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混住社会論128 邱 永漢『密入国者の手記』(現代社、一九五六年)



太平洋戦争における日本の敗戦とGHQによる占領が強制的といっていい混住社会を出現させたことに関して、本連載でも繰り返しふれてきた。しかしそれは日本ばかりでなく、その混住の位相は異なっていても、日本の植民地でも起きていた現実に他ならない。例えば、それは台湾も同様であった。戦前の台湾については本連載104105で取り上げてきたが、ここでは同106に続いて、戦後の台湾を見てみたい。そこではどのような状況が出来していたのか。

その前に伊藤潔の『台湾』(中公新書)などを参照し、台湾の歴史をトレースしておこう。十六世紀半ばにポルトガル人によって発見された台湾は、全域に及ぶ多様なマレー・ポリネシア系の先住民(現在では高山族、日本占領下では高砂族)とわずかな漢族系の移民からなる島国だった。なお先住民に関しては、本連載104「ウェイ・ダーション『セデック・パレ』」において、すでに言及しているので、そちらを参照されたいが、その後彼らはアメリカ大陸の先住民インディアンやインディオと同じ運命をたどることになる。
台湾 セデック・バレ

その始まりは十七世紀前半におけるオランダの台湾占領で、それは意外にも先住民や移住民の抵抗を受けず、むしろその協力を得て、オランダはただちにゼーランジャ城とプロビンシャ城の二つの城塞を築いた。プロビンシャ城は今日の台南市の発展の基礎となり、この城塞を中心にオランダの支配地域は拡大していった。それとパラレルに先住民は初めて支配される立場に追いやられ、自由な天地を失ってしまった。そのために先住民の抵抗と蜂起も数多く生じた。オランダの支配はキリスト教による教化と武力による鎮圧だったが、宣教師たちが最初に台湾にキリスト教とヨーロッパ文化をもたらしたことも事実である。その一方で、オランダは先住民の土地と移住民の労働力によって莫大な利益を上げ、中継貿易でも暴利をむさぼり、すべての土地をオランダ連合軍インド会社の所有とし、農業開発を推進し、とりわけ砂糖きびのプランテーションを通じて、砂糖産業を育成し、その後三百年に及ぶ重要な輸出物へと成長させた。

オランダの台湾支配時代にあって、中国の明王朝は清王朝に取って代わられようとしていた。明王朝は東アジア海域に勢を張る海賊の頭領の鄭芝竜を招撫し、その軍事力と資本力に期待をかけた。鄭芝竜は日本人女性との間に、後に名を成功と改める長男の鄭森をもうけた。鄭成功は明王朝再興実現のために、台湾を侵攻し、オランダの三十八年にわたる台湾支配に終止符が打たれた。鄭氏政権下の台湾はオランダ所有の土地を没収し、新政権のものとなし、新たな農地開発と土地の私有制度を導入するに至る。鄭成功は台湾に到着して一年足らずのうちに亡くなるが、その重臣陳 栄華が台湾経営を引き継ぎ、統治の基本となる行政機構と制度を整え、住民教育や海外貿易も進めた。

しかし清王朝は反清復明を国是とする台湾の鄭政権の存続を認めず、鄭氏を裏切った施琅に台湾を攻略させ、二十三年間の鄭氏政権は幕を閉じ、清国は台湾領有の詔勅を下す。それは一六八四年で、その後二一二年にわたって続くことになる。ただ清国の台湾経営は消極的で、治安維持に重点がおかれたのも、風土病の蔓延、毒蛇の棲息といった生活環境、「五年一大乱三年一小乱」という多くの移住民による武力蜂起や騒擾事件のためだった。だがその後、阿片戦争の余波を受け、欧米列強へと開放されていき、日本も台湾進出を目論んだ。

日本は一八七四年の台湾出兵を経て、九五年に日清講和条約締結後に台湾を占領した。当時の台湾人は先住民四五万、移住民二五五万の三〇〇万人と推定され、先住民、移住民の双方が日本の占領に対して激しく抵抗し、日本軍戦死者が二七八名だったことに比べ、台湾側の戦死者と殺戮された者は一万四〇〇〇人に及び、まさに玉砕戦の様相を呈していた。武器らしき武器もなかった台湾側は日本軍の近代的兵器の前に敗れるしたかなかったのである。そして日本の台湾統治が始まっていく。ただ権力を集中させた台湾総督府にとっても、武力抵抗に対する鎮圧は困難を極めたようだ。だがそれは台湾人の日本国籍化の選択、台湾総督府民政局長後藤新平による「生物学的植民地経営」に基づく台湾財政の独立と統治の確立を通じて、つまりアメとムチを併用することで、武力抵抗を終息させていった。

またその一方で、学校教育の普及、インフラの整備、産業の振興が推進され、二〇世紀に入ると、台湾は目覚ましい産業の発展によって財政の独立をも達成するに至り、植民地の鏡のような存在となった。一九一九年に落成した台北の台湾総督府はそれらを象徴するものだった。しかし四一年の太平洋戦争の始まりによって、日本の植民地である台湾も否応なく戦時体制となり、台湾人の「皇民化」、台湾産業の「工業化」、台湾を東南アジア進出基地とする「南進基地化」が当地の基本政策となった。だがそれらも日本の敗戦で大転換を迫られることになった。それは在台湾の軍人も含めた約五〇万人の日本人も同様で、そのうちの四六万人が本土に引き揚げ、台湾総督府も廃止され、四六年に日本の台湾統治は終わりを迎えたのである。

これに代わって、台湾は蒋介石の国民党軍により占領され、すべての土地を住民は中華民国国民政府(国民党政権)の主権下に置かれることになった。そして台湾は「祖国」に復帰し、台湾人の国籍は中華民国となり、「本省人」と称され、中国から新たに渡ってきた中国人は「外省人」と区別された。国民党政権は台湾占領により、領土と莫大な財産を手中にし、日本の統治機構を継承し、それらは数年後の政権の中国からの台湾移転を可能とする棚ボタ式恩寵ともいえた。

しかし新たな統治者となった国民党政権の独裁、官僚の汚職や着服の横行、特務による監視網、経済破綻と社会混乱は台湾人の怒りと不満を招いた。それは四七年の「二・二八事件」へと突出する。台湾人寡婦が密輸タバコを売っていたところ、取締員がタバコだけでなく、所持金まで没収し、しかも殴打され、血を流して倒れたことから、群衆が憤激し、取締員たちを攻撃した。すると取締役が発砲し、一市民が即死するに及んだ。それを機にして、群衆が抗議デモを行なうと、憲兵が機関銃で掃射し、数十人の死傷者が出る惨事となったことで、台北の市民が立ち上がり、市中は騒然となった。それに対し、警備総司令部は台北市に戒厳令を出したが、抗議と騒動は全台湾に及び、国民党政権への不満と怒りが爆発したのである。憲兵隊や警察の発砲による鎮圧は事態をさらに悪化させるばかりだった。

台湾人側からなる事件処理委員会は官僚汚職と政治改革の実現をめざしていたが、国民党政権は中国から増援部隊を呼び寄せ、台湾人の無差別殺戮と粛清に取りかかり、一ヵ月余の間に殺害された台湾人は二万八〇〇〇人に及んだという。台湾人の指導者や知識人はほとんどが殺害されたり、長期にわたって投獄されてしまった。「二・二八事件」にふれることはタブーとなり、国民党一党独裁と蒋家の支配体制と戒厳令が八〇年代後半にまで続いていくのである。

台湾の近世、近代史を簡略にたどるつもりだったけれど、オランダに始まり、鄭氏政権、清国、日本と続き、そして戦後の国民党政権に至るまでの四百年近くに及ぶ植民地化と統治、占領は、日本のアメリカによる七年間の占領の比ではなく、つい長くなってしまった。それは先住民と移住民からなる台湾人の反乱と蜂起、抵抗と粛清の歴史でもあったからだ。

