出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1082『東京書籍商組合員図書総目録』

『一誠堂古書籍目録』に続いて、やはり巌松堂の同じ目録『日本志篇』を取り上げてきたわけだが、これらには範があったと思われる。

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 それは『東京書籍商組合員図書総目録』(以下『図書総目録』)である。この目録は拙稿「図書総目録と書店」(『書店の近代』所収)でふれておいたように、明治二十六年から昭和十五年にかけて、九回にわたり、東京書籍商組合から発行されている。ただ私にしても、手元にあるのは明治三十九年、大正七年、昭和四年、同十一年、同十五年の五冊で、明治二十六年、同三十一年、同四十四年、大正十二年版は入手できていない。

f:id:OdaMitsuo:20201012103450j:plain:h110 (『東京書籍商組合員図書総目録』) 書店の近代

 この二十年間に古書目録で見かけるたびに購入してきただけだけれど、近年はまったく目にしていないので、もはや稀覯本に近いとも考えられる。かなり前に全冊の復刻の話も仄聞しているが、そちらにも出会っていない。ここでは本来ならば、先のふたつの古書目録の直近の大正十二年版を例にすべきであろう。しかしそうした事情もあり、大正七年版のほうに言及してみる。

 まず大正七年版『図書総目録』の判型と厚さから初めてみる。それは菊判で十センチを超え、それぞれの書名リストが「五十音別」で六一七ページ、「発行所別」で五二〇ページ、「類別」で六一〇ページ、「著作者別」で四〇〇ページ、著作権法や出版法などを含んだ「付録」が三三ページ、さらに四〇〇余の「東京書籍商組合員」リストが九ページで、合計で二二〇〇ページ近い大冊なのである。

 その結果、「緒言」によれば、「本著に収載したる図書数は約二万種、此冊数実に三万三千有余冊の多きに上れり」を誇ることになり、明治二十六年第一半の三倍以上に及んだ。それは本探索でも繰り返し記述しているように、明治二十年代からの出版社・取次・書店という近代出版流通システムの誕生と成長、明治末に三千店だった書店が昭和初期には一万店に達したことに支えられていたし、この『図書総目録』のボリュームこそはその成果だったといえるだろう。それにこれは「東京書籍商組合員」の刊行書だけで、さらに非組合員、京阪神の書籍商、主として『近代出版史探索Ⅱ』で見てきた赤本、特価本、造り本業界も含めれば、倍以上の点数に至るであろう。そうはいっても戦後になってようやく『日本書籍総目録』が編まれたのは昭和五十二年だから、この戦前の『図書総目録』の試みの重要性は特筆すべきだと思われる。
 
近代出版史探索Ⅱ
 また忘れてはならないのは近代出版流通システムの誕生と成長は、博文館に象徴されるように、何よりも雑誌を背景としたもので、書籍はそれに相乗するかたちで歩んできたといっていい。その意味において、この『図書総目録』の編輯兼発行者が『近代出版史探索Ⅴ』852の大倉書店の大倉保五郎、専売所が博文館であることは皮肉な組み合わせのように映る。なぜならば、大倉書店は芳賀矢一『言泉』などのロングセラー辞書、夏目漱石『吾輩は猫である』『漾虚集』『行人』を刊行した当時の大手書籍出版社で、東京書籍商組合組長の要職にあり、この「緒言」もその肩書でしたためている。だが関東大震災で罹災し、廃業に追いやられてしまったのである。その一方で雑誌をベースとする博文館のほうは本探索1078で見たように、大震災後も昭和円本時代もしぶとくくぐり抜けていた。

 この『図書総目録』に「序」を寄せているのは東京帝大図書館長の和田万吉で、「見よ此時代に著された書籍は人間の知識のあらゆる方面に亘つて殆ど漏れる所無く、且其数量の多いことも以往五十年乃至百年の間の一時期に於ては曾て無い所である」と述べている。そしてこの編纂者が小林鶯里で、「余は此好目録が出版業者の唯一の参考書たるに止まらず、汎く読書人机上の常什たらんことを切望」し、また「明治大正時代の文化推移の状を大観せんとする人々の為に絶好パノラマとして本編を薦めたい」と書き記している。

