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古本夜話151 隆文館の軌跡

草村北星(松雄)によって明治三十七年に創業された隆文館は、大正九年に北星の個人経営から、資本金二十万円の株式会社へと切り換えられた。これを機にして、北星は隆文館から身を引き、経営は北星と同じ熊本県出身の代議士松野鶴平、及びこちらも同じ代議士の星島二郎に委ねられ、二代目の社長を松野、三代目を星島が務めることになる。したがって隆文館は三人の経営者がいたことになり、それは鈴木徹造の『出版人物事典』(出版ニュース社)の「草村松雄」の項にも記されている。
出版人物事典

隆文館の設立が早稲田と政友会人脈を背景にしていることは既述しておいたが、松野鶴平は政友会幹部の逓信相野田卯太郎の女婿であり、後にその幹事長となっているので、政友会絡みの隆文館再建とも考えられる。文芸書を主とする出版社の困難さは昔も今も変わりはないであろうし、それは出版社としては多額の資本金二十万円が物語っているように思われる。

これはまったく意図して買ったわけではないけれど、三人の経営者時代の本、つまり奥付の発行者として彼らの名前がそれぞれ記された本を持っている。草村松雄の時代は『日本大蔵経』(第二十五巻、大正六年)で、これは拙著『古本探究3』ですでに論じている。しかしあらためてその奥付を見ると、すでに隆文館図書株式会社とあり、『日本大蔵経』は全五十一巻に及ぶ大部の予約出版で、この大事業が再度の株式会社化、こちらは隆文館株式会社を招来した原因となったかもしれない。
古本探究3

松野鶴平の名前は本連載149で論じた三浦関造の『革命の前』、星島二郎名は澤村真の『食物辞典』(昭和三年)のそれぞれの奥付に記載されている。後者の辞典は四六判上製千百ページを超える大冊で、戦後の本山荻舟の『飲食事典』(平凡社)とともに、それなり愛用しているものである。
飲食事典

『食物辞典』は著者の澤村の「序」によれば、明治四十四年に『実用食品辞典』として出版したが、関東大震災によって紙型も烏有に帰したので、新語を加え、訂正増補し、新しき著作として刊行するとあり、次のような内容説明が施されていた。

 本書は食物の生産方法より、其性状、化学的組成、幵に其利用法即ち調理に至るまでの事実、営(ママ)養の理論、食物の研究法、食物の歴史、食物料理に要する器具等に関する一切の事項と、食物に関する古今の詞藻等とを網羅せんとするものなり。

つまりこの『食物辞典』は食物に関する総合的な辞典であることが宣言されていて、これに匹敵する戦後のものが本山の『飲食事典』と見なせるし、両書が戦前、戦後の対をなしているように思われる。小説に表われている生活や風俗に関する情報は同時代の辞典を参照するようにしているが、この両書の食物や飲食についての言及はそれらにふさわしい記述に充ちている。

例えば、三浦関造の小説『革命の前』の中で、高見は牢獄で激しい空腹を覚え、三十年前に飢えで苦しんでいた時、五銭銅貨を道で拾い、天に感謝し、店でパンを一斤買い、その「石のやうに堅い一塊のパンにかぶりついた」ことを思い出す場面がある。この小説は既述したように大正十二年の刊行だから、三十年前のこととすれば、明治二十年代のエピソードということになる。

しかし『食物辞典』の「ぱん」を引くと、「我邦にても近来殆ど常食の如くに用ふるものにあるに至れり」と記述されている。それゆえにパンの常食化が大正時代から昭和初期にかけて普及したもので、明治半ばには店先でパンを買い求める生活習慣はまだ成立していなかったと考えられる。また『飲食事典』の「パン」によれば、大正に入っての製パン初期の値段は一斤二十銭とされているので、明らかに『革命の前』におけるパンのエピソードは間違いで、大正後期のパンをめぐる生活光景を当てはめたものだとわかる。

『革命の前』が小説としてはぎこちない物語構成と展開であって、「小説」というよりも「大説」的な作品である旨を述べておいた。だが優れた作品とはこのような細部もリアルで、おろそかにされていないのである。残念なことに三浦の小説はそれらのこともあって、読まれなくなり、忘れ去られたのであろう。

それらの食物のことを示唆し、本山の『飲食事典』の範ともなったと思われる『食物辞典』、及びそれに先行する『実用食品辞典』は、この分野における嚆矢ではないかと考え、佃実夫・稲村徹元編『辞典の辞典』(文和書房)や紀田順一郎・千野栄一編『事典の小百科』(大修館書店)を繰ってみたが、どちらにもそれらの書名も言及も見当らなかった。
飲食事典

それでも農学博士とある澤村真が慶応元年生まれで、栄養学、食品化学の研究者にして、東京帝大教授を務め、辞典刊行後の昭和六年に死去していること、その「序」に編纂、資料収集にあたっての共著者ともいうべき多大な謝辞を寄せられている駒井春吉なる人物が農業教科書を多く出し、養蜂の専門家らしいことだけは判明している。

本連載も含めて、これまで見てきたように、草村北星と隆文館、それに続く経営者が異なった株式会社化した隆文館の出版活動は、近代出版史において看過すべきでない意味を持ち、それなりの役割を果たしたと思われる。

しかしそれは鈴木徹造の『出版人物事典』に立項されているだけで終わっている。澤村の『食物辞典』の例に見られるように、それは隆文館の出版物への注視や研究がほとんどなされてこなかったことにも起因しているのではないだろうか。

私見によれば、近代出版史において草村北星は、玄黄社や国民文庫刊行会を創業した鶴田久作と並んで、最も重要な予約出版物の仕掛人、プロデューサーであり、近代文学や思想に対し、出版を通じて大いなる貢献を果たしたと思われる。そのことを次回から書いてみたい。

なお鶴田に関してはすでに書いているので、拙稿「鶴田久作と国民文庫刊行会」(『古本探究』)を参照されたい。
古本探究


〈付記〉
なおアップするにあたって検索したところ、黒岩比佐子の「古書の森日記」に『実用食品辞典』を購入し、愛読しているとあった。それによれば、その版元は北星が独立以前に在籍していた金港堂であり、それゆえに隆文館へと引き継がれたと納得した次第だ。

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