふさわしいシックな装幀である。その「くろだい(チヌ)釣」のところを拾い読みしてみると、次のような一節に出会う。
   

 鯛のうるはしさもなく、スズキほどくひ込みのよい魚でもなく、それでゐて、魔性の女と知りつゝ、つひ深入りして、手も足もでないやうに翻弄されるやうな思ひをしながら、さてこの魚を釣りかけると、もう頭にこびりついて、釣損ねると意地づくでも出かけたくなり、大きなのがまぐれ当たると、一層熱が高くなつてかけ出す。なぜ斯うもチヌ釣が面白いのか。

 このような語り口で、くろだい(チヌ)ばかりか、他の魚も俎上に載せられ、縦横に論じられ、それが上田をして釣書の分野でも第一人者たらしめた要因だと思われる。同書を入手したことで、著者の上田の住所が神戸市熊内町、版元の洋々社が大阪市北区絹笠町にあり、発行人が井上信明だと初めて知ったのである。その事実を知って、やはり神戸出身の淀川長治を連想し、上田が釣における淀長に当たるのではないか、また各種人名事典に立項が見当たらない理由なのではないかと思い至ったのである。

 また洋々社や井上の方も『近代出版史探索Ⅱ』の279、280の脇阪要太郎『大阪出版六十年のあゆみ』や湯川松次郎『上方の出版と文化』には見つけられず、これも何らかの事情が潜んでいるように思われるし、大阪において、『釣魚大全』という円本に類する全集を刊行したこととも関係しているはずだ。この『釣魚大全』『全集叢書総覧新訂版』に全十二巻の刊行が掲載されているし、先の「《釣り文献》刊行目録」に一冊ずつたどられているので、それをリストアップしてみる。
全集叢書総覧 (1983年)

 1 『釣百味』
 2 『釣百味』
 3 『川魚之釣』(鮎、ワカサギ、イワナ、ヤマメ)
 4 『川魚之釣』(こひ、にごい、まぶな、ひがい、いとを、もろこ、へらぶな)
 5 『川魚之釣』(なまづ、うぐひ、はす、はや、他数種)
 6 『海魚之釣』(はぜ、きす、べら、めばる、他二十余種)
 7 『海魚之釣』(たい、あぢ、さば、たこ、いか、ぼら、いしかれい、ひらめ、他数種)
 8 『海魚之釣』(すゝき、いしだい、えそ、いさぎ、他数種)
 9 『海魚之釣』(くろだい(チヌ)、さはら、ぶり、他数種)
 10 『海魚之釣』(まぐろ、かつを、しいら、他数種)
 11 『婦人子供の釣 釣の手引』
 12 『冬の釣及び釣百味』

 まさに釣の趣味の集成としての『釣魚大全』で、アテネ書房の「『日本の釣』集成」に半世紀先行する企画だったように思える。ただやはり気になるのは、この定価三円の『釣魚大全』が釣の実用書ではあるのだが、幻の歴史や考現学なども含んだ文化史の側面も付帯し、それなりの読者を得たのかということである。私が入手した一冊は「静岡県立水産試験場」の印が打たれているので、明らかにその廃棄本であることからすれば、『釣魚大全』は出版社・取次・書店という近代出版流通システムによるものではなく、これも『近代出版史探索Ⅵ』1173の書籍専門取次と外交販売によっていたとも考えられる。実際に「『日本の釣』集成」にしても、それに類したルートで二千セットを完売していた。

 そのように考えてみると、昭和二十八年に財団法人開国百年記念文化事業会の『明治文化史』全十四巻が、こちらは東京の洋々社で発行者は梅田道之として刊行されている。この『明治文化史』も洋々社のそうした外交販売ルートを主として企画されたのではないだろうか。


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