出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1544 大岡信『超現実と抒情』と神保光太郎「悲しき昇天」

 これも前回の吉本隆明『抒情の論理』を読んでいた半世紀前のことだが、続けて大岡信の「昭和十年代の詩精神」のサブタイトルが付された『超現実と抒情』(晶文社、昭和四十三年)にも目を通している。

 

 そこで同じように三好達治が論じられていたけれど、それは吉本の三好論とまったく異なるもので、『四季』にふれた「昭和十年代の抒情詩」も同様であった。だが同じ対象を扱っても、近代詩の読み方の多様性を教えられたようにも思った。それらに加えて、『近代出版史探索Ⅲ』492で既述しておいたように、同時期に橋川文三の『増補日本浪曼派批判序説』(未来社)を読んでいたこともあって、『超現実と抒情』de
最も力作と見なせる「保田与重郎ノート―日本的美意識の構造試論」に注目し、入手した事情も絡んでいる。

日本浪曼派批判序説☆〔新装版〕☆

 だがその際に最も印象に残ったのは保田に関してではなく、そこに引用されていた神保光太郎の詩である。それは吉本が神保を「浪漫的英雄主義者」とよんでいたことと相俟って、現在でも記憶に残っているので、全文を引いてみよう。

   悲しき昇天
 ああ
 その饗宴はどこにあるのだらう
 古ぼけた部落(むら)であつた
 千年の樹の間を縫ふて
 マリアの石像が点々と風に吹かれてゐた
 われらの聖歌隊はどこにゐるのだらう
 その饗宴こそ
 私が生涯を懸けた願ひであつた
 あの人は言つた
 ――この道を行けばある
 けれども
 私はいつまで歩き続けねばならんのだらう
 陽(ひ)も落ち
 美しい一日もとつぷりと暮れてしまつた
 鴉がばたばた闇に消えた
 ――帰れ
 ――帰れ
 風が怪しく囁いてゐた
 その饗宴とは虚妄であつたのか  
 赫(かがや)かしい聖火
 絢爛の旗  
 天に轟く讃歌
 それはひとにぎりの私の夢であつたのか
 おお
 砂塵を嚥んだ風が馳けてくる
 私の五体(からだ)も私の夢もすつぽり裹(つつ)んでしまつた
 私は昇天する
 饗宴の夢を抱いたまま私は昇天する

 大岡はこの詩を日本浪曼派の「饗宴の空しさ」を象徴するもので、「当時の日本のロマンチストの内面風景を忠実に反映している作品」と位置づけた上で、「何という虚しい、千々に乱れた歌。この詩には身振り沢山な一切の浪曼派的ますらおぶりやさびしい浪士の心、放埓な夢想やデカダンスへの傾倒の、裏側の世界がある」と突き放している。それは「失意の嘆きで塗りつぶされた歌」で、そこで「詩人の精神はなおもおのれの自意識の中心から遠くへ向かって逃れつづけている」と。それは保田の文学の軌跡であり、「失敗に終った現代日本からの逃亡、そして失敗に終った〈日本〉への回帰」を意味していることになる。だが大岡は忘れることなく、「保田氏の試みが無意味に終ったとは到底考えられない」し、「むしろ保田与重郎の問題は終わっていない」と書きつけている。それは現在でも同様だと考えるしかないだろう。

 さてこの神保の「悲しき昇天」だが、『日本浪曼派』『四季』同人として、昭和十二年に『創造』に発表され、戦後になって刊行された詩集『陳述』(薔薇十字社、昭和三十年)に収録とあった。そこで古本屋で探したのだが、見つからなかった。その代わりに『神保光太郎全詩集』(審美社、同四十二年)を入手した。これには処女詩集『鳥』(四季社、同十四年)から第八詩集『陳述』までが揃い、第五詩集として『南方詩集』(明治美術研究所、同十九年)の存在も知った。

  (『南方詩集』)

 この『南方詩集』は昭和十七年に陸軍報道班員として、シンガポールに赴任し、中島健蔵たちと昭南日本学園を設立したことなどがテーマとなっている。その中の「われは知らず」はまさに昭南日本学園長就任の日に」との言が添えられ、「われは知らず」がリフレインされ、「ただ祈る/祈るのみなり/大君のみひかりの空/あけて行く/東亜の空よ」と結ばれている。それは「悲しき昇天」の帰結のようにも受け取れる。詩人も詩も『近代出版史探索Ⅳ』678の南進論、『近代出版史探索Ⅶ』1262に見られる小説における南進論と無縁ではなかったことになろう。


 [関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1543 北原白秋童謡集『風と笛』と紀元社「国民学校児童の読物」

 前回、三好達治の詩集『寒柝』の初版部数が五千部で、これが国策取次日配による買切制のもとでの出版だったことから、出版社にとっても詩人にとっても、大きな利益と収入をもたらすものであったことにふれた。
 

 その事実を反映してだと思われるが、戦時下においては想像以上に詩集が多く刊行されていたと考えられる。例えばここに詩集ではないにしても、北原白秋の童謡集『風と笛』がある。これは昭和十八年に紀元社から刊行された一冊で、函入菊判、上製一八一ページ、石井了介による装幀、造本、口絵と挿絵はすばらしく、本体のエメラルドグリーンの造本は戦時下の出版物と思われないほどだ。函入ゆえか、その鮮やかな色彩は八十年近くを経ているのに、いささかも褪せていない。これも浜松の時代舎で買い求めたものである。

 それらが相乗してなのか、奥付には昭和十七年十二月初版五千部、同十八年三月一万部とあり、好調な売れ行きがうかがわれるし、重版部数は一括採用なども含んで注文が殺到してたことを物語っていよう。

 石井は白秋の従弟だが、版元の芝区田村町の紀元社はここで初めて目にするし、それは発行者の金城陽介も同様である。それでも編集から出版に至る事情は薮田義雄の「後記」によって明らかだ。本探索で既述しておいたように、薮田は白秋の門人の詩人で、秘書なども務め、その長きにわたる側近だった。かつて拙稿「阿蘭陀書房と『異端者の慈み』」(『古本探究』所収)において、彼による『評伝北原白秋』(玉川大学出版部)を参照しているし、本探索1520でも、それに言及したばかりだ。

 

 薮田は「後記」で、本集の六章六十三篇は先の童謡集『月と胡桃』以後の「最も日本的にして純素朴なもの」、「名所・風物・土俗等に亙つて、児童の感情と生活を織り込」んだ「最も芸術の香気たかきもの」だと述べている。なお『月と胡桃』出版事情に関しては「柳田国男『秋風帖』と梓書房」(『古本屋散策』所収)で既述していることを付記しておく。

  古本屋散策

 薮田の「後記」で留意すべきは『風と笛』の出版が延引しているうちに、白秋が十一月二日に亡くなり、その二十日祭を控えた十一月十八日付で記されていることだ。そうした出版事情から、同書は白秋が自ら閲した最後の作品集ということになろう。それゆえに白秋追悼も兼ねた出版で、遺族のもとにも香典代わりの印税がもたらされたと見なしていい。

 薮田の言によれば、その出版の世話をしたのは与田準一で、やはり童謡詩人として白秋の近傍にいて、その正統後継者としての戦後の編著『日本童謡集』(岩波文庫、昭和三十二年)、白秋童謡選集『からたちの花がさいたよ』(岩波書店、同三十七年)にも面目躍如であろう。

 日本童謡集 (岩波文庫 緑 93-1)  からたちの花がさいたよ――北原白秋童謡選 (岩波少年文庫 224)

 その与田は昭和十年代に多くの児童書出版社に関係していたようで、そのひとつが紀元社であり、この版元は「国民学校児童の読物」シリーズを出していた。これは未見で一冊も入手していないけれど、『風と笛』の巻末広告にリストが挙げられているので、装幀、挿絵家の名前も下に付し、それを引いてみる。

1  林芙美子 『啓吉の学校』 黒崎義介
2  山本和夫 『大将の馬』 恩地幸四郎、小池巌
3  与田準一 『ヒカリトソラマメ』 恩地幸四郎、安泰
4  中村新太郎 『日本の翼』 飯塚玲児
5  前田晁 『楠公父子物語』 布施長春
6  蘭郁二郎 『奇巌城』 鈴木御水
7  山田三郎 『かたつむりの旅』 鈴木信太郎、高橋八重子

このシリーズには次のような説明が施されているので、それも添えておくべきだろう。

 紀元社の童話は国民学校の児童に、科学性と歴史性と健全な情操を与へんとして、出版元も作者も良心的に『面白くて、しかも文化性のある、教養的な良い読物を』ということを眼目として出版致して居ります。何れもA5判二百頁内外で、装幀も挿絵も有名な画家に描いていただいて、色刷の美しい口絵と挿絵が三十枚位入つて、美しい立派な本です。

 つまり紀元社は「国民学校」に寄り添った児童書出版社ということになろう。井家上隆幸『三一新書の時代』(「出版人に聞く」16)で、彼が国民学校時代を語っていたが、あらためて説明しておく。「国民学校」は政府が教育界の戦時体制の実現のために、昭和十六年に国民学校令を公布、実施し、尋常・高等小学校を国民学校初等科・高等科と改称し、教科は国民科(修身、国史、国語、地理)を中心に理数科、体練科、芸能科からなり、皇国民の錬成を目的としたとされる。

三一新書の時代 (出版人に聞く 16)

 教育制度が変わると、それに伴い、教科書やサブテキストなども必然的に変わっていくし、それは「童話」も同様で、それが紀元社の場合、先のリストに挙がった「児童の物語」だったことになろう。

 『風と笛』のことを考えれば、これらも美しい児童書だと見なせるが、そうした出版状況下ゆえに古本屋で出会い、入手することは難しいだろう。


 [関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1542 三好達治『寒柝』

 かなり前に三好達治の詩集『寒柝(かんたく)』を入手している。それは均一台から拾ったもので、著名な詩人の初版詩集とはいえ、カバーも半ば破れ、装幀も粗末であり、奥付には五千部と記載されていたからだろう。そのことに加え、『寒柝』は昭和十八年十二月刊行の戦争詩集だったのである。版元は創元社で、巻末広告には同じく三好の詩集『春の岬』『艸千里』『一点鐘』が並んでいるので、昭和十年代半ばから三好と創元社の親密な関係がうかがわれる。

      

 三好については『近代出版史探索Ⅵ』1178でゾラの『ナナ』の翻訳者、本探索1538で『測量船』の詩人として言及してきたが、『寒柝』はそのまま放置しておいたのだ。ところがこの詩集そのものを論じている人物がいて、それは久世光彦で、『花筐――帝都の詩人たち』(都市出版、平成十三年)においてだった。そこで彼はこの三十五編が収められた一四一ページの詩集について、現在書店で入手できる三好の著書やアンソロジーには見ることのできない戦争詩集だと述べている。

  花筐: 帝都の詩人たち

 そして「皇軍頌歌」「われら銃後の少国民」「軍神加藤建夫少将」などのタイトルを挙げ、また「寒柝」は「寒い冬の夜に聞こえる拍子木の音をいう」と指摘している。さらに続けて久世は「軍神加藤建夫少将」の最初の二節を引き、その勇ましい隊歌「エンジンの音 轟々と/隼は征く 雲の果て・・・」も示し、三好がこの加藤戦死直後の追悼歌「軍神礼賛、武勲称揚の一篇」を「本気の詩」として書いているという断定に及ぶ。そのとおりであろうし、『寒柝』はそのような一冊として刊行されている。

 ここであえて下世話な事実に言及すれば、この負け戦の気配も近づいていた中での戦争詩集の出版は、当時の国策取次の日配の買切仕入れという流通配本システムに依拠し、初版五千部定価一円八十銭であるので、一割印税とすれば、三好に九百円がもたらされたことになる。版元にとっても、詩集は組代印刷費も低コストなので、出版にともなるリスクはまったくない。しかも出版助成金、一定の買い上げも含まれていたはずだ。

 これが戦時下における戦争詩集出版のメリットに他ならず、私たちの想像する以上に多くの戦争詩集が刊行されたのはその事実によっていよう。それは多くの文芸書にも共通しているし、戦時下出版の事実に他ならない。それに奥付の発行者が『近代出版史探索Ⅱ』283の天野良策ではなく、編集者とも考えられる和田有司とあるのはそうした事柄と関連しているのかもしれない。

 それらの戦時下における戦争詩集と出版をめぐる経済のメカニズムはひとまず置くにしても、三好のようなフランス文学に通じたモダニスト詩人がどうして「本気の詩」としての戦争詩を書くに至ったのであろうか。それは吉本隆明の「『四季』派の本質――三好達治を中心に――」(『抒情の論理』所収、未来社、昭和三十四年、後に『吉本隆明全著作集』5収録、勁草書房、同四十五年)によって解明されることになる。

  
 吉本はこの論稿を次のように始めている。「昭和十年代も後期になると、詩といえばすぐに「四季」派の抒情詩を意味するほど、この派の詩は、たんに現代詩の一流派という問題をこえて、詩概念をくみたてるうえにおおきな限定力をおよぼした」と。ここでいわれている「四季」派とは三好を始めとする丸山薫、中原中也、立原道造、神保光太郎、津村信夫などで、昭和九年から十九年にかけて刊行された詩雑誌『四季』によっていた詩人たちをさしている。

 

 太平洋戦争が勃発すると、彼らの戦争詩はジャーナリズムをにぎやかし始めた。吉本はここで「現実社会の動きとは何のかかわりもないようにみえる「四季」派の抒情詩の本質が、社会の支配体制と、どんな対応関係にあったのか、かつて単なる便乗としかおもえなかった「四季」派の戦争詩は、かれらのどんな現実認識から生みだされたのか」という問題を簡明しようとしている。それはもちろん『高村光太郎』(春秋社)をふまえてである。

 吉本の「四季」派に関する分析は精緻極まりないので、簡略にトレースしてみる。昭和十年代のモダニズムは抒情性と伝統的感性の混合で、日本のナショナリズム、ファシズム、資本主義の支配感性は「四季」派の詩的感性と無縁でなかった。それは「詩的にいえば、『花鳥風月』的な美意識か、『防人』的な美意識かのちがいにすぎず」、「彼らの社会的無関心は、たちまち、おそるべき戦争讃歌と密通することが可能であった」ことになる。そして吉本は三好の「昨夜香港落つ」の詩を引き、次のようにいっている。この詩は『寒柝』に見えないので、全章を確認できないが、先に挙げた『艸千里』か『一点鐘』に収録されていたと思われる。

 これが、大学においてフランス文学を習得し、フランス文学を移植し、またモダニズム文学の一旗手であった詩人の「西欧」認識の危機における、かけ値なしの一頂点であったことを、わたしたちは決して忘れてはならない。日本の恒常民の感性的秩序・自然観・現実感を、批判的にえぐり出すことを怠って習得されたいかなる西欧的認識も、西欧的文学方法も、ついにはあぶくにすぎないこと――これが「四季」派の抒情詩が与える最大の教訓の一つであることをわたしたちは承認しなければならない。

 そうなのだ。吉本がこの言葉を発したのは六十年以上前のことだが、今一度かみしめなければならない。


 [関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1541 金星堂『新文学研究』と『ジイド全集』

 『日本近代文学大事典』における辻野久憲の立項には、第一書房に在職し、『セルパン』編集長を務めたとあるけれど、本探索で指摘しておいたように、これは明らかに間違いで、『近代出版史探索Ⅴ』904の福田清人、もしくは拙稿「第一書房と『セルパン』」(『古雑誌探究』所収)の春山行夫と混同していると思われる。

古雑誌探究

 むしろ『詩・現実』以後の辻野の雑誌と出版社の関係をいうならば、『新文学研究』と金星堂を挙げるべきだろう。『新文学研究』は昭和六年から七年にかけて、金星堂から全六冊が刊行されている。編集者は伊藤整で、『日本近代文学大事典』にも主要論文や作品を含めて立項され、『詩と詩論』『詩・現実』『文学』と並んで二十世紀西欧文学の紹介、移入に大きな役割を果たしたとされる。未見だが、菊判アンカット、毎号四〇〇ページ前後の雑誌のようなので、『詩と詩論』や『詩・現実』を範としていることになる。

   

 『金星堂の百年』(平成三十年)が刊行され、そこには『新文学研究』創刊号の書影と伊藤整の写真なども添えられ、昭和六年からの金星堂とモダニズム系の代表的季刊文学雑誌『新文学研究』の関係に言及している。当時の金星堂は大正十三年に川端康成たちの『文芸時代』を創刊し、また川端の『感情装飾』『伊豆の踊子』も刊行され、文芸書出版として黄金時代を迎えていた。その系譜上にモダニズム系出版社としての金星堂が成立し、昭和六年に百田宗治の紹介で伊藤整が入社し、『新文学研究』も創刊されたのである。そしてブックレット版「別冊新文学研究」、『チェーホフ全集』や『ジイド全集』の編集にも携わり、七年には自らの処女小説集『生物祭』も上梓している。

 (『伊豆の踊子』)(『生物祭』)

 これらの金星堂のモダニズム系出版において、残念なことに社史には金星堂出版目録や『新文学研究』の内容明細が収録されていないので、辻野がどのように関わっていたのかは定かでない。それでも明らかなのは彼が『ジイド全集』の主要な訳者として加わっていたことで、その第三巻だけが手元にあり、そこには堀口大学訳『パリュウド』、辻野久憲訳『地の糧ひ』、青柳瑞穂訳『青春詩篇』の三作が収録されている。

(『ジイド全集』第三巻)

 『地の糧』を読んだのは半世紀前で、それは確か新潮文庫の今日出海訳だったはずだ。あらためて辻野訳の『地の糧(やしな)ひ』を読むと、そのエピグラフからこのタイトルが「これぞわれらが地の上にありて糧ひとなせる果実なり」という『コーラン』の一節を出典としていたとわかる。まったく忘れてしまっていたのである。それでも次のような序に当たる部分は記憶に残っていた。それを引いてみる。 

地の糧 (新潮文庫 シ 2-5)

 それから君は私を読んでしまつたなら、この本を捨ててくれー―さうして外へ出てくれ、私はこの本が君に、出て行くといふー―どこからでもかまはない、君の街から、君の家庭から、君の思想から、出て行くといふ欲求を起さしてくれればいいかと思つてゐる。私の本を携へて行つてはならぬ。(後略)

 どうしてこの部分を覚えているかというと、かつて寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』を読み、このタイトルがジイドの『地の糧』に基づくとされていたので、それを確認するために目を通したことがあったからだ。ただこの一文を引きながら、ひょっとすると、寺山もこの辻野訳を読み、『書を捨てよ、町へ出よう』というタイトルを発想したのではないかとも思われた。なぜならば、今訳では少しニュアンスの異なる印象があり、寺山とのつながりが希薄な感じを受けたことを想起してしまったのである。

[初版復刻]書を捨てよ、町へ出よう (寺山修司没後40年記念)

 この昭和九年二月に予約出版で刊行された『ジイド全集』第三巻にはさみこまれた「月報」から判断すると、第一回配本に当たり、そこに『ジイド全集』第一期全十二巻、第二期全五巻の明細が示されている。それによれば、辻野は『地の糧ひ』の他に、『アミンタス』(第二巻)、『ジャック・リヴィエール』(第九巻)、『カンドール王』(第二期)の四作の訳者と表記され、最も多くを担っている。金星社の『ジイド全集』は最終的に全十八巻に及び、訳者変更も生じたようで、辻野はさらに『アーノルド・ベネット』(第九巻)、『背徳者』(第四巻)の翻訳も担当している。

 これらの『ジイド全集』の翻訳事情は詳らかでないけれど、やはり同年に刊行され始めた『近代出版史探索Ⅴ』817の建設社の『ジイド全集』との競合が影響しているはずだ。それが金星社の『ジイド全集』の主たる翻訳者の辻野にどのような影響を与えたのかはこれも明らかではないけれど、彼は『ジイド全集』完結後の昭和十二年に二十八歳の若さで亡くなっている。

 この昭和十年前後に日本におけるジイドブームは全盛を迎えたようで、それがフランス文学関係者を総動員させたといわれる二つの『ジイド全集』に象徴されているのだろう。山本夏彦は『無想庵物語』(文藝春秋)において、「無想庵が企画翻訳の『ゾラ全集』は見向きもされなかったが、『ジイド全集』は同じに金星堂建設社から出されたにもかかわらず、双方が完結したわけだから、いずれもそれなりに売れたにちかいない」と述べていた。確かに建設社のほうは昭和十一年にも普及版『ジイド全集』全十二巻別冊一を刊行しているので、ジイドブームが昭和十年代に入っても衰えていなかったことを示していよう。

無想庵物語  (建設社版) (新修普及版)


 [関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1540 『詩・現実』と辻野久憲

 『詩・現実』第二冊から第五冊にかけて、伊藤整、辻野久憲、永松定訳のジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』が翻訳連載されるのだが、この三人の訳者たちは同時に『詩・現実』の様々な分野における寄稿者でもあった。伊藤と永松に関しては『近代出版史探索Ⅵ』1008や1035などでふれているので、ここでは本探索に続けてもう一度辻野に言及してみたい。

 先にふれておいたように、辻野は明治四十二年舞鶴に生まれ、三高を経て、東京帝大仏文科に進み、在学中に『詩・現実』の同人となり、その第一冊に「現代フランス文学の二主潮」を寄せ、注目されたという。これはサブタイトル「外在的現実か内在的現実か」が付され、二十世紀初頭の相次ぐ社会的大変動を受けた現代フランス文学の動向をレポートしている。それは主として、アンドレ・ベルジュの『近代文学真髄』(Andrè Berge, L‘Esprit de la littérature moderne)に依拠するもので、今日のフランス文学は「外在的(或は顕在的)現実追求の文学」と「内在的(或は内包的)現実追求の文学」の二つの流派にわかれているという主張で、それがサブタイトルの意味となっている。

 前者は絵画的なもの、異国趣味的なもの、幻想的なものにさらにわかれ、それぞれの作品が例として挙げられ、論じられる。また後者においては「心理的傾向」が論じられ、心理的な文学はフランス文学の最も伝統的な形式だが、現代的方法の特殊な進歩として、「内白と超現実主義」が指摘される。そして「内白 monologue intèrieur」とは「我々の意識の流れを写す方法で、(中略)思考の流れの間に、時として外部からの感覚と印象とが浮かび上るが、間もなくそれもこの流れの中に曳入れられてしまふ」ものだとされる。それに対し、「超現実主義」は「より深い現実からの自発的な飛躍を狙つたもの」と簡略に定義されている。

 それらを含めて、現代の心理学的文学はきわめて広大な領域に及ぶのだが、やはり二大傾向にわかれる。「一はプルウストによつて代表される知的傾向であるとすれば、他はジッドを長とする情的傾向である」として、次のように述べられている。

 たゞ此の場合、プルウストによつて追求された現実と、ジッドによつて追求されたそれと、この両者は全然同一のものではないことを注意する必要がある。即ち前者は人生の方向をとり、後者は人間性の方向をとつてゐる。換言すれば、我々の存在から「人生」の要素を遊離させるのものは知性であるに対し、意識の内面に於て我々の感性が捕へるある物が即ち人間性である。この点より見れば、プルウストは単なる観察家だと云ふことが出来る。何故なら彼の主人公は自己自身の中に人生の実相を探ねる。即ち彼等が行ふ行動は稀であり、低調であり、偶々彼らの「自我」の表面に浮上るに過ぎない。これに対してジッドの人物は、彼等の身振りによつて自己を表現するのである。彼の追求する現実は外部に認められ、且それは彼等を行動に駆立てるのである。

 この「現代フランス文学の二主潮」が書かれたのは昭和五年=一九三〇年であるから、プルーストは『失われた時を求めて』全七巻を刊行し、二二年に亡くなり、ジッドは『新フランンス評論』(NRF)を創刊し、『狭き門』を連載し、続けて『法王庁の抜け穴』『田園交響楽』『贋金づくり』『一粒の麦もし死なずば』などのレシ(物語)、ソチ(茶番劇)、ロマン、自伝を書き継いでいた。したがって、辻野の論稿が示す「現代の二主潮」とはプルーストとジッドのことを意味していたともいえるのである。『近代出版史探索Ⅴ』816、817などで、日本でもジイドの時代が訪れていたことを既述している。

 それらを象徴するように、『詩・現実』第四冊にはマルセル・プルウスト『失ひし時を索めて』の第一巻『スワン家の方エ』刊行の二ページ広告が打たれている。また第一冊の伊藤整「ジェイムズ・ジョイスのメトオド『意識の流れ』に就いて」は第二冊からの『ユリシイズ』の連載の露払いの役割を務めているのだろう。そのようにして、日本においてもプルーストとジョイスがまさにエピファニーせんとしてるのだ。

(『失ひし時を索めて』)(『ユリシイズ』)

 それは「展望」コーナーに掲載された「現代フランス文学の二主潮」以外の、小宮山敏「最近ソヴェート文壇の動勢」、武田忠哉「最近ドイツ文壇の展望」、遠山宣次「現代アメリカ文壇鳥瞰図」も同様の役割を果たそうとしているように思える。小宮山はソヴェート文壇におけるプロレタリア文学のヘゲモニーの獲得の問題、武田はドイツのノイエ・ザハリヒカイト文学の報告、遠山はアメリカの出版界の隆盛に伴う大量生産とベストセラー現象を論じ、辻野と同様に、世界文学のメインストリームとそれぞれの問題を取り上げていることになる。

 それが辻野のいうところの「我々は現実を観なければならぬ。芸術のみが現実よりの遊離に於いて存在し得るといふのは、一つの幻想に過ぎない」との言の表象でもあろう。だが今回はさらに辻野とジッドに関して言及できなかったので、次回に譲ることにしたい。


 [関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら