出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1120 正宗敦夫と『日本古典全集』

 『世界名著大事典』第六巻の「全集・双書目録」を繰っていると、『日本古典全集』も見つかり、それによって初めてまとまった大部の明細リストを目にすることができた。ただそれは一ページ半に及ぶので、挙げられないし、またこの全集の揃いは古本屋でも見たことがないので、まずはその俯瞰的な解題を引いてみる。

世界名著大事典〈第6巻〉マラーワン (1961年) f:id:OdaMitsuo:20210118180150j:plain:h110 f:id:OdaMitsuo:20210119173246j:plain:h110(『日本古典全集』)

 日本古典全集(223種、264冊、1926~44)正宗敦夫ほか編集、校訂。国文学、史書を主とし、辞書、遊芸、医書など広範囲にわたり、6期に分けて刊行。間々異文を校合し、各巻ごとに創意に富む解題を付している。第1期48種50冊、第2期72種50冊、第3期25種50冊、第4期44種25冊、第5期20種37冊、第6期14種52冊。ただし第6期は50冊の予定が中絶したものである。古典全集刊行会刊。

 この中で九冊刊行の『狩谷掖斎全集』第一、二、三、五、七巻の五冊を入手している。それは二十年ほど前になるが、梅谷文夫『狩谷棭斎』(吉川弘文館)を読んだ直後に、古書目録で見つけ、購入したのである。あらためて先の「同目録」と照合してみると、それらは大正十四年から昭和三年にかけての第1期と第2期に当たるもので、文庫という判型は変わっていないけれど、赤い表紙の装幀は異なっている。そのことも含め、言及してみる。ただ狩谷に関しては差し控える。

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 私はかつて「正宗敦夫の出版事業」(『古本屋散策』所収)で、この全集ではなく、「歌文珍書保存会本」の別巻と見なせる井上通泰『万葉集新考』を取り上げている。これは昭和三年にやはり国民図書から全八巻で再刊されているようだ。それはともかく、ここであらためて、『日本近代文学大事典』における正宗の立項を引いてみる。

古本屋散策

 正宗敦夫 まさむね・あつお 明治一四・一一・一五(戸籍上は三〇日)~昭和三三・一一・一二(1881~1958)歌人、国文学者。岡山県生れ。正宗白鳥の弟。高等小学校卒業後、上京して井上通泰に歌を学ぶ。旧派風で寡作、わずかに歌集『鶏肋』(大四・一私家版)と、それ以後の作を合わせた正宗甫一編『正宗敦夫歌集』(「清心国文」昭三四・三 二号所載)がある。歌文珍書保存会、日本古典全集会など、古典籍普及の事業に尽くし、また『万葉集総索引』(昭四~六)や遺著『金葉和歌集講義』などの労作がある。(後略)

 このように「古典籍普及の事業に尽くし」たとして立項されているとともに、歌人の吉崎志保子が『正宗敦夫の世界』(私家版、平成元年)を刊行し、そこに「日本古典全集の刊行」由来を記している。また兄の白鳥も『人間嫌ひ』(『正宗白鳥全集』第四巻所収、新潮社)で、弟とこの全集にふれ、吉崎もこの小説に言及しているので、それらを参照し、『日本古典全集』の経緯と事情をたどってみたい。

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 大正十年に与謝野寛は第二次『明星』を発刊するが、そこに正宗は短歌やエッセイを寄せ、歌会に参加する。そうして与謝野夫妻と親交し、その過程で、寛による西洋の文庫を範とした『日本古典全集』の企画が持ち上がったようだ。吉崎によれば、同十四年九月の『明星』に、与謝野夫妻と正宗を編纂、校訂者として、『日本古典全集』刊行趣旨が掲載され、「我国のあらゆる古典中より、一般文化人として、専門の学徒として、必読すべき代表的の書物全部を選択し」、「原書五百種、本書一千冊」を刊行予定とするものだった。

 前述した『狩谷掖斎全集』第一巻の『校本日本霊異記』は確かに編纂校訂者として三人の名前が並び、大正十四年十一月刊行ので、初期配本に位置づけられよう。奥付は「非売品」とあるので、『日本古典全集』が円本と同じ予約出版で流通販売されたとわかる。発行者は長島豊次郎、発行所は日本古典全集刊行会で、住所はいずれも東京府北豊島郡長崎村となっている。また印刷所の新樹製版印刷所、印刷者の高瀬清吉の住所も同じので、長島と高瀬は与謝野と『明星』の関係者のように思われる。

校本日本靈異記他 (覆刻日本古典全集) (『校本日本霊異記』、現代思潮新社覆刻)

 検印のところに押されているのは読み取れないだが、「万という単位で印税が入」り、「与謝野夫妻は印税の前借の形で金を借り、荻窪に洋風の邸宅を新築」と吉崎が記していることからすれば、与謝野の印だと考えられる。吉崎の記述は白鳥の『人間嫌ひ』に基づいているのだが、これは戦後の作品もあり、白鳥の思い込みよるもの、もしくは彼女の記す出版史から判断すると、このような印税に関する言及も、どこまで信憑性があるのか、少しばかり疑問も生じてしまう。だが第1期、第2期までの七一冊までは三人の共編で出し、それ以後
正宗が一人で編纂したというのは事実だと思われる。それはつまり与謝野夫妻が煩雑な出版実務と編纂の手を引いたこと、及び出版者の問題もあったとされる。

f:id:OdaMitsuo:20210119171148j:plain(『日本古典全集』第1期)

 それは昭和二年と三年の『狩谷掖斎全集』第五巻、第七巻も顕著で、前者は三人の編纂だが、同じ検印があり、発行者は麹町区永楽町丸ノ内ビル内の株式会社日本古典全集会と関戸信次、後者は正宗一人、検印はなくなり、発行者も再び長島と日本古典全集刊行会に戻っている。そこに推測できるのは白鳥が書いているように、初期の成功を受け、寛が派手にやろうとして、小林一三などにも出資を仰ぎ、株式会社化したのだが、会社と寛の間が決裂し、破綻してしまったという事実である。そのことで、『日本古典全集』の仕事は正宗が一人で負うことになったのである。

 なお『日本古典全集』『世界名著大事典』では264冊だが、『正宗敦夫の世界』では266冊、『全集叢書総覧新訂版』では263冊とされていることを付記しておく。

全集叢書総覧 (1983年) 


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古本夜話1119 原田三夫と『誰にもわかる科学全集』

 三回続けて中塚栄次郎と国民図書の外交販売を主とする「大系」や「全集」をたどってきたけれど、その流通販売のアウトラインはつかめても、実際の売上、つまりどれほどの成功であったかは不明である。ただ現実的にはすべてが成功したわけでもなく、それは『校註日本文学大系』などの続巻刊行計画が実現しなかったことにもうかがわれる。しかし中塚だけでなく、国民図書の社員の証言にも出会えないので確認できていない。

 だがそれらの「大系」や「全集」とは異なる科学物においては失敗し、そのことと中塚の個人的事情が重なり、出版業界から退場するひとつの要因になったと思われる。それを証言しているのは原田三夫で、彼は意外なことに『出版人物事典』に立項が見つかる。

出版人物事典―明治-平成物故出版人

 [原田三夫 はらだ・みつお]一八九〇~一九七七(明治二三~昭和五二)『子供の科学』『科学画報』編集長。愛知県生れ。東大理学部卒。中学教諭、北大講師などを経て一九二三年(大正一二)四月新光社(のちの誠文堂新光社)の『科学画報』の創刊にかかわり、ついで二四年月、同社の『子供の科学』創刊に際し、初代編集長主幹となった。『子供の科学』は当時、全盛を誇っていた『少年倶楽部』に迫る勢いで部数を伸ばした。創刊以来今日まで七〇年余の誌歴をもち、高年者で同誌を懐かしむ人も多い。戦後は日本宇宙旅行協会会長などをつとめ、啓蒙科学書を多く出版した。

 私も原田に関して、「原田三夫の『思い出の七十年』」、彼と中塚の関係については「中塚栄次郎と国民図書株式会社」(いずれも『古本探究Ⅱ』所収)を書いている。だがその際にはこのように原田が『出版人物事典』に立項されているとは思っておらず、その自伝『思い出の七十年』(誠文堂新光社、昭和四十一年)を参照していたのである。

古本探究 2  f:id:OdaMitsuo:20210118144828j:plain:h110

 この原田の自伝を読むと、彼がまさに科学ジャーナリスト、科学啓蒙家を兼ねた編集者にして著者であり、その軌跡は彼が科学啓蒙書や雑誌とともに歩んできたことを示している。その視座から見ると、戦前が紛れもない科学の時代で、そのような科学に対する関心や知識が根づいていたことによって、戦後の日本の技術立国としての復興が可能であったのではないかとも考えられる。また手塚治虫の『鉄腕アトム』や横山光輝の『鉄人28号』もその表象なのではないだろうか。それに『ロボット三等兵』の漫画家前谷惟光の父親は原田であるのだ。

鉄腕アトム(1) (手塚治虫文庫全集) 鉄人28号BOX (4) 貸本版 ロボット三等兵【上】 (マンガショップシリーズ 177)

 ところで『近代出版史探索Ⅴ』840の誠文堂新光社「僕らの科学文庫」シリーズも、そうした原田の影響下に企画されたのであろう。近代出版史において、科学啓蒙書や雑誌に照明が当てられることは少ないが、『思い出の七十年』はそれらも出版の重要な分野だったことを教えてくれるし、小川菊松や誠文堂新光社の成功も、原田を抜きにして語れない。それゆえに『出版人物事典』にも立項されたと考えられる。

近代出版史探索V

 さてこの原田が中塚の依頼を受け、昭和二年に「最新科学講座」全十五巻を編集する。これは未見だが、科学書としては類のない大宣伝、高級印刷で、初版六千部はたちまち売り切れ、原田の印税は当時の『子供の科学』編集長の収入を上回るものだった。ところがこれが原因で、原田は小川から絶交状を送られ、『子供の科学』とも縁を切ることになってしまったのである。しかし中塚との関係はまだ続き、昭和四年に別の企画に取り組むことになる。それを『思い出の七十年』から引いてみる。

 「最新科学講座」で成功した国民図書も、当時全盛を極めた円本として、私の書きおろしの「誰にもわかる科学全集」全十二巻を企画した。準備期間がなかったため、私は毎月一巻分数百枚を書き上げなければならなかった。(中略)これは六月から刊行されたが、初めの二、三巻は二万部ぐらい出た。しかし社長の中塚が政治運動にのりだしたため資金難に陥り、あとの巻はかろうじて刊行されることになり、印税が滞って私を困らせた。

 この『誰にもわかる科学全集』を一冊だけ拾っていること、及び「かろうじて刊行され」たこともあってか、『全集叢書総覧新訂版』にも挙げられていないので、その明細を示しておこう。

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 1『物理化学の驚異』
 2『空の神秘』
 3『地球の今昔』
 4『日常気象学』
 5『生命の不思議』
 6『草木の世界』
 7『蟲魚禽獣』
 8『常識医学』
 9『最新発明ローマンス』
 10『化学工業の進歩』
 11『都会の科学』
 12『電気とラヂオ』

 入手したのは6の『草木の世界』で、定価一円の円本に他ならないけれど、B6判上製、函入、二八五ページ、写真や図版も多く配置され、原田の仕事の手堅さが健在だとわかる。これを毎月一冊書き上げるのは大変だと思われるが、困難の中でも「科学」への使命感を捨てることはなかったのであろう。ただ「かろうじて刊行され」つつあったからか、目次に示された大サボテンと高山植物の「原色版」が抜けていて、「次回配本に挿入する」ので、それを「本巻にお貼込下さい」という原田の名刺大の「お断わり」がはさみこまれている。最終的に印税のほうはどうなったのだろうか。


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古本夜話1118 時事新報社『福澤全集』と国民図書

 国民図書株式会社の全集類については、拙稿「中塚栄次郎と国民図書株式会社」の他に、『近代出版史探索Ⅲ』551で『現代戯曲全集』、本探索1019で『泡鳴全集』、前々回と前回で『校註日本文学大系』『校註国歌大系』を取り上げてきた。そこでもうひとつの『福澤全集』にもふれておきたい。

f:id:OdaMitsuo:20200303211530j:plain:h110(『現代戯曲全集』)f:id:OdaMitsuo:20200410112527j:plain:h110(『泡鳴全集』) 近代出版史探索III

 この『福澤全集』は大正十四年から「非売品」として全十巻が刊行されている。各巻は五円となっているけれど、やはり昭和円本時代を迎える中で企画された国民図書ならではの予約出版、外交販売商品と見なしていい。それは小川菊松が『出版興亡五十年』において、『福澤全集』は四十万部の内容見本を作り、有力な名簿をもとに発送したと証言していることでも明らかだ。

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 また私の入手した『福澤全集』は第一、三、八巻の三冊だが、ある高等女学校図書館の廃棄本で、それがラベルと蔵書印からわかる。おそらくこの図書館も内容見本を送られ、外交販売ルートで購入し、蔵書としたのではないだろうか。この『福澤全集』はは菊判上製・函入、天金七百ページ前後、いかにも学校図書館の蔵書にふさわしい装幀造本である。福澤は明治三十四年に没しているが、『学問のすゝめ』『文明論之概略』などにおける近代思想家、教育者、慶応義塾創設者として、その名声はまだ衰えておらず、国民図書が全集内容見本四十万部を発行できるだけの著名人であり続けていたのだろう。

 それに忘れてはならないのは、福澤が近代出版者でもあったことで、『出版人物事典』はその立項を落としていない。それを引いてみる。

出版人物事典―明治-平成物故出版人

 [福沢諭吉 ふくざわ・ゆきち]一八三四~一九〇一(天保五~明治三四)慶応義塾出版局創始者。大分県生れ。長崎で蘭学を学び、一八五五年(安政二)大阪に出て緒方洪庵の適塾で学んだ。五八年江戸に出て塾を開き、英語を独習。六〇年(万延一)幕府の使節に従って渡米。明治維新後民間人となり、六八年(慶応四)塾を芝に移し、慶応義塾と改称。また出版局を開設して出版販売に着手、自著の『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などつぎつぎに出版、いわばユニバーシティ・プレスの最初であった。福沢本は、明治のベストセラーの筆頭にあげられる。自著の偽版の続出を憤り、copyright を版権と称して著作兼保護の必要を説き、先駆的な役割を果した。

 私も本探索で「版権」問題に多く言及しているが、この立項により、そのタームが福澤による訳語だと再認識させられる。そこで『福澤全集』の奥付を見てみると、編纂者は時事新報社、発行者と発行所は中塚と国民図書だが、検印部分には福澤の印が押され、この全集版権=著作権が福澤一族にあるとわかる。

 このことで福澤著作権問題は実証できるが、編纂者が時事新報社であることはトレースしておかなければならない。それは明治三十一年の存命中に時事新報社から最初の『福澤全集』全五巻が刊行されたことに端を発している。福澤は明治十四年に『時事新報』を創刊し、ジャーナリストとしても活動し、晩年に『福翁百話』や『福翁自伝』などの著作を時事新報社から刊行している。それに合わせ全集も企画され、三十年九月付で『福澤全集緒言』が書かれ、それは第一巻に収録され、国民図書版でも同様なので、幸いにして読むことができる。

f:id:OdaMitsuo:20210116160443j:plain:h115(全5巻)f:id:OdaMitsuo:20210116160018j:plain:h115

 そこで福澤は「四十年来余が著述又は翻訳したる諸書類を集めて新たに版行せんとするに当り聊か其趣意を一言して巻首に記し置かんとす」と始めていえる。「其趣意」を要約すれば、自分は著訳書を多く出版し、自らの所見を発表してきたけれど、その後は著訳者として成り行きまかせで、歳月の推移とともに何冊出したのか、内容はどうなのかも忘却するようにもなっている。だからここに全集としてまとめ、散逸を防ぎ、子孫や知己朋友のためにも、単行本未収録原稿も集め、出版を思い立った次第だと。

 それから福澤は自らの著者の解題を述べていくのだが、鉄砲洲某稿の名で書かれた「唐人往来」は江戸末期の世間の唐人=外国人観を伝え、それが現在へと通じるひとつの変わらないナショナリズムのかたちであることを教えてくれる。また『華英通語』は福澤が著した英語辞典というべきもので、このようにして英語が学ばれていったことがまざまざと伝わってくる。次にくるのは『西洋事情』で、同書から『学問のすゝめ』の間には、「雷銃操法」「西洋旅案」「窮理図解」「洋兵明鑑」「議亊院談」「世界国尽」といった小著がはさまれている。

 福沢の言からすれば、これらの彼の所為の著訳書も明治三十年代に入ると、「何時しか蔵書四散して」の状態、つまり散逸していたとも考えられる。またその後の未収録原稿も多く見つかったはずで、それが時事新報社版全五巻を増補した国民図書版全十巻へと結びついていったのであろう。第一巻の編纂者「端言」は大正十四年十二月の日付で、「今回時事新報社一万五千号の記念として先生の遺文を出版するに当り、是等未載のもの、幷に先生の筆に成れる時事新報社説の鈔録とを既刊の全集に加へて都合十巻となし」とはその事実を物語っている。

 そしてこの国民図書版の『福澤全集』を受け継ぐかたちで、昭和八年に岩波書店から『福澤全集(続)』全七巻が出され、戦後の昭和三十九年には『福沢諭吉全集』全二十二巻が刊行されることになる。そうした流れをたどると、編纂者が誰なのか不明だし、国民図書版が四十万部の内容見本に見合うだけの売れ行きを示したかは詳らかにしないが、福澤の出版史と研究史に少なからぬ貢献をなしたことは確実だと思われる。

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odamitsuo.hatenablog.com



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古本夜話1117 国民図書『校註国歌大系』と佐伯常麿

 前回の『校註日本文学大系』に少し遅れて昭和三年からほぼ併走するかたちで、やはり国民図書による『校註国歌大系』が刊行されている。

f:id:OdaMitsuo:20210113102520j:plain(『校註日本文学大系』)

 これは『世界名著大事典』の「全集・双書目録」において、誠文堂版が挙げられ、次のような解題が見える。「古代から明治初期までの和歌の集成。校訂はかなり安易であるが、収録和歌の多いことは随一である。本巻に索引と作者部類とを付ける。一般向き刊行書」だと。実は元版に当たる国民図書『校註国歌大系』のほう拾っていて、以前に「中塚栄次郎と国民図書株式会社」(『古本探究』所収)で、函の背表紙だけを掲載している。だがここでは所持する端本リストを示す。

古本探究 

13『中古諸家集全』 玉井幸助
14『中古諸家集全』 小林好日
15『近代諸家集一』 山岸徳平
16『近代諸家集二』 野村宗朔
17『近代諸家集三』 山﨑麓
18『近代諸家集四』 山岸徳平
20『明治初期諸家集全』 佐伯常麿

 これらはB6判函入天金上製、いずれも九百から千ページに及ぶ。このすべての内容は挙げられないので、20の『明治初期諸家集』を例とすれば、橘曙覧『志濃夫廼舎歌集』、太田垣蓮月『海人の苅藻』、八田知紀『しのぶぐさ』、井上文雄『調鶴集』、福田行誠『於知葉集』、僧弁玉『瑲々室集』、野村望東『向陵集』、大国隆正『真爾園翁歌集』を収録している。リストの下部にある名前は編輯担当者で、佐伯が『校註日本文学大系』でも同様だったことは、前回の上田万年の言に明らかであるし、佐伯は引き続き、『校註国歌大系』でも「組織編纂」の立場にあったはずだ。それぞれに「解題」が付され、底本も明記され、上版が註、下段が本文という『校註日本文学大系』と同じ編輯である。

 残念ながら第一巻の『古歌謡集』は入手していないので、そこに寄せられているはずの上田などの「序」を見ていないけれど、おそらく『校註日本文学大系』の「序」で述べられていたその第三期「和歌」に相当するのが『校註国歌大系』だと思われる。それはタイトルに「校註」と「大系」が含まれていることからも類推できよう。

 それゆえに『校註国歌大系』も、上田を始めとする国文学アカデミズムがバックプした出版プロジェクトだったと考えられるし、『世界名著大事典』のいうところの「校訂はかなり安易で」「一般向き刊行」なる評価は気の毒である。どうしてそのような判断が下されたかは、ひとえに誠文堂版に基づいているからであろう。戦前において、誠文堂は小川菊松の特異なキャラクター、及び出版業界における実用書や譲受出版=焼き直し出版のイメージが強かったので、そうした偏見が出版物にも必然的に反映されてしまったからだと思われる。

世界名著大事典〈第1巻〉アーカン (1960年)  全集叢書総覧 (1983年) 

 しかしあらためて『全集叢書総覧新訂版』を見てみると、『校註国歌大系』は昭和三年の国民図書に続き、誠文堂が昭和八年に普及版、十二年に新版を出し、戦後に至っては講談社が昭和五十一年に復刻版を刊行している。この事実からすれば、国民図書版の経済、販売事情は不明だが、戦前戦後を通じて、貴重な研究資料、第一次文献的出版物として評価されてきたことを告げていよう。

f:id:OdaMitsuo:20210114112547j:plain(誠文堂普及版)f:id:OdaMitsuo:20210114113121j:plain(講談社版)

 それだけでなく、先の17の『近代緒家集』には他の巻に見られない「月報」が残っていて、意外というしかなかった。つまり「外交販売」全集であっても「月報」は付き物だったのだ。そしてそこには「常道に還りつゝある出版界―円本忌避の傾向顕著」という一文が掲載されているので、昭和四年の円本出版状況に関する証言として、それを聞いてみよう。

 所謂円本の跋扈は、遂に愛書の趣味を滅殺して、読書界をオアシスなき沙漠と化して了ひました。何処へ行つても誰に聞ひても、「どうも折角の座敷へ円本を斯う並べては、まるで安普請のバラツクへ入つたやうだね。」といふ愚癡ならざるはない。それだけ円本は蔓りきつて、今や却つて読書家に呪はれつゝあるのでありますが、併し、物は行き詰ると又転換するものであります。近来の出版に、わざゝゝ「円本にあらず」と断つてあるが如きは、此の間の消息を窺ふに足るものでありませう。(中略)
 円本刊行の如き大掛りな、お祭りさわぎの、唯宣伝一つで行かうといふ大芝居をうつには、あらゆる力が商戦に注がれるのみで、昔の出版屋のやうに、丹念に原稿に力を入れて、たとひ時がかからうと、金がいくらかゝらうと、最善を尽して以て、恥づるところなき書を作るいつたやうに、落ちついて出版をやつて行くといふ機会は、全然与へられないのでありますから、あの円本戦で生れて行くものは、二度のおつとめのもので無い限り、推敲の十分ならざる、所謂一夜づくりのものに止まるのは、己を得ない事情でありまして、これが円本の遂に読書家に呪はるゝに至つた当然の事情であります。

 ここで「円本にあらず」とされているのは、岩波書店の『露伴全集』『赤彦全集』で、いずれも一円ならぬ四円五〇銭と四円であり、ここに言外に『校註国歌大系』三円八〇銭も、それに加わるものだとされているのだろう。その販売事情は詳らかにしないけれど、「二度のおつとめ」どころか、「四度のおつとめ」まで果したであるから、その意味で、『校註国歌大系』は「円本にあらず」との自負を体現したことになろう。

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古本夜話1116 国民図書『校註日本文学大系』と中山泰昌

 小川菊松の『出版興亡五十年』を援用しながら、吉川弘文館の外交販売にふれてきたが、そうした出版社・取次・書店という「正常ルート」以外の流通販売は古典類の出版にあって、かなり多く採用されていたと見るべきなのかもしれない。しかもそれを当の小川と誠文堂新光社が譲受出版していることを考えると、古典類の出版の流通反愛を含めた多様性にも注視すべきであろう。

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 そうした格好の例を、大正十四年に刊行され始めた『校註日本文学大系』に見てみる。これもまた『世界名著大事典』第六巻の「全集・双書目録」に「中世末までの古典作品の集成。校註は厳密ではなく、頭注も少ないが、解題には見るべきものがある。収載量の多いことでは随一である」との説明に加え、全二十五巻の明細も示されている。

f:id:OdaMitsuo:20210113102520j:plain(『校註日本文学大系』)

 この『校註日本文学大系』は本探索1107の中塚栄次郎の国民図書株式会社が円本時代に企てたものだった。それは新聞広告による内容見本送付という予約出版と通信、外交販売を兼ねていたようで、小川は『出版興亡五十年』で次のように書いている。彼は国民図書刊行会と誤記しているが、『世界名著大事典』も国民図書会社と同様なので、ママとする。

世界名著大事典〈第1巻〉アーカン (1960年) 

 国民図書刊行会(ママ)では、広告に依る請求者ばかりでなく、有力な名簿を手に入れて見本をこれに直送する。即ち同社の「校註日本文学大系」には三十万部(中略)の内容見本を刷つて発送したのであつた。当時市内特別郵便物は僅に六厘であつたから、同社では、大阪、神戸、京都、名古屋の大都市には、その市内だけのものを一括して客車で送り、社員を出張させて、その地の郵便局にこれを出さしめた。こういう方法が、頻々と派手に行われたので、逓信省は一種の脱税行為と見、市内特別は、その発行所在地の局以外は、扱わぬという制限を設けるに至った。

 この内容見本送付のからわかるように、中塚の国民図書株式会社の場合は流通販売に関して一筋縄ではいかない。それは公共料金や税制にも熟知し、新聞、鉄道、郵便などのインフラも全面的に利用し、その上で予約出版、通信、外交販売が組み合わされ、稼働していく。もちろん出版社・取次・書店という「正常ルート」は注文だけの仲間口座、地方取次に対しては入銀制による低正味が導入され、代理店的外交販売が促進されたと考えられる。後に中塚が政治家となっていくことを表象するように、全面的なオルガナイザーとしての出版者だったと見なせよう。

 それでは編集のほうはどうなっていたのだろうか。手元にあるのは一冊だけだが、その奥付には編輯兼発行者として国民図書株式会社、その代表者として中塚の名前が挙がっている。幸いにして、これは函入、四六判天金上製、九六〇ページの第一巻で、『古事記』や『日本書紀』などの収録である。上田万年、関根正直、三上参次による三つの「序」は、昭和を迎えての『校註日本文学大系』の位置づけ、その第四期にまで及ぶ計画、具体的な編輯者への言及もあるので、それらをたどってみる。

 上田はまず「国文学各種の一大結集を作らんとする、日本文学大系の計画は、出版界に於ける壮挙」と宣言する。それは「忌憚なく言へば、在来のこの種の叢書には遺憾とする点が少なくなかつた」し、一般的に売れるものだけを集めたり、量だけを誇ったり、編纂の不備は明らかで、無責任な複刻、校訂校正の杜撰さを露呈するばかりであった。それらに対し、『校註日本文学大系』は先行の叢書類の欠点を子細に点検し、「永く後代に残す本として」「理想的なもの」になったと述べている。

 そして第一期が奈良朝より室町末期での文学、第二期が徳川時代の文芸、第三期は和歌、第四期は俳諧を収録刊行する予定で、それらを系統的組織的に排列し、最も信頼できる資料により、校訂や註釈に力を注ぎ、詳細の解題を付する計画である。それもあってか、まだ第一期事業すら完了していないにもかかわらず、早くも「大系本」という呼称が広く認められ、「此の上なき名誉」だとの言も見えている。それはともかく、後の、また戦後になっても使われる「大系」なるシリーズ名はこの『校註日本文学大系』が始まりだったかもしれない。

 さらに上田はよほどうれしかったのか、この時代にしてはアカデミズム側からはめずらしい企画者と編輯者と出版者にオマージュを捧げている。それで企画者と編輯者の名前が判明したので、それを引いておく。

 此の大系本刊行の計画は、中山泰昌君によつて立てられ、国民図書株式会社の中塚栄次郎君が、財界の不安甚しかつた震災直後にあつて、非常の決心を以てこれが発行を引受けられたのである。而して組織編纂等の方面には、佐伯常麿君が膺られ、中山君はまた、事業の信仰と各巻の校正とに、終始一貫して力を注がれつゝある。而して両君が、出来うる限り良い本を作らうといふ上の註文は、かなり営業者に失費、犠牲を払はしめるものであるが、中塚君は快くこれに応ぜらるゝ(中略)。

 こうして第四期まで出せれば、「日本文学の一大殿堂が築かれ」るはずであったが、おそらく第四期百巻までを予告していた『校註日本文学大系』は第一期二十五巻だけで、それ以後は続かなかった。

 しかし昭和十三年になって、その復刊といっていい「普及版」を刊行したのは小川の誠文堂新光社で、たまたまこちらもその一冊の第二十三巻『狂言記』を拾っているが、奥付編輯者名は中山、解題者は『近代出版史探索Ⅲ』524の尾上八郎あった。小川の『出版興亡五十年』を確認すると、中山は彼の友人として出てくる。まさに出版人脈は連鎖しているのだ。

近代出版史探索III 


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