出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1337 三宅雪嶺と『志賀重昂全集』

 『日本及日本人』(『日本人』)が三宅雪嶺や志賀重昂を中心とする政教社から刊行され、そこに前回の鵜崎鷺城『薩の海軍 長の陸軍』、中島端『支那分割の運命』、コナン・ドイル、藤野鉦齋訳『老雄実歴談』、『青木繁画集』、長谷川如是閑『額の男』『倫敦』、鳥居素川『頬杖つきて』、川東碧梧桐選『日本俳句鈔』第二集の一ページ出版広告を見て、あらためて政教社が書籍出版社であることを確認させられた。それに三宅も『出版人物事典』に立項されている。

(『日本人』創刊号) (『薩の海軍 長の陸軍』) (『支那分割の運命』)(『青木繁画集』) (『倫敦』)出版人物事典―明治-平成物故出版人

 [三宅雪嶺 みやけ・せつれい、本名雄二郎]一八六〇~1945(万延元~昭和二〇)政教社創業者。金沢生れ。東大哲学科卒。東大編輯所、文部省編輯局に勤務したが、一八八八年(明治二一)志賀重昂、井上円了、杉浦重剛らと政教社を創立、雑誌『日本人』を創刊、一九〇七年(明治四〇)『日本』を合併して『日本及日本人』と改題、主筆となった。また出版では雪嶺の著書『真善美日本人』『偽悪醜日本人』『我観小景』をはじめ、ベストセラーとなった志賀重昂の『日本風景論』などを出版した。二三年(大正一二)政教社を離れ、女婿中野正剛と『我観』を創刊した。四三年(昭和一八)第三回文化勲章を受賞。戦後(昭和二四~二九)に回想録『同時代史』全六巻が刊行された。

 (『日本風景論』)同時代史 第2巻 明治十一年より明治二十六年迄

 政教社の書籍に関して、岩波文庫の『日本風景論』『倫敦』は別にして、先述のものや雪嶺の著作を入手していないこともあって、これまで言及してこなかった。それでも筑摩書房の『明治文学全集』に『政教社文学集』『三宅雪嶺集』があることは承知していたし、架蔵しているのだが、何となく敷居が高い感じで、それほど親しんでこなかった。とりわけ前者は志賀重昂、杉浦重剛、陸羯南、福本日南、長澤別夫、内藤湖南篇で、馴染みがうすく、福本の「エミール・ゾラ」などを参照してきただけだった。

日本風景論 (岩波文庫)  倫敦!倫敦? (岩波文庫) 明治文學全集 37 政教社文學集  明治文學全集 33 三宅雪嶺集

 ところが志賀だけは『世界山水図説』(冨山房、明治四十四年初版、大正元年十五版)、『志賀重昂全集』(第二巻、同全集刊行会、昭和三年)を入手していた。ただ前者は教科書副読本的な学校採用書籍で、刊行は赤坂区霊南町の地球調査会事務所とのジョイント企画である。後者は重昂死後の翌年に、編輯者兼発行者を志賀富士男とするものである。彼はおそらく重昂の息子だと考えられるが、こちらは円本時代の「非売品」扱いで、刊行された全八巻の一冊であった。『日本近代文学大事典』の志賀の項のところにこの『全集』の扉が書影として示されているが、私が入手したのは函入菊判上製の一冊で、その装幀造本は『日本風景論』の著者にふさわしいギリシア文様をあしらい、その下にラクダの隊列を浮かび上がらせるというシックなものであった。

 (『世界山水図説』)   (日本図書センター復刻)

 したがって円本に則った「非売品」扱いでの全集予約出版形式、及びその装幀造本からして、単に重昂の子息が編輯者兼発行者として設立した全集刊行会から出版しただけだとは考えられず、有能な編集者と販売に通じた営業担当者がいたはずだと思われた。しかし手がかりがつかめず、取り上げてこなかったのである。そこで前回『日本及日本人』にふれるに及んで、その発行兼編輯人八太徳三郎などの政教社の編集者たちが志賀重昂全集刊行会のスタッフを務めたのではないかと思われてきたのである。

 それは先の立項でもみたように、雪嶺は他の同人たちとの間で意見の対立が生じていた。また大正九年創刊の『女性日本人』の不振、十二年の関東大震災による被害もあり、雪嶺の『日本及日本人』は九月で終刊となり、彼は中野正剛と『我観』を創刊する。他の同人たちは十三年政教社から『日本及日本人』を復刊するが、ナショナリズム的偏向が著しく、見るべきものは少ないとされる。

(創刊号)

 雪嶺と他の同人たちの対立、その際の重昂のポジション、政教社と『日本及日本人』編集部の復刊の関係は詳らかにしないが、昭和二年に重昂は亡くなっている。だがそれは円本時代の只中であり、『日本風景論』のベストセラーの著者にして地理学者、政治評論家の死が全集刊行へ向かうのは当然の成り行きだったし、政教社と『日本風景論』などの版権の問題も絡んでいたにちがいない。それゆえに発行所は政教社ではなく、新たに子息を編輯兼発行者とする志賀重昂全集刊行会が設立されたのではないだろうか。

 同会は志賀富士男の住所と同じ東京市外代々木に設けられているが、それはいずれもダミーのように思われるし、実際には彼に代わる編集兼発行者がいたはずで、それが『日本及日本人』の発行編輯人を務めた八太だった可能性も大いにありうる。だが長きにわたって留意しているにもかかわらず、八太が『近代出版史探索Ⅲ』558の井上哲次郎の関係者だったことしか判明していない。いずれ雪嶺の『同時代史』(岩波書店)も読まなければならない。


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古本夜話1336 鵜崎鷺城『頭を抱へて』と興成館書店

 前回の大正二年の『日本及日本人』第六〇四号のトップ書名記事に鷺城学人「誤られたる大隈伯」が挙げられていることにふれた。これは「人物評論」としての連載の一編のようで、武内理三他編『日本近現代史小辞典』(角川書店)を参照し、大正二年三月の政治状況を絡め、要約してみる。

日本近現代史小辞典 (角川小辞典 25)

 大正元年に西園寺内閣が陸軍の師団増設要求によって倒されると、不況下にあって緊急財政、減税を求める実業家などから軍閥批判が高まった。そうした政治状況下で軍の実力者の桂太郎が後任内閣を組織すると、政友会、国民党を中心とした憲政擁護運動へと発展し、大正二年に桂はそれに対し、自ら立憲同志会を組織し、解散をもって対抗しようとした。ところが二月に議会が民衆に取り巻かれ、やむなく総辞職した。これは大正政変とよばれ、鷺城が「過ぐる政変以来」と書き出しているのはそれを意味している。その桂内閣に代わって、山本権兵衛内閣が成立するのだが、大正四年にシーメンス事件で倒れ、大隈重信が立憲同志会を与党として内閣を組織するに至る。

 このような政治的過程において、大隈は明治四十三年に政界を退き、早大総長となっていたのである。それなのに政党争いに巻きこまれるようなかたちの大隈のカムバックは間違いで、鷺城は「政治よりも本業ならざる教育に成功せるを自覚し、専ら国民教育家として立ち」続けるべきだと論じている。そして「吾輩は彼を尊敬するがゆえに之を惜み、惜むが故に此一篇を草して彼の反省を促すのみ」と結んでいる。ところがそうはならず、大隈内閣が大正三年四月からスタートしていくのである。

 この鷺城学人は『日本近代文学大事典』に鵜崎鷺城として立項されているので、それを紹介も兼ねて引いておこう。

 鵜崎鷺城 うざきろじょう 明治六・一一・一~昭和九・一〇・二八(1973~1934)新聞記者、評論家。兵庫県の人。本名は熊吉。東京専門学校(現・早大)卒。明治四〇年「東京日日新聞」の記者となり「毎日電報」紙上に人物評論を連載して好評を博す。四二年国民党に参加し、古島一雄らとともに犬養毅を助けて党勢拡張に尽力。四五年東日を退き、以後昭和初年まで「日本及日本人」「中央公論」等において軍閥、財閥の批判に健筆を揮った。大正一一年、関門日日新聞主筆となる。著に『犬養毅伝』(昭七・一二 誠文堂)『人物小春秋』などがある。

 この立項によって、「誤られたる大隈伯」に顕著なように、鷺城が政界と政党のメカニズム、その権力闘争にも通じていることが了承される。この鷺城の著作を二十年ほど前に入手し、その後、谷沢永一が『遊星群』(和泉書院)で言及しているのを目にしているけれど、機会がなくて取り上げてこなかった。それは『頭を抱へて』で、裸本だが、蓮の花と葉をあしらった瀟洒な装幀であり、大正四年に京橋区南鞘町の興成館書店から刊行されている。発行者は西川清吉で、版元名と同じく、ここで初めて目にする。

遊星群―時代を語る好書録 明治篇   

 『頭を抱へて』は前半が「ラスキン情話」「文豪と女性」「神秘的の罪」などの英国文壇物語やベルギーの犯罪事件を対象とした長めのレポートといっていい。だが後半はそれこそ「誤られたる大隈伯」の続編ともいうべき「蒸直しの大隈内閣」から始まる「人物評伝」が十七本、それに類する政治状況論が二十編以上収録され、鷺城が西洋文学事情や世情にも通じ、「時事放談」も語ることができるジャーナリストで、それなりに人気があったことがうかがわれる。これらの掲載誌の記載はないが、多くが大正三年とある。

 (大正3年5月号) 
  
 しかし「自序」に明らかだが、大正政変下での『日本及日本人』における「人物評論」連載は物議をかもしていたようで、「本年は春来舌戦の東奔西馳した」し、相次いで妻子も病み、「しばし探薪の憂を抱く身となり」、それに加えて「精神上不快なること相亜で起れり」と述べている。そうした中にあって「如何に憂事の多き時も、余は読書と述作を廃する能はず。頭を抱へて書を読み、頭を抱へて筆を執る時、楽自ら箇中にあり」とも記し、本書のタイトルもそれに基づくことが明かされている。

 興成館の西川と鷺城の関係は前から続いていたようで、巻末の出版広告には鷺城の『野人の聲』『鳥の目だま』が見え、『頭を抱へて』の正価九十五銭に対して、前者が一円、後者が九十銭であることを考えると、いずれも同じ判型造本によると判断できよう。どのような装幀なのか、見てみたいと思う。古本屋で実物に会うことができるだろうか。

(『鳥の目だま』)


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古本夜話1335 政教社『日本及日本人』

 前回の満川亀太郎『三国干渉以後』において、大正三年に彼は『大日本』の編集者となり、その六年近くに及ぶ雑誌記者生活の中で、「日本国家改造と亜細亜復興問題」を生涯の事業と決意したと述べている。

三国干渉以後 (論創叢書) (論創社版)

 この『大日本』の立項は他に見出せないで、満川の記述によってラフスケッチしてみる。月刊雑誌『大日本』は民間の志士による大日本国防義会の創立を背景とし、『二六新報』記者で、民間海運通の第一人者である川島清治郎によって創刊され、満川もその同人の一人として編集に参与した。『大日本』は当時唯一の高級政治雑誌『太陽』を範とし、四六倍判二百六十頁が原則で、三色版口絵写真と地図の添付を特色とし、内容は陸海軍中心の国防評論や国際政局に関する原稿が主であった。創刊当時は経済的にも恵まれ、発行部数も一万二千部に達したが、営業方面にはほとんど無知だったことから、翌年には行き詰まり、社友組織としてあらため、川島と満川の二人だけが残って『大日本』の発行を続けたとされる。

 満川は『大日本』の創刊も第一次世界大戦を機とするもので、それ以後『二十世紀』『東方時論』『中外』『改造』『解放』『公論』があったが、現在も続いているのは『改造』だけだと述べている。まさに大正時代は本探索1331の婦人誌、女性誌のみならず、新しい雑誌の到来を迎えていた。『近代思想』『郷土研究』『我等』『新青年』『現代』『文藝春秋』『キング』もそうであり、本探索でも繰り返し指摘してきたが、明治四十一年に実業之日本社の『婦人世界』が返品委託制を採用するに至った。それとパラレルに明治以後の人口増や全国鉄道網の普及も相俟って、書店がそれまでの三千店から昭和初期には一万店に及ぶという販売インフラの拡大をも伴うものであった。

(『婦人世界』)

 だが満川をして、『日本及日本人』や国家改造、亜細亜復興問題へと向かわせたのはそれぞれの大正の新しい雑誌というよりも、中学生時代に読んだ明治時代創刊の雑誌であり、彼は次のように述べている。

 私は雑誌『大日本』を読む事を覚えた。羯南先生病みて経営を日銀文書局長たりし伊藤欽亮氏の手に譲つてから、社中同人との間に衝突が絶へなかつた。遂に三宅雪嶺博士以下二十余名の同人が日本新聞社を退いて雑誌『日本人』に立て籠り、『日本及日本人』と改題したのであつた。私は或る号に孫文の事蹟のかいてあるのを感読した。(中略)左様だ、私は一日も早く東京に行つて、これら支那革命党の諸士とも交つて見たいと考へた。

 これには若干の説明が必要あるので、『日本近代文学大事典』第五巻「新聞・雑誌」の一ページ半に及ぶ立項を参照しながら補足してみる。『日本及日本人』は『日本人』として明治二十一年に政教社から三宅雪嶺、志賀重昂を中心として創刊された。「当代の日本は創業の日本なり」と謳われ、当時の国際情勢野中での対外強硬と観念的な国民平等の主張を強くして始まった。それもあって二十四年までに四回も発行禁止となり、第一次は終わる。だがやはり三宅、志賀を中心として二十六年からの第二次、二十八年からの第三次が三十九年の四四九号まで続いていくのだが、四十年の四五〇号から『日本及日本人』と改題された。それは陸羯南が『日本』を伊藤に譲るに際して、政教社の方針を変更しないことが条件だったにもかかわらず、それが無視されたので、旧社員は『日本人』によることになり、『日本及日本人』とタイトルが変えられたのである。

(『日本人』創刊号)

 その『日本及日本人』の大正二年四月の六〇四号が手元にある。浜松の典昭堂で見つけた一冊で、菊倍判本文一四八ページであり、翌年の創刊号『大日本』はその倍の厚さだとわかる。表紙には三宅雪嶺主宰と記され、今月の題言「春風の心と秋水の脳」に続いて、この号のトップ記事「多くの重大問題を如何にする」「事業職業営業の区別」が並んでいる。そして中央に『日本及日本人』のタイトルが縦に置かれ、次の四本の署名記事があり、これらがこの号の目玉だと思われるので、それらを挙げてみる。

 (『日本及日本人』明治44年3月号)

 鷺城学人「誤られたる大隈伯」、中野正剛「憲政擁護根本論」、三井甲之「森博士のフアウスト訳」、管國観「新聞及び新聞記者」で、最後の「新聞及び新聞記者」は二回目の連載らしく、理想の新聞編輯局やベスト専門記者人選を行なっていて、明治と異なる大正のジャーナリズムの台頭をうかがわせているようだ。これは未見だが、『大日本』創刊の範として、おそらく満川亀太郎もこの号を読んでいたにちがいない。


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古本夜話1334 満川亀太郎『三国干渉以後』

 前回既述しておいたように、下中弥三郎『維新を語る』の出版をきっかけとして、維新懇話会が発足し、下中がその代表世話人となり、そのメンバーに満川亀太郎も名を連ねていた。

 

 実はこの満川も『維新を語る』の翌年に平凡社から自伝『三国干渉以後』を刊行している。大正八年から昭和十一年にかけての『満川亀太郎日記』(長谷川雄一他編 論創社、平成二十三年)の昭和十年のところを読むと、二月十二日に『三国干渉以後』を脱稿し、十六日には下中に届け、九月二十五日に「『三国干渉以後』五部を持ち帰る」とある。そこで以前入手した裸本の『三国干渉以後』の奥付を確認すると、九月二十三日発行と記載されているので、満川が平凡社に原稿を渡してから七か月後に出版の運びになったとわかる。「人名索引」も含めて四六判三四二ページの上製本の編集製作過程がわかるし、この時代の平凡社の奥付の発行日がほぼ正確であることも了承される。

(伝統と現代社版)三国干渉以後 (論創叢書) (論創社版) 満川亀太郎日記―大正八年‐昭和十一年

 『平凡社六十年史』によれば、大正七年に老荘会が結成される。これは左右の思想家、軍人、実業家を含み、堺利彦、吉野作造、北一輝などが名前を連ね、下中は満川の勧めでこれに加わっている。それぞれに思想的立場は異なっていたが、現状打破と新たな政策を求めることにおいて共通し、下中は大川周明を通じて、アジア主義の構想をふくらましていったとされる。それもあって、まず満川のプロフィルを『[現代日本]朝日人物事典』から引いてみよう。『近代日本社会運動史人物大事典』の立項よりも、こちらのほうが適切だと思われるからだ。

  

 満川亀太郎 みつかわ・かめたろう 1888・1・8~1936・5・12 国家主義者。大阪府生まれ。1907(明40)早大卒。軍国主義的雑誌『大日本』記者となり、多数の知名士と交際をもつ。18(大7)年米騒動に衝撃を受け、時局懇話会、老荘会を組織し、主催者として左右両グループを結集した。翌年8月、大川周明とはかり、老荘会の実践的右派を中心に、上海にいた北一輝を迎えて猶存社を結成した。猶存社の解散後は、大川とともに行地社をつくり、大学寮で国際問題などを教えた。昭和期には、32(昭7)年新日本国民同盟中央常任委員となる一方、33年より拓大教授として、学生の教育にうちこんだ。『黒人問題』など多数の著書があるが、自伝の『三国干渉以後』が有名。

 ここにアジア主義者としての満川の軌跡がそのグループとともにたどられている。それは大正七年の老荘会から始まり、猶存社、行地社として続いていくもので、本探索1295の北一輝の『支那革命外史』や『日本改造法案大綱』の出版とも併走している。また下中のほうにリンクさせれば、やはり大正八年に発足した啓明会を挙げられるし、これは下中の埼玉師範時代の教え子たちを中心とする教育団体で、『維新を語る』の出版に際し、維新懇話会と並んで啓明倶楽部へと引き継がれている。

 

 それからこれは『三国干渉以後』の「自序」を読んで知ったのだが、満川は前回挙げた平凡社の『大西郷全集』全三巻の編纂委員であり、その「大西郷五十年を記念する」仕事に参画したことが、『三国干渉以後』の発端となっているように思われる。同書刊行の昭和十年は「日清戦役四十年であると同時に、三国干渉遼東還付の四十年にも当たつてゐるのだ」。しかも「昭和十年三月二十七日、日本国民は正式連盟脱退の第一日を迎えへた」ことになる。そして満川は記している。

 一八九五年一九三五年、時を隔つる満四十年の歴史は、日本が白人勢力に対する屈服と反発との連続であつた。而して今や完全に過去の歴史を超克しつゝ、日本国家の上に輝かしき自由と光栄の日が来らんとしてゐる。北鉄問題の解決は、三国干渉劇の大団円であり、華府条約の廃棄は太平洋上に築かれたる記念碑でもあるのだ。

 いってみれば、『三国干渉以後』は満川の自伝であると同時に、アジア主義者満川から見られた「一八九五年―一九三五年、時を隔つる満四十年の歴史」に他ならないのである。

 それから『満川亀太郎日記』の「解題」に、『大百科事典』の「民権運動」項を担当しているとあった。そこで『大百科事典』の「民権運動」を繰ってみたのだが、「民族国家」「民族自決」「民族主義」はあっても、それらは住谷悦治によるもので、満川ではなく、しかも「民族運動」は見当らない。それをさらに確認するために、昭和九年に刊行された『大百科事典』最終巻の27所収の「編纂顧問及び執筆者」リストを見てみると、「執筆者」として「拓殖大学教授満川亀太郎(民族運動)」とある。『大百科事典』全巻に目を通すことはできないけれど、おそらく満川は「民族運動」関連の項目を引き受けていて、それが「民族運動」の立項を担ったと見なされたことから生じた誤解のように思われる。

odamitsuo.hatenablog.com


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古本夜話1333 下中弥三郎『維新を語る』と維新懇話会

 前回の維新社だが、『平凡社六十年史』はダイレクトに言及していないけれど、昭和六年の『大百科事典』の刊行後、満州事変などを背景として、下中弥三郎の社会活動が活発になっていったことが記述されている。これを補足しているのは『下中弥三郎事典』の「維新懇話会」の立項である。そうした下中の動向は農本主義に基づくナショナリスト的なポジションから国家社会主義への移行であり、政治運動としても表出していた。それを簡略にトレースしてみる。

 下中は昭和七年に結成された日本国民社会党準備委員会、後の新日本国民同盟、やはり同年の日本国家社会主義同盟などの中心メンバーとなり、前者の総務委員長、後者の顧問を引き受けていた。下中の政治活動で重要なのは新日本国民同盟との関係で、その綱領は資本主義的機構に基づく政党政治を打破し、天皇親政による独裁制と翼賛体制を樹立し、統制経済を推進しようとするものだった。対外的には列強資本主義のアジアからの追放と東亜新秩序の建設がスローガンで、昭和維新を叫ぶ革新派の青年将校や民間右派の関心を高めたとされる。

 そのために国民思想研究所機関誌『国民思想』が創刊され、そこに掲載された下中の「日本再建の原則と天皇政治の本義」は新日本国民同盟パンフレットとして出版された。そしてさらに昭和八年からは新日本国民同盟のアジア政策をコアとする大亜細亜協会が発足し、機関誌『大亜細亜主義』も創刊され、そこでも下中は健筆をふるい、後に理事長も務めることになる。

 こうした下中の活動から彼自身による『維新を語る』が生み出されたのであり、『国民思想』や『大亜細亜主義』と異なり、昭和九年に平凡社から刊行されている。手元にあるのは裸本だが、四六判上製五六九ページ、総ルビで『現代大衆文学全集』を想起させるし、実際に第一章「ペルリ来航と国論沸騰」から第十二章「戊申戦争と江戸開城」までがまさに新講談=「現代大衆文学」のような語り口で進められていく。つまり嘉永六年六月のペルリ来航から明治元年五月の上野戦争までの十五年間の歴史がそのようにして語られ、しかもそれは下中が『国民思想』に連載したものであった。彼はそのことも含め、「巻頭に一言」で次のように語っている。

  江戸川乱歩集 (現代大衆文学全集 第3巻) (『現代大衆文学全集』)

 昭和維新の機運が日に日に濃厚になるに伴れて、ふりかへつて明治維新の行程と真相を知りたいといふ欲求が若き人達の間に俄に高まつて来た。「維新史の研究には何を読めばよいか。」さういふ質問をしばゝゝ受ける。そんな時私は、サアと首をかたむけて考へて見る。どうも適当な本が出版されてゐない。学術的には、よい本であつても、偏よつた部分的の叙述である。一般に亘るものは簡に過ぎたり、学究的で読みづらくあつたり。

 ということで、自分の『国民思想』連載の維新物語が好評だったこともあり、一冊にまとめたと述べている。そして口絵写真に西郷隆盛、坂本龍馬、高杉晋作を一ページ掲載し、大久保利通、伊藤博文、岩倉具視、木戸孝允は明治五年の洋行中の集合写真で示し、「生一本の先駆者は早く死に、利巧ものが後まで残つて要位を占める」と一言付しているのは、下中の維新に対する視座を自ずと物語っていることになろう。

 それはまた巻末広告『大西郷全集』全三巻、『大西郷遺墨集』『大西郷詩選』、下中芳岳=弥三郎『西郷隆盛』に加えて、山川鵜市『神祇辞典』、権藤成卿『自治民範』の出版も下中の維新とリンクしていると見なしていいし、これらは平凡社というよりも、下中のこの時代の社外における政治活動の産物と考えるべきだろう。権藤の『自治民範』に関しては『近代出版史探索Ⅱ』242で既述している。
 
 (『自治民範』)

 『平凡社六十年史』は『維新を語る』が「下中弥三郎にとって『ひさびさの快著』で、徳富蘇峰などに激賞され、読者にも感銘を与えた」と記している。昭和七年の五・一五事件と同十一年の二・二六事件の狭間にあって。『維新を語る』はそれなりにリアルに読まれたことを意味しているのだろうか。ちなみに『下中弥三郎事典』には『維新を語る』の詳細な内容と反響がたどられている。

 この『維新を語る』の出版をきっかけにして、維新懇話会が発足している。この会は愛国諸団体によってその出版記念パーティが催され、そこに集った国家主義的革新団体が提起した組織で、民族、維新運動の連絡や統一化を強化し、そのための会合の必要性が話し合われ、下中がその代表世話人、事務所は大東亜協会に置かれたのである。それらのメンバーは『近代出版史探索Ⅴ』944の赤松克麿、津久井龍雄、『同Ⅱ』394の小池四郎、満川亀太郎、小栗慶太郎たちで、それを機として『国民思想』は『維新』へと改称されて平凡社からの発行となり、総合雑誌化して、懇話会の主張もそこに吸収されていったのである。『平凡社六十年史』の「発行雑誌一覧」には維新社編集『維新』の昭和九年創刊号と二号が平凡社、三号からは維新社発行、『陸軍画報』は昭和九年から十年にかけて、十七冊刊行し、十年後半から陸軍画報社発行となっている。両誌とも下中と平凡社を経由し、後に陸軍画報社へと継承されていったことになる。

(創刊号)  (昭和十年十一月号)


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