本連載514で、マックス・ミュラーの『言語学』の共訳者として金沢庄三郎の名前を挙げておいた。近年石川遼子による初めての評伝『金沢庄三郎』(ミネルヴァ書房、平成二十六年)が出され、その生涯が克明にたどられている。
金沢の詳細な一生はそちらに譲るとしても、彼は『日本近代文学大事典』や『三省堂書店百年史』などにも立項、紹介されているので、それらを抽出し、まず簡略なプロフィルを提出しておく。
金沢は明治五年大阪市生まれの言語学者、国語学者で、二十九年帝国大学文科大学を卒業し、国学院講師を務め、大正十二年に教授となり、昭和八年の退官まで言語学、国語学、朝鮮語学を講じた。上田万年博士の高弟で、比較言語学の理論を導入し、日本語系統論の先駆者として、特に朝鮮語と日本語の比較研究を行ない、明治四十三年に『日韓両国語同系論』を著わす一方で、四十年には近代国語辞典の『辞林』(後に『広辞林』、大正十四年)を編纂刊行し、その後の辞書に大々的な栄光を与えた。それらの版元は三省堂である。ちなみに当時の三省堂からは高楠順次郎も共編の『新訳英和辞典』、南条文雄共著『仏教聖典』も出されている。
石川の『金沢庄三郎』によれば、国学院で金沢に師事したのが折口信夫、武田祐吉、岩橋小弥太であり、彼らとともに、『辞林』の編集や校正を手伝ったのが金田一京助、後藤朝太郎、小倉進平たちで、石川の評伝にはその時代に彼らが並んでいる口絵写真も掲載されている。
金沢は朝鮮語を学び、日本古代語との関係を研究し、それは沖縄方言、アイヌ語、さらにシベリア、満州、蒙古などのアルタイ諸語にも及んでいく。その過程で、昭和四年に上梓されたのが『日鮮同祖論』(刀江書院)であり、これは同十八年に汎東洋社から再刊されている。前者は未見だが、後者は入手していて、それには新たに「昭和十八年孟春」とある著者の「序」が加えられ、次のような一文が見える。
(前略)私の喜びとするところは、近年に至つて、朝鮮の少壮学徒中に、国語と朝鮮語との同系問題を中心とする比較研究の気運の欝然として勃興し来つた事実であつて、其成績も内地の学者に比して遜色なきばかりか、時にはこれを凌駕する場合も少なくないのである。(中略)此方面の討論を似て賑ふのは、東京ではなくて、京城の学界であらうと思ふのは、強ち私の空想のみではあるまい。私の意中を告白するならば、現在でも私のこの著述の真の理解者は却つて朝鮮の他に多くあるやうに感受せられるのである。この度、私が朝鮮出身の東山君の懇請を容れて、汎東洋社の手で本書を再刊するのも、これがためである。
ここで金沢が述べている朝鮮における「国語と朝鮮語との同系問題を中心とする比較研究の気運」は詳らかでないにしても、「朝鮮出身の東山君の懇請」を受けての十三年ぶりの再刊は、七十二歳になっていた金沢を喜ばせたにちがいない。それは本文扉の次に著者の略歴も記された近影写真が収録されていることにも表われていよう。
『日鮮同祖論』において、「昔の朝鮮国は文明国である」で始まり、『古事記』や『神皇正統記』、『万葉集』や『風土記』などの多くの古典・文献が参照され、「韓国は神国である」とのテーゼが引き出される。そして「神の国なる朝鮮で神の子として生れた方々が、我国に渡来し、神として祀られたこと」に及んでいく。それは朝鮮半島からの日本民族の日の出に向かう東進移動であり、そこに日本の神代史が形成される。そのような記述にそって、地名や人名に関する日鮮語の比較が言語と音韻に基づいて行なわれ、日本語と朝鮮語の類似が挙げられていく。
ここに見られる日鮮語の比較と系統への考察は名前も著作も挙げられていないが、マックス・ミュラーの『言語学』に示されたサンスクリット語とギリシア語の例にその発生を見ていいと思われる。金沢が『言語学』の共訳者に名を連ね、その「序」を寄せて出版されたのは明治三十九年、それに連なる『比較宗教学』や本連載515の『宗教学綱要』の刊行は四十年、四十一年だったし、それらとパラレルに金沢は『辞林』を編み、朝鮮語を学んでもいた。おそらくそれらが合流して、『日鮮同祖論』なる一冊が成立したのではないだろうか。
また前回言及したように、ウラル・アルタイ語族のツラン運動という「大東亜神話」と出合って、『日鮮同祖論』も再刊されたとも考えられる。ウラル・アルタイ語分類の一説からすれば、日本語、朝鮮語、満州語、モンゴル語もそれに属するし、汎東洋社版は「索引」として、日本語、及び「満蒙梵語等」も収録していることにも表出している。ウラル・アルタイ語族や金沢の『日韓両国語同系論』にも言及している海野弘の『陰謀と幻想の大アジア』(平凡社)は、日本語や朝鮮語をウラル・アルタイ語族として入れることができるかどうかについて、言語学はまだ決定的な答えを出していないが、大東亜戦争前はそうでなければならなかったとして、次のように書いている。
満州さらにモンゴルへと日本が進出するためには、ユーラシア大陸の先住民であるウラル・アルタイ民族に属していなければならなかったのである。敗戦によって満州やモンゴルを放棄した日本は、〈ウラル・アルタイ〉語も避けるようになった。
それと同様に、日鮮同祖論だけでなく、日本民族の出自はメソポタミアのスメル帝国にあるという神話も語られなくなったのだ。
ところで『日鮮同祖論』を再刊した「序」にある「朝鮮出身の東山君」とは、奥付発行者の東山咲実のことだと考えていいが、彼の名前も汎東洋社なる出版社も、ここで初めて目にする。しかしそれでも石川が『金沢庄三郎』の中でふれていて、汎東洋社は朝鮮人東山咲実が経営し、昭和十七年には韓植『高麗村詩集』、糟谷つたゑ『産院日記』、龍胆寺雄『村上義光』を刊行していたと書いている。また近刊広告の「朝鮮文化叢書」なども挙げ、さらに『日鮮同祖論』には二種類の装丁があり、発行部数がひとつは「二千部」、もうひとつは「初版二千部、許可三千部」と記されているとされる。ところが私の所持する一冊は裸本だが、そのどちらでもなく、ただ「許可三千部」とあり、石川の評伝に再録されている口絵写真とも少しばかり異なっている。ということは、三種類の異なる版が出されたことになるのだろうか。これもまた大東亜戦争下の出版の謎を提示しているように思われる。
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