出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1398 中野重治『空想家とシナリオ』

 高杉一郎は『ザメンホフの家族たち』の「中野重治」、『往きて還りし兵の記憶』の「務台理作と中野重治」「その後の中野重治」において、いずれも主として前者は戦前、後者は戦後の中野に関して言及している。ここでは戦前の中野にふれてみる。

征きて還りし兵の記憶

 高杉は中野が「なつかしい作家」「同時代の作家」で、「中野文学の愛読者」であると書き出している。その中野に会ったのは高杉が『文芸』の編集者になってからのことだった。

 中野さんの作品のなかでも私がとくにすきな「空想家とシナリオ」は、もっとずっとあとになってから、やはり私たちの『文芸』のために書いてもらった作品である。いろいろな作家の生活をのぞき歩いている編集者のひとりとして、私は戦争中の中野さんの生活態度を、どんなことがあったにせよ、じつに立派だったと思っているが、そのことはこの作品によく出ていると思う。あれを読むたびに、私の眼のまえには軍国的ファシズム下の日本の知識人の全生活がうかびあがってくる。

 この『空想家とシナリオ』は昭和十四年に『文芸』八月号から十一月号にかけて連載され、改造社から単行本として刊行されているが、いずれも未見で、また各種の日本文学全集に見当たらず、テキストは『方法の実験』(『全集・現代文学の発見』第二巻所収、学芸書林、昭和四十二年)によっている。

(改造社) 

 『空想家とシナリオ』の主人公は車善六といって、二十二歳で東京市の区役所に努め、戸籍係をしている。その名前と戸籍係という設定にも含みがあることは明白だ。彼は空想家であるので、昔の有名な非人頭の車善七とおなじく、偉大にして下づみの人間でなければならないと心がけている。また彼は文学青年で、短編小説なども書いているが、原稿料はめったにはいらず、友人が文学雑誌の仕事をしていることもあって、短い紹介文などの仕事をくれる。それで少しばかりの収入を得ているが、三十円以上にはならない。

 そこに田舎の父の病気が重くなったという電報が届く。ところが汽車賃もなく、葬式代に至ってはいうまでもない。細君にどうするのと問われ、「シナリオを書くんだよ」と応じる。かつて友人の口からシナリオの話が持ちこまれていたのである。善六はそれまで真面目に考えていなかった「シナリオというものについて、『シナリオの書き方』というような本を買ってきて読んでもいいと思うほどの熱心さで馴れぬ考えを廻し始めた。考えれば考えるほど映画というものはおもしろいものである。しかもテーマは『本と人生』で」、「なかなかの映画が出来るぞ、親父も癒る……」

 そして善六は田口の会社からシナリオ代を前借りすることになる。彼の構想は教育映画としての「本と人生」、もしくは「書物と人間」に他ならない。昔に比べて本は安くなっているし、誰でもそれなりの金があれば、相当な本は買えるけれど、金を貯めても買えぬだけでなく、買うことで罰せられる本すらもある。それでも「ある人々は娯しみのために本を読む。ある人々は生き死にを学ぶために書物を読む。ある人がある時ある所である本を読んだため、彼の生涯のコースが決定されたという場合もなくはないのである」。そういうことが善六の空想を刺激するのだった。

 それだけでなく、善六にとって本の前提をなる紙や活字、印刷、出版、流通、販売、古本に至る本をめぐるインフラまでが想起され、そこには必ずプロレタリアの問題も潜んでいることが感知されるのである。それはいかにも中野重治的といっていいので、少しばかり長くなってしまうけれど、そのまま引用すべきであろう。まず山の木が工場で紙となり、鉱山の鉛が活字となり、それが工場での文字印刷の基礎となるを承前として続いている。

 そこに汚い街があり、そこからぞろぞろと労働者が出てきて、そこで彼らが組んだり印刷したりし、そして活字のために鉛からくる病気になり、それから別の汚い街があり、そこで家内工業的なやり方で製本がなされている。出版屋があり、大売捌きがあり、小売店がある。また古本屋があり、古本の市がある。それらの機関にも大勢の人間が働いている。彼らのなかには学問好きがある。ことに学問を身につけたいと願っている少年や青年がある。しかも彼らは、彼ら自身値うちの高い本をつくったり扱ったりしているのではあるが、彼らはそれを、どんな値うちの本か全く知らずにつぎからつぎへとつくり出したり扱ったりしているのである。たまたまそういう本を手に入れたいと思っても、自分でつくった本が自分の手にはいるということがない。こういう関係をひと眼で教えることができるのは、映画以外にはちょっと見つからぬではないか? 少なくとも、映画によってそれを教えるとは可能ある。音響を伝えるためにトーキーがあり、色彩をじかに見せるために天然色があるとすれば、本とは何か、人は本に何を感謝すればいいかを、この仕掛けによって人に伝えることは意義があるとでなければならぬ。

 もちろんこのようなシナリオを書いたとしても、本当に映画になるのかの疑念も付け加えられているが、ここにこの小説のモチーフが表出しているといえよう。

 このシナリオの行方はこの中編を読んでもらうしかないが、中野はその前年に生活のために、東京市社会局調査課千駄ヶ谷分室の臨時雇いとなっていて、善六はそのパロディ的設定と見なせよう。

 善六は数え切れないほどの映画を見てきたと述懐しているが、ひょっとすると、中野はエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』を脳裡に浮かべて、この『空想家とシナリオ』を書いたのではないだろうか。

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古本夜話1397 『文芸』編集者小川五郎と宮本百合子「杉垣」

 高杉一郎は『ザメンホフの家族たち』所収の「目白時代の宮本百合子」において、『文芸』の責任編集者としてのポジションを語っている。それは昭和十年以後、海外の作家の動向から考えても、日本の文壇もファシズムと文化の問題に直面せざるをえないだろうが、「文化擁護」の立場での編集を意図すべきだというものだ。

 そのような時代の昭和十二年に宮本百合子が目白に引越したこともあって、高杉は定期的に訪ねるようになっていた。彼女は『文芸』に、「雑踏」(『中央公論』)、「海流」(『文芸春秋』)に続く「道づれ」を発表したが、作者や宮本顕治をモデルとしたことで、内務省警保局が好ましからざる作家のひとりに挙げたために、十三年には執筆停止、つまり発言も禁止された状態にあった。

 そこで高杉は「文化擁護」の立場から、十四年に『文芸』に病床日記「寒の梅」という随筆を掲載し、それに続いて、百合子も『文芸春秋』に随筆「からたち」を寄せ、彼女に対する執筆禁止は実質的に解かれたことになる。それゆえに小説の代わりに、宮本は『文芸』に「近代日本の婦人作家」を連載する一方で、『中央公論』にも「杉垣」を発表する。この作品について、高杉は書いている。

 「杉垣」は、当時、日ごとにきびしさを加えていく言論統制のもとで身動きができなくなりつつあった改造社にとどまるべきか、やめて義兄が用意した満州国政府の文化部門の椅子に坐るべきか、出所進退に悩んでいた私たち夫婦をモデルに、中野電信隊裏の杉垣にかこまれた私たちの小さな家を舞台にして(百合子はこの家に訪ねてきたことがある)書かれた作品で、発行直後に作者自身から速達で私たちのところに送りとどけられた「贈りもの」であった。
 戦後シベリアから復員してから、私は、河出書房の手に移っていた『文芸』に、この作品を「冬を越す宮本百合子」という実名小説の形で書いたことがあって、杉垣にかこまれた家も作品も、とても忘れがたい。

『近代出版史探索Ⅵ』で百合子の『伸子』を取り上げた際にも参照しているが、新日本出版社版『宮本百合子選集』全十二巻を古本屋の均一台から拾っていて、高杉の彼女に対する感慨を思うと気の毒にもなる。だがそれを確認してみると、「杉垣」は第三巻に収録され、「雑踏」「海流」「道づれ」も同様で、『選集』ゆえか、「寒の梅」「からたち」は見出せなかったけれど、「近代日本の婦人作家」は『婦人と文学』に改題され、第十一巻で目を通すことができた。

近代出版史探索VI 伸子(近代文学館復刻)  

 だがここでは「杉垣」に焦点を当てるべきだろう。この作品は慎一と峯子という若い夫婦が省線の駅から杉垣の自宅へと帰る夜の道での会話から始まっている。慎一は「東洋経済の調査部員」だが、義兄から満州の新興会社への総務部長としての転職を勧められ、帰ってきたところだった。慎一にとっては二度目のことで、一回目は「そんな荒仕事には向かない人間ですよ」と断わったが、軍関係者らしい義兄にしてみれば、慎一の仕事は認められるものではなく、再度の勧めとなったのである。しかし今回は慎一も、時代状況と会社の事情を考慮すれば、その勧めを重く考える心境になっていた。二十歳近く年上の義兄の立場からすると、「僕らぐらいの人間は将棋の駒みたいに見えて来るんだろうね、きっと。性格なんてものだって、使用価値からだけ見えているんだろうな」ということを承知しているのだが。

 この会話の場面を読んで、唐突ながら想起されたのは、笠原和夫脚本、山下耕作監督の『総長賭博』であった。しかもこの映画は昭和九年の設定で、その冒頭のシーンで重要な役割を占めるのは高杉をエスペランティストへと誘った佐々木孝丸に他ならないのである。『総長賭博』に関しては「『総長賭博』と『日本国勢図会』」(『古本屋散策』所収)、エスペランティストしての佐々木については本探索1315で言及しているが、今一度この映画の冒頭シーンにふれてみる。博徒天龍一家総長の荒川に対して、右翼の大物がこれからの時代は大陸の事業に食いこむことが肝要で、そこには武器や麻薬の利権が待っている。組を挙げて取り組むべきだと日の丸を背にして語る。それを演じているのが佐々木で、香川良介扮する総長はそのような「荒仕事」に若いものを使うわけにはいかないと応じ、同時に病に倒れ、そこから『総長賭博』という映画は始まっていくのである。

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 ここまで書けばおわかりと思うが、「杉垣」に示された満州での新興会社への転職、及びそこで語られた「荒仕事」というターム、しかもそれを断わる展開はそのまま『総長賭博』のイントロダクションへと重なってしまうのだ。もちろんこのようなケースは昭和戦前に多くありえたもので、笠原が、「杉垣」から『総長賭博』の冒頭シーンのヒントを得たとはいわないけれど、そこに佐々木と高杉の存在を置くと、あながち的外れだとも思えないリアリティを感じてしまう。

 なお高杉の実名小説「冬を越す宮本百合子」のタイトルは、評論「冬を越す蕾」(『宮本百合子選集』第七巻所収)からとられているのだが、やはり『ザメンホフの家族たち』に収録され、そのクロージングは「あくる日、三郎は結局、義兄にことわりの電話をかけた」と結ばれている。


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古本夜話1396 小坂狷二『エスペラント文学』と日本エスペラント学会

 高杉一郎は『ザメンホフの家族たち』所収の「日中エスペラント交流史の試み」において、国際文化研究所、『国際文化』、夏期外国語大学のエスペラント学級講座の開設が三位一体のようなかたちで、多くの社会主義的、マルクス主義的エスペランティストたちが巣立っていったのではないかと述べ、次のように続けている。これは『スターリン体験』では、言及されていなかったので引いてみる。

 スターリン体験 (同時代ライブラリー)

 このあたらしいエスペラント人口を背景にして、一九三〇年の秋ごろから、武藤丸楠を署名人として、六巻ものの『プロレタリア・エスペラント講座』が出版された。この講座は、中国共産党や中国紅軍、福建ソヴェートを紹介するエスペラントの手紙が読みものとして編集されていて、目を見はるような内容であった。講座は、いわゆるプロレタリア=エスペランティストたちを、全国的な規模でさらに大量に養成する結果とった。そして、その勢いのおもむくところ、一九三一年一月、日本プロレタリア・エスペランティスト同盟(ポ・エ・ウ)の創立となり、機関誌『プロレタリア・エスペランティスト』(のちに『カマラード』と改称)の創刊となった。滔々たるこの運動のなかで、すくなからぬ数の中国留学生もまたエスペランティストとなった。

 それからさらに「ザメンホフの家族」としての中国と日本のエスペランティストたちの具体的な「交流史」がたどられていく。例えば、『留日回顧――一中国アナキストの半生』(東洋文庫)を著した景梅九が大杉栄からエスペラントを教わったとか、実に興味深いのだが、これ以上立ち入らない。ここでは岩波書店の小坂狷二『エスペラント文学』を取り挙げたいからだ。

留日回顧

 その前にふれておけば、これも以前に拙稿「小林勇と鐵塔書院」(『古本探究』所収)で、この版元がプロレタリア科学研究所絡みの出版物を刊行していたことを既述しておいたが、この「プロレタリア エスペラント講座」は未見だし、武藤丸楠という名前も初めて目にするものだった。そこで『近代日本社会運動史人物大事典』を繰ってみると、武藤潔として一ページにわたって立項されていたのである。「丸楠」が本名で、その後「潔」と改名したとわかる。彼は京都帝大を中退したプロレタリア科学研究所員にしてエスペランティスト

近代日本社会運動史人物大事典

 さて小坂の『エスペラント文学』は昭和八年に「岩波講座世界文学」の一冊として刊行された菊判三六ページの小冊子、パンフレット形式のもので、これも高杉がいう「あたらしいエスペラント人口」を読者層としての出版だと見なせよう。彼のことは『近代出版史探索Ⅴ』879で日本エスペラント学会発行の『エスペラント捷径』の著者としてすでに言及している。ちなみにこちらの取次と発売所は北隆館である。

(『エスペラント捷径』)

 これも先の『同大事典』で、あらためて小坂を引いてみると、彼も一ページ以上に及ぶ立項が見出された。それは「日本のエスペラント運動を再興し、日本エスペラント学会を設立して、日本にエスペラントを根付かせた組織者であり、育ての親であった。その生涯の大半をエスペラントの普及に捧げた」と始まっていた。彼は明治二十一年神奈川県生まれ、二葉亭四迷の『世界語』でエスペラントを学習し、一高に入ると日本エスペラント協会で、本探索1304の中村精男と親しくなり、大正三年には『大成エスペラント和訳辞典』を刊行する。五年に東京帝大卒業後、鉄道省に入るが、彼を中心とする若いエスペランティストのグループが形成された。それをコアとして日本エスペラント学会が設立され、彼の自宅がエスペラント運動の拠点となり、講習会や集会所にもあてられ、大正デモクラシーとザメンホフの思想が重なるかたちで、エスペラントは推進されていった。

 そのようなエスペラント運動の流れの中で、「世界文学」におけるエスペラント文学も注視されるに至ったのであろう。『エスペラント文学』の「前書き」で、小坂は「僅か半世紀前に此の世に生まれた国際補助語エスペラントは国語文学のやうなできあがつた文学を持つてゐない」が、「今後、国際文化の発展に従つて、次第に大きな地位を占めるであらうエスペラント文学の独自の意義の重大さ」を伝えようとしている。

 それをここで要約することは任ではないので言及しないけれど、世界的にいえば、一九二〇年代から三〇年代、日本の大正から昭和にかけての時代に、国際語としてのエスペラントへの大いなる希求が広範に浸透していたとわかる。それは『近代日本社会運動史人物大事典』にも反映され、エスペラント研究会の衣笠弘志によって一三七名が立項に至っている。全員に目を通しているわけではないけれど、プロレタリア・エスペラント運動も含んで、想像する以上に多くの人々がエスペラントに関わっていたことになろう。

 それは本探索で取り上げた人々も同様であり、例えば『近代出版史探索Ⅳ』877、878の土岐善磨=土岐哀果もその一人だし、日本エスペラント学会のメンバーは、これも『同Ⅳ』879を参照されたい。


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古本夜話1395 高村光太郎訳『回想のゴツホ』

 前回、大正時代に高田博厚が高村光太郎たちと交流して彫刻を続ける一方で、叢文閣からロマン・ロランの『ベートーヱ゛ン』などを翻訳していたことにふれた。

 それは高村のほうも同様で、やはり同時代に叢文閣から『続ロダンの言葉』(大正九年、『ロダンの言葉』は阿蘭陀書房、同五年、のち叢文閣、昭和四年)、エリザベツト・ゴツホ『回想のゴッホ』、ホイットマン『自選日記』(いずれも叢文閣、同十年)を翻訳刊行している。これらのうちの『回想のゴッホ』を浜松の時代舎で見つけてきた。
 
(『続ロダンの言葉』) (『回想のゴツホ』) (『ホイットマン自選日記』)

 同書は高村も「小序」で断わっているように、『近代出版史探索Ⅴ』996の同じ叢文閣の有島生馬訳『回想のセザンヌ』の「体裁を踏襲」したもので、四六倍判のフォーマット、ページ数も同様だが、モノクロながら、それぞれ一ページ、三六点の作品を掲載している。この書影だけはかつて『高村光太郎』(「日本の文学アルバム」19、筑摩書房)で目にしていたが、実物を入手して、それが裸本だとわかった。手元にあるのはゴツホによる海岸のスケッチを表紙カバーとしていて、出版からすでに一世紀を閲していることを考えると、カバー付きはめずらしい一冊なのかもしれない。

(『回想のセザンヌ』)

 奥付には大正十年四月発行とあり、訳者高村と発行者足助素一が並び、その上の検印紙には高村の印が押され、定価四円で、大判の美術書ということもあってか、当時としては高定価だと見なすべきだろう。高村は大正三年に『青鞜』同人だった長沼智恵子と結婚し、『近代出版史探索Ⅵ』1023の抒情詩社から詩集『道程』を自費出版し、それから絵画や彫刻と併走するように、翻訳を手がけていく。そこには二人の芸術生活の上での不如意、智恵子の父の死が関係しているとも考えられるし、『回想のゴッホ』の高村の検印は一世紀前とは思えないほどにくっきりと生々しく残っている。この検印は智恵子によって押されたのではないだろうか。

 初版千部とすれば、足助のことだから翻訳印税を一割ほどに想定しているはずで、それは百円ということになる。実際にどれだけ売れ、印税もどれほど支払われたかはわからないにしても、二人の芸術生活の支えになったことは間違いないだろう。それは高村の「小序」に見える足助と田中松太郎への謝辞からもうかがえる。この田中のほうはカラー印刷技術を導入した田中半七製版所創業者で、実際に『回想のゴッホ』の印刷を手がけている。ただ気がかりなのは、このような大判の高価な美術書の流通販売で、しかも大正十二年には関東大震災も起きていることを考えると、苦戦したと見なすほうが妥当であろう。

『回想のゴッホ』の著者のエリザベストはゴツホの妹で、原書はオランダ語かドイツ語のようだが、その英訳Personal Recollections of Vincent Van Gogh (by Dreier ,1913)によった重訳である。足助の勧めによる翻訳だと明記されていることからすれば、彼が入手し、その翻訳を依頼したことになろう。「私は此を訳しながらフアン・ゴツホの精神に打たれて幾度か筆を措いた。味へば味ふほど深い彼の心は凡ての人に向つて一つの消ゆる事無き天の火となるであらう」と高村は述べてもいる。
 
Personal Recollections of Vincent Van Gogh

 ゴツホが膨大な手紙を書いている弟のテオのことはよく知られているが、テオだけでなく、妹もまた「兄の番人」だったのであり、エリザベツトという妹の存在はここであらためて認識することになる。彼女は少女の頃に、十七歳の長兄に孤独な天才を見出していた。

 奇妙な顔で若々しくなかつた。前額には既に一ぱい皺があり、大きな、立派な眉の上の眉毛は深い物思に引寄せられてゐた。小さくて奥の方にある眼は、時の印象に従つて、或は青く、或は緑であつた。しかし斯かる一切の無骨さと醜い外観とあるに拘らず、人は其深い内面生活の紛も無い表象を通して、一個の偉大性を意識したのである。

 この妹の証言と照応するように、高村はその巻頭の「標題画」としてゴツホのアルル時代の「自画像」を掲載している。それに続いて挿画第一図に「向日葵」を引き、「大正九年冬日本に初めて将来されたゴツホの油絵、山本顧彌太氏から白樺美術館に寄贈」とのキャプションが付されている。ここでゴツホの作品が初めて日本へと到来したのはその死後三十五年を経てからであることを教えられる。山本顧彌は実業家で、白樺派のパトロン的存在であった。

 このように『回想のゴッホ』はその作品を多く収録し、当時のゴツホ関連書をしては誇るべきものだと推察されるけれど、残念ながらカラー印刷はなく、これも無いものねだりになってしまうが、私の偏愛する「カラスのいる風景」が収録されていない。私はこの絵の額入り複製を郊外のリサイクルショップで見出し、玄関の壁にかけている。それこそこれも半世紀前に読んだアントナン・アルトーの『ヴァン・ゴッホ』(粟津則雄訳、新潮社、昭和四十六年)のことを忘れないようにしている。それはアルトーによる「カラスのいる麦畑(風景)」論でもあったし、「死の二日前に描かれたあのからすたちは(中略)ヴァン・ゴッホによって開かれた或る謎めいた陰気な彼岸を通して、ありうべき彼岸や、ありうべき或る恒久的な現実に至る秘密の門を開いている」と書きつけていた。そしてアルトーはこの「からすたち」を描いた後で、ゴッホが「なおも何か絵を描いたなどということも、どうにも考えられない」とまで言い切ったのである。

ヴァン・ゴッホ (1971年)  

 それからアルトーのゴッホ論とはリンクしていないが、つげ忠男が「丘の上でヴィンセント・ゴッホは」(『つげ忠男作品集』所収、青林堂、昭和五十二年)を書き、ゴッホの謎めいた生涯と自画像史をたどり、その三十九歳のピストル時代までをたどっている。アルトーやつげ忠男ではないけれど、戦後の一時期にはゴッホの時代があったように思われるし、その嚆矢となった一冊がこの高村光太郎訳『回想のゴッホ』だったのではないだろうか。

(『つげ忠男作品集』)


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古本夜話1394 高田博厚『分水嶺』と「パリの日本人たち」

 もう一編、高田博厚の『分水嶺』(岩波書店、昭和五十年)を参照し、パリの片山敏彦とアランに関して続けてみる。

 高田は大正九年に東京外語伊語科を中退し、コンディヴィ『ミケランジェロ伝』(岩波書店、同十一年)を翻訳する一方で、高村光太郎たちと交流し、貧しい暮しの中で、彫刻の仕事を続けていた。また片山敏彦や尾崎喜八たちと「ロラン友の会」をつくり、『近代出版史探索Ⅱ』204などの叢文閣からロランの『ベートーヱ゛ン』『ヘンデル』を翻訳刊行していた。そして昭和六年に作品の頒布会でフランスへの渡航費を捻出し、パリへと向かったのである。

 (『ミケランジェロ伝』)

 パリで高田を迎えたのは昭和四年に渡仏していた片山敏彦で、二年ぶりの再会だった。高田にしてみれば、日本での片山は所謂「世間知らず」で、「社会問題」はふれたくないタブーのようであったが、それから解放された感じで、「彼は変ったなあ……」と思われた。二人で「パリ見物」に出かけ、ノートルダム寺院、サント・チャペル、クリュニュー博物館などの美術巡礼の中で、とりわけサント・チャペルの「イール・ド・フランスの宝石」=魔彩鏡(カレイドスコープ)の中に入って、フランスの「洗礼(パテーム)」を受けたのである。それを見ることは片山を通じてのロマン・ロランからの伝言だった。

 その「魔彩鏡(カレイドスコープ)」に加えて、高田にとってクリュニュー博物館の「貴女と一角獣」の絨毯(タペスリー)とオランジュリ館のモネの「睡蓮」がフランスの魂の「甘美」な思い出を生じさせた。またロダン美術館で見た「ロダン夫人」「思念」「ダナイド」などの実物は、それまでの「写真複製」では得られない「なんという優美(グラース)」を感じさせた。そして日本の現代彫刻はロダンに啓発され始まっているけれど、そこに至るは「なんという遠い道!」という嘆息をもらすしかなかったのである。

 また高田は片山とスイスのロマン・ロランを訪ねる。日本で片山たちは「ロラン友の会」を結成することで、ロランとの長い文通を続けていた。ロランは高田の彫刻の写真を見て、彼に自分の像を作るようにと依頼した。続けて片山から「現代のデカルト」といわれるアランの存在を知らされる。そうした「パリ見物」としての美術巡礼やパリ人脈の紹介を済ませ、片山は日本へと帰国するのだが、いささか唐突に高田は「マルティネとアルクサンドルが私にアランの像を作らせる」と語り、実際に手がけることになる。この二人は前回引いておいたアラン『文学論』の片山の「訳者あとがき」にみられる 詩人と大学教授で、アランの仕事の協力者であった。

(『文学論』)

 このようにして、高田は片山、ロマン・ロラン、アランたちの織りなす一九三〇年代のパリのサロン人脈の中へと入りこんでいくのである。ここで留意すべきは高田特有の「美術巡礼」とその「洗礼」をイニシエーションとしたことで、それが他の「パリの日本人たち」と異なるものであった。

それらのことに加えて関心をそそるのは『近代出版史探索』125の「パリの日本人たち」の存在であり、多くが本探索シリーズとも関係している。高田のフランス渡航のきっかけは春秋社からロランの『ベートォヴェン研究』(これは間違いで『ベートーヱ゛ン』、昭和五年のことだと思われる)を翻訳刊行したことで、同188の春秋社『ゾラ全集』のために日本に戻っていた武林無想庵の話を聞いたからだった。しかもパリに着いた当日に中華料理屋に夕食にいくと、そこにいたのは『同Ⅳ』888、889の岩田豊雄=獅子文六であり、数日後に訪ねてきたのは、同190で挙げた無想庵の妻の武林英子だったのである。

そして高田は武林夫妻に先行する一九二〇年代からの「パリの日本人たち」の実相を見て、同74の石川三四郎、拙稿「椎名其二と「パリの日本料理店」」(『古本屋散策』所収)などの椎名にも言及している。彼らは社会主義といえば、クロポトキンのアナキズムの時代にフランスにきた「インテリ」たちだが、「大いなる水に浮いた浮草同様で、そこの土壌の中に自分の根を下せない」、「そこで自分を創りあげるためには、大いなる水の層はあまりに広く深く、そして重い」のである。「底の土壌」と「大いなる水の層」とは、高田が「洗礼」を受けたフランス芸術に象徴される文化土壌と人脈に他ならないだろう。それでいて、このちりのような「変な日本人」は帰国しても迎えてくれる「地位」もなく、「日本に帰りたくない」心境へと追いやられていく。そして高田にしても「私もその中の一人になってゆくのであった」と記す。

数百人に及ぶ日本人芸術家はパリの中で「日本人植民地」を作り、藤田嗣治式「自己顕示」を行使しているだけだから、問題としなくてもいいとして続けている。

 「私たち」に問題になるのは、パリにいる日本知性人である。「知性」を試作し感覚し得るだけに、他の日本人以上に、西と東、ヨーロッパと日本との二つの「文化層」の谷間にあって、「自我」自身に深い矛盾を感じ、躊躇し迷い、絶望する壁にしばしばぶち当る 。「不安」を高い意味でも、低い意味でも体感する。ヴァレリーが言う「永遠のスファンクス」である「自我」を確かめ得るだけの「思念」の緻密性。この壁にぶち当る。
 無想庵や椎名はその例であった。また、私がパリに着いた頃には、アナーキスト辻潤親子がパリで「浮浪」しており、南部外のクラマールに金子、森三千代夫妻、日本ではできそうもない奇妙な暮し方をしており、そのクラマールの森では佐伯祐三が二度木の枝に首をくくって失敗した。隣のシャティオンやフォントネ・オオ・ローズあたりには三木清やモスコーから来た中条百合子がいた。そしてマルキストの三木はフランスで精神の「彷徨」をしなかつたら、パスカルに眼を向かなかつたであらう……

 このような高田の述懐と三十余年に及ぶ在仏、これらの他の多くの日本人たちの奇妙な生態とエピソードの言及を考えると、『近代出版史探索』125などの別の一九三〇年代後半の「パリの日本人たち」が、『同』121のスメラ学塾へと転回していったコアの理由がそこにあるように思われる。

 なお片山敏彦編による高田の『フランスから』が昭和二十五年にみすず書房から刊行され、四十八年には朝日新聞社から新編が出版されたことを付記しておく。

  (『フランスから』、みすず書房)


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