出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1492 『四季』と『辻野久憲追悼特集』

 前回の『四季』は『日本近代文学大事典』第五巻「新聞・雑誌」に一ページに及ぶ解題があり、「『コギト』とともに昭和十年代の抒情詩復興の気運の中枢として重きをなした同人雑誌」とされている。

 そこでは戦後の第三次、四次までの言及をみているし、ここでは前回を補足することになってしまうが、続けて昭和九年から十九年にかけての第二次をたどってみる。『四季』の第一次、二次は近代文学館から復刻版が出されているが、これらは入手に至っていない。その代わりということにはならないけれど、昭和四十三年に冬至書房が「近代文芸復刻叢刊」として刊行した『「四季」追悼号』全四冊は手元にある。それは前回既述したように、昭和五十二年の冬至書房新社版で、解題は小川和佑によるものだ。

 

 それらは『辻野久憲追悼特集』(第三十一号、昭和十二年十一月号)、『中原中也追悼特輯』(第三十二号、同十二月号)、『立原道造追悼号』(第四十七号、同十四年五月号)、『萩原朔太郎追悼号』(第六十七号、同十七年九月号)で、すべてにふれられないので、最初の辻野に言及してみたい。彼は中原、立原、萩原たちのような著名な詩人ではないが、昭和十年代において、彼らに先行して「追悼特集」が組まれたことは、辻野のその時代の位相を浮かび上がらせているように思える。『近代出版史探索Ⅵ』1008、1015で辻野が『詩・現実』の同人、第一書房『ユリシイズ』の共訳者の一人であることにふれているように、同時代における優れた翻訳者であるだけでなく、リトルマガジンと詩の世界においても、中心的ポジションにあったことを想起させる。『日本近代文学大事典』の立項を引いてみる。

 (『辻野久憲追悼特集』) 

 辻野久憲 つじのひさのり 明治四二・五・二八~昭和一二・九・九(1909~1937)翻訳家、評論家。舞鶴の生れ。三高を経て、東京帝大文学部に学び、フランス文学を専攻した。在学中から「詩・現実」の同人となり、(中略)この雑誌の第二冊(昭五・九)から第五冊(昭六に伊藤整、永松定との共訳、ジョイスの『ユリシイズ』を連載し、当時の文壇に大きな影響を与えた。第一書房在職中、「セルパン」の編集長をつとめたり、萩原朔太郎の「水島」に覚え書きを付したりした。詩人との交渉は深く、第二次「四季」には同人として参加した。(後略)

 しかしここに示されている第一書房の『セルパン』編集長云々は『第一書房長谷川巳之吉』で確認してみると、長谷川、福田清人、三浦逸雄、春山行夫と編集が引きつがれていった事実は語られているけれど、辻野の名前は出てこない。私も「第一書房と『セルパン』」(『古雑誌探究』所収)を書いているので、そのことは承知している。この記述はおそらく昭和六年の『ユリシイズ』前編刊行と九年の後編の発禁処分が絡んでいるのではないかと察せられる。また『四季』の三好達治「故辻野久憲君略歴」によれば、昭和七年に第一書房に入り、九年に退くとある。それなのに第一書房での辻野の影は薄く、彼の仕事としては退社後の彼の編となっている『萩原朔太郎人生読本(春夏秋冬)』を見るに過ぎない。

古雑誌探究  

 同書はやはり萩原が「辻野久憲君を悼む」で挙げているもので、そこで彼が「全く一人でこつそり死んださうである」と書きつけている。それは第一書房のような華やかな出版社では報われなかった辻野のことを象徴している言のようにも思われる。それと対照的な辻野の訳業と出版社を挙げてみる。これも三好が列挙しているもので、ヴァレリー『詩の本質』(椎の木社)、リヴィエール『ランボオ』(山本書店)、モーリアック『ペルエイル家の人々』(作品社)、同『イエス伝』(野田書房)が刊行されているようだが、いずれも未見である。だがそれにしても、辻野は『四季』同人の最初の死者として追悼されたことによって、このように短い生涯が近代文学史、翻訳史に記憶されることになったと言えよう。前回の四季社の日下部雄一と異なり、それだけは辻野にあって僥倖だったと思うしかない。

(『ランボオ』)

 しかし私は四季社を始めとして、昭和前年の辻野の翻訳書を刊行した山本書店、作品社、野田書房などの出版物を入手していないことに加え、それらの少部数の高価な古書に関して門外漢でもあるので、ほとんど言及する立場にない。それでも『近代出版史探索Ⅲ』464で野田書房のことは取り上げているし、近代文学館の復刻の堀辰雄『風立ちぬ』は所持しているので、その巻末の「野田書房刊行書」を見てみると、『四季』の同人たちの著書や訳書が並んでいる。それらは堀辰雄の『美しい村』『狐の手套』『聖家族』、小林秀雄訳、ヴアレリー『テスト氏』、三好達治訳、フランシス・ジャム『夜の歌』、中原中也訳『ランボオ詩集』などの三十四冊である。この『風立ちぬ』限定版の刊行は昭和十三年で、その前年には支那事変が起きていたことになる。

   


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古本夜話1491 『四季』の「萩原朔太郎追悼号」と四季社

 萩原朔太郎や第一書房と関係の深い詩のリトルマガジンがある。それは『四季』で昭和十七年には「萩原朔太郎追悼号」(第六十七号)を発行している。この「追悼号」は立原道造、中原中也、辻野久憲も合わせ、昭和五十二年に冬至書房新社によって、「近代文芸復刻叢刊」の『四季』の「追悼号四輯」として、復刻されている。

   四季 萩原朔太郎追悼号 復刻版  

 『四季』は第一、第二次に分類されるが、ここでは各「追悼号」が含まれている第二次に言及してみる。それでもその前史に少しだけふれておけば、第一次は堀辰雄編集で、春山行夫の『詩と詩論』、その改題『文学』の事実上の季刊詩文集として、昭和八年に二冊が出されている。第二次は昭和九年から十九年にかけての八十一冊で、編集は三好達治、丸山薫、堀辰雄が担い、いずれもが『詩と詩論』同人、もしくは寄稿者だった。第一書房に関係づけると、『萩原朔太郎詩集』に続いて、三好は昭和五年に処女詩集『測量船』、丸山は同七年に同じく『帆・ランプ・鷗』を上梓している。

 (『萩原朔太郎詩集』)(『帆・ランプ・鷗』)

 しかし『四季』は昭和十一年の第十五号から同人を増やし、立原道造、津村信夫の他に、萩原、竹中郁、田中克己、中原中也、室生犀星、竹内俊郎、阪本越郎なども加わり、昭和十四年の第五十号まで続き、そこで一年休刊する。『四季』における萩原や室生の参加はモダニズムが二人の抒情詩の伝統とリンクしたことを告げていよう。これが第二次『四季』の前期、以後が後期となる。

 したがって「萩原朔太郎追悼号」は第二次『四季』の後期に属する。それは室生の「供物」という次の詩によって始まっている。これはここでしか見られないかもしれないので引いておく。
 「はらがへる/死んだきみのはらがへる/いくら供えても/一向供物はへらない。/酒をぶつかけても/君はおこらない。/けふも僕の腹はへる。/だが、君のはらはへらない。」
 そして先に挙げた人々への追悼が語られ、意外にも『四季』には加わっていなかったと思われる堀口大学の「追悼記」も寄せられているので、それを紹介してみよう。

 君の名を僕が初めて知つたのは、『月に吠える』が出た時だつた。僕が二度目の外遊から三年ぶりで日本へ帰つて、『昨日の花』を出版した当時のことだつた。神保町の現在岩波の売店のあるあたりにあつた新本屋(しんほんや)の店先で、君のあの処女詩集、今日から思へば、日本に於ける現代抒情詩の処女詩集とも言へる君の詩集を見出して、何も知らずに求めて帰つたのであつた。その頃、僕も、自分がそれまでの外遊中に書きためた詩を集めて出版する心算だつたので、何かの参考にでもなるかも知れない位の軽い気持で求めたのであつたが、家へかへつて一読するに及んで、その自由な言葉の使驅と、青ざめた病気にまで鋭い感覚に一驚を喫しつつ、あの、青竹の詩や、てふ、てふの詩を異様な心をどりと共に読んだものであつた。

 大正時代の神田の書店においては読者が自費出版の詩集と出会うというシーンが生じていたのだ。この堀口の回想を読み、近代文学館復刻の『月に吠える』を取り出してみる。北原白秋以の「序」、室生犀星の「跋」、装幀と挿絵は故田中恭吉と恩地幸四郎によるもので、発行所は感情詩社と白日社出版部である。発行人は感情詩社の室生照道=犀星、白日社出版部はやはり「孤掲な詩人」を書いている前田夕暮が主催していた。五百部の自費出版に他ならない。

月に吠える―詩集 復元版 (1965年) (『月に吠える』復刻版)

 堀口はふれていないが、『月に吠える』は刊行前に内務省警保局からの風俗壊乱に該当するので、発売禁止の内達を受けたこともあって、書店配本に関しては「愛憐」と「恋を愛する人」の二篇(一〇三~一〇八ページ)が削除されていた。復刻版は完本だが、おそらく堀口が求めた一冊は削除本だったと考えられる。『月に吠える』は出版そのものが事件であったともいえるけれど、その中には「とほい空でぴすとるが鳴る。」と始まる「殺人事件」も収録されていたのである。だが堀口は『月に吠える』を購うことを通じて、『近代出版史探索Ⅵ』1165の『月光とピエロ』を萩原に献本し、前橋とブラジルの間でのコレスポンダンスが始まったという。そのような詩集をめぐる時代もあったことを記憶すべきだろう。

(『月光とピエロ』)

 詩集といえば、四季社は三好達治『閒花集』『山果集』、室生犀星『抒情小曲集』、竹村俊郎『鴉の歌』、丸山薫『幼年』、津村信夫『愛する神の歌』、立原道造『暁と夕の詩』を刊行していて、創作集としては横光利一『馬車』、小林秀雄『一つの脳髄』、堀辰雄『麦藁帽子』、永井龍男『絵本』も挙がっている。当然のことながら、四季社は紛れもなく出版社でもあったのだ。一冊も見ていないのは残念というしかないけれども。

 (『絵本』)

 「追悼号四輯」の編輯兼発行者はいずれも日下部雄一で、この人物が長きにわたって立原命名による『四季』と四季社を支えてきたことになろうが、日下部のプロフィルは河出書房出身ということしか判明していない。またそれ以外に、『日本近代文学大事典』の索引も含め、近代出版史、近代文学史のいずれにも、その名前は残されていないである。


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古本夜話1490 萩原朔太郎『氷島』と『日本への回帰』

 かなり長く第一書房に関して書いてきたけれど、それはいつの間にか本がたまってしまったことにもよる。そうしたことは改造社や三笠書房にもいえるので、やはり続けて取り上げていきたいと思う。

 その前に残った第一書房の春山行夫『詩の研究』と萩原朔太郎『氷島』にもふれておきたい。前者は昭和六年の厚生閣版の再刊で、同十一年の刊行である。「新思想芸術叢書」と銘打たれ、裏表紙に小さく、大田黒元雄、川端康成、水原秋桜子の続刊が予告されていて、それらは川端の『小説の研究』、水原は『現代俳句論』として刊行されたのではないだろうか。萩原の『氷島』は昭和九年の出版だが、こちらは近代文学館の復刻である。

(第一書房) (厚生閣)  (『現代俳句論』) 

 なぜこの二冊に注視したかというと、春山と萩原は昭和四年頃から新詩精神(エスプリ・ヌーヴォー)の問題をめぐって論争を続けたし、『詩の研究』と『氷島』は二人の論争のコアを示すものであったからだ。それもあって、第一書房における春山と萩原の呉越同舟の印象も生じていたのである。ところが第一書房においては春山が昭和十年から『セルパン』の編集に携わることになったからでもあろうが、同九年の『ジョイス中心の文学運動』、十一年には『花とパイプ』『詩の研究』、十五年には『新しき詩論』を続けて出している。

  

 それは萩原も同様であり、タイトルを挙げてみよう。

1 『萩原朔太郎詩集』 昭和三年
2 『詩の原理』   昭和三年
3 『虚妄の正義』  昭和四年
4 『恋愛名歌集』  昭和六年
5 『氷島』     昭和九年
6 『純正詩論』   昭和十年
7 『絶望の逃走』  昭和十年
8 『郷愁の詩人与謝蕪村』  昭和十一年
9 『廊下と室房』  昭和十一年
10 『詩人の宿命』 昭和十二年

虚妄の正義 (昭和四年)  

 『氷島』の初版は千部との記載があることからすれば、春山の『詩の研究』が千五百部だったことを考慮に入れると、萩原の他の詩論、アフォリズム集、エッセイ集は二千部ほどではないかと推測される。しかも十年間に十冊刊行しているわけだから、萩原と第一書房の関係はとても密接なものだったと考えられる。しかも『新潮文学アルバム』(「新潮文学アルバム」)の初版本書影を見ると、3、5、6、7、9の八冊は自装であり、彼も長谷川巳之吉の「装幀美」の影響を受けていたことになろう。版画荘版『青猫』と相似している『氷島』の装幀はウエブスターの『スペリング独案内』(双玉堂)、もしくは父親の所蔵していた医学書が範となったのではないかとされている。

萩原朔太郎 新潮日本文学アルバム〈15〉  (『青猫』) (『スペリング独案内』)

 萩原に関しては、『近代出版史探索Ⅱ』370などでふれているが、出版社との関係はいまひとつわからないところがあり、それは死後の小学館の『萩原朔太郎全集』についても同様である。第一書房とは長谷川の関係にしても、『第一書房長谷川巳之吉』において、福田清人が「長谷川さんと第一書房の思い出」でわずかに語っているだけだ。それも「詩人といえば、萩原朔太郎は、原稿ができあがると、その束を抱いて社に見えた。それは格別依頼があったかどうか知らないが、すぐ出版の運びとなった」というものだ。長谷川にしても、昭和三年刊行の『萩原朔太郎詩集』が「装幀美」をきわめたと公言しているにもかかわらず、萩原への言及は見えていない。

 (小学館)  第一書房長谷川巳之吉  (『萩原朔太郎詩集』)

 しかし萩原の出版点数は十冊に及び、単行本としてそれは堀口大学、大田黒元雄、土田杏村に続くものであろう。それに福田の証言から考えれば、萩原の著書は長谷川が担当していたはずで、そうした事実からすれば、創業出版の『法城を護る人々』の松岡譲、パトロンの片山廣子と大田黒元雄、堀口大学が第一書房の四天王とされているけれども、それに準ずる存在として萩原も位置づけられるように思われる。

法城を護る人々 全3巻揃 松岡譲 第一書房

 だがどうしてなのか、嶋岡晨『伝記萩原朔太郎』(春秋社)や磯田光一『萩原朔太郎』にも、それらの関係の痕跡はたどれない。昭和十年代に入っての萩原の、保田与重郎の『日本浪曼派』、中河与一の『文芸世代』などへの接近、昭和十二、三年の続けての白水社による『無からの抗争』『日本への回帰』の刊行の影響も考えられよう。後者における「僕等は西洋的なる知性を経て、日本的なものの探求に帰つて来た。その巡歴の日は寒くして悲しかつた」という言葉は第一書房のモダニズムを否定しているかのようでもあり、第一書房の廃業はあるにしても、それが小学館の『萩原朔太郎全集』へとリンクしていったように思われる。

 萩原朔太郎  


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古本夜話1489 堀口大学訳詩集『空しき花束』

 これは古本屋で偶然に入手し、その「序」を読むまで知らなかったのだが、堀口大学訳詩集『空しき花束』『月下の一群』の続編として刊行されていたのである。それは大正十五年十一月で、前年九月の『月下の一群』に続く訳詩集であることからすれば、当然のように思われがちだけれど、手元にある。だが『月下の一群』(講談社文庫、平成八年)所収の堀口大学の「年譜」(作製・柳沢通博)を見ても、『空しき花束』出版の記載はない。やはり多大な影響を及ぼした名訳詩集『月下の一群』の背景にあって、埋もれてしまった気配が感じられる。

 堀口大学訳 月下の一群 1926年(大正15年)第一書房刊 函入り、背金箔押し革装、天金  

 しかし『空しき花束』にしても、判型は『月下の一群』と異なる四六判でありながら、紛れもない第一書房の詩集特有の豪華本に相当する『近代出版史探索』135の『三富朽葉詩集』の例から考えれば、函もあったと思われる。私はこの分野に関して、まったくの門外漢だけれども、その天金革背の造本、表紙の灰色の格子状に主として赤と青の花をあしらった装幀はエレガントな趣を呈し、愛でるにふさわしい一冊となっている。それに大学のいう「収むるところ二十九家の詩品長短二百篇」の「訳者の好み」による「仏蘭西近代詩の選集」は本文五二七ページで、読者をその世界へと誘うようにゆったりと組まれ、選ばれた用紙とともに、「テクストの快楽」をも喚起させてくれる。

 『空しき花束』は初版千五百部、定価は三円五十銭である。すでに昭和円本時代は始まっていたし、それに抗するように「豪華版」は出されたといえよう。「豪華版」とは長谷川巳之吉の造語で、未見だが、昭和三年の『萩原朔太郎全集』において、その「詩集の装幀美」は確立したとされる。『空しき花束』の巻末広告に同じ四六判「背皮金泥美本」として、『上田敏詩集』など四冊が掲載されている。それらも『空しき花束』に準じているはずだ。それならば、長谷川はそうした「装飾美」の範をどこに求めていたのであろうか。の範をどこに求めていたのであろうか。

 (『萩原朔太郎詩集』)

 気谷誠『愛書家のペル・エポック』(図書出版社、平成五年)などによって、同時代のフランスが「装幀美」を誇っていたことを知っている。だが長谷川は『第一書房長谷川巳之吉』所収の「年譜」で見る限り、ヨーロッパには出かけていない。とすれば、彼はそれらの「豪華版」を直接取り寄せていた、もしくは大正になって盛んになった洋書輸入専門書店を使っていたということになるのだが、それらの証言は残されていない。ただそれよりも確実に言えるのは、第一書房のパトロンである大田黒元雄の影響である。これは拙稿「第一書房と『セルパン』」(『古雑誌探究』所収)で林達夫の証言を引いておいたけれど、大田黒はロンドン留学時代に日本での出版を志していたと思えるほど造本などに詳しく、第一書房の初期の刊行本には大田黒好みが色濃く投影されていたとされる。

   第一書房長谷川巳之吉  古雑誌探究

 確かにその林の証言を肯うように、『空しき花束』の巻末広告には大田黒の『洋楽夜話』などの著者が八冊、『近世音楽の黎明』といった訳書が四冊並んでいる。残念ながらこれらは一冊も入手していないが、長谷川は大田黒が持ち帰ったイギリスの「豪華版」を範として、「装幀美」を学び、それを詩集へと応用していったのではないだろうか。大田黒のことも『日本近代文学大事典』から引いておこう。

(『洋楽夜話』)

 大田黒元雄 おおたぐろもとお 明治二六・一・一一~昭和五四・一・二三(1893~1979)音楽評論家。東京生れ。明治四五年イギリスにわたりロンドン大学に学ぶ。大正四年『バッハよりシェーンベルヒ』を処女出版、翌年小林愛雄とともに雑誌「音楽と文学」を発刊して、文学との関りにおいて西欧近代、現代音楽の紹介につくし、国際演劇協会常任理事をつとめた。主要著訳書に『洋楽夜話』『歌劇大観』、ロラン『近世音楽の黎明』、ストラヴィンスキー『自伝』などがある。

 しかしこの立項には著訳者の版元名もなく、第一書房との関係がまったくふれられていないし、画竜点晴を欠くの感を否めない。文学事典は出版に冷たいといった山本夏彦の言を思い出す。

 それから最後になってしまったけれど、『空しき花束』『月下の一群』以上に口訳自由詩訳の色彩が強く、それは昭和に入っての翻訳にも大きな影響を与えたのではないだろうか。その典型は『近代出版史探索Ⅱ』のボードレール、矢野文夫訳『悪の華』だったと推測される。堀口の口語自由詩訳は冒頭のマラルメ「扇子」にも顕著なので、それをそのまま全文引いてみる。

  とざされて
  私は
  あなたの
  指のあひだで
  王の笏。

  美しい女あるじよ
  この王位に安んじて
  どうか
  私をひらかずに
  おいて下さい

  もしも
  私が
  このたびごとに
  あなたの微笑を
  かくさねばならぬなら。

 これがマラルメのどの詩に当たるのかを筑摩書房の『マラルメ全集』Ⅰの『詩・イジチュール』を繰ってみた。すると『詩集』に「扇 マラルメ夫人の」(松室三郎他訳)と「別の扇 マラルメ嬢の」と「扇 メリーローランの」の三編は見つかるものの、堀口訳「扇」に照応する詩句には出会えない。それはこの一巻を通読しても同様である。堀口は何をテキストとして「扇」を訳したのであろうか。

マラルメ全集I 詩・イジチュール


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古本夜話1488 岡田正三、田中秀吉、全国書房『プラトン全集』

 これは後述するつもりだが、第一書房の『土田杏村全集』の全巻校正は岡田正三が担っていた。ただ彼は『日本近代文学大事典』などには見えていない。ところが『第一書房長谷川巳之吉』所収の「第一書房刊行図書目録」にはふたつの『プラトン全集』の訳者として目にすることができる。これらの『プラトン全集』は昭和八年の小型版全五冊、同十七年からのA5判全十二冊であり、前者の『メノン編』は浜松の時代舎で入手している。

  第一書房長谷川巳之吉   

 先の一冊に池田圭「私と第一書房本」という回想が寄せられ、この『プラトン全集』に関するくだりがあり、私などでは書けない言及が示されているので、それを引いてみよう。

 最近は装釘のやわらかく軽い本を選ぶことの方が多い。例えば背皮、丸背袖珍の天金本、天漉き和紙の『プラトン全集』などである。如何に難解な書物と雖も、カバー函を眺め、背を撫で、バンドに蝕り、ひらの壁紙に眼をうつし、コーネル皮に指先を置く。そして見返し、数枚の余白を通って、クローム・グリーンの丸みを持ったアンティック活字、木版画の鳩の姿のある扉を開くとプラトンの世界である。
 本文は明朝8ポ、11行30字詰で対話者はアンティック活字で綴られ、それが行間に点在して第一書房本特有の階調をなしている。のどに寄せた下段のノンブルの打ち方、下欄のテキスト本のページの□の中の筋も程よい位置を保っている。ギリシヤ文字が絵模様のように鏤められ、七号の*約物も眼を楽しませて呉れる。

 まさに愛書家らしき、『プラトン全集』小型版に関する装幀、造本、活字、印刷などのすべてにわたる穿った言及で、私などはとても真似のできない記述である。池田の他に野田宇太郎が第一書房廃業に際し、河出書房に移籍するに当たって、長谷川から土産として『プラトン全集』出版権を挙げようといわれたエピソードを語っているだけだ。訳者の岡田については誰もふれていないが、「出版目録」からは昭和八年に岡田訳『詩経』が刊行され、それが『プラトン全集』へとリンクしていったと推定できる。

 その岡田は漢文研究者にしてギリシア哲学にも通じ、土田杏村が第一書房の顧問的立場にあり、彼もその近傍にいたと思われる。それが『土田杏村全集』の校正の仕事へとつながっているのであろう。

 しかし戦後になって岡田訳『プラトン全集』が刊行されたのは河出書房ではなく、全国書房からだった。全国書房版は買い求めていないけれど、古本屋で何度も見ているし、どうして第一書房の『プラトン全集』が全国書房から出版されるようになったのかは不明であった。
 
 (全国書房版)

 ところが意外なところにそれを見出したのである。拙稿「岩谷書店と『別冊宝石』」(『古雑誌探究』所収)において、岩谷書店は明治半ばの有名な岩谷天狗煙草の孫である岩谷満によって、昭和二十一年に設立され、城昌幸を編集長として、『宝石』を創刊したことにふれている。またそこで「探偵小説の一大宝庫」である「岩谷選書」の横溝正史『本陣殺人事件』、城昌幸『若さま侍捕物手帖』、高木彬光『刺青殺人事件』などのラインナップも示しておいた。

 古雑誌探究

 しかし戦後の出版社の御多分に洩れず、昭和三十年代に入ると、『宝石』の発行所は岩谷書店から宝石社へと代わり、岩谷一族は身を引いたようだ。だが『宝石』創刊間もない頃には、岩谷の親族に当たる杉山信夫が岩谷書店と『宝石』の販売を手伝い、京都に帰って、昭和二十三年に出版社を興すことになる。それはミネルヴァ書房である。

 その杉田が全国書房と『プラトン全集』に関して証言している。全国書房の創業社田中秀吉は税務関係者で、第一書房の著者でもあり、それで『プラトン全集』の出版権を得て、戦後数次にわたって刊行したが、結局のところ、出版社としては立ち行かなかったと。そこで「第一書房刊行図書目録」をたどってみると、昭和十二年六月のところに田中秀吉『印紙税法の起源と其史的展開』が見つかった。第一書房としても異色な一冊といえるだろうし、おそらく田中は、長谷川が第一書房の社業が好調ゆえに、税に関係の助言を求めて知り合った人物で、その関係から第一書房の出版物からは逸脱する一冊を刊行するに及んだのではないだろうか。

 そして田中は戦後の出版ブームの中で、長谷川から『プラトン全集』の出版権を得て、数次の出版を試みる。『全集叢書総覧新訂版』を見ると、昭和二十三年だけでも、いずれも十二巻の『プラトン全集』と『プラトーン全集』の二種類が出ているし、昭和四十六年にも『プラトーン全集』が再刊されている。それゆえに、私も何度も古本屋で見かけているのだろう。しかし昭和二十九年には弘文堂の『プラトーン著作集』などの新訳も出始めていて、戦前の岡田訳は苦戦を強いられたと想像するしかない。

全集叢書総覧 (1983年)  (全国書房版) (弘文堂版)


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