『Glaucos/グロコス』(以下『グロコス』とする)のタイトルの意味は最後の第4巻に至って、紅海におけるフリーダイビングで、200メートルの深度に挑むプロジェクト名にして、ギリシャ神話に登場する海の神とようやく紹介される。
コミックでもあるし、里中満智子の『マンガギリシア神話』を援用しようと思ったのだが、残念なことにこれには登場していないので、説明不足と見なせるけれど、『グロコス』のラスト近くになって提出されたプロフィルをまず示すことにしよう。
海をこよなく愛する漁師が、ある日目にした軌跡。陸の上でも魚は生きられる―ある薬草を食べさえすれば。
漁師はその薬草を食べ、生死を賭して海へ潜った―すると息苦しさを感じることなく思うがままに―魚のように自由であった。
だが―自由の歓喜を味わうほどに人間らしい考えが消えてゆく。それでもいいと陸に別れを告げた時―その姿までもが変わっていった。海の神の祝福を一身に受けた男―その名はグロコス。
そこには人魚ならぬ半魚人となった漁師の姿が描かれていた。
このエピソードを確認するために、高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』(岩波書店)を引いてみた。この辞典でグロコスは「グロウコス、Glaukos」とあり、それは青緑色の鋭い目を意味し、海の神の名前で、ポセイドンとニンフの子ともいわれ、偶然に薬草のおかげで不死の海神となり、予言力を有し、海の怪物を引き具して島々や海をめぐり、漁師たちに尊ばれたとされる。もちろんこれはグロウコスのひとつの神話例であるが、たなかの『グロコス』、もしくはそれに先駆けてフリーダイビングをドラマとしたリュック・ベッソンの映画『グラン・ブルー』にしても、この神話を物語の範としていると見なしていい。
またそうした神話を再現するかのように『グロコス』の物語も幕開けとなる。そしてこの全4巻の表紙や装丁が、海に象徴される青の色彩に包まれているように、巻頭の四ページにわたって、ポリネシアの青い海が描かれ、海の中に沈んでいきながら、女性が子供を出産し、その子供を二匹のイルカが産湯を使わせるかのように世話する場面が出現する。このカラーページを覆う鮮やかな青は、青緑や青紫も含んだ領域に広がり、海のもたらす多様な青の変化性を伝えようとしているのだろう。
そこで青のカラーページは終わり、イルカによって海上に送り出された子供をひとりの漁師が発見する。彼は子供をイルカの背から抱き取ると、子供は彼の指をつかむ。それを祝すかのように、イルカが海上に跳びはねる。漁師は「この子があの伝説の子なのか……?」と呟くのだ。こうして桃太郎やかぐや姫伝説に始まる出生譚と通じる「イルカがくれた赤ん坊」の物語でもある『グロコス』が始まっていく。
そして十七年後、同じ海で、年老いたフランス人クロードが成長した子供であるシセを発見する。クロードはかつて80Mという世界記録を持つフリーダイバーで、シセの素潜りに魅せられてしまう。クロードはシセをフリーダイビングの世界へと誘うために、育った島から連れ出し、日本へと向かう。クロードの友人が院長を務める大学病院で、シセはその潜水能力が海中で生まれたこととイルカに救われたことと関連するのかをめぐって検査を受ける。すると人間にとって謎ともいえる臓器である脾臓が異常に大きく、それが「潜るための臓器」=酸素ボンベの役割を果たしているのではないか、またそれは太古の昔に人類の祖先が海にいた頃、自在に使えていた機能だったのではないかという推論にたどりつく。シセが「人類未知の深み」ともいうべき「あの青き深み(グランブルー)へ!!」と至る超人的記録を出せれば、「海へ還る進化」の先兵と位置づけられるのだ。
かくしてクロードを師とするシセの伊豆の海でのフリーダイビング修業、ジャパンオープン大会出場、その過程で明らかになっていく深い潜水が脳に与える影響と物語は、ビルドゥングスコミックとして進行していく。その一方で新たに太古の「陸の王」による海の侵略に対し、「海の王」が平和の使者として、海と陸を自由に往き来できる若者をイルカの背に乗せて送ったという伝説が紹介される。しかし若者が「陸の王」に海と平和のすばらしさを説いたが、「陸の王」は若者に羨望と嫉妬を覚え、彼に槍を突き立てると、若者は海に沈み、人間に深く失望しながらその姿を変え、深みに消えてしまい、二度と人間の前に現れることはなかったという神話が挿入され、それはもう一度島の伝説と残された絵として反復される。
おそらくたなか亜希夫によって創作されたこの神話こそが、同じテーマを扱いながらも、『グロコス』とベッソンの『グラン・ブルー』の一線を画するものであり、シセも彼を生んだ女性も同じく救ったイルカや漁師も、さらにポリネシアの海と島と住民の総体が、この神話の「若者」のメタファーに他ならないのだ。それはシセを救い、父となった漁師が語る核実験に象徴され、シセがその島の伝説の「若者」そのものだと気づいていたゆえに、彼はシセが島から出ることに反対したことになる。
もはや物語の結果は見えているにしても、もう少し付け加え、追ってみなければならない。シセは修業の一環として、京都の寺で参禅し、海と禅の一致を見たことで、大師から名前を与えられる。それは海の深みを示す「紫青」で、ここに『グロコス』の冒頭のカラーページにおけるシセの誕生と青紫の海との遭遇が偶然でなかったことが告げられる。そして『グロコス』が示す「青緑」もまた同様なのである。
シセは地中海で世界チャンピオンと深度100M壁に挑み、さらなる深みをめざし、紅海でのプロジェクトグロコスが実現する。深みをめざして潜っていくシセの脳裡に、これまでの物語が走馬灯のように浮かんでは消えていき、それは100Mを過ぎた地点で海を殺した核実験の光景が出現する。さらに150Mを超えると、太古の海、まだ生命が生まれていない海、酸素が誕生しつつある海と次々に変化、ついには水もなく海もない、燃えている星となる。ついに200Mを超えた。するとようやく水の最初の一滴が見出されるところまできた。だがそこでシセは画面から姿を消してしまう。海から生まれた子が海へ戻っていくようにして。こうしてここに日本のコミックにおける「グロコス」神話の誕生を見たことになる。