 古書ゆえに『一誠堂古書籍目録』『近代出版史探索Ⅳ』623の明治文化研究会の吉野作造、『日本志篇』が柳田国男などを寄り添わせていたように、『図書総目録』は和田という図書館長と同伴させていたのである。

近代出版史探索Ⅳ
 ところで編纂者の小林鶯里だが、彼は『出版人物事典』に小林善八として立項されているので、それを示す。

 [小林善八 こばやし・ぜんぱち]一八七八~没年不詳(明治一一~没年不詳)文芸社主宰者。一九二二年(大正一一)二月、東京牛込区新小川町に文芸社を創立。月刊『文芸』を創刊、文芸・歴史書の単行本、叢書類を発行。鶯里と号し、該博な知識とエネルギッシュな活動で、三〇〇余の著述をし、文芸社からも多数発行した。ことに書誌学に通じ、『出版の実際知識』『世界出版美術史』『日本出版文化史』『日本出版年表』『出版界三十年』『出版法規総攬』など多くの出版関係の著書がある。東京書籍商組合の主事として、多年にわたり組合行政につくした。

 小林の著書は『日本出版文化史』を読んでいるだけだが、ここでいわれている書誌学に通じ、東京書籍商組合の主事として云々は、主として『図書総目録』の編纂の仕事のことをいうのであろう。なお小林と文芸社に関しては稿をあらためたい。

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古本夜話1081 波多野重太郎と『日本志篇』

 前回の『一誠堂古書籍目録』の他にも、少し遅れてだが、同時代に古書籍目録が出されている。それは巌松堂書店古典部が昭和三年に刊行した『古書籍在庫目録日本志篇』(以下『日本志篇』)である。こちらは四六判で、発行者は波多野重太郎となっている。彼も『出版人物事典』に立項されているので、それを引いてみる。

f:id:OdaMitsuo:20201011163621j:plain:h115 出版人物事典

 「波多野重太郎 はたの・しげたろう」一八七五~一九五八(明治八~昭和三三)巌松堂書店創業者。静岡県生れ。二〇歳で上京、一九〇一年(明治三四)麻布十番で新古書籍の販売をはじめ、〇四年(明治三七)巌松堂と命名。〇八年(明治四一)法律書の出版をはじめ、三書楼を設立した。一九一一年(明治四四)解散して再び巌松堂と改めた。二三年(大正一二)株式会社に改組。法律書に加え、経済・商業書も出版。五五年(昭和三〇)業務を巌松堂出版株式会社(出版)、巌松堂図書株式会社(図書販売)、波多野巌松堂(古書)に分割した。心理学者波多野完治の父。

 この立項によって、『日本志篇』の発行所が巌松堂書店古典部で、そこが古書販売を担っていたこと、一誠堂と比べて、社会科学が多い印象を与えるのは巌松堂がそれらの出版に携わっていたことも影響しているはずだ。それに加えて、タイトルが『日本志篇』とされたのは、日本の歴史、地理、さらに多くの郷土史なども広く収録し、そこに日本史ならぬ「日本志」の意味をこめたことによっているのだろう。それだけでなく、その他の分野分類においても、同様に「志」が選ばれているのであろう。

 そうした古書籍目録の特色をふまえ、柳田国男が「巻頭言」を寄せ、波多野のポジションにまで言及している。

 (前略)巌松堂主人なる者の、近年の進況はどうであるか。彼はつい此間まで、法律経済界の都人の著の、ハシリばかりに目を耀かせている出版家であつた。それが系統を立てゝ微細無力なる地方の古本を分類した迄は商売柄だとしても、其の未だ老いざる精力を蒐集に傾注して、忽ち此様な所蔵目録を、世に誇り示す腕になつたのである。若し国内の古本業者がみんな波多野君たるを得るものとしたならば、以前の私の比較研究などは、甚だ目先の見えぬ話であつたといふべきだ。が負惜みをいふならば此人には、はやり独特の技能と余分の親切とがあるからであらう。

 さらに続いて柳田は波多野が「地の利を得て」、「一廉の新刊書肆としての門戸を張」り、「何時売れるといふ当ても無い雑書どもを、近い郷里の土蔵に運んでしまつて置ける」一得にもふれている。本探索でもお馴染みの岡書院の岡茂雄に関して、「本屋風情」とあげつらった柳田の性格から考えると、これは他でもほとんど見られない最大のオマージュだといっていい。

 柳田はその前年に砧村の書庫を兼ねた書斎が完成し、昭和二年九月に蔵書ともども転居していた。おそらくそうした経験を通じて、柳田はあらためて資料の収集と蔵書の在り方、分類方法などについて、波多野の収集への情熱と『日本志篇』の編纂から大いなる示唆を得たのではないだろうか。柳田の「巻頭言」にはそれらの思いが表出していると感じるのは私だけであろうか。それはここに柳田は『近代出版史探索Ⅴ』973の『民間伝承論』へとリンクしていく一国民俗学の「想像の共同体」を幻視していたのかもしれないからだ。

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 それはともかく、この『日本志篇』の構成は一〇九六ページの「古書籍在庫目録」に二四ページの「索引」が付され、さらに新入品の「速報篇」一八八ページ、また巌松堂書店の「発兌図書目録」六四ページも加えられ、柳田をして感嘆せしめた波多野の「独特の技能と余分の親切」を実感させてくれる。それにこの『日本志篇』には前史があり、こちらもまた一冊の五六〇ページの『古書籍在庫目録』としてまとまり、前年の昭和二年にやはり巌松堂書店古典部から刊行されている。この一冊は昭和に入ってからの「在庫目録」と「入庫目録」を合本化したもので、『日本志篇』が五六一ページから始まっているのはそのためである。

 したがって、『一誠堂古書籍目録』は五万冊を下らないだろうと既述したが、この『日本志篇』『古書籍在庫目録』を合わせれば、それ以上に及ぶことは確実であろう。そして巌松堂書店古典部の何よりの特色は、これも柳田のいうところの「雑書」にも早くから目をつけていたことだろう。『古書籍在庫目録』の奥付裏一ページ広告には「和漢洋古書籍高価買入」より大きく、「雑本と珍本 探集業開始」とのキャッチコピーが躍っている。さらに「日本全国、樺太・鮮満・台湾等御報参上」ともある。これらもまた波多野の「独特の技能と余分の親切」に他ならないだろう。


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古本夜話1080 酒井宇吉と『一誠堂古書籍目録』

 前回の水谷不倒の『明治大正古書価之研究』の背景にあるのは、明治二十年代における近代出版業界の誕生と成長による古典類の復活だった。それらを通じての近代古書業界も形成され、そうした動向は古書展覧会や古書販売目録に支えられ、大正九年の東京古書籍商組合の成立へと結びついていったことは明白である。

 また水谷がいうように、「古書価の黄金時代」のピークが「昭和二年の暮れ」あったとの証言は、「典籍の廃墟」(内田魯庵)をもたらした関東大震災から昭和円本時代のとば口にかけてで、出版業界が円本の企画のために古書を必要としていたこと、それに古書業界もコラボレーションしていたことを伝えていよう。内田のいう「典籍の廃墟」、拙稿「地震と図書館」(『図書館逍遥』所収)を参照されたい。また古書需要の詳細は浩瀚な『東京古書組合五十年史』をたどってほしいので、これ以上の贅言は慎み、ここでは古書販売目録にふれてみたい。

図書館逍遥
 それは『一誠堂古書籍目録』で、酒井宇吉を編集兼発行者として、大正十四年十一月に刊行されている。奥付には「実費五円五十銭」という赤字の判が打たれ、一誠堂書店の検印も押されていることからすれば、目録であると同時に、一巻の書物として出版されたことになろう。それを象徴するように、上製クロス装のブラウンの表紙には古代ギリシアかエジプトの壁画と思しきイラストが金の箔押しで描かれている。それは目録にある洋書の『古代美術史』『古代埃及風俗誌』『希臘古匋』などから引かれた図版だったのかもしれない。

 この『一誠堂古書籍目録』は菊判、七八二ページに及び、「叢書類及大部数書類之部」から始まり、「欧米原書類之部」までの三〇部門に分類され、さらに「追加書類之部」五部門が加わっている。それらを合計すれば、全集類、通巻類、シリーズ物、雑誌バックナンバー揃いも多いので、概算だけれど、五万冊は下らないように思われる。酒井は一誠堂店主口上として、「大震災以来日や復興に鋭意致し在庫品の充実を図ると共に傍ら目録の編製に着手し茲に高覧に供するを得候事偏に江湖諸賢の御厚情に外ならす(ママ)と奉深謝候」と述べている。これは関東のみならず、全国卯的なルートでの和書洋書も含んだ大がかりな仕入れ収集を物語っているのだろう。

 酒井は幸いにして、古本屋にもかかわらず、『出版人物事典』に立項されているので、そのプロフイルを引いてみる。
出版人物事典

 [酒井宇吉 さかいうきち]一八八七~一九四〇(明治二〇~昭和一五)一誠堂書店創業者。新潟県生れ。一九〇六年(明治三九)上京して文陽堂書店を創業、一三年(大正二)神田に移り一誠堂書店と改称、古書販売に努めた。関東大震災で罹災したが仮営業所を建て復興、書物に飢えた人々が殺到、大きく営業を伸ばし、さらに古書店としては稀有の四階建ビルを完成した。店員の独立を奨励し、神田に多くの出身者の店を出した。反町茂雄も出身者の一人である。また、古書目録を作って通信販売を広めるなど新しい商売をはじめ、神田を全国的に知らせる役目を果たした。東京書籍商組合評議員をつとめた。

 その「復興」を物語るように、『一誠堂古書籍目録』の巻頭には本郷会館における「一誠堂古書籍展覧会開催日誌」が写真入りで示され、関東大震災の翌年の大正十三年には三回、十四年には十二回が開かれた事実を伝えている。それとパラレルなかたちで、『目録』も編まれつつあったはずで、酒井の「復興」努力は抜きん出ていたと考えられる。

 それらをふまえた上で、序文として、「一友人たる」吉野作造が「本屋との親しみ」を寄せ、中山太郎は「序文に代へて」で、「君が創業二十三年を記念するため古典籍の目録」の発行に、「その初めから計画に与つていた」と述べ、「此目録が古典籍界のエポツクメーキングとして、永く読書界に尊重され保存されることを信す(ママ)る」と語っている。また神代種亮は「雑感」で、関東大震災の焼野原に出現したテント張りの一誠堂こそは、震災後の読書界の古本熱に火をつけたという意味のことを述べている。その古本熱は旧物懐古の情と学術研究の必要上から発生したと思われるが、それはかつて見なかった現象で、さらに広範に拡がり、現在でもその勢いは衰えていないと。これらは前回の水谷の証言を肯うものであろう。

 さて膨大な目録から一冊を選んでふれてみようと思っていたが、やはり巻頭にカラー口絵写真として挙げられた一冊がふさわしいと目される。そこにある文言、体裁、古書価も合わせて示してみる。

 本書は一三六〇年自耳義人の筆写したる拉典文祈祷書にして、獣皮を四六判形に薄く削りたるもの八十三葉に古典的ゴチツク体以て揮毫し、内七枚は金泥極彩色の美麗なる聖画を描きあり。実に古雅掬すべく、書史学研究の一資料として稀覯の珍品なり。
 四六判総皮綴厚サ九分全一冊 売価一千五百円

 これは現物を見てもらうしかないが、どこの誰が購い、現在はどこに架蔵されているのだろうか。


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古本夜話1079 水谷不倒『明治大正古書価之研究』、駿南社、奥川栄

 前回は『其磧自笑傑作集』などの校訂者である水谷不倒に言及できなかったので、ここでふれておきたい。水谷は『日本近代文学大事典』に立項を見出せるので、まずはそれを要約してみる。

 水谷は近世文学研究者で、安政五年に国学者水谷民彦の子として名古屋に生まれ、東京専門学校に学び、坪内逍遥に師事し、卒業後、小説を発表する一方で、続「帝国文庫」の浄瑠璃や脚本類を校訂する。明治三十二年大阪毎日新聞に入社、三十八年退社以後は近世文学研究者としての著述生活を送り、近世文学の研究の草分け的存在である。編著『近世列伝体小説史』『西鶴本』、「江戸時代古書研究双書」として『明治大正古書価之研究』などがあり、近世文学研究の先達の位置を占める。昭和十八年に死去。

 『博文館五十年史』で「続帝国文庫」を確認すると、『竹田出雲浄瑠璃集』を始めとする七冊の浄瑠璃本、及び『脚本傑作集』上下を手がけ、校訂者としても最多で、まさに近世文学研究の先達の位置にあるとわかるし、それもあって円本の「帝国文庫」にも招聘されたのだろう。残念ながら戦後刊行の、『近代出版史探索Ⅴ』859の高梨茂による『水谷不倒著作集』(全八巻、中央公論社)は繙いたことがないけれど、『明治大正古書価之研究』だけは手元にある。昭和八年に京橋区入船町の駿南社から出された菊判函入、三四五ページの一冊で、発売所は同じく京橋区小田原町の東栄閣と奥付には記されている。駿南社と東栄閣の関係は判明していない。

f:id:OdaMitsuo:20201008105639j:plain:h110(「帝国文庫」)f:id:OdaMitsuo:20201009114959j:plain:h110(『水谷不倒著作集』)

 水谷はその「序詞」を以下のように始めている。「予は昔からのルンペン、金には縁のない階級であるから、道楽に古書を弄ぶやうな、余裕は勿論なかつた。ただ好きが根本をなし、五十年間の古書生涯も、好きの一点張り、幸ひに時世に恵まれ、素漢貧ながら、比較的多くの書冊を手にしたと云ふに過ぎぬ」と。それも「古書を漁るといふも著述の為」で、「用が済めば売つて了ひ、又次に入用の書を買始める。さながら旅亭の如く、折角好来の珍客も、寛ろいで滞留するの暇なし、(中略)出入の頻繁にいつも財布の底を叩いて、(中略)書価については、人一倍注意を払」ってきた。その長年にわたって書き止めておいた「書価の控が若千冊」あり、それをベースとして、「研究の名で勿体を付け、新著として刊行することになつた」と述べている。

 その「好きの一点張り」の五十年間の「古書生涯」と「書価の控」に基づいて教示してくれるのは、水谷ならではの第一編「明治大正五十年間古書価の変遷」である、そこではまず明治維新当時の江戸において、「古書の受難期」を迎えたことが報告される。幕府と武家政治が瓦解し、将軍に平民に没落し、新東京が出現したのであるから、「古書などの価格の失はれたことに何の不思議はない」。古老の言によれば、「大八車に満載した書籍が、何貫何百文という端銭で売飛ばされていた」。水谷は「好きの一点張り」の本領を発揮し、忘れずに「こんな時に際会して、手当たり次第に、珍書を買ひ浚つたらさぞ愉快であらう」と付け加えている。

 だが明治二十年に入ると、古典が復活し、国語研究、古書の復刻として種々の叢書が刊行され、「今迄塵埃のうちに紙魚の棲処となつてゐた古書が引出され」、それが古書価を刺激し、向上に導いた。それらの復刻の先達として、水谷は兎屋と鳳文館に言及している。私も「明治前期の書店と出版社」(『書店の近代』所収)でふれている。

書店の近代

 そうした古典復活の動向を決定づけたのは博文館に始まる出版社・取次・書店という近代出版流通システムの誕生と成長で、水谷も博文館が刊行した明治二十年代の「日本文学全書」から前回の「帝国文庫」までの五種の出版をリストアップしている。それらによって「明治に於ける古典文学復興の最盛期」が出現し、古書の知識も普及し、「古書専門書肆も亦、此機に乗じ、古書発売目録を発行し、古書価を表示して、世人の注意を喚起するに努めた」のである。したがって古書の発売目録も明治の所産に他ならないし、明治三十年代に入ると、古書展覧会が東西両都市で盛んに開催されるようになった。しかし明治時代において、古書価は向上したものの、一気に高騰したわけではなかった。

 それが一変したのは大正時代に入ってで、水谷は実際に浮世草子類の古書価の昂騰していくプロセスを示し、「すべての古書が昂騰又暴騰して、全く旧来の面目を一新した。殊に十年以後長足に進み、真に古書価の黄金時代を出現したが、其最も頂上に達したのは、昭和二年の暮であつたと思はれる」と述べている。この記述は「序詞」にあった「何せ大正の古書価と云へば、近来稀な大暴騰、黄金時代の夢を、独りで見てゐるやうな内容で、一冊のものが何百、何千円に吹き出した」との言を彷彿とさせる。

 第二編「古書価の追憶」と第三変「自明治二十三年至大正十五年古書価要覧」も興味深いが、第一編の補遺資料ともいうべきものなので、ここでは言及しない。必要であれば、直接当たってほしい。

 『明治大正古書価之研究』はタイトル、内容もあって、古書専門書肆の村口書店の村口半次郎、弘文荘の反町茂雄の斡旋で、駿南社からの刊行を見たようだ。駿南社とその奥川栄に関しては『近代出版史探索』39で、駿南社が『犯罪実話』(『探偵』改題)の版元であり、そのかたわらで、奥川が『釣之研究』を出す釣之研究社の経営者であることを既述しておいた。またアナキスト安谷寛一が両社から釣りの本を出していることも。まさに古本屋も含めて、この時代の出版人脈は錯綜しているというしかない。

近代出版史探索 f:id:OdaMitsuo:20201009120921j:plain:h110


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古本夜話1078  円本としての博文館「帝国文庫」

 やはり円本時代の昭和三年に博文館から「帝国文庫」の再版が刊行され、『博文館五十年史』はそれに関して次のように述べている。

 「帝国文庫」は前年正編五十編、続編五十編が大好評の裡に完成したが、爾来既に数十年を過ぎ、偶たま世間には定価一円にて故書を翻刻し、之を円本と称し盛んに行はるゝ故、本館にても「帝国文庫」の再版を企て、内容の過半を新たにして、毎月八百ページ九ポイント十八行詰とし、全三十冊予約三十円、此年十二月第一編「珍本全集」を出した。(中略)後には真書太閤記、南総里見八犬伝等の前年盛んに行はれたものをも加へ、昭和五年十二月までに、予定の三十冊、第三十編『東海道中木曽街道膝栗毛』にて完結した。

 これは第一回の百冊と異なり、三十冊なので『博文館五十年史』からリストアップしておく。「内容の過半を新たにして」とはそれらに「新た」な校訂を施したことで、校訂者も含めて挙げてみる。彼らの名前は明治後半の「帝国文庫」から始まったと考えられる近世文学研究者の台頭が見てとれるし、それは本探索1060の新潮社『日本文学大辞典』の編纂ともリンクしているのだろう。

f:id:OdaMitsuo:20200720113608j:plain:h110(『日本文学大辞典』)

1 藤村作 『珍本全集』上
2   〃  『珍本全集』下
3  中村孝也 『常山紀談』
4  笹川種郎 『京伝傑作集』
5  山口剛 『種彦傑作集』
6  笹川種郎 『近世説美少年録』
7  山崎麓 『馬琴傑作集』
8  水谷不倒 『其磧自笑傑作集』
9  守随憲治 『近松世話浄瑠璃集』
10  黒木勘蔵 『紀海音・並木宗輔浄瑠璃集』
11  小澤愛圀 『忠臣蔵浄瑠璃集』
12  中村孝也 『真書太閤記』
13   〃 『真書太閤記』中
14   〃  『真書太閤記』下
15  三田村鳶魚 『柳澤・越後・黒田・加賀・伊達・秋田騒動実記』
16  尾佐竹猛 『大岡政談』
17  三田村鳶魚 『仇討小説集』
18   〃    『真田三代紀・越後軍記』
19  山崎麓 『人情本傑作集』
20 藤村作 『西鶴全集』上
21   〃  『西鶴全集』下
22  柳田国男 『紀行文集』
23 長谷川天渓 『名家漫筆集』
24  中山太郎 『梅こよみ・春告鳥』
25  水谷不倒 『脚本傑作集』
26  笹川種郎 『南総里見八犬伝』
27   〃   『南総里見八犬伝』二
28  〃   『南総里見八犬伝』三
29   〃   『南総里見八犬伝四・絵本西遊記』
30  三田村鳶魚 『東海道中木曽街道膝栗毛』


f:id:OdaMitsuo:20201008100405j:plain:h110(『南総里見八犬伝』)

 1、2、20、21の藤村作は先の『日本文学大辞典』の編纂者、3、12、13、14の中村孝也は本探索1075の『日本随筆大成』の監修者である。それには驚かないけれど、柳田国男や中山太郎まで動員されていたのは意外であった。だがそのようにして第一回とは面目を一新したのであろう。

f:id:OdaMitsuo:20201003111855j:plain:h108(『日本随筆大成』)

 第一回の「帝国文庫」のほうは明治二十六年から三十六年にかけて刊行され、江戸文学の最初の集成刊行として、当時の文壇などに及ぼした影響は大きいとされる。ここに収録の千種を超える作品の明細は、『博文館五十年史』以上に詳しい『世界名著大事典』第六巻に掲載されている。何冊か拾っていたはずなので探してみたが、出てこない。それゆえに社史の中の書影と記憶で書くしかないけれど、B6の判型は第二回と同じにしても、装丁は異なっていたと思われる。

 第二回の「帝国文庫」は手元に一冊しかなく、それは8の『其磧自笑傑作集』である。ところがその背の金の箔押しのタイトルと花模様をあしらった絵による装丁が、本探索1074の「有朋堂文庫」と同じような印象を生じさせる。それは篆気の濃い隷書も同様で、全体的に似通っているのだ。とりわけ同じように見える背の下部を占める花模様の絵は、第一回の「帝国文庫」には見られなかったものである。

f:id:OdaMitsuo:20201008105639j:plain:h110(「帝国文庫」)f:id:OdaMitsuo:20200915115255j:plain f:id:OdaMitsuo:20200914115859j:plain:h103(「有朋堂文庫」)

 同1074で既述しておいたが、円本時代は江戸文学全集の色彩が強い「有朋堂文庫」と興文社の『日本名著全集』があり、それらに張り合うかたちで博文館が「帝国文庫」の再版を企てたことになる。したがって、それらの元版刊行年は「帝国文庫」が明治、「有朋堂文庫」が大正に出され、『日本名著全集』はそのふたつを範として昭和円本時代に刊行されたと見なしていい。しかし円本としての刊行は、「有朋堂文庫」「帝国文庫」も昭和三年の同年だが、判型はちがうにしても、どうして同じような装丁で出されたのであろうか。

f:id:OdaMitsuo:20200916193111j:plain:h108 f:id:OdaMitsuo:20200916192824j:plain:h108(『日本名著全集』)

 考えられるのは、これも既述しておいたように、岡本太郎の父で、版下書家の岡本可亭のところに「帝国文庫」の題字を含めた装丁依頼が出された。偶然のことながら、それは「有朋堂文庫も同様で、しかも可亭が病臥中だったこともあり、その代わりに弟子の魯山人が「帝国文庫」も合わせてその版下書きを潤筆した。あるいは可亭の別の弟子だったかもしれないその結果、同じような題字と装丁になってしまった。しかし博文館も有朋堂もその事実をつかんでおらず、ほぼ同時進行での編集と製作に取り組んでいたとすれば、双方がその刊行後にそれを知ったことになるのかもしれない。

 このような疑問に対して、『其磧自笑傑作集』に装丁者や題簽者名の記載があれば、ただちに氷解するようにも思われるのだが、残念ながら「有朋堂文庫」と同様にそれはない。そうした事柄は『近代出版史探索Ⅲ』553などの雪岱文字の問題ともリンクしていると推測される。

近代出版史探索Ⅲ

 なお最後になってしまったが、其磧と自笑は京都の書肆の「八文字屋」の代表的著者で、後者は八文字屋主人でもあり、浄瑠璃や浮世草子などの著者である。『其磧自笑傑作集』にはそれらの九編が収録されている。


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