出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話 番外編その五の15 詩歌全集と山村暮鳥『聖三稜玻瑠』

 本探索でも挙げてきたように、詩歌に関する全集類として、中央公論社の『日本の詩歌』(全35巻、別館1巻、昭和四十四年)を参照している。本来であれば、中学時代に馴染んでいた新潮社の『日本詩人全集』(全34巻、同四十一年)のほうが望ましいのだが、古本屋で先に『日本の詩歌』の揃いを安く購入し、いずれ『日本詩人全集』も見つかるだろうと思っているうちに、三十年近くが過ぎてしまった。

  (『日本詩人全集』)

 なぜこのように書き出したかというと、昭和四十年代までは先の二つの外に、記憶にある全集やシリーズ名を思い出してみると、創元社の『現代日本詩人全集』、角川書店の『日本の詩集』に加えて、白凰社弥生書房からも詩のシリーズが刊行され、出版の分野に詩も確固たる位置を占め、詩の時代であったといえよう。しかし今世紀に入ると、思潮社の「現代詩文庫」は刊行され続けているものの、もはや詩の時代とはいえないだろう。

現代日本詩人全集〈第4巻〉―全詩集大成 (1953年) (『現代日本詩人全集』)(『日本の詩集』1)(「青春の詩集」14、白凰社)井上靖詩集 (世界の詩 74) (「世界の詩」74、弥生書房)(「現代詩文庫」)

 そのことを実感したのは山村慕鳥の『聖三稜玻瑠』に関して書くつもりでいたからだ。同書は大正四年の初版が手元にあるけれど、もちろん本当の初版ではなく、近代文学館の「名著複刻詩歌文学館〈紫陽花セット〉」(ほるぷ、昭和五十八年)としての一冊で、それも特製五円のほうの複刻だと考えられる。ベージュの夫婦函入に、もえぎ色の題簽が貼られ、並製ながら茶色の薄皮の表紙、天銀一〇〇ページの体裁で、大正時代の詩の出版の意気込みを象徴する一冊に他ならない。それもそのはずで、版元は本郷区千駄木町のにんぎよ詩社、発行者名は室生照道、すなわち犀星である。

 

 この『聖三稜玻瑠』のことを確認するために、『日本の詩歌』を見てみると、その13の『山村暮鳥福士幸次郎裏千家元麿百田宗治佐藤惣之助』に収録されていた。ところが『日本近代文学大事典』を繰ってみると、山村の立項は二ページに及び、その半分近くは『聖三稜玻瑠』を始めとする三詩集の解題に当てられていた。この『同事典』第三巻の刊行は昭和五十二年であり、これも詩の時代の反映で、山村の立項と詩集解題もその表象ということになろう。

 室生犀星はその序文「聖ぶりずみすとに与ふ」において、「貴兄の詩篇に鋭角な玻瑠状条韻律を発見したのは極めて最近である。其あるものに至つては手足を切るやうな刃物を持つてゐる。それは曾ての日本の詩人に比例なき新鮮なる景情を創つた」と述べている。それを示すためにどの詩を紹介すべきなのか、いささか迷ってしまった。「手足を切るやうな刃物的」な「囈語」「比類なき新鮮な景情」の「風景」を考えたが、やはり「鋭角な玻瑠状韻律」の特色は最も長い口語詩「À FUTUR」に求められるように思われるので、その第一連を引いてみる。

  まつてゐるのは誰。土のうへの芽
  の合奏の進行曲である。もがきく
  るしみ転げ廻つてゐる太陽の浮か
  れもの、心の向日葵の言葉。永遠に
  うまれない畸形な胎児のだんす、そ
  のうごめく純白な無数のあしの影
  私の肉体(からだ)は底のしれない孔だ
  らけ……銀の長柄の投げ鎗で事実
  がよるの讃美をかい探る。

このような言葉とリズムによって一八ページが続いていき、次のように結ばれている。

  わたしの騾馬は後方(うしろ)の丘の十字架
  に繋がれてゐる。そして嬾(ものう)くこの
  日長を所在なきに糧も惜まず鳴い
  てゐる。じょう

 この「À FUTUR」は『日本の詩歌』13の山村暮鳥アンソロジーにも収録されていないし、犀星が示す「玻瑠状韻律」にふさわしいのか留保がつくかもしれないが、暮鳥のキリスト教入信と洗礼、伝道としての経歴と離脱、ボードレールへの傾倒、萩原朔太郎、室生犀星との出会いと人魚詩社の設立、「卓上噴水』の創刊といった回路をたどると、「À FUTUR」がそれにバイブレーションしているのではないかと思われるのだ。

 それらに加えて、この『聖三稜玻瑠』の一冊は犀星がいうように、「もはや官能や感覚上の遊戯ではない。まことに恐るべき新代生活者が辿るものまにあの道」をたどって近代詩上に一紀元を画したとされる。並製のほうは見ていないのだが、おそらく時代からいって、取次・書店ルートでも流通販売されたはず、どのような読者と出会ったのか、気になるところである。

 なお本探索1516の『生理』にも加わっていたし、戦後になって先述の弥生書房から『山村暮鳥全集』が刊行されている。

 

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古本夜話 番外編その五14 堂本印象『看心有情』と図録『堂本印象 創造への挑戦』

 たまたま浜松の時代舎で、堂本印象『看心有情』を見つけ、その後で典昭堂で図録『堂本印象』を入手している。だが私は堂本に愛着を覚えているわけではないけれど、一日で二冊も見つけているのは偶然ではないように思われるので、ここで一編を書いておきたい。

 『看心有情』は四六判、函入、上製三五四ページで、版元は河原書店で、昭和十五年十二月初版、十六年二月四版とあり、好調な売れ行きがしのばれる。函絵はそうではないけれど、本体の表紙は白い花と緑の葉をあしらった鮮やかな色彩で、堂本が手がけた襖絵を彷彿とさせる。その「序」に見えるように、「指頭に拈ぜられた一茎の花に、千劫の至理を会するは難中の最難事」との意味をこめて描かれ、この随筆集は編まれているのだろう。「序」に示された掲載紙、誌は『朝日新聞』『中央公論』『文藝春秋』など二十余に及び、画家だけでなく、随筆家としても人気があり、それが版を重ねている理由だと推測される。奥付には「芸能叢書」1とあるので、それで堂本がトップに選ばれたのであろう。
 
 発行者の河原武四郎は『出版人物事典』に立項されているで、それを引いてみる。

出版人物事典: 明治-平成物故出版人

 [河原武四郎 かわはら・ぶしろう]一九〇〇~一九六八(明治三三~昭和四三)河原書店創業者。京都市生れ。京都府立一中卒。一九二七年(昭和二)京都・下鴨にカハラ書店を創業。書籍・雑誌の販売をはじめ、三三年(昭和八)ごろから茶道関係の出版に進み、三七年(昭和一二)、河原町通りに店舗を移してから、茶道・華道・謡曲・美術などの専門出版社としての基礎を固めた。太平洋戦争後、四六年(昭和二一)商号を河原書店に統一、さらに五〇年(昭和二五)社業を河原書店〈出版〉と河原書房〈小売〉に分離した。

 それで河原書店の住所が京都市中京区河原町であることを了承するし、戦後の淡交社の先駆けの版元ではなかったかと思われる。実は『堂本印象』のほうは、サブタイトル「創造への挑戦」を付し、京都府立堂本印象美術館編として、平成三十年に淡交社から刊行され、堂本を通じてリンクしていることになろう。こちらは図録なので、堂本の美術作品にふれるつもりでいたが、橋爪節也が「いの字絵本大阪の巻」として、「堂本印象の大阪」を寄せているので、本探索としてはその紹介を優先すべきだと判断し、それを紹介してみよう。

堂本印象 創造への挑戦

 堂本は明治四十三年に十九歳で京都市立美術工芸学校を卒業後、三越図案部や西陣の瀧村平蔵の工房で図案や下絵を描いたとされている。だが大正七年二十七歳日本画家を志し、京都市立絵画専門学校に入学するまでの八年間が空白だと橋爪は指摘し、それを探っていく。そして堂本が図案の仕事をしながら、大阪で多感な青年時代を過ごし、大阪の街や文化にのめりこんでいたのではないかと推測し、それを印象美術館が有する大阪を題材とする素描や油彩画に見て、さらに『いの字絵本』の書影とカラー口絵を示し、この一冊が堂本の「創作活動の原点」だったのではないかと述べている。

 この『いの字絵本』の版元は大阪東区の杉本梁江堂で、発行者の杉本要は心斎橋筋の書肆明善堂を経て、明治三十六年に杉本書店として独立し、三十八年に出版を始め、綱島梁川と木下尚江から一字をとり、屋号を杉本梁江堂とあらため、明治末から東京にも進出している。脇坂要太郎の『大阪出版六十年のあゆみ』に杉本梁江堂が「文芸書の東京版取次店として発足」とあることも、橋爪の記述を裏づけていよう。

 続けて橋爪は大正元年十月刊行の『いの字絵本』を具体的に紹介していく。このような「コマ絵画集」は復刻でもされないかぎり、見ることも読むこともできないと思われるが、その紹介は内容と画題も含め、五ページに及んでいるので、さわりの部分を引くしかない。

 印象を意味する丸に「い」の字を表紙にあしらい、大扉は「恋の都大阪の巻 いの字」のタイトルに道行を暗示する頬かぶりした男女の「がってん首」を木版で刷る。大阪毎日新聞社の角田浩々歌客(かくだこうこうかきゃく)が「印象画集序」を寄せて「京都芸術工芸学校出身堂本印象氏、其画く所の大阪風俗に半生の歌咏を添えて梓行するにつき序を予に求め来る。予は印象氏に初対面なるも、絵画を歌咏とを観るに、頗る才華なるものあるを覚ふ(後略)」と記した。
 口絵四点「がつてんくび」(図2)「住吉さまへ願かけ候」「夜の川づら」「花の宵」につづき、中扉からページ数を打って和装本仕立てになり、印象の創作になる次の少女の回想で本書は幕を開ける。

 それは「心中の都、美しい心中の都、私が一つ身の振袖姿だった頃」と始まっていくのだが、これも長いので引用を断念するしかない。その代わりに、橋爪の要約を示せば、「他のコマ絵画集にならい、本書もコマ絵と和歌や詩を組みあわせた文芸的要素を含み、蕪村の『春風馬堤曲』のように架空の少女を登場させ、全編を浪漫的でノスタルジックに染め上げる」というものだ。

 ちなみに「がつてんくび」(合点首)とは大阪の郷土玩具で、練り物や土製の首を木や竹の串につけたもので、堂本はそれを物語のメタファーとしている。また橋爪はこの時代の代表的コマ絵本として洛陽堂の竹久夢二『夢二画集春の巻』を挙げている。同書は『近代出版史探索Ⅲ』527で書名は挙げているけれど、入手していない。だがその代わりに同じく洛陽堂『都会スケッチ』『桜さく島 春のかはたれ』(『初版本複刻竹久夢二全集』、いずれもほるぷ出版)は手元にあるので、それらを見てみる。前者はまさにスケッチ集だが、後者は和本仕立てでコマ絵と詩文集で、こうした夢二本がコマ絵本の範となり、ひとつのブームを招集させたと考えられる。またこれらコマ絵本が大阪の赤本マンガの発祥だと見なすこともできよう。

  (『都会スケッチ』)(『桜さく島』)


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古本夜話 番外編その五の13 彫刻家朝倉文夫の随筆集『衣・食・住』

 続けて戦時下における画家の随筆集にふれてきたが、彫刻家の一冊もあって、それもここで書いておくべきだろう。

 それは朝倉文夫の『衣・食・住』で、昭和十七年に四谷区新宿の日本電建株式会社出版部(以下電建出版部)から刊行されている。発行者は末松義良で、版元名と同じく、ここで初めて目にする。巻末の出版広告を見ると、「本邦で最大の読者を持つ」住宅雑誌『朗』を発行し、『住み心地良い小住宅設計図集』を始めとする「電建叢書」、その関係書としての『中小住宅百撰集』などを刊行しているとわかる。社名とこれらの住宅書から考えれば、電建出版部は日本電建という建築会社の出版部と見なすこともできよう。

   

 それらに混じって、『衣・食・住』は刊行されたわけだが、そのキャッチコピーは「活眼社会万般に透徹する彫塑界の泰斗朝倉文夫先生が衣を語り食を説き住を指呼するこの随筆集は世界未曾有の困難に前進するわれゝゝ日本民族の生活人に、民族の根源を教へ今後の方向を示すものとして絶好の生活指導書となり、また座右必読書となるであらう」としたためられている。

 A5判函入、上製二五五ページ、装幀は朝倉によるもので、『日本近代文学大事典』における立項には『衣・食・住』が著者として挙がっていることからすれば、東京美術学校教授を務めるかたわらで上梓された自負する随筆集のように思える。その中からどれを紹介しようか、いささか迷ったのだが、彫刻家らしきいシーンが描かれている「牛の話」を選ぶことにする。それは次のようなものである。

 私が利根川で鱸釣りを初めるのが、毎年五月の二十日頃で揚雲雀を聞きながら釣船を流してゐると、両側の川原や土手の陽炎の中に草を食む牛の点景が、二匹三匹或は数匹と纏まつた自然の配置を作つてゐる。
 この牛が時々啼く、時には釣士の静寂気分を破られるやうな事がないでもないが、決して腹が立たない。あの啼き声には太古そのままの調律が含まれてゐて実に悠長なものだ。牛と云う動物そのものからもかうした感じを受ける事がある、殊に日向で反趨しているところなど見るとその感が強い。

 五月の利根川の鱸釣りの空の上には雲雀がさえずりながら飛び、川原や土手の陽炎の中で、牛たちが草を食み、その啼き声は「太古そのままの調律」が含まれ、それは牛の存在自体からも感じられる。まさに絵画のシーンのようでもあり、そこに牛を置くことによって、それは立体的なものとなり、彫刻家としての視線を重ね合わせてしまう。戦前においてはどこにでも牛のいる風景を見出すことができたのである。

 この「牛の話」とは別に、「鱸釣り」という一編も収録されていて、鱸は海の魚だというのが常識だが、川鱸はよほどの食通でないと知らないし、山国育ちでもあり、川鱸釣りが最も面白く、それ以外はほとんど釣ったこといがないと述べている。それを知ると、利根川、鱸、牛は三点セットのようでもあり、さらに立体的に迫ってくる気になってしまう。
 
 そこでこのような彫刻家の随筆集を担った編集者は誰かということになるのだが、朝倉は「序」において、「ここに集めたものなどを通じ、その裏に流れる何か」を認め、「この書の上梓を勧めた電建出版部の五十公野氏の狙いも多分この辺にあらう」と述べている。五十公野は先に示した「電建叢書」やその関連書の編集者とは考えられない。それは五十公野清一ではないだろうか。『日本近代文学大事典』に立項が見出せるので、それを引いてみる。

 五十公野清一 いずみのせいいち 明治三五・二・二六~昭和四一・六・二五(1902~1966)小説家。山形県生れ。高等小学校卒業後自家の農業に従事し、二一歳川崎浅野セメントに働く間を独学に励み大正一五年三月『農民』(草原社)を自費出版。以後土の芸術論を展開し昭和期を「文学建設者」「鷹」「民族」等同人雑誌に拠り、『大地主』(昭一七・二国文社)などを発表。戦後は少年小説、同野球小説などを多作。ほかに『巣について』(昭二三)『日本三球人』(昭四三)などの著書がある。


 

 そして「索引」と『近代日本社会運動史人物大事典』のほとんど同じ立項からすれば、五十公野が農民文学者で、伊藤永之介などの近傍にいた人物ではないかと推測される。戦後の児童文学の著者であることを考えれば、おそらく同一人物ではないかと思われる。

近代日本社会運動史人物大事典


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古本夜話 番外編その五の12 画家随筆集、津田青楓『懶六十三記』

 番外編その三の5の鏑木清方ではないけれど、戦時下において、多くの画家や美術家の随筆集が出されている。それはそうした分野の書籍の売れ行きの好調さを伝えているように思われる。

 今回の一冊は津田青楓『懶六十三記』で、昭和十八年に桜井書店から刊行されている。菊判上製一七七ページの裸本だが、表紙には亀の絵が描かれ、折りたたみのカラー口絵が四枚収録され、いずれも青楓によるものだ。青楓といえば、ただちに夏目漱石の『道草』『明暗』(いずれも岩波書店)の装幀、及び漱石に水彩画を教えたこと、また『夏目漱石』(「新潮日本文学アルバム」)に見られるように、「漱石山房と其弟子達」、漱石の「死に顔スケッチ」なども想起される。

     夏目漱石 新潮日本文学アルバム〈2〉

 津田は明治十三年生まれで、四十年に安井曾太郎とともにフランスに留学し、萩原守衛たちと知り合い、『坊ちゃん』や『吾輩は猫である』などを読み、親愛を覚え、帰国後の四十四年頃から漱石山房に出入りし始め、漱石の画の話し相手でもあった。そうした関係から未完の遺作『明暗』の装幀を担うことになったのであろう。

 この『懶六十三記』のタイトルは青楓が「叙」で断わっているように、「私の歳を記念してつけ」たもので、漱石の死から三十五年後になる。また「かうして集めて読み返してみると凡ては私の私生活の記録に過ぎなく、かゝる非常時に際して何の役にもたゝぬこの文集を世に送ることは洵に汗願(ママ)に堪へぬ次第です」と述べているが、逆に「非常時」ゆえに「この文集」は歓迎されたのではないだろうか。それは『坊ちゃん』などの語り口と『夢十夜』『硝子の中』の世界を彷彿とさせるからだ。ただ残念なことに奥付に初版部数は明記されておらず、定かではない。

 この随筆集には未見の『草筆』以後の十四編の「文殻」が収録されている。それらの中でも巻頭に置かれ、最も長い「雪国七日の記」を紹介すべきであろう。これは青楓ならではの『雪国』なのかもしれないし、もうひとつの戦時下における夢幻的世界の『雪国』(創元社)は昭和十年代のベストセラーとなっていた。それは拙稿「川端康成の『雪国』へ」(『古本探究Ⅲ』所収)で見たとおりだ。

 古本探究 (3)

 「雪国七日の記」は一月十三日から二十日にかけての、中学生用ズック靴を手にした写生旅行記といっていい。「藁沓を穿いて杖をついて、田口から野尻湖へ、雪を踏んでとぼとぼ歩いたのはもう廿年も昔のこととなつたが、そのころの印象が今も忘れられず、写生を目的として出掛けた」と始まっている。この「文殻」が書かれた年は不明であるけれど、二十年前といえば、大正時代のことだろうし、「藁沓」という言葉に時代がしのばれる。

 十三日の旅程は東京から長野駅に着いたのが四時過ぎで、すでに日没がせまり、粉雪が散らついていた。長野電鉄に乗り、湯田中からバスで渋温泉に向かい、金具屋に泊まった。一人旅は退屈なので、按摩をとり、志賀高原への馬橇の料金や野澤温泉のことなどを聞いた。渋温泉の金具屋は現在でも著名な旅館であるし、按摩との会話は勝新太郎の座頭市の映画を重ね合わせてしまう。

 十四日は部屋に陽がさしこみ、障子を開けて町を写生する。また写生帖を持って外出し、橋や寺の上から写生し、それから金具屋から上林まで歩いた。そこでの宿は塵表閣で、離れの別棟に案内された。お湯もつき、座敷も広々として美しく、炬燵の上には漱石の「白雲去来」という額が掲げられていた。この宿の先代が画家好きで歓待してくれたので、かつて四・五人で雪を写生にきたことがあった。この漱石の額にしても、そのような亡くなった先代の関係から得られたものなのであろう。青楓は馬橇で志賀高原にいくのを止め、「この静かな座敷で漱石の額の下でちよつと寝てみたくなつた」ことから泊まることにしたのである。

 ただ泊まることにしたのはいいが、所在がないので、町に出てみた。そして地獄谷まで十五町という立札を見て、そこに向かったけれど、空と山と雪道があるだけで、人の気配もなく、それらしいところは見えなかったし、熊らしき大きな足跡があったので引き返すことになった。少し戻ると人声が聞こえ、それは男二人、女一人の三人組だった。三人は地獄谷に行くつもりだったし、熊ではなく兎の足跡だといったので、青楓も引き返すことにし、ようやく谷に下りた。すると「流のそばの磧のやうな石のところから湯煙りが猛烈ないきほひで噴きあげてゐた。そのまはりの木柵は全部霧が漂つて層をなし、つららのやうに厚くもりあがつてゐた」。その後に「一つ二つ写生をした」とあるので、おそらくこの地獄谷の「寒そうな景色」を描いたと思われる。

 まだ七日どころか一日半にすぎないのだが、このように雪の中をたどり、宿に泊まり、写生をし、按摩や他の泊まり客たちと話をしたりする写生旅行の物語が淡々と記述され、流れていくのである。これが漱石を通じて青楓へと継承されていった「文殻」のエッセンスのように思われる。


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古本夜話 番外編その五の11 谷内六郎『旅の絵本』

 前回の伊藤永之介の『駐在所日記』上下はどこの古本屋で買ったのか、失念してしまったけれど、B6判並製で背のタイトルは褪色し、はがれかけていたので、均一台から拾ったように思われる。

(上巻)

 だがその谷内六郎の装幀は伊藤の巡査物語とそのまま重なるようで、これも誰なのかわからないが、谷内にそれを依頼した編集者のセンスを賞賛したくなる。とりわけ下巻の田園風景と川で魚とりをしている子供、彼に話しかけている巡査、道を歩いている少女を描いた表裏紙がつながる一枚の絵は、春の訪れを伝える空と川の青、黄線の丘と稲の芽生え、茶色の土はいずいれも鮮やかで、道沿いの木は生命の樹を思わせる。それに加えて、カバーを外してわかる本作の素紙絵も『駐在所日記』をそのまま彷彿とさせ、谷内が物語に寄り添うようにして、装幀を担ったと推測される。

 昭和三一年に『週刊新潮』が創刊され、谷内が表紙を受け持つことになるのだが、まだ知名度はそれほど高くなかったと思われる。といっても、五六年に谷内は鬼籍に入っているので、もはや版元や作家と同じく忘れ去られていないにしても、その名前や絵を思い出す人々は少なくなっているかもしれないので、『日本近代文学大事典』に見える立項を引いてみる。

  (創刊号)

 谷内六郎 たにうちろくろう 大正一〇・一二・二~昭和五六・一・二三(1921~1981)画家。東京生れ。駒沢小学校卒業後、持病のゼンソクにたたられながら工場見習い、看板店見習い、図案社、染色図案などを転々とし、その間にマンガや詩や童謡の投書を続ける。終戦後、本格的に自分の画をかくようになり、東北民話の幻想により独自の境地をひらく。「週刊新潮」の創刊号依頼の表紙画をはじめ、絵本、デザインのほか、童謡、随筆にも独特のものがある。画集『幼なごころの歌』(昭和四四・一二、新潮社)、『遠い日の絵本』(昭和五〇・五、新潮社)など。

幼なごころの歌―谷内六郎画集 (1969年)  

 ここで谷内の「東北民話の幻想」を知り、横尾忠則が彼とともに編み、没後に刊行され、遺著というべき一冊が『谷内六郎幻想記』(駸々堂、昭和五十六年)と題されていたことを想起した。おそらくそれもあって、谷内に『駐在所日記』の装幀の依頼がなされたのであろう。しかしその表紙絵は『谷内六郎幻想記』には見出されず 、『幼なごころの歌』『遠い日の絵本』に収録されているのかと思っていたが、それらに出会うことなく、時も流れてしまった。

 

 そうした中で、浜松の時代舎において、谷内の『旅の絵本』を見つけたのである。これはそれぞれの旅の話に谷内の絵を配したもので、昭和四〇年に修道社から、函入升型本として刊行されている。もちろん装幀は谷内だが、レイアウトは修道社の秋山修造が手がけていて、その思い入れがうかがえる。修道社と秋山に関しては『近代出版史探索Ⅲ』471で既述している。

 

 この『旅の絵本』を読んでいくと、「母のふるさと」とあり、それは静岡県の遠州森町で、母と訪ねたことが書かれている。彼女は森町出身の発明家、実業家の鈴木藤三郎に連れられて上京し、鈴木は大日本製糖を創立するので、谷内一族の多くがそれに参画していたようだ。そこには汽車から降りた母の姿と橋の下で魚とりをしている子供が描かれ、後者は『駐在所日記』の表紙を彷彿とさせ、そういえば、その背景に描かれていたのが汽車であることにも気づかされた。また「妹のいた景色」においては、やはり『駐在所日記』の表紙の少女が描かれ、次のような文章を読むことができる。

 ボクの育った世田谷付近はその頃田んぼや畑や丘で、小川にはメダカやフナやいろいろの魚がいて、とてものんびりしていました。
 春には、むせるような菜の花のにおいと、森の向こうに出るしろがね色のお月さま、桃の咲く丘に行くと、何だか甘いようなオヒナさまのボンボリのあかりのような春を感じました。

 このように書き出された「妹のいた景色」は自分が留守の間に妹が「昇天」してしまった事実にふれ、彼女の「昇天」の絵も添え、「妹よ、ゆるしておくれ、ボクはいじわるもしたね。妹よ、いつまでもボクの絵を描く手伝いをしておくれ」と書きつけられている。これらの「母のふるさと」と「妹のいた景色」の画文をあわせて『駐在所日記』下巻の表紙絵を描いたことになる。つまりそれは母と妹のいた風景でもあり、妹へのレクイエムでもあったのだ。

 森町に友人がいて、春になると山菜などを携え、訪ねてくるし、拙著『民家を改修する』は森町の宮大工によるものなので、今度二人が来たら、谷内のことを話してみよう。

民家を改修する


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