出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1272 青野季吉とトロツキイ『自己暴露』

 青野季吉『文学五十年』には出てこないけれど、彼の訳として、トロツキイ『自己暴露』がある。これは「わが生活(Ⅰ)」というサブタイトルを付し、昭和五年にアルスから刊行されている。おそらく続刊と同工の函はいかにも当時のプロレタリア文学出版物を彷彿とさせるもので、トロツキイの顔が大きく描かれ、その裏には「革命 成長の生理学 その溌剌たる芸術的表現がこれだ!」というキャッチコピーが躍っている。本体の造本にしてもトロツキイのクロニクルを浮かび上がらせるチャートを擬し、ひとかたならぬ装幀の思い入れを感じさせる。装幀者の名前は見当らないが、恩地孝四郎のようである。

 

 この『自己暴露』の続刊『革命裸像』は入手していないが、戦後の『わが生涯』(澁澤龍彦他訳、現代思潮社、森田成也訳、岩波文庫)の最初の邦訳であろう。トロツキイがその「序言」で述べている「わが生活」を簡略にたどってみる。

   トロツキー わが生涯 上 (岩波文庫)

 彼は一八七九年にロシアの北方の村落に生まれ、オデッサの学校に入学後、革命運動に参加し、逮捕され、牢獄、シベリア、外国亡命を体験する。一九〇二年にシベリア流刑脱走からほぼ十二年間にわたってヨーロッパとアメリカで逮捕、拘留、追放を繰り返す亡命生活を送り、一七年の三月革命に際し帰国する。そしてボルシェビキに加盟し、ペトログラード・ソヴィエト議長に就任、十月革命でレーニンとともに重要な役割を果たしたソヴィエト政府の一員あった。それから外務人民委員としてプレスト講和条約の衝に当たり、また赤軍の組織化と復興のために働き、中央委員ともなった。しかしそのトロツキズムの強力な主張はスターリンたちから攻撃を受け、二七年に中央委員、共産党を除名され、翌年には流刑となった。二九年にはトルコへと追放され、そのコンスタンティノープルで、「革命家の第一の義務」として、及び「一個の亡命者として」、この「わが生活」と「序言」をしたためているのである。

 またトロツキイは「序言」において、「我々の時期は、再び回想録に富み、おそらく嘗て見ないほど、それが豊富である。と云ふのは語る可きことがどつさりあるからだ。時代の変化が劇的であればあるほど、当代にたいする興味は強度である」ときわめて客観的に書き記している。それは「我々の時期」のコミュニズムと革命への熱狂、プロレタリア文学の隆盛、あるいはこれも世界的な出版産業の成長のありかを穿っているようかのようだ。

 私も同時代の革命家である『エマ・ゴールドマン自伝』(ぱる出版)の訳者だし、そこにはトロツキイも登場しているので、比較参照してみたい誘惑に駆られるが、それは本稿の目的ではないし、慎みたい。ここでの問題は翻訳者のことにしぼりたい。それは大正から昭和にかけての円本も含めた左翼文献の翻訳の実相へともリンクしていくテーマであるからだ。

エマ・ゴールドマン自伝〈上〉

 青野の『文学五十年』における昭和五年前後の記述からして、もし彼が実際に翻訳を手がけているのであれば、この五二二ページ、千枚近くに及ぶ英語からの重訳に言及があってしかるべきだろう。だがそれは見当らない。それゆえに「訳者小序」は青野の名前が記されているが、実際の翻訳はそこに挙がっている「田口運蔵、長野兼一郎の両名及びその他の諸君の助力」によるもので、企画編集はアルス編輯部の村山吉郎が携わったと考えられる。このうちの田口は『近代日本社会運動史人物大事典』に立項が見出せる。

