出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1171 松本苦味、ツルゲーネフ『春の水』、文正堂書店

 前回の『ツルゲネエフ全集』の生田春月訳『春の波』は入手していないが、それにあたる松本苦味訳『春の水』は見つけている。『近代出版史探索Ⅱ』249で、金桜堂の「パンテオン叢書」と松本苦味訳、ゴオリキイ『どん底』を取り上げ、内藤加我の金桜堂の前身が草双紙屋で、大正時代には取次も兼ねていたことを既述しておいた。また「パンテオン叢書」の監修者でもある松本の『日本近代文学大事典』における立項も挙げ、明治二十三年東京生まれの東京外語露語専修出身の翻訳家、劇作家だが、関東大震災以後の消息が不明であることも。

 そこで松本のツルゲーネフ『春の水』が名訳だと述べられ、紅野敏郎の『大正期の文芸叢書』においても、「パンテオン叢書」の一冊に挙げられているので、そのリストをあらためて示す。

大正期の文芸叢書

1 チエーホフ 松本苦味訳 『農夫』
2 ソログーブ 昇曙夢訳 『死の勝利』
3 ゴオリキイ 松本苦味訳 『どん底』
4 メーテルリンク 秋田雨雀訳 『アグラヴエヌとセリセツト』
5 アルツイバーセフ 中島清訳 『労働者セヰリオフ』
6 アンドレーエフ 小山内薫訳 『星の世界へ』
7 ザイツエーフ 昇曙夢訳 『静かな曙』
8 ツルゲーネフ 松本苦味訳 『春の水』


このうちの8に関しては「未刊行か」「別の単行本として刊行」との注記がある。この「別の単行本として刊行」の『春の水』を入手している。「パンテオン叢書」と同様の菊半截判、フランス装で、三〇四ページの一冊だが、背ははがれ、本体も三つに裂けていて、保存状態はよくない。それでもよく廃棄されず、私のところに届けられたのは僥倖というしかない気にさせられる。

 刊行されたのは大正四年十月で、「パンテオン叢書」の1から6が大正三年、7が同四年一月だったことからすれば、「パンテオン叢書」は7で中絶したと推測される。ツルゲーニェフ(以下ツルゲーネフとする―筆者)の翻訳は松本だが、出版社は金桜堂ではなく、文正堂書店で、奥付を見ると、その住所は日本橋区本銀町、発行者は村山庄三郎とある。ちなみに松本の住所は本所区松井町で、検印紙にはエジプトの女神をあしらい、その横に「苦味」の印が押されていることから、印税が支払われる出版だとわかる。

 この『春の水』の「序文」は昇曙夢が寄せ、ツルゲーネフの晩年の『その前夜』と『処女地』の間に発表された「彼の最も得意とする恋愛小説の内でも、嶄然頭角を顕してゐる名篇」と評している。前述の「パンテオン叢書」リストからしても、松本と昇がそれぞれ三冊を担当していることからすれば、それらの作品は重訳ではなく、ロシア語からの翻訳を意味していたし、実質的に監修には昇も加わっていたことになろう。

 明治二十一年に『国民之友』に発表された二葉亭四迷訳による「あいびき」(後に『片恋』所収、春陽堂、同二十九年)が日本近代文学に与えた大きな影響に関しては、国木田独歩の『武蔵野』(民友社、同三十四年)をめぐる拙稿「郊外風景論の起源」(『郊外の果てへの旅/混住社会論』』所収)で論じているので、ここでは言及しない。

  

 さてこの「名訳」とされる『春の水』だが、この小説は「よろこばしき年も、/嬉しき日も、春の水のごと、/はや過去りぬ!」という「古き民謡」の一節をエピグラフとして始まっている。そこで深夜に帰宅し、書斎に戻った「彼はこんなに軀も心も疲れを感じたことがなかつた」。五十二歳の「彼」は「人生の嫌悪」に圧迫され、老年と死の恐怖が訪れる中で黙想していた。そして机の抽斗の古い文反古をあさっていると、さほど大きくない手箱が出てきて、それを開いた。するとその中には小さな柘榴石の十字架が見出され、「今や昔となつたことの数々を想い起した」のであり、そこで「彼」の名前がサアニンだと明かされる。

 一八四〇年にサアニンは二十二歳で、イタリアからロシアに帰る途中でフランクフルトに立ち寄った。彼は係累もほとんどなかったけれど、遠い親戚の遺産が入ったので、糊口をしのぐ仕官に就く前に、外国でその金を使ってしまおうと思い、その目的を実行した帰りだった。もはやペテルブルグに帰るだけの金しかなかった。そのフランクフルトのイタリア風菓子舗にサアニンが入ると、十九になるジエンマという娘が飛び出してきた。彼は「生れてから未だこれほどの美しい代物を見たことがなかつた」。奥で弟のエミリオが倒れていたので、サアニンは少年を助け、それを通じてその一家と親しくなり、ジエンマに婚約者がいたにもかかわらず、二人は恋に落ちてしまう。

 サアニンも彼女も、初めて恋を味わつたので、初恋のあらゆる奇蹟は、遺感なく二人の身内に行はれてゐた。初恋といふ奴は、てもない革命のやうなものである。何時も変らぬ、四角四面な、几帳面な生活は瞬時に突潰されてしまつて、その替りに、若やかな生(いのち)は砦の上に攀昇り、ヒラゝゝと高くその鮮かな旗を翻す。で、例へば前方に待つてゐるものが死であらうが、新しい生であらうが、一切お構いなしに、喜んで出迎へに行くのである。

 かくして二人はジエンマの家族も説得し、結婚を許されるところまでこぎつける。しかしそのための仕事や「金銭上」のこともあり、サアニンは一度ロシアへと帰らなければならない。ジエンマはサアニンに自分がかけていた柘榴石の十字架を手渡し、愛を誓うのだった。その一方で、サアニンは同窓のポロゾーフに出会う。彼は金持ちの娘マアリヤと結婚し、海外生活を送り、今度はパリに行こうとしていた。サアニンは結婚のために金が入用であり、そのマアリヤに自分の所有地を買ってくれないかと頼んだ。
 
 そこでサアニンはポロゾーフとともにウイスパーデンへと赴き、「金満家」の伯父から全財産を譲り受けたマアリヤと交渉することになり、フランクフルトを出立する。ジエンマに「僕はあなたのものです……僕は屹度帰つてきますよ」と言いながら。

 ポロゾーフ夫人のマアリヤはフランス語を達者にあやつり、コケットリーあふれる女で、不動産事情へも通じていたし、それに加えて、サアニンを意のままにしようとした。パリに一緒にいこうというのだ。ヨーロッパ文学における世紀末の宿命の女として、マアリヤは現前する。サアニンは思う。「蛇だ! あゝこの女は全く蛇だ。(中略)けれども何といふ魅力に満ちた蛇だらう!」。マアリヤとサアニンの馬車での道行は『近代出版史探索』186のフローベールの『ボヴァリー夫人』のエンマとロドルフの馬車内での情事を彷彿とさせる。 最終的にサアニンはフランクフルトのジエンマのもとに戻らず、マアリヤとパリに向かうのである。

 「さて、それからの巴里の生活。ありとあらゆる屈従。嫉妬も哀訴も許されず、終には着古した着物のやうに投げ棄てられた奴隷の生活の果無さ」、が待っていたのだ。そして最後にジエンマの運命はどうなったのかが明かされる。


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古本夜話1170 新潮社『ツルゲエネフ全集』と生田春月訳『初恋』

 新潮社はやはり大正七年から『ツルゲエネフ全集』全十巻を刊行している。それには前史があって、佐藤義亮は「出版おもひ出話」(『新潮社四十年」所収』で、明治四十年頃に外国文学の翻訳出版をツルゲーネフから始めようと思ったと述べ、次のように続けている。

f:id:OdaMitsuo:20210512105601j:plain:h110(『新潮社四十年』)

 なぜそんな考へを起したかといふに、長谷川二葉亭が『猟人日記』の一節を訳した『あひゞき』(二十一年の国民之友発表)を読んでひどく感心したのに第一の原因がある。当時の文学青年で、あの訳に、なにがしかの感銘をうけなかつて者は恐らく絶無であつたらう。その次は田山花袋だ。当時の田山さんは酒を飲むと、きつと、と云つてもよい位ゐにツルゲーネフの話をされた。ツルゲーネフの書く恋はいゝね。といつて、その一節の梗概を、いかにも感傷的の調子で語られたりした。私もひどくそれに動かされて、翻訳出版はツルゲーネフから始めようと決めたのである。

 私も拙著『書店の近代』において、田山花袋の『東京の三十年』(岩波文庫)を引き、明治時代の丸善の洋書売場で買い求めたツルゲーネフの『父と子』を恋人のように抱いて、丸の内の宮城近くの道を歩いていく青年のことを取り上げている。そのために明治四十年代から大正時代にかけて、ツルゲーネフの翻訳は多くに及び、重訳であったにしても、新潮社は明治四十二年に相馬御風訳『父と子』、翌年には『貴族の巣』、大正二年には大貫晶川訳『煙』と続いていったのである。

東京の三十年 (岩波文庫)

 ちなみに佐藤の言によれば、『父と子』は「増版約五回。翻訳物は売れない、といふ出版界共通の迷信を打破するだけの売行だつた」とされる。また大貫は岡本かの子の実兄で、谷崎潤一郎の親友として、ともに第二次『新思潮』を創刊しているが、大正元年に急逝し、その後に『煙』「近代名著文庫」が刊行されたことになる。このような新潮社のツルゲーネフ翻訳出版前史があり、大正七年からの『ツルゲエネフ全集』の企画へとリンクしていったのであろう。 
 そのリストを示す。

1『猟人日記』 生田長江訳
2『ルーヂン』 田中純訳
3『初恋』 生田春月訳
4『その前夜』 田中純訳
5『煙』 大貫晶川訳
6『父と子』 谷崎精二訳
7『プーニンとパブロン』 布施延雄訳
8『処女地』 田中純訳
9『春の波』 生田春月)
10『貴族の巣』 布施延雄訳

f:id:OdaMitsuo:20210714101729j:plain:h110 f:id:OdaMitsuo:20210714101535j:plain:h110(『猟人日記』)f:id:OdaMitsuo:20210714103821j:plain:h110(『ルーヂン』)

 10の『貴族の巣』が相馬御風訳ではなく、布施延雄訳にあらためられたのは定かではないけれど、コンスタンス・ガーネットによるツルゲーネフの英訳の日本への流入に起因していると推測される。彼女の夫のエドワード・ガーネットはツルゲーネフ研究者として著名であり、ゾラの日本への浸透がイギリスのヴィセットリーの英訳によっていたように、大正時代のツルゲーネフも、ガーネット夫人の英訳を通じて翻訳の進められたと考えられる。

 新潮社版『ツルゲネエフ全集』のうちで、入手しているのは1と3である。3の『初恋』は本探索1049などの生田春月訳だが、1の『猟人日記』にしても、長江との関係からすれば、春月訳だとも考えられる。前者の「序」に独訳とともに「英語訳全集版」を参照とあるので、それはガーネット夫人訳をさしているのだろう。他の翻訳者たちも英語をプロパーにしていることからすれば、やはり翻訳は英語からの重訳だったと見なせるし、ロシア文学にしてもフランス文学にしても、本格的な原語からの翻訳は、大正後半から昭和を待たなければならなかったのである。だが手元にある『猟人日記』は大正七年初版、同十年十一版、『初恋』は同じく十三年廿六版で、相馬訳『父と子』よりも版を重ねていて、大正時代におけるツルゲーネフ人気を伝えていよう。ここでは『猟人日記』ではなく、『初恋』にふれてみたい。

初恋 (国立図書館コレクション)『初恋』Kindle版)

