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古本夜話218 植竹書院の出版物とその後の行方

硨島の『ロシア文学翻訳者列伝』には植竹書院のことも書かれている。硨島も参考資料に挙げているように、植竹書院については宇野浩二『文学の三十年』中央公論社)や『文学的散歩』(改造社、後に『文学の青春期』復刻沖積舎)の中で言及しているが、ここでは主として硨島の記述による。
ロシア文学翻訳者列伝

植竹書院は大正元年前後に植竹喜四郎によって創業された。彼は「胡蝶本」として知られる籾山書店の出身で、大正期の重要な文芸書シリーズの「現代傑作叢書」「現代代表作叢書」「文明叢書」「薔薇叢書」を刊行し、また広津和郎たちの同人誌『奇蹟』の発行所だった。しかも植竹書院の出版活動に寄り添うかたちで、やはり植竹を発行者とする日月社から「反響叢書」「現代百科文庫文芸思潮叢書」なども出版している。これらのシリーズの明細は紅野敏郎『大正期の文芸叢書』に掲載されていて、それらは合わせると九十冊近くに及ぶ。だが植竹書院と日月社の活動期間がわずか五年ほどで、これらの出版が大正前期の数年間であったことを知ると、この時代の文芸出版において、植竹とこの二社の大いなる貢献をあらためて実感させられる。私も以前に昭和初年の日月社のハヴェロック・エリスの『性の心理』を何度か取り上げているが、この日月社は実質的に別会社だと見なしていいだろう。

大正期の文芸叢書 性の心理(『性の心理』、未知谷版)

さらに硨島はこれらの叢書だけでなく、植竹書院の翻訳部主幹を務めていた鈴木悦による翻訳叢書「植竹文庫」にも言及し、それらの既刊書目四冊を記している。そして宇野浩二広津和郎も総動員されたトルストイの『戦争と平和』全訳もこの「文庫」から刊行予定だったと考えられ、それが実現しなかったのは、大正五年に植竹書院が廃業してしまったためではないかとも述べていた。なお鈴木悦のことは植竹書院時代も含め、瀬戸内晴美『田村俊子』(角川文庫)にその死までが描かれている。
田村俊子

さて話を戻し、その既刊四冊を示す。それらはアルツイバシエヴ、武林無想庵訳『サニン』、ロンブロオゾオ、辻潤訳『天才論』、ドストエフスキイ生田長江・生田春月訳『罪と罰』、トルストイ、相馬御風・相馬泰三訳『復活』で、大正三年から四年にかけて出されている。

このうちの『天才論』と『罪と罰』を所持しているが、それらは「植竹文庫」版ではなく、前者は大正十五年の春秋社版、後者は大正十一年第一版、同十五年第六版の三星社出版部版である。春秋社版『天才論』のことは別の機会に譲り、ここでは『罪と罰』、それもその後の出版事情にふれてみたい。硨島は植竹書院廃業後に出版物がたどった推移について、次のように記している。

 この「植竹文庫」は他の植竹書院の叢書と同じく、三陽堂書店や三星社出版部、東光社出版部(どれも同じ経営者)から再版が刊行され、昭和に入ってからは成光館(もしくは成光館出版部)や金鈴社から再刊されるなど、広く読まれた。時に『サニン』と『天才論』は後に改造社改造文庫に収められ、さらに普及することとなった。

この硨島の指摘と同様に、紅野も『大正期の文芸叢書』において、「現代傑作叢書」のところで、大正五年頃に「版権を簗瀬富次郎の営む三陽堂(本郷区駒込林町二三七)に譲り、これらの叢書は三陽堂版としても刊行され」、それに際して装丁が改変されただけでなく、函がついたのではないかとも推測している。そして大正時代を経るに従って、三陽堂から東光堂出版部、三星社と移行していったと述べ、「この叢書のすべてが、そのように移行していったかどうかはまだ確かめていない。この種のことはまことに厄介な、追求の出来にくいことでもある」と結んでいる。なお紅野のいう東光堂出版部は、東光社出版部の誤記と思われるので、以下は東光社で統一しておく。

紅野の証言は硨島の言及の前半とまったく符合するもので、植竹書院廃業後の出版物の行方がここに示されているといっていい。本連載の読者であれば、これらの事情と販売ルートは連載194209214で既述しているので、すでにおわかりと思うが、こうした植竹書院廃業後の出版部の推移は、在庫と紙型がそのまま出版業界のバックヤードを形成する数物屋、見切屋本屋である特価本業界に売られたことを意味している。

すでに記した成光館や金鈴社に関しては繰り返して言及しないが、三星社と東光社についてはここでふれておくべきだろう。硨島の言によると、両社は同じ経営者とあるので、その発行者は『罪と罰』の奥付に記載された近田澄と考えていい。しかし残念なことに数物屋、見切本屋業界の通史である『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』の本文や資料部分に、三星社、東光社、近田澄の名前は見当らないし、それは三陽堂と簗瀬富次郎も同様である。

ただ近田の名前だけは本文ではなく、引用文の中に一ヶ所だけ見出された。それは小川菊松の『出版興亡五十年』における「円本流行の経緯とその末路」に関する引用部分で、「世界美術全集(平凡社)十万部を近田澄氏が十一銭で引き取つた」とあった。河野書店や春江堂と並んで、近田の名前が挙がっていることからして、当時彼がこの業界の有力者であったと見なせるだろう。
出版興亡五十年

だがその後、近田はこの仕入れが失敗に終わったのかもしれず、退場してしまったとも考えられる。だから名前が見当たらないのではないだろうか。それは簗瀬も同様で、そうした事情ゆえに、植竹書院の出版物の版権と紙型は大正時代に三陽堂から東光社、三星社に転売されたように、さらに昭和に入って成光館や金鈴社へと移っていったのではないだろうか。しかしそのようなかたちであっても、常に重版され続け、読者の途切れることがなかったので、『サニン』や『天才論』は再び出版社・取次・書店で形成される近代出版業界に戻り、最終的に改造文庫に収録されるに及んだのであろう。

最後にこの『罪と罰』の翻訳に関する宇野の「文学の三十年」などにおける証言を引いておけば、この生田長江と生田春月の共訳は、生田春月と秦豊吉の共訳であり、そのことについて植竹書院版には付されていたらしい「序文」で、生田が前編を自分が担当し、後編は秦がやったが、それは拙速で悪訳だと書いているという。ここに秦豊吉、後の丸木砂土の名前が出てくるのは意外でもあるが、このようにして昭和円本時代の翻訳者人脈も形成されていったと思われる。また早稲田人脈を中心にして進められた「植竹文庫」のトルストイやドストエフスキイ翻訳の試みをベースにして、直木三十五による春秋社の『トルストイ全集』や冬夏社の『ドストエフスキー全集』の二大企画へと結実していったのであろう。前者に関しては拙稿「春秋社と金子ふみ子『何が私をかうさせたか』」(『古本探究』所収)でもふれていることを付記しておく。
古本探究
なお硨島が伝えているところによれば、植竹書院廃業後、植竹喜四郎は歌人岸良雄として活躍し、歌誌を主宰し、歌壇で後進の育成に当たったという。またその後判明した事実も含め、三陽堂、東光社、三星社に関しては稿をあらためたい。

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