出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1378 田中貢太郎『貢太郎見聞録』とシナ居酒屋放浪記

 実は上海滞在中の村松梢風を訪ねてきた人物もいるのである。それは『近代出版史探索Ⅲ』545の田中貢太郎で、しかも村松は「Y子」とともに彼を迎えたことを『魔都』で書いている。

 

 私とY子 がそんな生活を始めて四五日経つた処へ、私の親友の田中貢太郎が日本から到着した。其の日は珍しく小雨が降つてゐた。私は貢太郎が乗つて来る長崎丸を迎へに匯山碼頭へ行つた。船は定刻より少し遅れて一時頃に着いた。甲板へ出て陸を見てゐる一等船客の群れの中に背広の上へカーキー色のスプリングコートを着てペチヤンコの茶の中折帽を眼深に冠つてゐる真ん円つこい丈の低い貢太郎の姿を発見して私がハンカチを振りゝゝしてゐると、余程経つてから彼の方でも私を見出して、髭の中で顔を崩して笑ひ乍ら帽子を取つて振つて見せた。

 このシーンを引いたのは田中の洋服姿を伝えるためである。村松が田中を「親友」と述べているのは二人が『中央公論』の「説話欄」=情話物をともにして人気作家となったからで、田中の支那行きも、中央公論社で打ち合わせしてあったことによっている。しかもその際に、田中は土佐っ子であり、洋服を身に着けたことがなかったのだが、中央公論社近くの村松の懇意な洋服屋で服をあつらえ、それを着てきたのである。

 村松は初めて見る彼の洋服姿を「大変よくうつるぢやないか」とほめる。それはまだ大正を迎えても、洋服を着たことのない日本人が多く存在していた事実を物語っているのではないだろうか。それにおそらくその洋服は田中の中公文庫版『貢太郎見聞録』(大阪毎日新聞社、東京日日新聞社、大正十五年初版)のカバー裏写真に、照れくさそうに写っているカラーネクタイ姿のものと同じであろう。

(大阪毎日新聞社版) (中公文庫版)

 だが田中のほうは上海に何日かいただけで、地方旅行に出かけ、「江南の天地、風光明媚、酒に老酒がある。白楽天陶淵明の古事を学んで貢太郎の詩嚢肥ゆるばかりである。彼が這の回の紀行が、文章となつて現はれるときこそ、まさに刮目して睹るべきものがあらう」と村松は書きつけている。その村松の期待にたがわず、田中は帰国後に「シナ漫遊前記」「上海瞥見記」「美酒花雕記」を書き、『貢太郎見聞録』に収録されることになる。

 「シナ漫遊前記」は三人の知己の死をきっかけとして、ずっと考えていたシナ漫遊を決意したことなどが語られ、はまさに村松も出てきて、彼が『魔都』でふれている青蓮閣という茶館や競馬場にいったこと、支那料理の宴会や園遊会のことなどを俎上に載せているけれど、村松が記した「魔都」としての上海のイメージは淡く、また中里介山のような武術的な眼差しもなく、上海という都市も三者三様であることが伝わってくる。

 ちなみに「上海の内山書店」(『書店の近代』所収)や拙稿「『横光利一全集』と上海」(『古本探究Ⅱ』所収)も加えれば、五者五様というべきかもしれない。それでも村松の『魔都』はカレードスコープのような存在であり、同時代のパリやベルリンやニューヨークとも通底していることになろうか。

書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書) 古本探究 2

 しかし田中の本領が発揮されているのはやはり「美酒花雕記」に他ならない。それもそのはずで、田中が酒仙として、「シナで日本人にまで老酒(ラオチユ)としられている紹興酒(セウシンシユ)は、近世の美酒の一つであらう」ことを具体的に語っているからである。まず上海の杜甫の詩にもある酒家=酒桟(チユザン)へと出かけていく。「汚い所ですよ、しかし酒は佳いのですからね」という酒徒の言に誘われてであった。そして紹興酒のうちの花雕(ホーチヨー)が勧められ、田中が飲むと、「それは黄金色をした舌触りのとろとろした酒」で、師の大町桂月が「老酒はアルチュウにならないから、いくら飲んでも好いそうだ」といったことを思い出す。
 
 『貢太郎見聞録』は「桂月先生終焉記」で閉じられている。

 その桂月の言を受け、田中をこの酒家へと伴った詩人酒徒はいう。「そうです。この酒は、いくら飲んでも、ぐでんぐでんにはなりませんからね、いつまでも陶然として好い気持ちでいられるのですからね」と。この言はまさに「白楽天陶淵明の故事」をしのばせる酒のようにも思われる。それだけでなく、「ここは、料理にも飽き、茶屋酒にも飽いた者が、真箇に酒を飲みに来る所ですよ、ここでは、いつでも走りの肴を喫わす」酒家だといわれ、田中はそれらの目の前にある三、四皿の肴を挙げている。具体的にはそれらも引いてみたいのだが、漢字も難しく、すべてにルビつきで、どのようなものなのか判然としないので、それは見送ることにしよう。

 だがこの酒家に連れられていき、酒がよく肴がうまかったエピソードは村松の『魔都』でも語られ、翌日もまた出かけていることからすれば、本当にこの上海の南京路の王宝和(ワンポウアー)という酒家は名店であったのだろう。田中のシナ居酒屋放浪記はそれから揚州、蘇州、杭州と続き、南京までの紹興酒巡りも語られ、紹興酒の本場である紹興へとも向かう。それらに言及することはできないけれど、「美酒花雕記」は村松が予想したように、白楽天や陶淵明には及ばないけれど、「シナの銘酒の紹興酒/しんとろとろと旨い酒」に始まる戯句によって終わっている。


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1377 大谷光瑞『見真大師』と上海の大乗社

 前々回は村松梢風の『魔都』において、その不夜城にして物騒な都市の領域をクローズアップすることに終始してしまった。だが村松は上海の魔都だけに注視しているのでなく、思いがけない人々とも交流し、それらに言及している。例えば、「唯一の新芸術雑誌」である『創造』によっていた郭沫若、郁達夫、田漢、成灝たちで、彼らはほとんどが日本に留学し、帰国して上海で「新興芸術の先駆者」となっていた。村松は佐藤春夫の紹介状を持って、日本の博文館に相当する中華書局編集局に勤める田漢を訪ね、『創造』同人たちと親交を結ぶ。本探索1315の魯迅とエロシェンコではないけれど、一九二〇年代には中国においても新しい出版社が成長し、それに伴って新たな文学運動が起きていたのである。

 

 村松は彼らと交流するだけでなく、大谷光瑞も訪ね、それを『魔都』所収の「無憂国訪問記」として残している。これも中里介山が『遊於処々』で、大谷が長崎丸によく乗り、上海に住居もあるらしいと書いていることと符合するものだ。大谷に関しては『近代出版史探索Ⅳ』675で取り上げ、明治後期から大正にかけての西本願寺法主で、三次にわたる大谷探検隊を組織し、仏教東漸の遺跡を探る中央アジア調査を行ない、当時の日本の敦煌学に大きな影響を与えた人物で、昭和に入ってからは南進論者へと変貌していったことなどにふれておいた。

 だがその後、浜松の時代舎で大谷の『見真大師』を入手している。これは第一章「総序」に示されているように、徳富蘇峰の慫慂によって書かれた親鸞論であり、「大師に関する現代の通俗流伝せる悪書の妄を弁じ、併て其の真相を世に公示」し、「大師の裔孫にして、祖徳を紹述するは孝道是より大なるはなし」との意図に基づく一冊ということになる。しかしここではその内容に立ち入らず、同書と介山の証言、村松の「訪問記」をリンクさせてみよう。

 その前に先の拙稿ではふれてこなかった大谷の軌跡を補足説明しておかなければならない。彼の教団改革や大谷探検隊などは西本願寺の莫大な財政負担と疑獄を生じさせ、その責任をとり、大正三年に法主を辞任する。そして中国で農園を経営し、八年に光寿会を結成して総裁となり、機関誌『大乗』を創刊し、仏教の立場から大アジア主義を唱えたとされる。

 実際にこの『見真大師』は上海の大乗社からの刊行で、大正十一年十二月発行、十二年二月七版、その発行者は上海星加坡十五号の橘瑞超とある。彼は深田久弥『中央アジア探検史』(白水社)で大谷とともに章が割かれ、写真入りで、大谷の探検隊の随行員や事業秘書だったとされている。発売所は大阪市南区の中山太陽堂太陽閣、東京市京橋区の民友社となっている。前者は拙稿「大佛次郎と『苦楽』」(『古雑誌探究』所収)などでふれている、後のプラトン社と見なせるし、後者は本探索1346で示しておいたように、徳富蘇峰との関係から日本での発売所を引き受けたと考えられる。

中央アジア探検史  古雑誌探究

 また奥付裏の巻末には『大乗』の二面広告が掲載され、一ページは破れて欠けているが、そのメインコピー「読め!! 智者は大乗を読むが故に世界の進歩に後れず。愚者は大乗を読まざるが故に世界の進歩に後る」が目に入る。このようなコンセプトからすると、大谷は上海発の『大乗』を総合雑誌的に目論んで創刊したのかもしれない。それをうかがわせているのは『大乗』の「大売捌所」で、民友社と中山太陽堂の他に、京都市の共盛社、上海の日華仏教会、大連市の大阪屋号、朝鮮京城の本願寺別院の文書伝道部が列挙されている。これらは大乗社の取次で、外地だけでなく、このルートで東京堂などの大取次や全国の書店にも流通販売が可能だったと考えられる。このうちの日華仏教会は「大谷光瑞師著作書目」として、『大無量寿経義疏』などの書籍を刊行し、その広告も『見真大師』に同じく併載されているのである。

 このように大谷は上海において、仏教と出版活動を併走させていたことになるし、村松は紹介者を得て、その大谷を訪問する。その三日前に、三井物産の園遊会に招かれ、そこに「霜降の背広に茶の中折帽を冠つてゐる赭顔無髯の大兵肥満の男が居て、数名の人々に取り巻かれつゝ園内を横行濶歩してゐる有様が一と際目立つ」ていた。それが大谷だったのである。大谷は上海の郊外のシンガポールロードの宏大な邸宅と庭園を有する「無憂国」に住んでいた。村松の目的は「当代の傑物」と世間で評判の大谷に会って教えを受けることにあった。

 大谷の立て続けの談話を聞きながら、村松は尋ねる。「物には中心がある筈です。一体先生の本領は何処にあるので御座います? 私はそれが承はり度い」。するとそれに対して、大谷は「海外といふ観念をば日本の国民の頭に注入することを生涯の仕事と致して居る」と答え、続けている。「大谷光瑞は坊主でも政治家でも其の他の何者でも御座りません、只、海外観念の教育家を以て私(ママ)かに任じて居る男で彼のする一切の事が其の方便である」と。それを聞き、村松は大谷が「海外観念の教育家」だと、「天下に向って公弁する」気になったのである。だがそのうちに大谷は日本の労働者の移民には反対で、日本人は「智力労働」には適しているが、「筋肉労働」には不適当だといい始め、「筋肉労働者は労働のうちで最も卑しいもの」で、「総理大臣は智力労働者の最上位に位するもの」だと語るのである。

 その大谷に言説を受け、村松は「無憂国訪問記」を次のように閉じている。

 不幸にして私は総理大臣が一番偉い労働者とも亦一番偉い人間だとも思つてゐない。私は大谷光瑞先生と自分との間に根本的に思想の扞格のある事が分つたので、最早此の高説を拝聴することは止めにして、蒼惶としてお暇を頂戴した。


odamitsuo.hatenablog.com
odamitsuo.hatenablog.com

[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1376 芥川龍之介『支那游記』

 前回、芥川龍之介の『江南の扉』にふれたが、その後、浜松の典昭堂で同じく芥川の『支那游記』を見つけてしまった。改造社から大正十四年十月初版発行、入手したのは十五年五月の訂正版である。それは函無しの裸本で、褪色が激しく、背のタイトルも著者名も判読できなかったけれど、表紙の紅色だけがその名残りをとどめているかのようだった。四六判上製二六五ページにもかかわらず、芥川が『支那游記』にこめた愛着、それにコットン紙を使っているので、厚さは四センチに及び、装幀、造本へのこだわりを感じさせる。

 

 そのことを伝えるごとく、この一冊は「薄田淳介氏」に捧げられ、小穴隆一画、伊上凡骨刻、神代種亮校とある。薄田はいうまでもなく泣菫、小穴は常に芥川の近傍にいて、その装幀を担った画家、伊上は紙面設計の木版師、神代は「校正の神様」と称された人物で、『支那游記』は小説ではないが、満を持して送り出された芥川の入魂の一冊のように思われる。巻末には詳細な「芥川龍之介著作目録」も添えられていることも、それを物語っていよう。

 そうした思い入れは芥川の「自序」にも明らかなので、ルビは省き、それを引いてみる。

 「支那游記」一巻は畢竟天の僕に恵んだ(或は僕に災ひした)Journalist 的才能の産物である。僕は大阪毎日新聞社の命をうけ、大正十年三月下旬から同年七月上旬に至る一百二十余日の間に、上海、南京、九江、漢口、長沙、洛陽、北京、大同、天津等を遍歴した。それから日本へ帰つた後、「上海游記」や「江南游記」を一日に一回づつ執筆した。「長江游記」も「江南游記」の後にやはり一日に一回づつ執筆しかけた未完成品である。(中略)しかし僕のジヤアナリスト的才能はこれ等の通信にも電光のやうに、――少なくとも芝居の電光のやうに閃いてゐることは確かである。

 ここに『支那游記』の期間が「一百二十余日」とあるのを見て、思わずサドのソドムの『ソドムの百二十日』(佐藤晴夫訳、青土社)を連想してしまった。それはたまたま四方田犬彦の大作『パゾリーニ』(作品社)を読んでいて、パゾリーニの遺作が『ソドムの百二十日』を原作とする『サロ』であったことにもよっている。また岡本かの子が芥川をモデルとする「鶴は病みき」(岡本かの子全集』第二巻『所収、冬樹社)において、それこそ支那旅行で病毒を負い、後の自死へと結びついたのではないかという推論を提出していたことを思い出したからでもある。

ソドムの百二十日  パゾリーニ  岡本かの子全集〈第2巻〉 (1974年)

 芥川は『支那游記』で自らいうように「ジヤアナリスト的才能」を発揮する文章に徹し、著名人との会見や通常の旅程に基づく見聞体験を主としているのだが、それでも「上海游記」にあっては「見聞しただけ」との断わりを入れ、「悪の都会」の実相にふれている。犯罪、売淫、阿片窟などが語られ、茶館では薄暮に近い頃から無数の売笑婦が集まり、彼女たちは「野雉(イエテイ)」と呼ばれ、日本人の姿を見ると、「アナタ、アナタ」と集まってくるとレポートされている。夜になると、「人力車に乗った野雉たちが、必何人もうろついてゐます。この連中は客があると、その客は自分の車に乗せ、自分は歩いて彼等の家へつれこむと云ふのが習慣」で、「彼等はどう云ふ料簡か、大抵眼鏡をかけてゐます」とも述べられている。もっともそれは支那の「新流行の一つかも」と付け加えているが。

 かつては封建主義者を名乗り、支那にこだわり続けている呉智英がどこかで眼鏡女好きをカミングアウトしていたことを記憶しているが、それは芥川の語るエピソードと重なっているのかもしれない。それはともかく、芥川がいわゆる「猟奇」や「変態」にも言及しているのは印象的で、それらのターム流行の起源は梅原北明たちの出版ではないけれど、上海にあったのではないかとも考えられるのであり、そこにはなんとサドも登場し、「魔鏡党」とか「男堂子」も挙がっている。

 男堂子とは女の為に、男が媚を売るのであり、魔鏡党とは客の為に女が淫戯を見せるのださうです。そんな事を聞かされると、往来を通る支那人の中にも、弁髪を下げたMarquis de Sade なぞは何人もゐさうな気がして来ます。また実際にゐるのでせう、

 またさらに「屍姦」の実例、シベリア方面からの怪しい西洋人たちの徘徊、彼らのいかがわいしいカフェの存在と重なり、郊外に近いデル・モンテにたむろする女たちも英語の詩が引用され、言及されている。

 このような芥川の小説とはニュアンスの異なる記述を読んでいくと、彼がいうところの「ジヤアナリスト的才能」を発揮しての支那ルポタージュを目論んでいたとわかる。それに本探索でも後述することになるが、一九一〇年代から二〇年代、すなわち日本の大正時代はジャーナリズムの台頭、いってみれば、インターナショナルなルポタージュとノンフィクションの隆盛の時期でもあったし、海外の出版状況に通じていた芥川もその事実は十分に承知していたはずだ。いやそればかりか、自らを解放する道筋をそこに求めようとしたのかもしれない。

 しかしそれはかなわず、拙稿「芥川龍之介と丸善」(『書店の近代』所収)でふれておいたように、遺稿となった『或阿呆の一生』や『歯車』へと向かい、自死へと至るのである。彼の死に関してはこれも拙稿「芥川龍之介の死と二つの追悼号」(『古雑誌探究』所収)を参照されたい。

書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書) 古雑誌探究


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1375 村松梢風『魔都』

 前々回の中里介山の『遊於処々』において、上海に向かう長崎丸の利用者に村松梢風たちがいると述べられていた。それを読み、村松に上海を舞台とした『魔都』という一冊があり、しばらく前に浜松の時代舎で入手したことを思い出した。

 

 同書は四六判上製のかなり疲れた裸本で、背のタイトルは褪色のためはっきり読めず、本体の表紙の金箔の絵のところにようやく『魔都』が見てとれ、著者名に至っては本扉によって村松梢風だとわかる。しかも乱丁本であった。『近代出版史探索Ⅴ』899で、久生十蘭の昭和十年代の東京を舞台とする『魔都』を取り上げているが、こちらは『近代出版史探索』169の村松梢風による上海が『魔都』として描かれたことになる。

 

 ただ介山が長崎丸で上海に向かったのは昭和六年だったが、村松の場合は大正十二年三月で、二ヵ月余り滞在し、その間の出来事と見聞をベースとして、彼ならではの情話的な『魔都』など三編の他に、「江南雑筆」を始めとするエッセイ六編を書いたのである。それは大正十三年に発行者を小西栄三郎とする神田小川町の小西書店からの刊行だが、この三〇七ページの一冊は大正十二年の上海のリアルなレポートでもあり、それに先立つ同十年の芥川龍之介「湖南の扉」(『湖南の扉』所収、文藝春秋社出版部、昭和二年)とは異なる同時代の中国物といっていいだろう。実際に『魔都』には芥川への言及も見えている。

 それほど期待して読み始めたわけではないけれど、この『魔都』はまるごと上海を対象としている一冊に他ならず、その同時体的臨場感は比類のないリアリティに満ちていたし、それは出来事や人物も含めてだった。村松がその「自序」で述べている言はその事実を肯っていよう。そこで彼は「変った世界を見ること」、及び「変化と刺激に富む生活を欲した」と書いている。だがその理由にはふれられていないけれど、関東大震災の半年前だったことは留意すべきだろう。上海は揚子江流域の主要な港、工業の中心地、中国人街、治外法権の国際租界が錯綜する都市だった。つまり上海は日本から最も近い「魔都」だったのだ。

 私の其の目的には、上海は最も適合した土地であつた。それは見様に依つては実に不思議な都会であつた。其処は世界各国の人種が混然として雑居して、そしてあらゆる国々の人情や風俗や習慣が、何んの統一もなく現はれてゐた。それは巨大なるコスモポリタンクラブであつた。其變には文明の光が燦然として輝いてゐると同時に、あらゆる秘密や罪悪が悪魔の巣のやうに渦巻いてゐた。極端なる自由、眩惑させる華美な生活、胸苦しい淫蕩の空気地獄のやうな凄惨などん底生活―—それらの極端な現象が露骨に、或は陰然と、漲つてゐた。天国であると同時に、其処は地獄の都であつた。私は雀躍りして其の中へ飛び込んで行つた。然るに私は其処で図らずも一つの事件にぶつかつた。そして其の事件を背負つたまゝで日本へ還つて来たのだ。

 この「一つの事件」は村松の上海での二十六歳の女性との出会いで、「特殊な関係」が生じてしまったことをさす。彼女は社交ダンスの教授をしていたが、「殆んどあらゆる人生を経験して来てゐる」という「美貌と情熱と本気」「凄惨な魅力」を備えていたことから、「彼女をモデルとする長編の創作を試みようと決心」し、同棲するに至る。その「Y子」のことは『魔都』においてまさに宿命の女のように描かれているのだが、ここではそれよりもやはり上海という「天国であると同時に、其処は地獄の都」に言及しておくべきだろう。それは介山が描いた上海とも色彩が異なるし、村松は書いている。

 あらゆる文明の設備が完全して、華やかに美しく、そしてほしいまゝな歓楽に飽くことを知らぬ上海といふ都会は、一歩裏面へ踏み込むと、陰惨とした物凄い幕で包まれてしまふ。其処では有らゆる犯罪が行はれ、あらゆる罪悪を以て充満されてゐる。泥棒、殺人、詐欺、賭博、誘拐、密輸人、秘密結社、淫売、脅迫、美人局、阿片吸引――そのほか大小無数の犯罪が白昼でも深夜でも、処嫌はず年がら年中行なはれてゐる。そうしてそれらの悪漢共は誰れ憚らず大手を振つて歩いてゐる。

 そして村松はある人の言葉として、「上海の往来を歩いてゐて、男が来たら泥棒と思ひ玉へ、女が来たら淫売婦だと思ひ玉へ」を引いている。また日本人女性が繁華街のショーウィンドーに見惚れたところ、西洋人の自動車に連れこまれ、行方不明になった話なども語られ、エドガール・モランの『オルレアンのうわさ』(杉山光信訳、みすず書房)ならぬ、様々な「上海のうわさ」が列挙されていく。上海は「かうした探偵小説の発端になりさうな話」が多く伝わる都市なのだ。  
オルレアンのうわさ―女性誘拐のうわさとその神話作用    

 村松は「臆病者」を自称しながらも、その物騒な都市を観察し、不夜城といえる上海の夜の世界を彷徨し始める。そうした夜の果てに何が待ち受けていたのか、それは『魔都』を読んでもらうしかないのだが、残念なことに村松のこの一冊はそのままのかたちで復刻されていないと思われる。

 なお念のために梢風の孫の村松友視『鎌倉のおばさん』(新潮社、平成九年)を確認したが、「Y子」は「よし子」として出てくるけれど、「鎌倉のおばさん」ではなかった。それはもうひとりの上海の女で、絹江という愛人だったのである。

鎌倉のおばさん (新潮文庫)  


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1374 中里介山『日本武術神妙記』と国書刊行会『武術叢書』

 かつて国木田独歩とともに「同じく出版者としての中里介山」(『古本探究Ⅱ』所収)を書いた際にはその内容に言及しなかったけれど、昭和八年の介山の大菩薩峠刊行会版『日本武術神妙記』 の書影だけを掲載しておいた。

古本探究 2   

 ところが前回の隣人之友社版『遊於処々』の巻末にその一ページ広告があり、そこに見える内容紹介の文言は介山自らの手になるものとも推測される。いってみれば、大正の時代小説の勃興に伴う武術の発見という趣もあるので、ここにそのまま引いてみる。

(『遊於処々』)

 日本は武術の天才国である。これは神武天皇建国以前以後を通じての国民性であつて、邪を破り正を顕はす神聖なる力の体現である。決して蛮力の変形でも無ければミリタリズムの発現でもない。今や日本精神、日本精神といふ声が一代に満つるけれども、日本武術の神妙を知らなければ、日本精神を理解することは出来ない、日本武術のうち、戦国時代より徳川初期へかけての「流派」創成時代が即ち武術が科学的となり、芸術的となつて、この神秘を表象したのである、本書は爾来維新前後に至るまでの、数百流の日本武術の枠を抜き、各々典拠ある記録により、含蓄豊かなる筆を以て、その神秘の仕合、悟道、実験を写したものであるから読んで無限の趣味あり、旧来の小説講談の荒唐無稽を一掃するのみならず、人間の技術の神秘が超人間に達する極意を教ゆることに於て当時に於ても非常時に於ても、天下万人の為に此上無き修養書であるとしてお薦めすることが出来る。

 あらためて『日本武術神妙記』 を読んでみると、この宣伝紹介文がその「序文」の要約だとわかる。同書はそこに示されているように、「日本武術の名人の逸話集」で、介山所蔵本からの抜き書き、アンソロジー集、つまり編著ということになろう。登場人物は初期の「天の巻」だけでも三十人近くを数え、それらの中の「大家」として上泉伊勢守、柳生但馬守、「名人」として塚原卜伝、「上手」として小野次郎右衛門、宮本武蔵が挙げられている。

 このような試みに関して、やはり介山の言を引けば、「本書の要領は日本武術の神妙の動きを想像感悟せしむるにある」し、「もとの講談者流や、今日の大衆文学連の為すがごとき荒唐妄誕と乱雑冒瀆」を避け、「引用の書物も皆相当信用権威あるもの」ということになる。それらの「引用の書物」は『甲陽軍艦』『常山紀談』『甲子夜話』などの史書も見えるが、最も多く引かれているのは『本朝武芸小伝』と『撃剣叢談』である。

本朝武芸小伝 (「本朝武芸小伝」)

 しかし介山がこれらの武術資史料のすべての原本を入手していたとは思えないし、実際に『本朝武芸小伝』『撃剣叢談』は大正四年に刊行された国書刊行会の『武術叢書』全一冊に収録されているので、介山もそれを参照したと見なすべきだろう。同書は菊判上製、二段組五四八ページで、両書の他に『日本中興武術系譜略』『一刀齋先生剣法書』『柳生流新秘抄』などの十九の資史料が紹介され、校訂者は吉丸一昌で、これらの多くはその剣道の師である山田次郎吉の文庫に蔵された秘書だとの謝意も記されている。

武術叢書 (八幡書店復刻版)

 吉丸の解題によれば、『本朝武芸小伝』十巻は天道流達人の日夏弥助繁高による武芸一般にわたる列伝の最も古き書で、正徳四年に成り、享保元年に版行されている。『撃剣叢談』五巻は岡山藩剣術師範役の源徳修が見聞した全国各流の大要を記述したもので、天保十四年版行だが、本書は帝国国書館所蔵の写本によるとの断わりもある。これらの解題や内容について語るべき知識も資格もないけれど、介山のいうところの「旧来の小説講談の荒唐無稽を一掃」しようとする意図も含まれ、編まれたと判断できるし、それゆえに介山も「典拠ある記録」として採用したと思われる。

 ただ『近代出版史探索Ⅲ』494の村雨退二郎が『史談蚤の市』(中公文庫)で、「剣豪小説の種本」となった『武術叢書』はいかがわし伝記や机上の空論が入り混じり、武術の奥義などの文字化は不可能で、門外漢が読んでもわからないものだと指摘していることも付記しておくべきだろう。

史談蚤の市 (中公文庫BIBLIO)

 それらに加えて、『武術叢書』の版元の国書刊行会と編輯兼発行者の早川純三郎にふれておけば、国書刊行会は『近代出版史探索Ⅲ』405でその復刻出版事業、早川は『同Ⅵ』1075で、その後、昭和に入って吉川弘文館の『日本随筆大成』編纂者になっていることに言及しておいた。早川の詳細なプロフィルは不明だが、国書刊行会から吉川弘文館に至る復刻出版事業の系譜上に位置していたことがあらためて了解することになる。

日本随筆大成〈第1期 1〉


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら