浅草の凌雲閣=「十二階」といえば、必ず思い出されるのは加藤泰監督、藤純子、菅原文太共演『緋牡丹博徒お竜参上』である。この映画は昭和四十五年の「緋牡丹博徒」シリーズの第六作に当たり、同監督の第三作『花札勝負』と並んで名作の誉れが高く、私もリアルタイムで観ている。
この映画は明治末期の浅草を舞台としていることもあって、いつも背景に凌雲閣が見えている。その中でも忘れられないのは、雪の降る今戸橋で藤純子が菅原文太演じる流れ者を見送るシーンだが、その橋の向こうには凌雲閣が映っている。この今戸橋のシーンは最後のところで繰り返され、今度は二人が道行のように、戦いの場としての凌雲閣へ向かっていくのである。
かつて初めての加藤泰の真っ当な映画本というべき「幻燈社『遊侠一匹』」(『古本屋散策』所収)に言及しているが、そこには凌雲閣も映る二人の今戸橋のシーンのスチール写真も見ることができる。また近年「緋牡丹博徒」シリーズもDVD化されているので、そうした記憶に残るシーンを反復することも可能になってきるけれど、映画館のスクリーンで観ていたあの時代に戻ることはできない。それでもあらためて雪の今戸橋と凌雲閣のシーンが『近代出版史探索Ⅲ』409の小林清親の「海運橋〈第一銀行雪中〉」にヒントを得ているのではないかと思ったりもする。
そんなことを考えたりしていて、たまたま連想が及んだのは写真集『九龍城探訪』(イースト・プレス、平成十六年)という一冊だ。これはグレッグ・ジラード、イアン・ランボット著、小原美保訳、吉田一郎監修で、「魔窟で暮らす人々」をサブタイトルとして翻訳刊行されている。九龍城=City of Darknessは香港の中心に存在した最大の高層スラムで、三万三千人が住んでいたが、英国からの中国への一九九七年の香港返還を機として取り壊され、その一世紀にわたる歴史に終止符が打たれた。
この「魔窟」の取り壊しを前にして、二人の写真がその歴史と現在を三二〇枚の写真に収め、住民へのインタビューも重ね、ドキュメンタリーとして提出したのが『九龍城探訪』ということになろう。この一冊が小説や映画、それにコミックまでも含め、多くの物語を喚起するに至ったことはいうまでもないが、それらに関しては別稿に譲りたい。ここでは凌雲閣がテーマであるからだ。
その『九龍城探訪』を繰りながら、先の小林清親の画集ならぬ凌雲閣=十二階の写真集や記録集があればと思ったのである。ちょうどその頃、凌雲閣を目に留めたことにもよっている。ひとつはその清親に愛着を覚えていた永井荷風をそのまま雑誌タイトルとした『荷風!』(18号、日本文芸社、平成二十年)が特集「浅草・両国」を組み、表紙に山本高樹によるジオラマで「在りし日の浅草六区」が再現され、大きく凌雲閣が描かれていたことだ。もうひとつは山本薩夫監督の山本宣治の生涯を描いた『武器なき斗い』(「独立プロ名画特選」、新日本映画社)において、関東大震災時の凌雲閣崩壊のフィルムが挿入されていたのである。
しかしその後も留意していたが、まとまった凌雲閣に関する記録などを目にすることはなかった。ところが最近になって、八木書店の地下で、一冊だけ残っていた『めがねと旅する美術』(青幻舎、平成三十年)に出会った。これはメインタイトルのみならず、サブタイトルにも「見えないものを見るため、世界ののぞき窓」とあり、江戸川乱歩の「押絵と旅する男」に由来するのは明らかだった。ちなみに同書はめがねと旅する美術展実行委員会編で、青森県立美術館、島根県立石見美術館、静岡県立美術館の三館共同企画の美術展カタログであり、企画者は工藤健志、川西由里、村上敬とあった。
その冒頭には塚原重義監督による短編カラーアニメ「押絵ト旅スル男」も掲載され、それは凌雲閣のシーンから始まっている。また続く「遠めがね――世界をとらえる」において、次のように凌雲閣をめぐる引札やすごろくなどが収録されているので、それらを挙げてみよう。
1 | 歌川重清 | 「東京浅草観世音並ニ公園地煉瓦屋新築繁盛新地遠景之図」 | (明治19年) | ||
2 | 歌川国貞(三代) | 「凌雲閣機絵双六」 | (明治23年) | ||
3 | 〃 | 「浅草公園凌雲閣登覧寿語六」 | (明治23年) | ||
4 | 楊斎延一 | 「東都真景名所浅草金龍山並ニ凌雲閣」 | (明治23年) | ||
5 | 杉崎帰四之助画・発行 | 「大日本凌雲閣之図十二階直立二百二十丈」 | (明治23年) | ||
6 | 栗生麟太郎版 | 「浅草凌雲閣」 | (明治24年) | ||
7 | 上田信 | 「浅草凌雲閣」 | (平成30年) |
(歌川国貞)(楊斎延一) (栗生燐太郎)
とりわけ3はバベルの塔のようでもあり、十二階から遠眼鏡をのぞいている男も描かれ、乱歩もこの「浅草公園凌雲閣登覧寿語六」を見て、「押絵と旅する男」を発想したのかもしれないと思わせるものだ。これらの他にも、凌雲閣は多くの絵、双六、版画が描かれ、制作されたにちがいない。だが大正時代の関東大震災において被災し、解体されたことで、凌雲閣の寿命は三十年と短く、昭和を迎え、忘れ去られていったことになろう。
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