近代日本社会運動史人物大事典

 田口は明治二十五年新潟県生まれ、大正三年に二高を中退し、海外放浪生活を送り、社会主義運動に入る。片山潜とともに在米日本人社会主義者団を結成し、大正十年には日本人として初めてコミンテルン第3回大会に出席し、レーニンと会見したが、肺結核のため療養生活に入り、同十五年には大喀血し、社会主義運動の一線から退くことを余儀なくされ、生活のために文筆生活へと向かった。アメリカ以来の友人前田河広一郎との関係もあって、『文芸戦線』同人となり、小説に加え、多くの随筆、評論を発表した。しかし四十一歳の若さで、昭和八年に貧窮の中で死去したとされる。

 もう一人の長野は立項されていないが、索引からたどると、やはり『文芸戦線』同人のドイツ語を主とする翻訳家だと判明する。ただアルスの村山は不明である。それに青野と田中が『文芸戦線』を発行する労働芸術家連盟に属していたことも重なり、青野やアルスの村山を通じて、『自己暴露』の翻訳出版に至ったのであろう。しかし奥付の検印紙には「版権所収」とあるだけで、訳者印は打たれていないことからすれば、この大部の翻訳にしても買切で、印税が発生するものではなかった。その収入は田口にとって貧窮の中における旱天の慈雨であったかもしれないが、わずかだったことが推測されるのである。

 なおその後、ブログ「家主のひとりごと」に、長野兼一郎の生涯が写真入りで紹介されていることを知った。
green.ap.teacup.com


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1271 青野季吉『文学五十年』と葉山嘉樹のデビュー

 前回、葉山嘉樹の「淫売婦」などが『文芸戦線』に発表されたのは青野季吉を通じてだったことを既述しておいた。これには少しばかり補足も必要なので、もう一編書いてみる。

 まずは『文芸戦線』だが、これはその半分ほどが近代文学館により復刻されている。しかし入手しておらず、未見である。それでも『日本近代文学大事典』第五巻の「新聞・雑誌」には一ページ半に及ぶ長い解題も見えているし、詳細はそちらに当たってほしいので、葉山と青野の関係も絡めてその初期をトレースし、簡略に示す。

 『文芸戦線』は大正十三年六月に関東大震災による『種蒔く人』廃刊のあとを受け、後退しかけていたプロレタリア文学運動を再建する目的で創刊された。創刊メンバーは小牧近江、金子洋文、平林初之輔、青野季吉などの十三人で、発行編集人は中西伊之助、発行所は文芸戦線社だった。なお『種蒔く人』と小牧近江は『近代出版史探索Ⅱ』210、金子洋文は同205で既述している。

 その『文芸戦線』第五号に青野によって初めて葉山の「牢獄の半日」が掲載され、続いて「淫売婦」「セメント樽の中の手紙」、黒島伝治「銅貨二銭」、壺井繁治「頭の中の兵士」、里村欣三「苦力頭の表情」といった初期プロレタリア文学の佳作が発表された。その一方で、青野のほうはプロレタリア文学の指導的理論家として、指標的評論「調べた芸術」「自然生長と目的意識」を書き、後者において自然発生的な文学を踏まえながらも、プレタリア文学は目的意識をもつたマルクス主義的運動にすべきだと唱えたのである。この後、様々な動向と人脈が交錯し、昭和七年の終刊までに全九五冊が刊行されていくのだが、ここでは葉山と青野の関係に限定したいので、言及は差し控える。

 さて葉山は昭和五十年になって、筑摩書房から『葉山嘉樹全集』全六巻、及び未刊行の『葉山嘉樹日記』が出され、その全貌が明らかになっている。だが青野のほうは『青野季吉選集』(河出書房、昭和二十五年)などを上梓しているけれど、そうした全集の刊行に至っていない。ただ青野にしても、『日本近代文学大事典』での立項は葉山を上回る二ページ以上が割かれ、『同事典』編纂の昭和五十年前後における青野の位置づけがうかがわれよう。それは現在となってはもはや回復できないであろう戦前からのプロレタリア文学の指導的理論家としてのポジションが保証されていたことを意味していよう。

  

 私などにしても、青野のよき読者であったことはないけれど、それでも『近代出版史探索Ⅲ』540で、彼の訳になるロープシン『蒼ざめたる馬』を取り上げているので、その自伝『文学五十年』(筑摩書房、昭和三十二年)には目を通している。同書には葉山との関係も言及されていることもあり、それをたどってみる。青野は大正四年に早大英文科を出て読売新聞社の社会部記者となり、その間に第一次世界大戦、ロシア革命とシベリア出兵が起きていた。シベリア出兵に際し、読売新聞社は出兵論に早変わりしたので、青野たちはストライキを起こし、新聞社から放り出された。

 大正九年に市川正一、平林初之輔とともに国際通信社へ翻訳記者として入社し、その三人に加え、佐野文夫、市川の弟義雄と一緒に『無産階級』を創刊し、『新潮』の編集者で『近代出版史探索Ⅲ』541の水守亀之介の依頼で文芸評論を書く。青野にとって、自らいうように、「その十一年という年は、社会主義者として踏切った年であると同時に文芸批評家として押し出された年」に他ならなかったのである。

 ちょうどその年には『種蒔く人』の同人ともなり、階級文学論を書くようになる。そこには前田河広一郎もいて、青野は説明もなく唐突に、「無名時代の葉山嘉樹がいちばん会いたがっていたのは前田河であった」と記している。また市川義雄の勧めで日本共産党へ入党し、その機関誌『赤旗』(以後『階級戦』『マルクス主義』と改題)の編集に携わり、関東大震災に遭遇する中で、『種蒔く人』は休刊を余儀なくされ、「その『種蒔く人』が『文芸戦線』と改題して再刊されたのは、やつと翌十三年六月であった。」

 その「プロ文学の灯をまもるという意味」の再刊の辞は青野によるものであったが、資金難もあり、半年ほどで中絶し、その本格的復刊は十四年六月で、編集には山田清三郎が担うことになって。それぞれの証言は異なっているが、そうしたところに葉山の作品が持ちこまれたのであろう。青野のリアルな証言を引いてみる。

 薄いけい紙に毛筆のこまかい字でかき込んだ『海に生くる人々』の原稿が私に手渡されたのは、堺利彦からで、わたしは慣れない毛筆の字に悩みはしたが、それも深い感動の妨げにはならなかった。
 そこでわたしは堺利彦をうながし、やがて上京してきた葉山をつれて三人で改造社の山本実彦(明治一八~昭和二七)を訊ね、簡単に内容を説明して出版方を頼んだ。大震災直後のことで、バラックの中でゴム長をはいて忙しそうにしていた山本社長は堺さんやわたしの手前ひと通り耳をかしたりはしたが、余り気がなさそうであった。
 それが葉山が『淫売婦』(一四年)で一躍新進作家として大きく認められると、たちまち山本社長の使がきて陽の目をみることに至ったのである。その『淫売婦』につづいて、『セメント樽の中の手紙』(一五年)などをかいて作家としての地位を確立したのだが、当の葉山は最初は意外な成功にあっ気にとられたり、世評に感激してとつぜんヒステリックに泣き出したりしたものである。

 青野はこの回想を、葉山の敗戦直後の満州からの引き揚げ列車の中での死を念頭に置きながら書いている。葉山のデビューにまつわる証言は様々なヴァリエーションがあるけれど、この青野のものが最もリアルだし、信憑性が高いと思われる。なお『淫売婦』は春陽堂からの刊行で、こちらはその経緯が不明である。また先述の『葉山嘉樹日記』(筑摩書房、昭和四十六年)は青野の書架に保管されていたもののようだ。


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1270 葉山嘉樹『海に生くる人々』

 本探索1255の小林多喜二の『蟹工船』の成立にあたって、葉山嘉樹の『海に生くる人々』が大きな影響を与えたことは近代文学史においてよく知られていよう。この日本プロレタリア文学の記念碑とされる『海に生くる人々』は大正十五年に改造社から刊行され、例によって近代文学館による複刻が手元にある。

(改造社版) (複刻)

 この四六判並製のアンカットフランス装、三〇九ページの小説は汽船万寿丸が三千トンの石炭を詰めこみ、暴風雪の中を室蘭港から横浜へ向けて乗り出した場面を始まりとしている。冬期における北海路の天候はいつも険悪で、船にしても船員にしても、太平洋の怒涛の中へと繰り出していくようだった。それは次のように描かれている。

 万寿丸甲板部の水夫達は、デッキに打ち上げる、ダイナマイトのやうな威力を持つた波浪の飛沫と戦つて、甲板を洗つてゐた。ホースの尖端からは沸騰点に近い熱湯が迸り出たが、それがデッキを五尺流れるうちには凍るのであつた。五人の水夫は熱湯の凍らぬ中に、その渾身の精力を集めて、石炭塊を掃きやつた。
 万寿丸は右手に北海道の山や、高原を眺めて走つた。雪は船と陸とをヴェールで以て遮つた。悲壮な北海道の吹雪は、マストに悲痛な叫びを上げさせた。

 こうした海と船の描写を読みながら、葉山がメルヴィルの『白鯨』を読んでいたのではないかと考えたのだが、『近代出版史探索Ⅳ』789などの阿部知二訳によって、『同』790の河出書房『新世界文学全集』に『白鯨』が翻訳されるのは昭和十六年なので、メルヴィルの他の作品はともかく、『白鯨』は読んでいなかったと見るしかない。後に「文学的自伝」(『葉山嘉樹全集』第五巻所収、筑摩書房)などで知ったところによると、前田晁訳『ゴーリキー短篇集』が年少の葉山のバイブルで、それを読みながら、「ボルガの河船の、ボーイになって苦労がしてみたい、とか、税関の眼をかすめて、夜サンパンを漕いで見たい」という衝動にかられていたようだ。ただこの短篇集は出版社などが確認できていない。

 葉山の「年譜」(同前)によれば、それに端を発し、大正元年に水夫見習いとしてカルカッタ船路の貨物船に乗ったのが始まりで、それから室浜の石炭船に月給六円の三等セーラーとして雇われた。ところが船長がとんでもなく権柄づくで、労働は苦痛を極めたので、ストライキを行ない、勝利したけれど、次の航海で左足を負傷し、職務怠慢の名目で「合意下船」となったのである。そして大正六年頃から『海に生くる人々』を書き始めた。同八年には労働組合の組織に専念し、神戸の三菱川崎造船所、横浜ドッグ争議などを応援し、愛知時計電機争議を起こし、大がかりなデモを企てたりしたが、十二年には治安警察法容疑で、名古屋刑務所の未決に入れられ、そこで筆墨紙を許され、未定稿だった『海に生くる人々』を完成するとともに、検閲を受けながら「淫売婦」を書き上げた後、巣鴨刑務所へ移されたのである。

 葉山は出所してから木曽川ダムや発電所工事に携わっていたが、友人を通して『海に生くる人々』や「淫売婦」の短編が『近代出版史探索Ⅲ』540の青野季吉の手に預けられ、『文芸戦線』に発表された。とりわけ「淫売婦」「セメント樽の手紙」は好評で、葉山は有力新人として既成文壇からも認められ、『文芸戦線』同人として推薦された。その一方で、これも本探索1217の堺利彦が改造社に『海に生くる人々』を紹介したことによって出版され、葉山はマドロスや土方を経て、大正十五年に上京し、プロレタリア文学者へと歩んでいったことになる。

 この「年譜」は『葉山嘉樹全集』第五巻収録だが、実は前々回ふれた『新興文学集』のために書かれたものである。この巻には前田河広一郎の「三等船客」や「マドロスの群」の収録も見えているように、これらの作品も葉山の『海に生くる人々』への影響とコレスポンダンスを物語っているのではないだろうか。その「総序」では前田河の特色として、「大がかりな題材を把握し易々とこなしてゆくところ、太き線、強く迫力、広汎な視野」が挙げられ、一方で『海に生くる人々』によって一躍プロレタリア文壇の寵児となった葉山は、特殊な経歴から来る特殊な題材を把握し、プロレタリアの情熱を以て歌ふが如く創作する『労働の詩人』だ」とされている。

 まさに二人のこの通底性こそが、既成文壇に対し、プロレタリア文学の「社会的にも文壇的にも輝やかしき地歩を獲得するに至つた」「諸傾向の最尖端を代表する」ことになったように思われる。彼らは『文芸戦線』によって、多くの作品を発表していくわけだが、それらのトータルな集積として『文芸戦線作家集』(全四巻、『日本プロレタリア文学集』10~13、新日本出版社)も編まれているので、それらも機会を見つけて繰ってみることにしよう。


odamitsuo.hatenablog.com


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1269 スタア社『亜米利加作家撰集』

 前回の奢灞都館の「アール・デコ文学双書」のラインナップを見ていて思い出されたのは、スタア社の『亜米利加作家撰集』のことである。これは昭和十五年刊行の並製三四五ページの一冊で、ヘミングウエイの「五萬弗」が収録されていたことから、『明治・大正・昭和翻訳文学目録』を繰ってみたのだが、この翻訳は見当たらず、こうした戦時下のアンソロジー翻訳集はもれてしまうことを実感したからだ。

 それに加えて、この『亜米利加作家撰集』は二十年ほど前に入手したのだが、保存状態が悪かった。表紙は半ばはがれ、背のタイトルも褪色して読めず、そのために400円という値段が裏表紙に鉛筆で記され、古書価も安かった。また出版社にしてもずっと手がかりはつかめず、ずっと放置しておいた。ところが中野書店の「古本倶楽部別冊・お喋りカタログⅣ」(2009-12)が届き、そこに鮮やかな書影入りで、『亜米利加作家撰集』が15750円の高い古書価で掲載されていたのである。

 そこには「米文学の翻訳や映画の字幕、映画評論でお馴染みの名前が揃っています。中でもJ・Jこと植草甚一は、70年代のサブカルチャーブームの火つけ役として晩年一挙にその名前が知られますが、映画評論や翻訳は戦前からの仕事でした」というコメントが付されていた。私も作家よりも翻訳者陣に惹かれ、『亜米利加作家撰集』を購入したのだが、あらためてそれらの作家と作品、及び訳者を示しておくべきだろう。番号は便宜的に振ったものである。なおポピュラーな作家のファーストネームは省略し、そうでない者はフルネームで記す。ただこの判断は現在からのもので、昭和十五年当時の事情は確認できていない。

1 ヘミングウエイ  海南基忠訳 「五萬弗」
2 スタインベック  清水俊二訳 「ジヨニイ・ベア」
3 ベネディクト・シーレン  双葉十三郎訳 「[雷雨雷雨」
4 アイラ・V・モリス  双葉十三郎訳 「宿命へ翔ぶ男」
5 ルイ・ブロムフィルド  清水俊二訳 「誰でも知つてゐる女」
6 ドライサー  海南基忠訳 「天国への税金」
7 マニュエル・コムロフ  海南基忠訳 「一日の歓楽」
8 ポール・ホーガン  植草甚一訳 「遠くの港」
9 ユージン・ライト  植草甚一訳 「白い駱駝」
10 アルバート・マルツ  大門一男訳 「巷の除夜」

 恥ずかしながら、半分以上の作家はここで初めて目にするもので、当然のことながら作品に至っても同様だ。それでも訳者のほうは植草だけでなく、双葉十三郎や清水俊二はレイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』(創元推理文庫)や『長いお別れ』(ハヤカワポケミス)で馴染み深いし、戦後は映画評論や字幕でも周知の存在であろう。それに大門一男は清水の友人だとわかる。ただ最も多くの三作を訳している海南はプロフィルが不明だが、それらの解説から映画にも通じているアメリカ文学者のように思われる。また発行者の荒木誠太郎も定かでないが、映画誌『スタア』の編集長で、スタア社の経営にも携わっていることから考えれば、映画関係者と見なせるであろう。

大いなる眠り (1959年) (創元推理文庫) 長いお別れ (ハヤカワ・ミステリ文庫 7-1)

 奥付の検印紙には「一男」という印が打たれていることから推察すれば、大門一男が中心となって企画、翻訳編集され、映画関係版元のスタア社へと持ちこまれたのではないだろうか。拙稿「清水俊二と多忠龍『雅楽』」(『古本屋散策』所収)で、清水が大門に誘われ、昭和十六年にパラマウント映画会社から六興出版部へ移り、編集者となったこと、また『近代出版史探索Ⅳ』585で、戦時下の六興出版部事情にふれている。それらの事実を重ねてみると、昭和十五年八月に刊行された『亜米利加作家撰集』は大門と清水が本格的に六興出版部に関わる前に、親しい映画とアメリカ文学関係者たちを誘い、試みた翻訳アンソロジーの出版だったように思われる。

古本屋散策

 そこで留意すべきは昭和十五年に芸能人や煙草のカタカナ名が日本語へと改名され、ダンスホールも閉鎖され、各地で紀元二六〇〇年祝賀行事が催され、翌年の十六年十二月には太平洋戦争が始まっていく時代を迎えていたことだ。すなわちアメリカ文学の翻訳出版が困難となる寸前に、アメリカ文化に通じた在野の訳者たちによって、『亜米利加作家撰集』は刊行されたと見なすべきではないだろうか。そうした意味において、この一冊は貴重な試みであったというべきかもしれない。

 それに対する配慮は巻末の近刊とある山下謙一『山西通信』にうかがわれる。この山下は『亜米利加作家撰集』の装幀、及び各作品の扉挿絵を担い、とりわけオリジナルな挿絵は各作品にふさわしいイメージをもたらしている。その山下は出征中で、「三年にわたる、建設部隊全北支活躍中にスナツプされた手紙及びスケツチ」がこの『山西通信』の内容とされ、「逞しい男の腕とその逞しい腕から出る繊細な美術家として神経!」と謳われている。

 この一冊はスケッチや挿絵も多く、美術書として仕上げられているようなので、見てみたいと思うけれど、出会うことができるであろうか。


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1268 エリナ・グリン、松本恵子訳『イット』と奢灞都館「アール・デコ文学双書」

 前回の松谷与二郎『思想犯罪篇』の巻末広告にエリナア・グリーン、松本恵子訳『イツト』が見出された。そこには「世界的流行の尖端イツトの原本! クララ・ボウによつて全世界にふりまかれたイツト イツトとは? 人生の大問題たる性関係、性心理、性道徳を一変しつゝあるイツト! イツトを理解すれば人生が愉快だ!」というキャッチコピーが躍っていた。

 

 プロレタリア文学シリーズと見なしていい『現代暴露文学選集』「世界犯罪叢書」の刊行のかたわらで、このような「「世界的流行の尖端イツトの原本」を翻訳出版する天人社の企画のちぐはぐさは新興出版社ならではのものだが、「新芸術論システム」シリーズも刊行していることからすれば、それほど驚くべきではないであろう。コピーにあるように、『イツト』は1927年にクララ・ボウ主演で映画化され、「イツト(性的魅力)」という流行語を生み出したとされる。この映画はニューヨークにおける没落貴族の誇り高き令嬢と若き新興実業家が繰り拡げる都会情趣に彩られた恋愛劇のようだが、残念ながらビデオやDVDに巡り合えず、観る機会を得ていない。

 しかし天人社版『イツト』は昭和五十八年に奢灞都館によって、生田耕作監修・校訂で復刻され、その巻末には映画『イツト』のスチール写真を見ることができる。しかもこの復刻は「アール・デコ文学双書」第二回配本としてで、生田と奢灞都館は一九二〇年代に「小説の黄金時代」を見出し、この企画はその再現のために試みられたと思われる。それは裏表紙に示された「アール・デコ文学双書」のコンセプトにも明らかなので、それを示す。

 ”狂つた歳月”Folles Années —1920年代 ”装飾的芸術”Art Decoの時代とも呼ばれ、文明が爛熟とデカダンスの豪奢な人工花を絢爛と咲き誇らせ、大恐慌の灰色の季節の到来とともに旧属にその彩りを凋ばせた―天国のこちら側(ジスサイドオブパラダイス)。

イット (1983年) (アール・デコ文学双書) (奢灞都館版)

 私たち戦後世代には実感がわかないのだけれど、ヨーロッパのみならず、アメリカでもF・L・アレン『オンリーイエスタディ』(藤久ミネ訳、研究社)で描かれているように、一九二〇年代は特別な時代であり、生田たちの世代には爛熟とデカダンスのアール・デコの中にもたらされた大恐慌のディケードとして甘受されたのだ。そえゆえに一九八〇年代の日本において、重なるかのような「懐しい20年代の雰囲気を伝える作品を選んで、出版当時の装いを再現して贈る」「アール・デコ文学双書」が企画されたのであろう。そのラインナップを挙げてみる。

1 アニタ・ルース 『殿方は金髪がお好き』 秦豊吉訳、『世界大衆文学全集』15所収、改造社
2 エリナ・グリン 『イット』 松本恵子訳、天人社
3 カール・ヴァン・ヴェクテン 『盲のキューピッド』
4 ロナルド・ファーバンク 『人工皇女』
5 マイケル・アーレン 『グリーン・ハット
6 スコット・フィッツジェラルド 『楽園のかけら』
7 ベン・ヘクト 『悪の王国』 『悪魔の殿堂』近藤経一訳、『世界猟奇全集』8所収、平凡社
8 カール・ヴァン・ヴェクテン 『ハリウッド行進曲』
9 ピエール・マツコルラン 『女騎士エルザ』 永田逸郎訳、「フランス現代小説」6、第一書房
10 プレーズ・サンドラール 『聞かせてほしい』
11 ポール・モーラン 『オリエント急行』
12 モーリス・デコブラ 『寝台車のマドンナ』 有賀宗太郎訳、一元社  

 殿方は金髪がお好き (1982年) (アール・デコ文学双書)(『殿方は金髪がお好き』)

 このように「アール・デコ文学双書」は全十二巻として予告されていたが、1と2の二冊を刊行しただけで中絶してしまった。日本も欧米の「狂つた歳月」的なバブル時代を迎えようとしていたけれど、残念ながらこの「双書」は読者に受け入れられなかったと推測するしかない。

 1の訳者の秦は『近代出版史探索Ⅴ』822などで、同じく2の松本恵子は『同Ⅵ』1176や拙稿「松本泰と松本恵子」(『古本探究』所収)で取り上げているし、その元版も判明しているので、作品も含め、ここでは言及しない。しかし3は生田文夫訳とされていることからすれば、新訳を予定していたはずだが、4から12に関しては、新訳なのか復刻なのか特定できない。ちなみにこれは蛇足かもしれないが、生田文夫は耕作の子息だと思われる。また3の翻訳中断事情は「書肆 遅日草舎」に詳しい。
chijitsu.blog.fc2.com

近代出版史探索VI 古本探究

 そのことはさておき、このリストの3から12の翻訳について、国会図書館編『明治・大正・昭和翻訳文学目録』を確認すると、7の『悪の王国』、9の『女騎士エルザ』、12の『寝台車のマドンナ』しか見出せなかった。それにこれらは未見であり、また3と8のヴェフテン、4のファーバンク、5のアーレン、7のヘクト、12のデコブラの著書は初めて目にするものだった。6の『楽園のかけら』や11の『オリエント急行』などは既訳があるのではないかと思っていたけれど、見当らなかった。

明治・大正・昭和翻訳文学目録 (1959年)

 ということは『同目録』にももれているのか、それとも「アール・デコ文学双書」にラインナップされた半数以上が未邦訳だったことになるのだろうか。デコブラの『寝台車のマドンナ』の版元の一元社にしても、初めて目にするものである。そうしたプロフィルの定かでない出版社もこれらの作品の背後に控えているのかもしれない。

 なお「同双書」の刊行と時を同じくして、クララ・ボウに言及した海野弘『モダンガールの肖像』(文化出版局)や『アール・デコの時代』(美術公論社)も出版されていたのである。

モダンガールの肖像―1920年代を彩った女たち アール・デコの時代


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら