出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1070 幸田成友と『守貞謾稿』

 国学院大学出版部から刊行された『類聚近世風俗志』に対して、編者の室松岩雄が「序」で挙げていた「学会若しこれによって其の闕を補ひ、其の漏を充すことを得ば、吾人の幸又何ぞこれに過ぐるものあらん」との思いは通じたのであろうか。
f:id:OdaMitsuo:20200831115127j:plain:h110(『類聚近世風俗志 原名守貞漫稿』、国学院大学出版部)

 その出版に先駆け、幸田成友は書いている。彼は『大阪市史』の資料収集のために、上野の帝国図書館を訪れ、挿絵も本文も自筆である「細字の筆与本」「一大風俗志の稿本」に出会い、「守貞謾稿とその著者」(『幸田成友著作集』第六巻所収、中央公論社)を披露している。そこで守貞の「目録」も挙げ、「本書の特色」は「大阪、京、江戸三都を比較して記述した点」で、その例として「巻五飛脚屋」の部分を引用している。ちなみにまったく偶然ながら、昨夜DVDで、丸根賛太郎監督、市川右太衛門主演『天狗飛脚』(「日本名作映画集」39、Cosmo Contents)を観たばかりだ。

f:id:OdaMitsuo:20200901112323j:plain:h120 天狗飛脚

 それはともかく、幸田は「今之を謄写しようとすると、挿画の多いため、大略百五十円以上もかかると云ふ見込なので、『大阪市史』編纂掛に欲しいことは山々であるが、また謄写に着手する交渉になつて居ない」と述べている。これは『図書館雑誌』第四号(明治四十一年十月)に掲載されたもので、まだ国学院大学出版部の『類聚近世風俗志』は出ておらず、幸田にしても、その出版企画や近刊情報をつかんでいなかったことになる。知っていれば、「大略百五十円以上」ではなく、わずか上下巻六円で入手できるのだから、ただちに発注し、『大阪市史』編纂の寄与としたであろう。

 ところが編者の室松は幸田の「守貞謾稿と著者」を読んでいて、「序」に幸田の「守貞と云ふのは著者の名で、喜田川は北川を同君の美しい文字に改めたものと思はれる」の言を引用している。そしてその「序」と「緒言」はいずれも明治四十一年十一月付で記されていることからすれば、室松は幸田の同文を読み、ふまえた上で両者を書いているとわかる。

 それから四半世紀が過ぎ、幸田は「外題替」(『同著作集』第七巻所収)の中で、『類聚近世風俗志』に再び言及している。こちらは『書物展望』第五巻第一号(昭和十年一月)に掲載である。そこで幸田は徳川時代に外題替の実例が少なくなく、それは「不真面目な本屋が既刊の書物を新版の如く見せかけて、顧客を索かうとする計略で、その目的は射利以外に無い」とし、次のように続けている。

 かういふ悪弊が残つてゐるとすれば、それは現代の出版界の恥辱である。果して射利を目的としたか、どうか、そこまで言へぬが、(中略)明治四十一年に東京出版同志会なるものが『守貞謾稿』を出版し、『類聚近世風俗志』と改題した。(中略)然も同書の奥付を見ると、編輯者室松岩雄とある。故人の著者を復刻しながら、室松氏が自ら編輯者と称するのは甚だ奇怪である。室松氏は抑も何を編輯したのであるか、原本の巻数を分合し、順序に変更したのが編輯であるといふなら、我等はまた何をか言はんやである。

 幸田は『近代出版史探索Ⅲ』420の欣賞会のメンバーで、その著作集の第六巻が『書誌編』と銘打たれているように、彼の書誌学者としての業績、及びその碩学を認めるにやぶさかではないけれど、室松がここまでけなされると気の毒に思われる。それもあって、前回室松の「序」と「緒言」におけるまったく「射利」的でないエディターシップを紹介しておいたのである。
近代出版史探索Ⅲ

 もちろん私も『守貞謾稿』の実物は見ていないが、幸田にしてもその稿本を手にしたのはかなり前で、両者を比較検討した上でのものではない。なぜならば、「細字の筆写本」に加え、多くの挿絵がある「一大風俗志」の編輯と校丁は、「大略百五十円以上もかかる」「謄写」どころではない労力を必要とすることは自明のことだからだ。それを無視して、著者と自分の意図する『守貞謾稿』として出されなかったことに起因する非難は、編輯者室松への強い偏見と思いこみによるものと見なすべきではないだろうか。

 それらの事情を推理してみると、幸田は見たのは国学院大学出版部版ではなく、東京出版同志会版だったことに端を発しているように思われる。それに幸田のポジションからしても、大学出版部に対して、「現代の出版部の恥辱」という発言はなされないであろう。それならばその真相は何か。江戸を再見するエンサイクロペディアとも称すべき『類聚近世風俗志』の出版は時期尚早の企画で、それに長期の編集費、また流通販売の不得手な国学院大学出版部ということも重なり、まったく売れなかったし、それは幸田にしても編集や出版の企画情報をつかんでいなかったことに示されていよう。その結果、編集製作費も含め、原価回収もおぼつかなった。あるいはまた大学出版部として、ふさわしくない書物という評判も立ったのかもしれない。

 そこでその資金を捻出するために、東京出版同志会なる特価本業界に紙型が売られ、明治四十一年の初版日付と編輯者室松岩雄はそのままで、発行所が東京出版同志会と変えられた。そして様々な版が、書店というよりも特価本ルートによって流通販売されていく。その際にクローズアップされたのは第十八編の「妓扮」=遊女、第十九、二十編の「娼家」で、これらはとりわけ大きな挿絵も多く、『守貞謾稿』は「近世性風俗史」として受容されていったように思われる。

 それによって『類聚近世風俗志』も幸田の思いだけでなく、その内実とかけはなれ、赤本的イメージが付着してしまった。そのために幸田による「外題替」のような、編輯に対する誤解も生じてしまったのではないだろうか。それを確認するためには東京出版同志会版を入手しなければならない。


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1069 室松岩雄、国学院大学出版部、喜田川季荘『類聚近世風俗志』

 前回既述したように、 久保田彦作『鳥追阿松海上新話』を読むに際し、前田愛の「注釈」を参照している。それで気づいたのだが、その主要な部分は多くが喜田川季荘の『近世風俗志』、別名『守貞漫稿』を出典とするもので、前田はそのタイトルとして、後者を挙げている。しかし巻末の「参考文献」にその書名は含まれていない。
鳥追阿松海上新話(『鳥追阿松海上新話』国文学研究資料館、リプリント版)

 『守貞漫稿』は『世界名著大事典』(平凡社、昭和三十六年)で、著者を喜田川守貞として立項されているが、その解題は一ページ近くに及ぶ長いものなので、簡略に抽出してみる。著者の喜田川は江戸時代の人物で、文化七年大坂に生まれ、天保十一年に居を江戸に移したことは判明しているけれど、経歴、家職、没年などは定かでない。『守貞漫稿』は幕末期における江戸、大坂などの市井風俗、民間生活の見聞筆録、風俗史的考証研究で、それは天保八年に稿を起こし、嘉永六年に至るまでの十七年間に及び、さらに慶応三年の追記も含まれている。
世界名著大事典

 明治三十四年に浅草の書林の朝倉屋を通じて八十円で東京帝国図書館に納められた。そして稿本のまま収蔵され、貴重書に数えられていたが、松本愛重、山本信哉の監修、室松岩雄、古内三千代、保持照次の編集、校訂により、新たな目録を付し、上下二冊の体裁を整え、刊行された。ただ『世界名著大事典』はそれが『守貞漫稿』だけのタイトル出版でなかったことからなのか、版元などの書誌情報を記載していない。

 実はこれが手元にある。三十年ほど前に山中共古のことを調べるに当たって入手したもので、後に の編集参考資料となっている。現在であれば、宇佐美英機校訂『近世風俗志』 (全五巻、岩波文庫)が便利なのだが、当時はこの最初の版か、朝倉治彦編『守貞漫稿』(全三巻、東京堂出版)しかなく、古書目録で前者を見つけ、入手したのだと思う。前田愛注釈の『鳥追阿松海上新話』収録の『明治開化期文学集』は昭和四十五年刊行だから、彼の使用した『守貞漫稿』も同じだと見なしていい。

見付次第/共古日録抄 近世風俗志(岩波文庫版) f:id:OdaMitsuo:20200831145535j:plain:h110 f:id:OdaMitsuo:20200825091852j:plain:h110

 同書の正式なタイトルは『類聚近世風俗志 原名守貞漫稿』で、明治四十一年に発行所を東京市麹町区飯田川五丁目の国学院大学出版部、発行者を目黒和三郎、編輯者を村松岩雄として、上下巻で刊行されている。本扉裏には「国学院大学出版部〓(一字不明)」の朱印が大きく印刷され、同書が国学院大学出版部の嚆矢、もしくは満を持しての刊行であることを示しているかのようだ。同大学出版部の書籍はこの『類聚近世風俗志 』しか見ていないけれど、「国学院大学叢書」第一編の芳賀矢一編『日本趣味十種』(文教書院、大正十四年)は所持している。これにもやはり山中共古の「古銭の話」が収録されているからだ。このような事柄から推測すると、国学院大学は明治末期に出版部を立ち上げたが、長く続かず、大正時代に入って、出版物の流通と販売は、『日本趣味十種』を例とする文教書院などの外部の版元へと委託するようになったのかもしれない。
f:id:OdaMitsuo:20200831115127j:plain:h110(『類聚近世風俗志 原名守貞漫稿』、国学院大学出版部)f:id:OdaMitsuo:20200831120225j:plain:h110

 それらのことはさておき、『類聚近世風俗志』上下巻を見てみよう。私の架蔵本は菊判上製の裸本だが、それぞれ定価三円であるので、おそらく函入だったはずだ。編者はその序で、徳川の文化文政以後の泰西文物を詳述した記録はないと思っていたという前文に続けて、次のように述べている。

 然るに頃日図らず一書を得たり、守貞漫稿と云ふ。故喜田川季荘の筆になりて、其の載せたる所の編目は、先づ筆を時勢地理、人事家宅、生業通貨に起し、男女の扮粧、服装染織の変遷、華街狭斜の風情、歌舞音曲、梳沐傘屣、四季の慣例、日用の雑貨、童謡遊戯車駕に至るまで、洽く当時の社会の状態を写し来つて、前後三十余巻に及べり。殊に文化文政以後の情況を叙すること、頗る詳密を極む。盖しこれ著者深意の存する所こゝにあらむ。

 そして判明した限りでの喜多川と本稿の紹介を終えた後、「かく著者が一代の心血を注ぎ、畢生の脳漿を絞りしにも係らず、稿本の空しく筐底に納められて、徒らに蠧魚の巣窟に委せられんことを遺憾とし、茲に類聚近世風俗志と題し全編を刊行して之を江湖に分たむとす、学会若しこれによつて其の闕を補ひ、其の漏を充すことを得ば、吾人の幸又何ぞこれに過ぐるものあらん」と結ばれている。

 また「緒言」においては東京帝国図書館の貴重書のひとつである。ただ前集三十巻、後集四巻追補一巻の計三十五巻だが、そのうちの第二巻と第十七巻を欠いていると明記され、それを喜多川作成の「目録」で確認すると、「地理」と「女服」の二巻だとわかる。また「挿入せる絵画は一旦原書のまゝに謄写し、さらに之を写真により縮写彫刻して一も漏さず」とあり、挿絵がそのまますべて転載されたことも了解される。それから「巻首に細密な目録を付し索引に便ならしめたり」は新たに起こした目次を意味している。これは随筆であるから、表題もない場合も多く、それらを「要所」、もしくは「見出し易き語句」を抽出し、上巻だけでも五百を超える「目録」としたとの断わりも付されている。

 これらの「序」と「緒言」は、奥付に編輯者としてある室松岩雄の手になると判断できよう。先に監修者として松本愛重、山本信哉、編集、校丁者として、室松の他に古内三千代、保持照次の名前を挙げておいたけれど、主たる室松のことも消息がたどれない。監修者の松本に関しては、昭和十年の集古会名簿『千里相識』(書肆研究懇話会編、『書物関係雑誌細目集覧一』所収、日本古書通信社)に見出すことができる。それによれば松本は賛助会員で、安政四年生まれ、元学習院教授、現在同学院大学教授、「多年古事類苑編纂に従事」とある。また山本も同様で、国学院教授も務めている。ちなみに『世界名著大事典』の『古事類苑』を引くと、松本が明治十二年から四十年にかけての、主たる編集者だったことが述べられている。

 これらのことを考えると、室松たちの名前は『千里相識』にはないので、彼らは集古会関係者というよりも、『古事類苑』編集者で、『守貞漫稿』の単独出版を企画し、それが松本や山本を通じて国学院大学出版部の設立へともつながっていったのではないだろうか。


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1068 久保田彦作『鳥追阿松海上新話』と錦栄堂

 野崎左文は「草双紙と明治初期の新聞小説」(『増補私の見た明治文壇』所収)において、前回の『高橋阿伝夜刃譚』のような明治式草双紙の出現は新聞連載の「続き物」を単行本化したのが始まりで、明治十年以後流行し、書肆の店頭をにぎわすことになったと述べている。そしてその嚆矢、もしくは「明治初期に於ける草双紙の代表作としての価値あるものとすべき」は久保田彦作の『鳥追阿松海上新話』だと書き、次のように続けている。なお同書は『現代日本文学大年表』に見えているように、明治十一年一月に三編九冊が錦栄堂から刊行された。

増補私の見た明治文壇 高橋阿伝夜刃譚(『高橋阿伝夜刃譚』) 鳥追阿松海上新話(『鳥追阿松海上新話』国文学研究資料館、リプリント版) f:id:OdaMitsuo:20200813175200j:plain:h110

 此書は明治十年の仮名読新聞に連載されたのを更に単行本として発行したもので、絵画は昔の豊国、国貞ほど鮮やかなものでなく、彫刻も劣つては居るものゝ、俳優似顔は錦絵風の色刷りの表紙を用ひ、毎編上巻に淡彩の口絵もあつて、其体裁はすべて草双紙に則つたもので、唯だ相違の点は昔の総仮名書きを、振仮名付き漢字まじりの分に代へただけの事であつた。

 久保田の名前は『日本近代文学大事典』に見出せるので、それを要約してみる。弘化三年江戸生まれの狂言作者、戯作者。明治八年頃から河竹黙阿弥門下となり、黙阿弥と親交のあった仮名垣魯文に引き立てられ、『仮名読新聞』にも関係し、十一年には『鳥追阿松海上新話』を刊行し、戯作者として名をあげた。他の作品は『菊種延命袋』(錦栄堂)、『浪枕江の島新語』(延寿堂)、『荒磯割烹鯉魚腸』(青盛堂)。十二年創刊の『歌舞伎新報』の主筆ともなるが、劇界人としては不遇に終わった。これに付け加えると、『鳥追阿松海上新話』は久保田が編集者で、魯文の作とも伝えられている。
f:id:OdaMitsuo:20200825083612j:plain:h120(『浪枕江の島新語』)

 『鳥追阿松海上新話』は『明治開化期文学集(一)』(『明治文学全集』1、筑摩書房)と『明治開化期文学集』(『日本近代文学大系』1、角川書店)に収録されている。ここでは前田愛注釈による後者を参照してみる。この草双紙は「梅が香や乞食の家も覗かるゝと、晋子の吟の古き称えも新まる代の春立つ頃、東京(トウケイ)は未だ江戸と呼び、木挽町の采女が原に羽生の孤屋の板庇し、月洩軒の破損家に親子の非人あり」と始まっている。
明治文学全集』1 f:id:OdaMitsuo:20200825091852j:plain:h110

 漢字の「振仮名」の省略はともかく、前田の注を援用し、最小限の本文注釈をここに加えるべきであろう。「木挽町の采女が原」は江戸時代に馬場が設けられ、小屋掛芝居、講釈師、水茶屋、楊弓店などが軒を並べたにぎやかな盛り場であった。「羽生の孤屋の板庇し、月洩軒の破損家」とは非人の住む掘立小屋、あばら家を意味する。そしてそこに住む「親子の非人」とは近くの尾張町に「履物直しの露店」を張る夫の定五郎、「鳥追い」をなりわいとする妻のお千代と娘の阿松をさす。前田は「鳥追」について、「江戸時代、年の初めに、非人の女太夫が新服をつけ編笠をかぶり、鳥追歌をうたい、三弥線を弾き、人家の門に立って米銭を乞うたもの」という注釈を施している。また実際にそこには挿絵も転載され、「母娘」の鳥追姿及び「人も門より呼子鳥」的なシーンも目に入ってくる。

 そして阿松は「女太夫(をんなだいふ)の笠深く、包めど匂ふ島田髷、廿の上を二ツ三ツ、超ど花香は市中に高く」あるが、「顔に似もやらず、欲深き生れ」で、母のお千代にしても、「素より色もて俗業(なりはい)の助けと、我子に善らぬ道を承知でさせし事」を常套としていた。それゆえに阿松は「毒婦」として「善らぬ事のみ色にことよせ、種々悪計を廻らして」いくのであり、それがこの『鳥追阿松海上新話』に他ならない。彼女は「色香」で徴兵隊の濱田から二百円を騙しとったことを手始めに、同じ非人の愛人大坂吉とたくらみ、呉服店の番頭の忠蔵を美人局の罠にはめ、お千代が百円を奪う。

 しかしお千代は「悪しき道(みち)には賢こき」ことから、阿松と大坂吉の姿を隠し、吉の古郷の大阪へと逃そうとし、まず二人は父の非人仲間の安次郎をたよって品川へと向かう。その「安次郎がこゝろの内は如何なることを仕出すか、そは次の巻(まき)に解分(ときわく)べし」とあり、ここで最初の「巻」が終わったことを伝えているのだろう。

 阿松の物語の最初のところだけを紹介しただけだが、江戸から明治開花期にかけての「毒婦」物語の典型的コードが提出されているとわかる。「非人」を出自としてなのか、「顔に似もやらず、欲深き生れ」だが、「色香」「花香は市中に高く」、それをコアとして「毒婦」物語が生成されていくのである。

 私はかつて拙稿「霞亭文庫と玄文社」(『古本探究Ⅲ』所収)において、渡辺霞亭の『残月』(玄文社、大正八年)にふれ、その舞台背景が所謂「部落」で、露骨な差別を張りめぐらして成立していることを既述しておいた。阿松と同様な「御維新までは穢多非人と卑しまれたものの娘」といった記述もなされ、大正十一年の水平社の成立以後も、このような「非人」をめぐる言説は延命し、霞亭の家庭小説のみならず、時代小説や探偵小説にも見え隠れするかたちで継承されていったと考えられる。それは江戸時代からの草双紙の系譜上に成立した『鳥追阿松海上新話』などの物語が範となり、様々に変奏されていったのかもしれない。
古本探究3

 しかも『鳥追阿松海上新話』は前田が「明治初期戯作出版の動向」(『近代読者の成立』所収)で書いているように、「新聞がつくり出した最初のベストセラー」であった。初版千五百余部はほぼ即日完売で、版元の錦栄堂は第二編から数千部を用意した。そして合巻は八千部を売り切り、錦栄堂は倉を立て、企画者の番頭は当時として破格の五十円の賞与を受け、故郷に錦を飾ったという。前田によれば、「この八千部という数字は、このころの小説の発行印刷としては画期的な記録であった」。それを目論んで、翌年の明治十二年に前回の『高橋阿伝夜刃譚』が競合出版されていったのである。

f:id:OdaMitsuo:20200822114657j:plain:h110(筑摩書房版)

 またさらに木村毅「水平民族文献の研究」(『文芸東西南北』所収、東洋文庫)によれば、明治十六年頃に合冊にされ、『明治毒婦伝』として刊行されたようだが、こちらは入手に至っていない。
文芸東西南北


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1067 仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃譚』、辻文、金松堂

 東洋文庫の野崎左文『増補私の見た明治文壇』二分冊には、仮名垣魯文の追善集『仮名反古』(明治三十年)も収録され、そこには「西洋道中膝栗毛の末に一言す」「明治年間に於ける著述家の面影」「『高橋阿伝夜刃譚』と魯文翁」などの魯文追悼録、及びそれに関連する「草双紙と明治初期の新聞小説」「芳川春濤翁の伝」も見えている。
増補私の見た明治文壇

 ここでは『近代出版史探索Ⅲ』473で、邦枝完二『お伝地獄』を取り上げ、魯文の草双紙名も挙げていることもあり、「『高橋阿伝夜刃譚』と魯文翁」にふれてみたい。「毒婦」お伝の物語は先の拙稿でたどっておいたが、明治十二年一月に死刑と決した。それについて、野崎は述べている。

近代出版史探索Ⅲ 高橋阿伝夜刃譚 高橋阿伝夜刃譚(『高橋阿伝夜刃譚』国文学研究資料館、リプリント版)

 其の罪状を各新聞は競つて書立てお伝の写真や一枚摺りの錦絵なども売出され、市中到る処寄ると障るとこの毒婦の評判で持切り、処刑の当日などはお伝を観んとの好奇心で、押出した見物も頗る多かつたのである、そこで此機を外さずお伝の伝記を草双紙にして、売出さうと考へたのが、両国横山町の辻文で、魯文翁にその執筆を依頼し、同年二月即ちお伝が斬罪に処せられた後一ケ月足らずに、この『夜刃譚』の初版を発行したのである(後略)。

 明治開花期における毒婦お伝ブームは新聞、写真、錦絵、草双紙といったメディアミクス化を伴い、『夜刃譚』だけでなく、その他の草双紙も競合企画出版されていった。それを斎藤昌三の『現代日本文学大年表』で確認してみると、明治十二年二月に続けて、仮名垣魯文『高橋於(ママ)伝夜叉譚』(金松堂)、岡本勘造『其名も高橋毒婦のお伝東京奇聞』(島鮮堂)、五月には篠田仙果『正本綴合阿伝仮名書』(山松堂)が挙がっている。この『現代日本文学大年表』の『夜叉譚』表記は斎藤の間違いではなく、初編だけがそのようになっていたことに基づくとされる。
f:id:OdaMitsuo:20200813175200j:plain:h110(『現代日本文学大年表』)

 先の野崎稿は大正十五年に出された『高橋阿伝夜刃譚』(『明治文学名著全集』5所収、東京堂)に掲載したものだが、その版元は辻文、『現代日本文学大年表』では金松堂とある。この東京堂の全集は未見のままで、入手に至っていない。手元にある『夜刃譚』を収録した『明治開花期文学集(二)』(『明治文学全集』2、筑摩書房)においても、版元は辻文ではなく、金松堂となっている。辻文は江戸地本双紙問屋の辻岡屋文助の系譜を引き、明治を迎えても草双紙の出版を続けていたと思われるが、この時期に版元名を金松堂へと変えていたようで、魯文の「序」にも、野崎がいうところの辻文ではなく、「旧知の金松堂主人」と記されている。

f:id:OdaMitsuo:20200822103046p:plain:h110(『明治文学名著全集』5)『明治文学全集』2

 辻文=金松堂であることを裏付けているのは、前田愛の『近代読者の成立』(有精堂)の口絵写真に示され「金松堂出版目録」で、そこには「書物地本錦絵問屋」として、日本橋区横山町の「金松堂辻岡屋文助」が明記されている。またあらためて同書の「明治初期戯作出版の動向―近世出版機構の解体―」を読むと、『夜刃譚』などの生産が木版印刷により、流通販売が書物問屋や地本問屋、絵草紙屋や貸本屋に基づいていたことを再認識させる。つまり私のいう近代出版流通システムによっていたのであり、それでも『夜刃譚』は野崎によれば、四、五千部を売り尽くしたようだし、前田は『夜刃譚』の巻末に売捌店(取次・書店)の東日本リストが掲載されていることを指摘している。明治二十年代を迎えて、出版社・取次・書店からなる近代出版流通システムの誕生と成長のチャートは、拙著『出版社と書店はいかにして消えていくか』『書店の近代』などを参照されたい。

f:id:OdaMitsuo:20200822114657j:plain:h110(筑摩書房版)出版社と書店はいかにして消えていくか 書店の近代

 さてこれらをふまえて、『明治開花期文学集(二)』の『高橋阿伝夜刃譚』を繰ってみると、初編上の表紙は錦絵を思わせ、八編二十四冊が刊行され、そこには多くの挿絵が配置されているとわかる。こうした所謂合巻の読み方は挿絵にまず目を通し、物語や事件の内容、登場人物のキャラクターとその位置づけなどを推測した上で、本文を読み出し、その予想を確かめていくというものだったようだ。

 そのことを伝えるように、『明治文学全集』版の『夜刃譚』もほとんどのページに挿絵が転載され、まさに当時の新聞タイトルではないけれど、「絵入」小説の趣を感じさせる。ただ本文はぎっしりとつまった総ルビの組み方だから、挿絵がなければ、草双紙の愛読者以外は読み続けることが困難であったかもしれない。

 そしてまたこのように本版技術に基づく生産が活版技術に移行し始めると、それによっていた版元が退場しているのは必然だったというべきであろう。それは作者にしても同様で、『明治開花期文学集』全二巻に最も多い五作が収録された魯文にしても、明治二十三年には名納め会を開いて引退し、二十七年に没していることは象徴的のように思われる。


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1066 野崎左文『私の見た明治文壇』

 三回続けて、斎藤昌三、高木文、蛯原八郎の明治文学書誌学の礎石をたどってきたが、それらの原型、もしくは最も影響を与えた資料として、昭和二年に春陽堂から刊行された野崎左文の『私の見た明治文壇』が挙げられるであろう。残念ながら春陽堂版は未見であるけれど。
f:id:OdaMitsuo:20200820105200j:plain:h110(『私の見た明治文壇』、春陽堂版)

 そのことを示すように、『私の見た明治文壇』は「明治初期の新聞小説」などが、『明治文学回顧録集(一)』(『明治文学全集』98、筑摩書房)、『近代文学回想集』(『日本近代文学大系』60、角川書店)に収録されている。また十川信介編『明治文学回想集』(岩波文庫、平成十年)には「明治初期の新聞小説」の『早稲田文学』大正十四年三月号初出が収められ、続いて『増補私の見た明治文壇』(平凡社東洋文庫、同二十一年)も刊行され、平成を迎えても、明治初期文壇資料としての価値を伝えていよう。

>『明治文学全集』98 f:id:OdaMitsuo:20200820110740j:plain:h110 >『明治文学回想集明治文学全集』 増補私の見た明治文壇

 野崎に関しては『日本近代文学大事典』の立項を抽出してみる。新聞記者、狂歌師で、安政五年高知県に生れ、明治二年藩費生として上京し、大学南校などに学ぶ。六年鉄道寮の外国技師付き雇員、七年工部省技手となったが、九年に仮名垣魯文の門下となり、蟹垣左文と名づけられた。十三年に魯文の『仮名読新聞』に関係して以降、明治日報、いろは、絵入朝野、東京絵入、今日、浪華、東雲、関西日報、国会、万朝報などの各新聞社を転々とする。

 本探索1063で仮名垣魯文の名前を挙げておいたが、斎藤昌三の『現代日本文学大年表』を確認してみると、これらの新聞が明治十五年頃から、小説=「続き物」の掲載紙として出揃い始めている。このような新聞と小説の関係を熟知していた左文によって、「明治初期の新聞小説」を始めとする『私の見た明治文壇』が書かれたのである。「明治初期の新聞小説」の第一章「大新聞と小新聞」は次のように書き出されていた。
f:id:OdaMitsuo:20200813175200j:plain:h110(『現代日本文学大年表』)

 新聞小説の事を書くのに先だつて、日本の新聞が大小の名称を以つて区別された事を云つて置く必要がある。明治六七年から十年までの間に東京に於て発行されて居た新聞紙は東京日々新聞、郵便報知新聞、日新真事誌(明治八年廃刊)曙新聞(新聞雑誌改題)朝野新聞(公文通誌改題)読売新聞、平仮名絵入新聞(後東京絵入と改題)仮名読新聞花の都女新聞等であつた。此内報知新聞が両国薬研堀にあつたのを除く外は、言ひあわせたやうに銀座の煉瓦地に集まつて居た。

 そのために以前は活人形、猿芝居などが多く見世物町と呼ばれていたのが、「世人は銀座を新聞町と称へるに至つた」。そこで野崎は明治十四年に滑稽雑誌『於見喃誌(おみなんし)』(粋文社)を発行し、千輯屋文作の名前で「此の銀座の新聞雑誌を戯れに引手茶屋に擬し、その記者を娼妓に見立てた新聞細見」を掲載したのである。これはそのまま一ページが採録されているので、「其の当時を偲ぶ」必要があれば、それを見てほしい。そこには「桜池は桜痴居士福地源一郎」から始まる「源氏(げんじ)名に擬した名前主(なまへぬし)」も列挙されているからだ。

 またこれらの新聞が国家の政治を主とする「大(おほ)新聞」、世上の出来事、花街劇場通信に重きを置く「小(こ)新聞」にわかれていることを相異「対照表」で教示してくれる。そして紙幅の大小も含め、「大新聞」は中流以上の知識階級、「小新聞」は中流以下の社会を相手にする通信本位のものとされた。それに伴い、記者にも相違が生じ、前者は政治家、法律家、洋学者、官吏から転じた者、書生上がりで、筆も口も達者揃いだが、後者は戯作者、狂言作者、俳人歌人といった軟文学者が多く、筆一本で浮世の荒浪を渡ってきた苦労人の集まりでもあった。このような新聞や記者の相異は近代出版業界の形成においても大きく作用していたと思われる。

 それから「明治初期の新聞小説」は「新聞小説の嚆矢」「新聞小説の作法」「小説記者の生活状態」「新聞小説家の流派」「投書家の勢援」「小新聞の経営」「新聞挿画の沿革」「其他の思ひ出」と続き、野崎ならではの「新聞小説」と「明治文壇」の相関が描かれている。これらのエキスが伊藤整の『日本文壇史』に溶けこまされていることはいうまでもないが、それだけでなく、明治文学研究にしても、あるいは山田風太郎の明治開化物にしても、この『私の見た明治文壇』を抜きにして語れないであろう。

日本文壇史

 それらに加えて、近代出版史においても見逃せない証言もなされている。それは直接引用しておいたほうがいいだろう。

 明治十二三年頃より一旦新聞に出た小説を再び単行本として売出す事が流行し、盛んに之を発行した書肆は辻文、辻亀、鶴声堂、滑稽堂及び春陽堂の前主人が桜田本郷町に開店した頃であつた。それは小説が完結すると其の筆者は一旦用ひた挿絵の古版木を社から貰いひ受け、その木版と共に新聞切抜きの原稿を売るのであつて、書肆は之へ色摺の表紙、見通しの口絵を加へ、序文だけを木版に彫らせ、本文は活字にして之へ処々古版木の画を挿み、二冊以上のものは袋入にして売出すといふ順序であつた。此の体裁の小説本は四五年間は継続し之を明治式合巻と称へる人もあるやうだが、是れが後には石版画ボール表紙の西洋綴となり、三変四変して博文堂や春陽堂から出版する菊判やまと綴の小説本となつたのである。

 ここに掌を指すように、明治十年代からの新聞小説と著者と出版社の関係、その単行本かと造本のメカニズムと変容が語られ、春陽堂などの造本の謎が明かされていることになる。

 野崎は「野崎左文翁自伝」(柳田泉『随筆明治文学3』 所収、東洋文庫)によれば、明治二十八年に記者生活を打ち止めとし、日本鉄道会社の書記となり、その後鉄道院副参事として九年間勤め、大正三年に辞し、帰京して天笠浪人となっている。柳田は明治文化研究会の例会で、左文翁を知ったと述べていて、吉野作造を会長とする研究会の発足は大正十三年だから、左文も早い時期からの会員だったと考えられる。そして関東大震災後に盛んになり始めた明治文化研究に刺激を受け、自らも「明治初期の新聞小説」を発表し始める。そこには高木文の『明治全小説戯曲大観』への言及も見られ、研究会の人々の発表に寄り添うかたちで、『私の見た明治文壇』も書かれていったと推測できるのである。

随筆明治文学3 明治全小説戯曲大観(東出版復刻)


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら