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古本夜話887 火野葦平『麦と兵隊』から『陸軍』へ

 大東亜戦争下の昭和十八年五月から十九年四月にかけて、『朝日新聞』に火野葦平の小説『陸軍』が連載された。それが単行本として刊行されたのは昭和二十年八月のことで、『朝日新聞出版局50年史』は次のように述べている。

 『陸軍』(B6判・六八八ページ・五円・三万部)は印刷日八月十五日、発行日八月二十日の予定になっていたのである。敗戦を察知した山川武祐(当時刊行部長)は、しきりに印刷所を督励した。「せっかく苦労して、そのまま闇に葬るにはしのびないというわけで昼夜兼行、製本に馬力をかけ、十日から配本を始めて、十五日の終戦までに、とうとう売りつくしてしまった」と、山川は当時を回想している(中略)。
もっとも、本社裏(別館まえ)に大八車を屋台代わりに使って、これに山積みして即売までしたとのことである。それでもなお、御茶ノ水駅前などの街頭にうず高く積まれて、投げ売りされていたという(『週刊読書人』昭和42・8・21)
 『九州文学』の同人・岩下俊作は言う。
 「あれは戦争如何にかかわらず、陸軍の歴史ともいうべきもので、小倉の維新から明治初期の有様が非常によく書いてある、北九州の郷土史としても優れていると思う」(後略)。

f:id:OdaMitsuo:20190304174603j:plain:h120(朝日新聞社)
 しかし火野は『土と兵隊』などの兵隊三部作と『陸軍』によって戦争協力者として、三年にわたり、公職追放された。
土と兵隊

 それを確認するために、『日本近代文学大事典』を繰ってみたが、文筆家追放指定への言及はあっても、『陸軍』に関してはそのタイトルすら挙げられていなかった。昭和四十一年に戦史類を出していた原書房から『陸軍』が復刊されたにもかかわらず、それは文学アカデミズムにおいて、またタブー的なニュアンスが残っていたことを意味しているのだろうか。
f:id:OdaMitsuo:20190304173851j:plain:h120(原書房)

 それでも改造社から出された「兵隊三部作」は火野の代表作として立項され、徐州会戦従軍日記『麦と兵隊』がベストセラーになり、火野が脚光を浴びたことを伝えている。手元にある中川一政装丁による『麦と兵隊』は、巻末に軍報道部の写真班員の梅本左馬次の「フオト・ノート」が収録されているように、火野=陸軍歩兵伍長玉井勝則のポートレートも含んだ写真を伴った戦争ドキュメントと見なせるだろうし、そうした編集がベストセラーならしめた要因のひとつであろう。
麦と兵隊

 そうしてそれは『土と兵隊』『花と兵隊』の「兵隊三部作」へと結晶し、『陸軍』へと継承されていったのである。だが私が『陸軍』を読んだのは平成二年になって、中公文庫化されたことによっているし、いまだもって朝日新聞社版は未見のままだということも付記しておこう。
f:id:OdaMitsuo:20190304150908j:plain:h120(『花と兵隊』) 陸軍(中公文庫)

 『陸軍』は先に挙げた岩下俊作の言にあるように、「陸軍の歴史」をたどりながら「小倉の維新から明治初期の有様」「北九州の郷土史」が描かれ、始まっていく。そういえば、岩下が『九州文学』に発表した『富島松五郎伝』(小山書店、昭和十四年、後に『無法松の一生』角川文庫)もまた同様の色彩を帯びていたことを想起させる。
 f:id:OdaMitsuo:20190304152919j:plain:h120(『富島松五郎伝』)  f:id:OdaMitsuo:20190304153359j:plain:h120(『無法松の一生』)

 それはともかく、『陸軍』の第一部は最初の章に「三代」が置かれ、高木一家のプロフィルが紹介されていく。高木は小倉を郷土とし、かなり長く続いた商家だったが、明治維新と長州戦争にあって、その影響を受けずにはいられなかった。三代前の友之丞は質屋を営んでいたけれど、「天狗かくしの時」として、武士、百姓、町人が混在する長州の奇兵隊に入り、そこで散兵訓練を受け、「勤王」「殉忠報国」「攘夷」「四民皆兵」などの言葉に耳を洗われた。それまでは小倉藩のためにという小さな忠義だけだったが、「ここではすべてが、皇国のため、日本のために、であった」ことを知った。しかし友之丞の奇兵隊入りはわずか五日と続かなかった。それは彼が小倉の者だと発覚し、放逐されてしまったことによる。だがこれこそが「三代」の始まりに他ならず、友之丞の体験は次のように述べられている。

 この時期こそは、おそらく、友之丞にとって、一生に一度の冒険であったであろう。同時に、彼は、ここに、あたらしい自分を発見したのである。そうして、友之丞のおどろきは、高木一家の家風となって、友彦を経、現在、大東亜戦線の各地に転戦している高木兄弟の血のなかに、あたたかく、受けつがれて来たのである。

 そして奇兵隊を指揮してきた山県狂介は大村益次郎とともに、近代陸軍の創設者となっているし、その一方で、友之丞は小倉鎮台の新しい隊長として赴任してきた乃木少佐を訪れ、水戸光圀の『大日本史』に関する教えを乞うている。友之丞の息子の友彦は日露戦争時に陸軍大尉として、乃木大将のいる旅順ではなかったが、奉天会戦に参加したのだった。その友彦の息子たちの伸太郎、秋人、礼三もまた陸軍に入り、「現在、大東亜戦線の各地に転戦している」。それを『陸軍』は活写していくのである。

 だが火野は二月七日の日付の「後書」で、伸太郎が「散華した」フィリピンの「修羅の巷」「凄絶な戦局」に言及している。火野にしても、敗戦の予感の中での『陸軍』の刊行だったにちがいないように思われる。
   
 
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古本夜話888 岩田豊雄『海軍』と獅子文六『娘と私』

 火野葦平の『陸軍』に先駆けて、昭和十七年の『朝日新聞』に岩田豊雄の『海軍』が連載され、十八年二月に単行本として刊行されている。岩田はいうまでもなく、獅子文六の本名である。『朝日新聞出版局50年史』によれば、火野が公職追放されたことに対し、岩田は追放指定を受けたが、訴願によって免れたという。
f:id:OdaMitsuo:20190304174603j:plain:h120  f:id:OdaMitsuo:20190304180513j:plain:h120 (朝日新聞社)

 それも作用してか、火野の『陸軍』と異なり、岩田の『海軍』は昭和四十三年刊行の『獅子文六全集』第十六巻に収録され、また早くから新潮文庫化されていたこともあり、読むことに対し、開かれた作品であり続けたことになる。あらためて前者を確認してみると、その「付録月報」に、獅子による「『海軍』その他について」が寄せられ、彼は次のように述べている。
f:id:OdaMitsuo:20190305115901j:plain:h120 (第十六巻)

 戦争中に書いた「海軍」その他のものに、私は本名を用いたが、これは一国民としての意識が強くなり、筆名で文学に遊ぶ気持がなくなったからだった。戦争の衝動がどんなものだったかは、「娘と私」の中に書いてあるから、参照されたい。とにかく、それまでの私の文学は「遊び」で、戯作者として終始するつもりだったが、戦争になって、日本が勝ためなら、何でもする気になった。したがって、戦争中に書いたものは、すべて実用の文学である。

 最後の「戦争中に書いたものは、すべて実用の文学である」との言葉は、文学のみならず、大東亜戦争下のすべての出版やジャーナリズムにも実用の言説だったことを伝えていよう。この発言に加えて、獅子が特異なのは自らの朝日新聞社からの全集に、この「すべて実用の文学」を収録したことである。それを自分の意志で実行した文学者は獅子だけではないだろうか。その第十六巻には『海軍』を含め、岩田名で発表された海軍をめぐる小説や随筆のすべてが収録されている。それもあって、早くから『海軍』が新潮文庫化されていたことになろう。
f:id:OdaMitsuo:20190305120532j:plain:h115(新潮文庫)

 『海軍』は太平洋戦争における真珠湾攻撃に際し、特殊潜航艇に乗りこみ、勇士の一人として戦死した横山正治をモデルとする主人公谷真人の短かりし生涯を描いている。それは海軍や勇士を神格化する戦争文学というよりも、地方のまじめな若者が海軍をめざして成長していくというビルドゥングスロマンの色彩が強く、火野の『陸軍』とは趣を異にしている。それゆえに獅子が『海軍』で追放の仮指定を受けたことにはどのような経緯と事情が秘められていたのか。

 このことを確認するために、獅子が挙げている『娘と私』(『獅子文六全集』第六巻所収)を読んでみた。いってみれば、『娘と私』も『海軍』と同様にノンフィクションである。この作品は獅子のフランス人との結婚、日本での生活と娘の誕生、妻の病と帰国と死、獅子の再婚から娘の結婚に至るまでをたどった自叙伝と見なせるだろう。そのために当然のことながら、戦時下に書かれた『海軍』にもふれられている。「太平洋戦争は、事件として、私の生涯の最大なものであった」とされる。以前には岸田国士が大政翼賛会の文化部長に就任したことに驚き、新体制運動や国家総動員にも不振の目を向け、対米開戦は大暴挙だと考えていた。だが「開戦の日ほど、印象の深いものはなかった」し、その「翌日から、翌年の春にかけて、次ぎ次ぎに発表された、空想的な戦果が人を酔わせ、狂わせた」のであり、「私も、いい気になって、万歳を叫んだ者の一人だった」。
 獅子文六全集6 (第六巻)

 とりわけ最初の戦果をもたらした海軍、その中でも死ぬことを自覚し、小さな潜航艇に乗り、真珠湾に入っていった若い士官たちの行動に深く感動した。その頃「私」は『朝日新聞』から連載小説の依頼を受け、士官の出身地の鹿児島、呉の軍港、江田島の海軍兵学校を取材し、彼が「平凡温健な青年である」ことを確認し、「軍神」ではない本当の姿を描こうとして、『海軍』を書き始めた。その作品に自信がなかったが、日を追うに従い、これまでになり好評を博し、四つの映画会社と七つの出版社から映画化と単行本化のオファーが出され、さらに初めての受賞というべき朝日文化賞を得て、朝日新聞社から出された単行本も記録破りの売れ行きを示したのである。

 敗戦後にこれが前提となり、『海軍』を書いた「私」は「特別な眼」で見られるようになった。敗戦を迎えた世間は日毎に目まぐるしく変わっていく。その状況は次のように述べられている。

 昨日までは、最も貴重視されたものが、最も軽蔑すべきものに、転落していく有様は、凄まじい見ものだった。そして、誰も、それを訝しまず、よい加減に、自分を順応させていく様は、もっと、不思議なものだった。

 そして戦争責任者、戦争犯罪人というタームが新聞に現われるようになる。それは妻の郷里の疎開先にも聞こえてくる。その戦犯使命社は占領軍司令部=GHQと日本共産党によるものだった。実際に出版界においても同様のことが起きていた。しかし戦犯と目される文士たちは掌を返すような言論に励んでいた。それは「私」に「文士廃業」を思い起させたし、出版社や新聞社の連載小説の依頼を断わらせていた。

 その一方で、異常な出版景気に見舞われている東京に戻り、新聞小説の構想を立てている時、『海軍』を書いたことにより、GHQからの追放仮指定を受けたことを知る。それに対し、「私」は戦争中に「聖戦、八紘一宇、大東亜共栄圏」という三語を使用したことがないという「異議申立書」を提出し、それがパスし、仮指定は解除に至る。そして敗戦後の日本の姿を『てんやわんや』として『毎日新聞』に連載し始めるのである。
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