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古本夜話93 八切止夫と日本シェル出版

〇七年の『探偵作家追跡』に続いて、若狭邦男の『探偵作家尋訪―八切止夫・土屋光司』日本古書通信社から出された。若狭の蒐書をたどっていくと、尋常な努力では収集できないと思われる雑誌や書籍に出会うことになり、私などは本当に横着な古本探究者でしかないという気にさせられる。

探偵作家追跡 探偵作家尋訪―八切止夫・土屋光司

それは独力で「洛陽堂雑記」を刊行している田中英夫、中野書店の『古本倶楽部』に「震災の余滴」とその「余稿」を連載している硨島瓦にも同様の感を抱く。それはともかく若狭の「追跡」と「尋訪」によって、これまで未知であった出版史を教えられ、またずっと気にかかっていた出版社のことも明らかになったので、それらのうちの八切止夫と日本シェル出版について、ここで書いておこう。

八切止夫は昭和三十九年に「小説現代新人賞」を「寸法武者」『小説現代新人賞全作品』1所収、講談社)でデビューし、その後八切史観に基づく『信長殺し、光秀ではない』講談社)などの多くの著作を四十年代に刊行している。その一方で、八切は日本シェル出版を設立し、自らの著作に加えて、多くの歴史書の復刻を企て、それらを次々と出版することになる。

寸法武者 信長殺し、光秀ではない

私が所持しているのは復刻の阿部弘蔵『日本奴隷史事典』と八切の『庶民日本史事典』の二冊だけだが、箱のデザイン、装丁、活字の組み方などのすべてが戦前の本のようで、失礼ながら泥臭いという言葉が当てはまってしまう本である。だから当時としても新刊書には似つかわしくなく、さぞかし返品率が高いのではないかと考えてしまうほどだった。
庶民日本史事典作品社 復刻版)
そのことを反映してだと思われるが、五十年代になると、書評紙の広告欄に「無料本50冊謹呈」案内が掲載されるようになった。それが『庶民日本史事典』の巻末にも見つけられ、次のように書かれている。

 只より安いものはありません荷造りと運賃のみです。大荷物ゆえ送先の電話番号附記して下さい。
 在庫整理しませんと身の処置がつきませんので運送費値上りしてますが、23キロ段ボール一箱四、九八〇円(中略)の荷作運賃を当社へ御送金。定価では50冊で四万五千円ゆえ遠慮なさる向きもありますが知人図書館へ、何キロでも御下命下さい。(中略)在庫の自分の本を放りっ放しではどうにもなりません。香典のつもりでよろしく願ます。

これは出版社としては前代未聞の広告で、よほど売れなくて、在庫処理に悩み、このような案内にまで至ったのではないかと想像された。しかしそのような広告も次第に見えなくなり、八切止夫と日本シェル出版も消えてしまったと思われた。

それから二十年以上が経過し、八切止夫追跡者としての若狭邦男が現われ、戦前から戦後にかけて一直線につながっている八切の著者兼出版者の軌跡を知らしめてくれたのである。『探偵作家追跡』から始まり、『探偵作家尋訪―八切止夫・土屋光司』に至って、「彼の全体像は今日にまで明らかにされたことがない」ままだった八切の個人史が明らかになったといえよう。

若狭の既述をたどってみると、八切止夫の本名は矢留節夫であり、大正三年に名古屋市に弁護士の長男として生まれ、愛知一中を経て日本大学専門部に入り、菊池寛の書生を務めながら卒業する。そのかたわらで昭和七年から伴大矩名義で日本公論社より翻訳探偵小説を刊行し、十四年から耶止説夫の名前で『新青年』などへ投稿、文芸誌『文学建設』の同人となっている。そして十六年に満州奉天に向かい、菊池の口添えで大東亜出版社を設立し、自著も含んだ多くの単行本を出版している。若狭は大東亜出版社刊行の耶止説夫名の『南方探偵局』など四冊の書影を掲載し、その収集の奥深さを示している。

戦後になって日本に帰還した八切は満州でと同様に、著者兼出版者としていくつもの雑誌を刊行し、また多くのカストリ雑誌などに小説を書き、そのようなプロセスを経て、前述の昭和三十九年の「小説現代新人賞」受賞に至るのである。若狭はその後の八切の四十七年から六十二年にかけてを「日本シェル出版(日本橋蠣殻町)時代」とよび、設立に至る背景を記している。

それによれば、八切は昭和二十七年にクラブ社を設立し、雑誌『生活クラブ』を三号まで刊行したが、十六万冊の返品と三百万円の赤字をこうむったために、新たな事業に向かわざるをえなかった。そこで消火器の製造・販売を目的とする日本シェルター株式会社を発足させた。これは大きな利益を上げたようで、四十七年になってその社名から「ター」をとり、会社内の倉庫を用い、日本シェル出版が付属のかたちで始まり、自著『明智光秀』と『織田信長殺人事件』を処女出版物とし、それに以後続けて百五十冊を刊行するのである。これらの著作の多くは昭和二十年後半から三十年代に書かれた未発表原稿に基づき、出版社設立の目的は戦前の出版社経験によるもので、自分の書きたいものを書き、自分自身でその出版、販売を実行したいこと、隠された日本史の追求と差別された人々の救済にあったとされる。
明智光秀

しかし前述したように、その意図は報われず、売れない膨大な在庫を抱えこむことになり、それに税金がかかる事態を招き、断裁よりもと無料本謹呈広告の掲載にまで至ったのであろう。だが昭和六十二年に八切が七十二歳で死去した後の事情を若狭は記している。

 六年余りにわたり、彼が設立した日本シェル出版の倉庫から、在庫五万冊のうち、一部は全国の図書館へ、あるいは一部は神田の古書店を通じて、ゾッキ本として処分され、また、それらの残りは(と、言っても、大半は)廃棄処分されたようである。

そして若狭はこれらの日本シェル出版の八切著作集と様々な復刻版を出版年ごとにリストアップし、この出版社の刊行物のほぼ全貌を明らかにしたといえよう。日本シェル出版の復刻本についてはもう少し後で、別に一編を書くつもりでいる。

このような若狭邦男の八切止夫追跡や尋訪とパラレルに、作品社から『八切意外史』全十二巻なども出版され始め、八切史観が問い直される時代を迎えているのかもしれない。私も所持している昭和四十二年の『信長殺し、光秀ではない』講談社)をこれから再読することにしよう。

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