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古本夜話94 森下雨村と西谷退三訳『セルボーンの博物誌』

江戸川乱歩『探偵小説四十年』の昭和六年の記述に「森下雨村の博文館退社」という一章があり、「日本に探偵小説を流行させた生みの親ともいうべき森下さんが、ジャーナリズムから退いたことは、探偵小説史に記録すべき一つの出来事であった」と書かれている。乱歩の言は森下が探偵小説雑誌『新青年』を企画し、編集長として自らを含めて多くの作家たちを発掘、育成し、また欧米の探偵小説の翻訳を次々に紹介し、探偵小説を日本に定着させた功績などをトータルに含めている。しかしそのような日本の探偵小説の生みの親ともいうべき森下雨村も戦後はほとんど忘れ去られ、昭和五十年に「少年倶楽部文庫」の一冊として、『謎の暗号』が講談社から刊行されたのを記憶しているにすぎない。
探偵小説四十年

ところが近年になって、平凡社ライブラリーに釣りエッセイ集『猿猴 川に死す』小学館文庫に同じく『猿猴 川に死す』『釣りは天国』が収録され、論創社からは『森下雨村探偵小説選』が刊行された。とりわけ二冊の小学館文庫に付された釣りライターのかくまつとむ による「評伝・森下雨村」である「川に生まれて川に帰る」と「リタイアの名人」は、これまでほとんど知られていなかった昭和十七年の帰郷から戦後の高知県の佐川での「半農半漁」の生活にスポットをあて、二冊のエッセイ集と相俟って釣り人雨村の姿を立体的に描き出している。

猿猴 川に死す 猿猴 川に死す 釣りは天国 森下雨村探偵小説選

ここでは雨村の釣りについてはふれず、彼が最後に手がけた出版のことを書いておきたい。これはかくまの「川に生まれて川に帰る」を読んで知ったのだが、昭和三十三年に雨村は十八世紀の英国ネイチャーブックスの古典『セルボーンの博物誌』自費出版に携わっている。この自費出版は二百部であった。しかし少しずつ反響を呼び、同年に博友社から市販本としても刊行されるに及んだ。博友社は戦後の博文館の廃業に伴い、設立された出版社で、森下とつながる『新青年』関係者もいたことから、『セルボーンの博物誌』の刊行を引き受けたと思われる。

同書の訳者は西谷退三で、高知でも有数の薬種問屋の跡取息子だった。北海道の札幌農科大学を家業のために中退し、大正二年に家業を整理し、英米に遊学する。そして同四年に帰国し、大学時代に出会った『セルボーンの博物誌』の研究と翻訳に一生を捧げることを秘かに決意し、佐川に隠棲し、昭和三十二年に七十二歳で生涯独身の生を終えた。その五十年来の友人が雨村であった。だがその雨村にしても、西谷のライフワークとでもいうべき翻訳について聞かされておらず、死後に目にした、ようやく完成した訳稿と後事を託した遺志によって、それを知ったのである。

かくまは西谷の住居の写真を添え、雨村の『セルボーンの博物誌』の発刊発起人としての言葉を引用している。

 世の中に生涯数十巻の書を著して、自らも誇りとし世人も亦それをたたえる例は多いが、ただ一冊の英書の翻訳のために、一生妻さえめとらず、孤独寂寥の生活に耐えて、ペンを執り始めてから延々五十年、七十三歳で死ぬ直前にその完成を見たのだからいささか類を異にしている。

「日本の古本屋」で検索してみると、さすがに二百部の自費出版本は見つからなかったが、博友社版は何冊かあり、名古屋の三進堂書店から千五百円で入手することができた。奥付を見ると、昭和三十七年第三版とあり、幸いなことに版を重ねていた。そのために今でも古書市場に在庫があるのだろう。

それには西谷の写真も掲載され、彼が死の直前に書いたと思われる「一九五七年五月」の日付のある「まへがき」が置かれ、同書と著者のギルバート・ホワイトについての本当に愛情のこもった懇切丁寧な紹介を行なっている。そしてホワイトの生涯の独身に関して、「人間に恋せず、セルボーンを恋して一生を過ごした」というホワイトの伝記者の言葉を引き、終えている。このセルボーンを西谷も英国滞留中に二度訪れていると述べている。おそらくこの言葉は西谷自らの生涯に向けられたものだったのではないだろうか。

この「まへがき」に照応するように、雨村も西谷をしのぶ深い追悼の言葉に充ちた「あとがき」を寄せ、次のように書いている。

 これが出版は故人の遺志でありました。故人の知人諸君のすべてが熟知せらるゝとおり、かれは一切の名利を欲せず、むしろ人を避け世に隠れて、一個の野人として清浄な生涯を終わった人間であります。その故人が遺稿の出版を思い立ち後事を托して逝ったということは、単に五十年に亘る大業を世に問いたいというような、謂わば俗人的なさもしい考えからではなかったと思います。

そして雨村は西谷の意志があくまで『セルボーンの博物誌』の研究翻訳を世に遺すことだけにあったと見なし、長きにわたる翻訳と推敲、三度の浄書、和漢洋の蔵書、特に博物学関係を中心とする一万冊近い洋書と『セルボーンの博物誌』初版も含めた八十余の各種の版の蔵書を挙げ、それらのすべてを参照し、遺漏ない註記解説に及んでいると指摘している。また雨村は、「自らについては一切口を噤んだ」西谷がホワイトとともにホイットマンの信奉者でもあり、三人とも独身で、いずれも七十三歳で亡くなったのは偶然ではないように思われるとも書いている。

この西谷訳と昭和二十四年に刊行された寿岳文章『セルボーン博物誌』岩波文庫)訳を比べてみると、西谷訳のほうが深い博物誌的な註記解説を溶けこました翻訳に仕上がっているように思われる。それゆえに昭和五十年代に出帆社から、また平成時代になって八坂書房からこの西谷訳が復刻刊行されたのではないだろうか。その意味で西谷訳と雨村の出版努力は報われたといっていいのではないだろうか。
セルボーン博物誌

それだけでなく、西谷訳の『セルボーンの博物誌』の刊行は自らの『猿猴 川に死す』の出版意欲を駆り立てることになり、『新青年』編集長を務めた横溝正史に相談に及ぶが、実現には至らず、七年後の昭和四十年に雨村は七十五歳で死去する。なお付け加えれば、その二ヵ月後に乱歩も逝去している。輝夫人の強い要望で、未完の『猿猴 川に死す』が関西の釣り社(岳洋社)から刊行されるのは同四十四年で、それを見届け、二年後に夫人も亡くなっている。『釣りは天国』が土佐出版社から出されるのは昭和六十一年になってからのことだった。だから両書は前者が三十年以上、後者が二十年近く経ってから、ようやく文庫化されたことになる。

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