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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

【自治会、宗教、地方史】No. 46 第二部19 地方史・郷土史ブームと地方出版と地方開発の連動

地方史・郷土史ブームと地方出版と地方開発の連動

A : 『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)の内容を簡略に説明してみる。
  江戸時代半ばに蝦夷の後裔である東北の覇者安藤(東)の系譜を引く羽州土崎の浪人秋田孝季が、その妹婿の津軽飯詰の庄屋和田長三郎とともに、安藤(東)氏の故事来歴を調査するために、諸国を行脚し、苦心惨憺して収集した雑多な資料をもとにして編纂した秘蔵の書とされる。

 それは津軽藩によって抹殺された古代以来の津軽の歴史の真実を記したものであったために、秋田家に正本、和田家に控えの副本がそれぞれに伝えられたが、前者の正本は焼失し、和田家の副本のみが残ったとされ、この「和田文書」をベースとして、『東日流外三郡誌』が編纂刊行されていったのである。

東日流外三郡誌 古代篇 上

 これでアウトラインはつかめるし、偽書の問題は齋藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』(新人物往来社、平成21年)、藤原昭『偽書「東日流外三郡誌」の亡霊』(河出書房新社、同31年)などに詳しいし、「古史古伝」に関しては『危険な歴史書「古史古伝」』 (「別冊歴史読本」、新人物往来社、平成12年)が参考になる。
 こんなところでいいかな。

偽書「東日流外三群誌」事件  偽書『東日流外三郡誌』の亡霊: 荒吐の呪縛  危険な歴史書古史古伝: 偽書と超古代史の妖しい魔力に迫る (別冊歴史読本 54)

 小田 : それでいいと思うよ。さらに偽書問題に踏みこんでいくと、色々と錯綜してくるので。
 それでもひとつだけ付け加えておくと、『東日流外三郡誌』の謎の神アラハバキは柳田国男の『石神問答』 に出てくるし、この書簡からなる著書において、最も多い書簡は山中共古によるものだ。ここでも『見付次第/共古日録抄』が関係はないにしても、つながってしまう。

柳田國男全集 15 (ちくま文庫 や 6-15)  

A : いや、それだけでなく、『東日流外三郡誌』が刊行されたのは、そちらの薬師如来の文化財指定と同じ昭和50年で、それをめぐって、複数の寺の住職が絡んでいることも共通している。

 それにこれはあなたもご存じだろうけど、『東日流外三郡誌』は弘前の北方新社からも出版され、次に東京の八幡書店が続き、全国で読まれ、億を超える売上になったと聞いている。「古史古伝」の中でも最も売れた文書だったといえる。

小田 : 私も『東日流外三郡誌』を買っている。これは地方・小出版流通センター経由で、書店でも購えたからで、その後の八幡書店版は購入していないが、村史資料として公刊されたのは郷土史家による努力と編纂によるとされるのだが、未見です。

 北方新社版は文書の発見者、保管者の和田喜八郎の協力を得て、郷土史家と教育委員が写本のすべてを原稿化したもので、全6巻に及んでいる。私が所持しているのは第2巻だけだけれど、初版は59年4月で、8月に第2刷だから、売れているとわかる。

東日流外三郡誌 第一巻 古代編  東日流外三郡誌 第二巻 中世編(一) (北方新社版)

A : この北方新社版のことは先の斎藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』にも出てくる。編者に名を連ねているのは郷土史家と和田文書の所有者とされる教育委員で、郷土史家と地元の出版社の功名心が背景にあったことが語られている。
 その出版の発端は私も知らないではない津軽書房の和田喜八郎『東日流蝦夷王国』(昭和58年)だったことを教えられる。すると私も『東日流外三郡誌』の出版に無縁でなかったことになり、私も地方史と偽史問題にリンクしてしまう。

小田 : 北方新社版『東日流外三郡誌』にしても、「書肆アクセス取扱品」というスリップがはさまれているので、それが地方・小出版流通センター経由で書店に届けられたことがわかる。

A : それから、やはり時代というものもある。昭和40年代から国鉄のディスカバージャパンや各地におけるタウン誌の隆盛もあり、柳田国男の再評価と絡んだ地方史ブームが起き、郷土史を中心とする地方出版物も多く出されるようになっていた。
 そうした出版状況を背景として、地方・小出版流通センターも立ち上げられていった。『東日流外三郡誌』にしても、そのような時代的環境の中から出現してきたといっていい。

【自治会、宗教、地方史】No. 45 第二部18 あまりにもお粗末なでっち上げ

あまりにもお粗末なでっち上げ

A : それは笹沢左保の『木枯し紋次郎 さらば手鞠唄』(新潮社、平成10年)だ。これは『小説新潮』に連載された「帰って来た木枯し紋次郎シリーズ」の一冊で、その中に「顔役の養女」という一編があった。あなたは読んでいないのかな。

木枯し紋次郎さらば手鞠唄

小田 : 確かに出ていたね。かつては私もファンだったけれど、「帰って来た木枯し紋次郎シリーズ」は読んでいない。確か5、6冊出ていたはずだが、読みそこねてしまった。昭和40年半ばには中村敦夫主演でテレビ化され、ブームにもなっていたし、懐かしい。でも現在ではまったく読まれていないと聞いている
 それは笹沢だけでなく、近年は司馬遼太郎や藤沢周平も読まれなくなり、古本屋でもピタリと売れなくなったとのことだ。

A : 笹沢の木枯し紋次郎はわかるような気がするが、司馬や藤沢もそうなのか。それならば、柴田錬三郎や山田風太郎も同様かもしれない。

 そんなことをいっていると、脇道にそれてしまうので、笹沢の「顔役の養女」へ話を戻すと、この作品は何と東海道が舞台なんだ。紋次郎は駿河から遠江の街道を旅している。そこに医王山が出てくるので、そのまま引いてみる。

 袋井で東海道から北へそれて一里(四キロたらずの道)をたどると、小高い山のうえに真言宗の古刹がある、一千年以上も前の創立とされ、医王山薬王院と号し一般には油山と呼ばれている。
 渓谷に沿った参道は昼なお暗き杉の樹海の中を抜けていくが、山の中腹には瑠璃の滝が落ちている。油山寺はかつて、孝謙天皇の祈願所であった。
 その孝謙天皇の眼病を治したのが、瑠璃の瀧の水だったと伝えられている。以来、霊水として瑠璃の滝は広く知られるようになり、いまでは眼病を治そうと水をもらいに来る人々が絶えなかった。

 紋次郎と道中を一緒にしたおもよは父親のために、この霊水をもらいに来たのである。その父は駿河一の大親分の安東の文吉で、父娘ともども紋次郎と旧知の関係だった。

小田 : それはまったく意外だし、おもしろいねえ。T応寺も医王山系列で、油山寺は名刹として知られている。しかも眼病治癒の寺ということになるのか。瑠璃の滝は見たことはないけれど、今でも油山寺に存在しているようだ。

A : つまりT応寺の家康眼病治癒伝説はこの医王山の故事からとられているんじゃないかな。

小田 : ビンゴというべきだね。薬師如来を始めとして、すべてがフェイクなんだから、T応寺と眼病治癒伝説もそれを模倣して作られたことになるのかもしれない。
 それが紋次郎のエピソードであれば、楽しめる話でもある。でも自治会問題のコアに当たると考えると、何とも言いようがない。本当にもう少しまともなでっち上げ話を聞かせてもらいたいと思うよ。

A : 私は薬師如来とT応寺の話を聞いていて、スケールはまったく異なるけれど、『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)を想起してしまった。

東日流外三郡誌 古代篇 上

小田 : やっぱり出てくると思った。

A : 所謂「古史古伝」の話というのはおもしろいし、あなたも嫌いではないはずだし、バブル期は偽史の時代でもあった。

小田 : あらためて考えると、本当にそうだ。でもトータルとしての「古史古伝」ではなく、『東日流外三郡誌』だけでも簡略に紹介しておくべきだろうね。

A : 時代も異なっているし、それはいえる。では私のほうから試みてみる。

 市浦(しうら)村は津軽半島の中ほどに位置し、中世の発掘調査が進む十三湊を始めとして縄文時代から近世にかけての多彩な歴史と遺跡、伝説が残されている小村だった。
 昭和50年代に『東日流外三郡誌』は市浦村の公誌である『みちのくのあけぼの—市浦村史資料編上巻 東日流外三郡誌』として刊行され、地方史資料として大きな反響をよんだ。それは津軽の闇の古代・中世史を敗者の視点から記した東北の原日本を描いたとされる禁断の書とされ、しかもそれが小村とはいえ、公的出版として刊行されたことにもよっている。

【自治会、宗教、地方史】No. 44 第二部17 疑問だらけのT応寺の由緒

疑問だらけのT応寺の由緒

小田 : いや、B4判2枚で、先の家康眼病云々に続いて、これまた史資料の提示もなく、T応寺の幕末から昭和57年までが語られ、それに明治18年のT応寺の「伽藍堂宇」と「伝承宝物」「寺禄」のリストが示されている。それがやはり2ページで、最後の1ページは「境内・建物」図となっている。

 これがその現物です。この文書は平成22年に立派なアート紙によって再び作成され、こちらは自治会員に配布されたはずで、私のところにも1部が保管されていた。

A : でも読んでみると、ちょっとひどいね。明治18年の「記録」と「境内・建物」図はともかく、2ページの「由緒」は中学生の作文にも及ばないレベルだ。

小田 : 私も同感で、後述するように、それに対して、教育員会に質問状を出していくことになる。

 ただここでひとつだけ指摘しておかなければならないのは、「伝承宝物」のところに「薬師如来 木像立身像 御丈二尺三寸/当寺開創よりの本尊」とあることだ。

A : あれ、確か『市誌』におけるT王寺の薬師如来は四尺三寸で、それで文化財申請も出されていたよね。

小田 : そういうことで、T王寺の薬師如来とちがうことになる。ここでそれを説明すると質問状と重なってしまうので、その理由を明かすのはもう少し待って下さい。

A : わかった。でも私なりに少し質問していいかな。

小田 : もちろん、かまわないよ。

A : この文書は「由緒」と題しているにもかかわらず、何の歴史軸にも添った説明になっていないし、疑問だらけだ。それこそ「寺伝」に基づいているつもりだろうが、書いている本人が理解しているようには思えないし、それは読めば明らかだ。

 だってT応寺は「安政の大震災により堂宇は残らず潰倒し」、明治2年に再建したものの、明治31年の大暴風でも諸堂は悉く壊滅し、昭和19年には大震災でまたしても倒壊してしまう。そのような3度の大震災で、薬師如来が無事だったと考えるほうが無理だ。19年の大地震後はJ寺に仮安置されていたとあるが、これも本当か疑わしい。大きさの違いはそれを裏づけている。

 それに伽藍堂宇や伝承宝物の「記録」が明治18年12月でとどまっていることも解せないし、31年にも大暴風によって壊滅状態になったとされるので、「境内・建物」そのものが潰滅してしまい、それは薬師如来だって例外ではなかったはずだ。

小田 : それは私も同感で、明治18年の二尺三寸の薬師如来も倒潰してしまったんじゃないのかな。現在のような厨子に入っていたとは思われないので、建物が崩壊すれば、薬師如来だって同様なことは小学生でもわかることだ。

 この「記録」は改竄されていると思う。「記録」の薬師如来のところは「当寺開創よりの本尊」とあるだけだが、その下の「観世音菩薩 木像立身像、御丈八寸」には「当代二代玉岩の発願により慶長7年9月勧請して堂宇を建立す/寛永13年8月豊田一郡観音霊場を選定し諸人結縁の為33ヶ所順礼の木札を定め当観音は6番の札所であった」との長い注釈がついている。

 このことから考えれば、薬師如来にもしかるべき注釈が付されていたはずだが、おそらく「当寺開創よりの本尊」として、その制作年代も記されていたんじゃないか。だがそのまま記載すると、藤原仏として成立しないのでカットされたんじゃないだろうか。

A : なるほど、都合よく切り貼りされたとも考えられる。それにずっと家康眼病治癒と医王山T応寺のことが頭に引っかかっていたんだが、ようやく思い出した。

小田 : 何なの、それは。

【自治会、宗教、地方史】No. 43 第二部17 独断専行を看過してきた地区住民、O寺と仏像のお開帳の歴史(続き)

独断専行を看過してきた地区住民、O寺と仏像のお開帳の歴史(続き)

小田 : 私も同感で、登記簿などを調べてみると、3ヵ所の土地は同じ昭和52年に売られている。それは同年に自治会エリアが市街化区域と市街化調整区域に分断され、この3ヵ所はいずれも農地で市街化調整区域に位置することになり、それ以後は売買できなくなる土地だった。だからその施行前に売ったということになる。

 それから2ヵ所の隣接地も売られたのは自治会名義ゆえで、J寺と自治会名義の土地が繋がっている事実を抹消したかったんじゃないかと思う。その事実を抹消してしまえば、J寺の土地名義が単独ですっきりする。

 それらに加えて、土地を売った金はそのまま薬師堂の改装、仏具などの購入に使われたとにらんでいるし、それはお開帳経費も同様だ。

A : つまりそれらは確信的にして計画的に実行されたと。

小田 : これはいうまでもないけれど、それらを差配したのは政教一致の当時者の先代で、しかも南部地区の開発や耕地整理事業に関しても実力者で、市街化区域と市街化調整区域の線引き問題についても深く関わっていたと推測される。

 それはJ寺の敷地の拡張や個人名義の農地の取得などにも及んでいるが、ここではO寺問題だけに限っているので、あえてふれないことにする。

A : じゃあ、先代は市会議員となり、市議会議長も務め、政教一致の実力者として、まさに薬師如来の指定文化財化を始めとして、何でも自分のいうことは通るくらいの勢いですべてを進めていったわけだ。

小田 : そう考えるしかない。

A : そのために使われたコストも自治会から捻出されたもので、積み上げれば数千万円に及ぶんじゃないの。

小田 : そうだね。昭和49年の薬師堂改装から考えても、法人化にするまで40年を閲していることからすれば、火災保険料、定番の宗教行事だけでも、一千万円を軽くオーバーしてしまうはずだ。もちろんお開帳経費などは別だ。それにボランティアというしかない宗教行事のための人件費などを加えれば、新公会堂の建築費くらいにはなるだろうね。

 その先代とすれば、自分の腹は痛まないお布施の感覚だから使って当たり前という感じなんだと思う。
 まあ、そういう政教一致的独断専行を看過していた我々も悪いんだけれどね。

A : ところで、先代はそうした痕跡というか、所謂ボロは出していないのか。

小田 : もちろん、それは見つけられる。58年に薬師堂として登記したことで、J寺のものになったと満足したであろうし、61年のお開帳の際に、T応寺の「縁起」ともいうべき 文書を出している。
  それは当時の自治会長名でのものだが、先代の名前で「誌」となっているので、実質的に彼が書き、発表したものだと見なしていい。
 
A : それは自治会員に配られたものなのか。

小田 そうではないと思う。お開帳というよりも、自治会に対して、薬師堂としてのお披露目の意味もあって、試しに出されたのじゃないかと察せられる。

 この文書を見出したのは図書館における郷土資料コーナーで、フアィル化された文書の背タイトルはT応寺ではなく、「T王寺」とあった。それはT応寺がT王寺として届けられたことを意味している。

A : 今度は逆なわけだね。

小田 : そういうことで、さすがにT応寺だけでは認められないことも懸念し、逆にT応寺=T王寺としたんだと思う。
 これは「旧T王寺の由緒」と薬師如来のことを述べていて、次のように始まっている。

  「初設の年暦月日は正確にはわかりませんが、本尊の薬師如来は定朝法師の真作であると言われています。」

 この一文は昭和50年の指定文化財答申として、先代が文化財専門委員会に提出したものに基づいているのは明白で、「定朝法師」との言葉がここでも使われていることにも表われている。

 これに続いて、歴史的事実によらない徳川家康の眼病を薬師如来に祈念すると、たちまち治癒したなどというエピソード、歴史の時系列を無視した記述がなされ、薬師如来が眼病に霊験の著しいものだとも述べられている。これも先の文化財答申に見えていたストーリーで、繰り返されているだけだ。

 一応は僧職にあるのだから、もう少し歴史的素養があってしかるべきなのに、それらはまったく感じられず、手前勝手なものでしかない。

A : それらは長いのかしら。

【自治会、宗教、地方史】No. 42 第二部16  市政による偽史の肯定、O寺と仏像のお開帳の歴史

市政による偽史の肯定、O寺と仏像のお開帳の歴史

 
小田 : それらのことはひとまずおくにしても、現実的には先代からの申請が出され、T王寺とT應寺=T応寺は同一であり、薬師如来は藤原仏で、定朝の真作として、市の指定文化財として認められてしまった。

A : でもいくら何でもいい加減というか、出鱈目な文化財指定で、教育委員会や文化財専門審議委員会の見識を疑ってしまう。先代の答申がまったくの検証もなく、通ってしまったことになるわけだから。

小田 : それに加えて唖然とするのは、申請した先代にしても、教育員会や文化財専門審議委員会の人たちにしても、『市誌』を読んでいないどころか、リテラシーがまったく欠如していることを露呈させている。

A : それにまったくの美術眼の欠如も付け加えておきたい。だって提出された薬師如来の写真を見ただけで、それが定朝作の藤原仏に値しないことは一目瞭然ではないかといいたい。

小田 : 本当にそうだね。私もこの事実を知って、あきれ果てて言葉もないくらいだ。でもこのようにして偽史と偽仏が成立してしまったことになる。

A : ひどい話だね。しかも教育委員会も共犯ということになるのだから。

小田 : それだけじゃないんだ。その文化財指定絡みで、昭和49年に戦後2回目のお開帳が行なわれ、それに合わせるように、O寺が大修理され、現在の薬師堂へと改装された。

 細部までいっても、あまり意味がないので、ひとつだけ挙げると、真ん中にあった囲炉裏がなくなってしまったことだ.。これは考えてみれば、O寺が村の集会所だったことの象徴で、J寺の薬師堂とするためにはその囲炉裏をなくしてしまわなければならなかった。

A : 確かにそうだ。囲炉裏のある薬師堂なんてのは聞いたことがないから、それは必然的にして象徴的イニシエーションだったことにもなる。

小田 : それに合わせて新たな仏具などが備えられ、薬師堂らしき体裁が整えられていった。
 でも残念なことに私は東京にいたので、そうした変貌に立ち合っていないのだが、そのようなプロセスを経たことによって、58年には薬師堂として登記されるに至る。そして61年にお開帳となり、それは平成10年、22年と続いていったのである。

A : 老人憩の家の併設はその間の57年だったから、薬師堂登記というのは薬師如来の文化財指定から8年経ち、もはや自治会においても認可されたと考え、屋上屋を重ねるような登記に思われるね。

小田 : そうなんだ。24年の段階で、一応はJ寺名義で登記されているし、どうしてダブルのかたちで登記しなければならなかったのかという疑念が生ずる。しかも老人憩の家の併設後だから、余計にそう思ってしまう。

A : それもそうなんだけど、薬師堂のための改装や仏具などの費用、それに加えて4回に及んだお開帳経費はどうなっているのか。

小田 : それらがJ寺から出されていれば、何の問題もないわけだが、すべて自治会が賄ったと判断できる。

 これは調べているうちに判明したのだが、昭和52年に部農会=自治会名義の土地が3ヵ所売られている。1ヵ所は私の「村から郊外へ」(『〈郊外〉の誕生と死』所収)でもふれられている火の見櫓と消防小屋、農機具倉庫があり、農産物の出荷所だったところ、他の2ヵ所はO寺に隣接した土地で、元は村の共有地としての田んぼだったところだ。

郊外の誕生と死   〈郊外〉の誕生と死 (新版)

A : どうして隣接地が売られてしまったのか、だってそれもO寺の土地に組み入れれば、新たに開通した道路に面し、土地としての利用価値も高まるし、願ってもないことのように思われる。
 それに不動産取引の常識からすれば、隣地は借金をしてでも買えというのが原則なのに、逆に売っているのは不可解だ。