 この作品はツルゲーネフの父母をモデルとして構成され、彼自身の体験が投影されているのであろう。髪の灰色がかった四十歳ほどの男が、二十年以上前の初恋について語り始める。それは彼が十六歳の時、モスクワの両親の家に住んでいたが、別荘もあり、五月にそこに移っていた。その庭で、彼は本を手にして散歩し、詩を朗読し、血潮はたぎっていたが、胸は哀愁に充ちていた。空想は止むことなくわき上がり、自然の美しさは青年の生命の喜ばしき感情をかり立てるようだった。馬に乗り、騎士をもって任じ、自然の光と空色を多感な心に吸いこんでいたのである。その時の心境が語られている。

 思ひ出してみると、当時は女の姿や、女の愛の概念は、殆んど一度もはつきりした形をして、私の胸に浮かんで来なかつた。けれども私の考へたすべてのものの中に、私の感じたすべてのものの中に、半ば意識されない、もの恥かしいやうな、ある新しいものの、ある名状しがたく甘いものの、ある女性的なものへの予感が隠されてゐた・・・・・・

 その予感とコレスポンダンスするように、別荘にザシエキン公爵夫人と娘のジナイイダが現われる。ジナイイダは二十二歳で、一瞬のうちに、「私の目はこのすらとした姿、この頸、この美しい両手、この軽くほどけて白い手巾の下からこぼれ出てゐるブロンドの髪、この半ば閉ぢられた大きな目、この睫毛、このやさしい頬に釘付けにされてゐた・・・・・・」のである。

 しかし公爵夫人は貧しく、娘のほうは五人の青年崇拝者たちに取り囲まれていた。果たしてこれから彼の「初恋」はどのような展開をたどるのであろうか。この続きは実際に読んでほしいと思う。


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古本夜話1169 勝本清一郎と女たち

 浜松の時代舎で、勝本清一郎の『前衛の文学』を入手してきた。これは昭和五年に新潮社ら刊行されたもので、『日本近代文学大事典』の勝本の立項において、書影と解題も見える。タイトルと並んで、装幀が村山知義であることはこの一冊の時代的位相を物語っていよう。

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 明治三十二年生まれの勝本は幼稚舎から大学まで慶応で学び、美術史を専攻していたが、昭和に入って蔵原惟人を通じて左翼運動に接近し、文芸評論家として形式主義文学論争、芸術価値論争に加わり、『新潮』などにそれらの論考を発表する。この勝本のプロレタリア文学系の評論集が『前衛の文学』に他ならない。その一方で、勝本は昭和四年にプロレタリア作家同盟に加入し、代表としてベルリンに赴く。翌年にはソビエトに向かい、藤森成吉とともにハリコフ会議に出席し、昭和六年にはやはり新潮社から『赤色戦線を行く』を刊行し、七年から八年にかけては再びベルリンとモスクワに滞在している。

 『赤色戦線を行く』のほうは未見だけれど、簡略に昭和に入っての勝本の「赤色戦線」をトレースしてみた。だがそれらはひとまずおき、ここでは視点を変え、彼を本探索1164の高浜虚子と『ホトトギス』、同1163の永井荷風、籾山書店、『三田文学』、同1161の聚芳閣と足立欽一に寄り添わせてみる。勝本は大正六年に虚子の弟子になり、写生文を学び、『ホトトギス』に作品を発表し、大学では芸術史を専攻する。関東大震災後は昭和三年まで、『近代出版史探索Ⅲ』553の水上瀧太郎の麹町の邸内に住み、大正十四年には『三田文学』の編集委員に就く。

f:id:OdaMitsuo:20210707115705j:plain:h120(『赤色戦線を行く 』)

 永井荷風は、籾山書店の「胡蝶本」と『三田文学』時代といってもいいだろうが、大正二年に見合い結婚する。しかし荷風は新橋の芸妓である巴家八重次を外妾としていたことで、翌年に離婚し、八重次を正妻として迎えている。だが大正四年に彼女は家出し、離婚に至り、以後は新舞踏運動を興し、藤蔭静枝を名乗り、藤蔭会を組織している。荷風と離婚後に彼女の愛人となったのが勝本だった。

 勝本の愛人問題は昭和の「赤色戦線」時代になっても続いていく。『日本近代文学大事典』の『三田文学』の解題のところに、「しかし勝本は昭和二年一二月徳田秋声の愛人山田順子と突然姿を隠したので急遽平松幹夫が編集を担当した」とある。これも文芸誌の解題としては異例と思われるが、この第三次『三田文学』は水上瀧太郎を中心としていたので、必然的に水上の近傍にいた勝本が編集を担うことになっていたのだろう。

 山田順子に関しては拙稿「聚英閣と聚芳閣」「足立欽一と山田順子」(いずれも『古本屋散策』所収)、及び『近代出版史探索Ⅱ』264「山田順子『女弟子』と徳田秋声」において、繰り返し既述しているが、もう一度ふれてみる。山田は徳田秋声の愛人で、足立の聚芳閣から自伝小説『流るるままに』を刊行し、足立や竹久夢二とも関係を結んでいたのである。徳田の『仮装人物』はそれらの人物たちをモデルとする小説で、稲村が徳田、葉子が順子、山路が竹久、一色が足立、清川が勝本、雪枝が藤蔭静枝とされる。

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 これらの詳細には再び言及しないけれど、荷風と秋声という近代文学の大家と見なしていい二人の妻と愛人や関係した文芸評論家は勝本だけだったと思われる。彼女たちから見ても、勝本のブルジョワの息子、純粋の都会育ちの慶応ボーイ、左翼にして文芸評論家といったモードは魅力的だったにちがいない。

 その勝本の魅力はドイツ女性に対しても発揮されたようで、昭和八年にドーラ=ミンドラと結婚し、帰国している。それがきっかけになったようにして、彼は資料収集に基づく近代文学の実証的研究に向かい、十年には日本ペンクラブの創立に参加し、常任理事となり、十五年には中央公論社出版文化研究室主任として、明治期の雑誌の収集と研究に従事した。そして十六年には中央公論社版『尾崎紅葉全集』の編集に参加している。

f:id:OdaMitsuo:20210707222449j:plain:h115(『尾崎紅葉全集』)

 この『尾崎紅葉全集』は『近代出版史探索Ⅴ』835でも取り上げているが、『中央公論社の八十年』所収の「年表・中央公論社の八十年」の昭和十六年七月のところに「『尾崎紅葉全集』(全一〇巻)刊行開始。(不要不急、戦時下はなはだしく好ましくない刊行物として、昭和十八年一月、三巻分発行したのみで、中途続刊中止の勧告をうけて挫折)」とあるように中絶してしまった。私が拾っているのは第九巻の「十千萬堂目録」を始めとする日記、病状記、見舞人署名帖、塩原紀行などの旅行記で、柳田泉編纂校訂となっているけれども、「勝本清一郎氏の御助力を得たことが特に多い」と記しているので、そのうちのかなりの部分は勝本の発見と提供によっていると思われる。

 ちなみに残念ながら未刊に終わってしまったが、勝本は最も多い第一巻から第三巻までを担当し、紅葉の初期中期作品集はすべて勝本編纂校訂とされていた。その事実からすれば、彼の紅葉作品の収集は柳田だけでなく、同じ編纂者の本間久雄や塩田良平を上回るものだったとわかる。勝本は『我楽多文庫』の第一期筆写回覧本も所持していたと伝えられている。

 戦後になって、勝本が岩波書店で『透谷全集』を編纂し、『座談会明治文学史』『座談会大正文学史』を刊行するに至ったことは、そうした資料探索の成果と見なすことができよう。またもうひとつ問えば、ドイツ女性と結婚したこととそのような近代文学研究者への道はリンクしているのだろうか。

f:id:OdaMitsuo:20210707223832j:plain:h110 大正文学史―座談会


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古本夜話1168 吉井勇『こひびと』、新潮社「現代自選歌集」、『吉井勇集』

 やはり籾山書店から大正六年に吉井勇の歌集『こひびと』が出されている。これも菊半截判で、一ページに二首が収録され、最初の一首からして「恋に生き恋に死ぬべきいのちぞと思い知りしも君あるがため」とあり、まさにタイトルにふさわしいオープニングといえよう。このようなトーンの歌が一貫して最後まで続き、恋歌集とよんでもかまわないように思われる。巻末には同じ籾山書店刊行の既刊短歌集『初恋』『昨日まで』『片恋』が挙がっていて、それらの掲載は『こひびと』の前史的連作を意図しているのだろう。

 籾山書店と吉井の関係は、本探索1161でふれておいたように、前者が反自然主義を標榜していた『三田文学』の発売所を引き受け、後者が常連寄稿者だったことに端を発していると推測される。あらためて『日本近代文学大事典』の吉井の立項を確認してみると、それは三ページ近くに及び、明治、大正、昭和戦前戦後における歌人、劇作家、小説家として華麗にして特異な軌跡を伝えているかのようだ。とりわけ驚かされるのはその多作ぶり、多くの著書の刊行で、それは大正時代に顕著である。ちなみに著書の解題だけで、異例といっていい十一作が挙げられている。そのうちの大正時代の出版を示す。

 歌物語集『水荘記』(東雲堂書店、大正元年)、歌集『昨日まで』(籾山書店、同二年)、同『祇園歌集』(新潮社、同四年)、同『東京紅燈集』(新潮社、同五年)、戯曲集『俳諧亭句楽』(通一舎、同五年)、歌集『鸚鵡石』(玄文社、同七年)。これらに先行する歌集『酒ほがひ』(昂発行所、明治四十三年)、戯曲集『午後三時』(東雲堂書店、同四十四年)を加えれば、八作となる。それらは未見だが、吉井が明治末から大正時代にかけて、旺盛な筆力を誇り、人気もあり、当時としても最も多くの著書を次々と上梓していた文学者の筆頭に当たるだろう。

f:id:OdaMitsuo:20210706203523j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20210707150209j:plain:h120f:id:OdaMitsuo:20210707150432j:plain:h120 酒ほがひ (1980年) (名著複刻詩歌文学館〈連翹セット〉) (『酒ほがひ』)

 これらの他にも大正時代には挙げきれないほどの著書が刊行されていて、先の『こひびと』もその一冊に他ならない。これは明記されていないけれど、吉井の他の著書と同様に、装幀は竹久夢二によるもので、どこかでみたような気がすると思っていたところ、それは他ならぬ紅野敏郎『大正期の文芸叢書』の口絵写真に掲載されていた新潮社の『情話新集』の書影だった。これは大正四年から六年にかけて、近松秋江『舞鶴心中』を始めとして全十二巻が刊行されている。いずれも入手しておらず、こちらも未見だが、紅野によれば、菊半截判で竹久夢二装幀とあるので、吉井の『こひびと』も、同時期に出されていた『情話新集』の装幀と造本を範としたように思われる。

大正期の文芸叢書  f:id:OdaMitsuo:20210706210635j:plain:h120(『舞鶴心中』)

 それからこれはまったく偶然だが、その『情話新集』の隣に、『吉井勇集』の書影があり、これも先頃、浜松の時代舎で入手してきたばかりだし、言及しておくべきだろう。どうして『吉井勇集』が挙げられていたかというと、函にも本体にも、その表記は見えないけれど、新潮社の「現代自選歌集」シリーズの一冊として刊行されていたからで、それらを『吉井勇集』の巻末広告から、その重版数も含め、リストアップしてみる。

 f:id:OdaMitsuo:20210706202129j:plain:h120(『吉井勇集』)

1『与謝野晶子集』 (第廿四版)
2『金子薫園集』 (第十八版)
3『若山牧水集』 (第十版)
4『吉井勇集』 (第十二版)
5『土岐哀果集』 (第四版)
6『前田夕暮集』 (第四版)

 これらの下に「羽二重表紙特性極美本」にして、「何れも其の処女歌集より最近の集に亘り一千数百首を抜きて一巻となせるもの、諸家の自信ある傑作全集也」とのキャッチコピーが見える。確かに『吉井勇集』は先の『酒ほがひ』『昨日まで』『片恋』『水荘記』などから編んだアンソロジーであり、私の所持するのは大正十五年の第十六版だから、ロングセラーとなっていたとわかる。吉井はその序文ともいえる「小引」において、「私は本集を編むに当って、切に自ら傷むの念に堪へないのえある。/かくて私はこれまでの生涯を、この『半生の墓』に葬つて、更に新しき道を踏んで進まねばならぬ」と告白している。

 これは紅野も指摘しているように、この時期に赤木桁平から長田幹彦、近松秋江、吉井勇などを対象とする所謂「遊蕩文学撲滅論」が出されたことも反映されているのだろう。そういえば、『情話新集』には吉井こそ入っていなかったものの、近松が二作、長田が三作収録されていて、赤木の「遊蕩文学撲滅論」の口火となったはずで、装幀や判型を同じくする吉井の著作も必然的にそのターゲットに想定されたと思われる。ちなみに「現代自選歌集」も函入だが、菊半截判で、太守時代におけるこの判型の意味を出版社の事情だけでなく、流通販売もふまえて考えてみるべきかもしれない。そうした意味においても、「新潮社の『「現代自選歌集」もそれほど著名ではないが、絶対に無視することの出来ぬシリーズ」だと紅野がいっているように、生産、流通、販売の視点から見るならば、まだ判明していない事実が秘められているかもしれないのである。


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古本夜話1167 三星社『青い鳥』、若月紫蘭、植竹書院「薔薇叢書」

 これも浜松の時代舎で購入してきた一冊だが、マーテルリンク氏作、宮崎最勝解説『青い鳥』で、大正十四年に三星社出版部からの刊行である。

 『近代出版史探索Ⅱ』281と227において、三星社が三陽堂、東光社と並んで、植竹書院の紙型と出版物を引き継いだ特価本出版社であることを既述しておいた。その発行者の近田澄に関しても同250で、彼が甲子出版社の発行者でもあり、その住所も三星社、三陽堂、東光社と同じだということも。ちなみに甲子出版社は『近代出版史探索Ⅲ』526などの洛陽堂の高島平三郎編「精神修養逸話の泉」シリーズの「版権譲渡」出版を手がけている。

 マーテルリンク=マーテルランクについても、『近代出版史探索Ⅴ』802や本探索1005でふれ、後者では大正十三年の金星堂の島田元麿、東草水訳『青い鳥』 に言及し、それが明治四十四年の実業之日本社版の紙型譲受によるものと推測しておいた。児童書に見られる譲受出版は文芸書などよりもはるかに複雑で錯綜していて、三星社版『青い鳥』はその典型のように思われる。

f:id:OdaMitsuo:20200304115330j:plain:h120(『青い鳥』、金星堂)

 まずその判型を示すと、菊半截判、並製一二五ページの一冊だが、表紙は鮮やかなカラー印刷で、下半分が波打つ紺青の海の上をはばたく青い鳥、その上部には陽を意味していよう黄色の空を背景にしてマスト船が描かれ、そこにはエンジェルを表象する裸体の二十人近くの子どもたちが宙に舞っている。その表紙を開くと、本扉にはタイトルの下に栗原古城補、宮崎最勝解説とあり、それに続いて「探春」と題された七言絶句、マーテルリンクのポルトレ、サイレント映画『青い鳥』のチルチルとミチルを始めとする七つのシーンが口絵写真として収録されている。

 そして栗原による「貴方は青い鳥を御覧になりましたか?」と始まる序文というべき「読者諸君へ」が置かれ、それを読むと、次のようなことがわかる。栗原たちは映画『青い鳥』に感激したことで、大正九年に青鳥会を起こし、「『青い鳥』の映画を通じて、既成宗教を離れて而も宗教の精髄を具体化した此教へを宣伝しようと企てた」のである。それから六年にわたって、「北海道から九州迄、日本全国の大抵の都市と云ふ都市では、少なくも必ず一度は此青い鳥の映画が写され、宮崎君の熱誠な、含蓄の多い説明が聞かれないことはありませんでした」。これが表紙に記された解説者の宮崎最勝で、彼こそは「青い鳥の忠実な使途」に他ならなかった。

 そのような全国をめぐる映画上映とプロパガンダ本として、『青い鳥のおしへ』を出版していたが、それをベースに「宮崎君が新らしく本書を執筆し、私が補筆」し、ここに三星社版『青い鳥』が成立したことになる。同書を一読して、いってみれば、宮崎はこの映画の活弁の役割を持ち、それが「解説」という言葉に表象されているのだろう。しかし拙稿「浅野和三郎と大本教の出版」(『古本探究Ⅲ』所収)で、大正期が宗教の時代であることは承知していたけれど、ここで初めて、メーテルリンクの『青い鳥』が宗教運動のようにプロパガンダされていた事実を教えられる。それに栗原は、これも拙稿「鶴田久作と国民文庫刊行会」(『古本探究』所収)で既述しておいたが、ラスキン研究者で、その『胡麻と百合』などの翻訳者だと見なしてきたので、思いがけない側面を知らされたことになる。

f:id:OdaMitsuo:20210701174301j:plain:h120 (『青い鳥のをしへ』)

 それに関連して、この『青い鳥』の奥付裏には若月紫蘭訳『全訳青い鳥』の広告が掲載され、そこには一九一一=明治四十四年にノーベル文学賞を受賞したメーテルリンクの国際的な反響と『青い鳥』受容の位相が表出しているので、それを引いてみる。

 象徴劇「青い鳥」は、象徴派の泰斗といはれて居るメーテルリンク氏の一九〇九年の作にて、氏の傑作中の傑作にして、近代象徴劇中の最傑作と見られて居るものであります。云ふまでもなく、「青い鳥」といふのは人間の求むる幸福を象徴化したものにて、主人公として出て来るチルチルミチルといふ二人の子供は、人間の代表者であります。人間の求むる幸福といふものがどんなものであるか、又その幸福と云ふものが何処にあるか、メーテルリンク氏は之を此作によりて解決して居るのであります。

 この訳者の若月紫蘭は劇作家、演劇研究者で、明治十二年山口県生まれ、三十六年に東京帝大英文科を終え、四十一年万朝報に入社し、大正十一年まで勤務している、『青い鳥』はその万朝報時代の翻訳である。しかもそれは前回の植竹書院の「薔薇叢書」の一冊としてだった。そのリストをこれも前回の徳田秋江『閨怨』から挙げてみる。

f:id:OdaMitsuo:20210629105736j:plain:h118 (『閨怨』)

1 デューマ 福永挽歌訳 『椿姫』
2 メエテルリンク 若月紫蘭訳 『青い鳥』
3 モウパッサン 吉江孤雁訳 『水の上』
4 シルレル 船木葉之助訳 『ウヰルヘルム・テル』
5 デツケンズ 矢口透訳 『クリスマス・カロル』
6 スコツト 馬場芳信訳 『湖上の美人』
7 マキアーヱ゛リー 橋田東声訳 『権謀術教学』
8 ピヨルンソン 矢口透訳 『アルネ』

f:id:OdaMitsuo:20210701223445j:plain:h115(『水の上』) f:id:OdaMitsuo:20210701211752j:plain:h115 (『ウヰルヘルム・テル』|)

 7を除いて、その他はすべて全訳と謳われているので、これらが初出の出版かは確認できていないが、それなりに画期的な翻訳叢書だったのではないだろうか。

 しかし前回の植竹書院の「現代代表作叢書」がそうだったように、「薔薇叢書」も特価本出版社のひとつである三陽堂へと出版譲渡された。その事実はこれも前回の正宗白鳥の『まぼろし』の巻末の三陽堂書店発行図書にも明らかだ。それが大正末になって、同じグループの三星社にも引き継がれ、そのことが機縁となって、「解説宮崎最勝」の『青い鳥』の出版に至ったと思われる。

f:id:OdaMitsuo:20210629104718j:plain:h115(『まぼろし』)

 なお若月訳『青い鳥』は昭和四年に岩波文庫化され、戦後の昭和三十六年には岩波少年文庫にも収録されている。

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