このような台湾近代史とパラレルに生きた一人が邱永漢で、彼は一九二四年台湾に生まれ、台北高校を経て、東大経済学部に入り、日本が敗戦した四五年九月に卒業し、大学教授になるつもりだったので、そのまま大学院に進んだ。ところが四六年二月、台湾に日本人復員者や引揚者を迎えにいく船が出るので、再び日本の土を踏むことができるだろうかと思いながらも、邱は両親のもとに帰ることになった。それは日本の戦後の惨状と占領下の現実を見ていたからだ。その日本に比べ、台湾は希望の地に見えたのである。邸は『私の金儲け自伝』(PHP文庫)の中で、その時の思いとそれに続く「純真な気持ちをもった青年にとって、あまりに見るに耐えない現実」について書いている。

 台湾に帰るとき、私は「これで台湾も植民地統治から解放された」から「自分たちの新天地をつくることができるぞ」という意気込みだったが、実際は植民地解放どころか、日本時代よりもっとタチの悪い腐敗と恐怖の支配者が大陸からやってきていた。国民政府が派遣してきた陳儀の政府は史上稀に見る恥知らずの汚職官吏の集まりであり、のちに陳儀自身が中共に寝返りを打ちそこなって蒋介石に処刑されている。

帰国後、そのような状況において、邱は紀伊國屋文左衛門ばりの生き方を選ぼうとし、当時貴重品だった砂糖の漁船での日本への密輸を試みたが、三回も失敗し、なけなしの金を失ってしまった。それで生活の糧を得るために銀行に勤めた。そこに「二・二八事件」が起きたのである。邱は事件に直接関わっていなかったので、殺されずにすんだけれど、台湾の東大仲間三人が殺されていたこともあり、その後、彼は香港から国連に宛てて「台湾に国民投票を実施するための請願書」を出した。それは世界各地に報道され、台湾でも無視できないニュースになり、しかも台湾からきた銀行関係の人間が書いたものだという噂が伝わり始めた。邱は身の危険を感じ、金を工面し、四八年十月に香港へと逃れた。その翌日に警備司令部の捜査員がやってきたことからすれば、間一髪で命拾いをしたことになる。それから彼は香港で六年間暮らし、A級国事犯とされ、亡命者として台湾へも帰れない身となったのである。

そして邱は香港で「金儲け」に携わる一方で、戦後の体験に基づき、小説を書き始める。「私は、戦後の台湾に二年、香港に六年も住み、ふつうの日本人には想像もできないような異常な体験を積んだので、体験を一種の貯金と考えれば、相当の文学的貯金を持っていた」ことにも起因している。それもあって、五四年に日本へと向かい、小説家としての生活を送り始める。香港での体験は『香港』(近代生活社)として結実し、直木賞を受賞するに至る。台湾の「二・二八事件」は『密入国者の手記』『濁水渓』(現代社)、『刺竹』(清和書院)などで様々に変奏されて描かれ、台湾の戦後ならではの社会状況と光景を浮かび上がらせることになる。
香港 濁水渓 刺竹

ここでは前々回「戦争花嫁」に言及し、また邱の砂糖をめぐる仕事にもふれたので、『密入国者の手記』に収録された五編の作品のうちの、最も短いものではあるけれど「敗戦妻」を取り上げてみよう。これは同書の「検察官」などの「二・二八事件」をテーマにした作品ではないが、台湾の戦後と日本の敗戦が交錯し、ありえたであろう「敗戦妻」の存在を描き出している。

この短編は四五年末から翌年にかけての徐義新の回想からなり、当時は花形である砂糖のブローカーをしていた。砂糖の産地は台中から高雄にかけての台湾中南部地帯だが、その中でも嘉義平野が宝庫といってよく、莫大な砂糖が製糖会社の倉庫だけでなく、田舎地主の穀物倉庫にまで堆く積まれたままで終戦を迎えていた。戦後砂糖一斤は野菜一斤より安いという奇現象を呈していたが、そこへ上海商人が買い付けに押し寄せたことで、砂糖の値段は鰻上りとなり、北部と南部とでは砂糖の相場に開きができていた。

そうした戦後の砂糖ブローカーとして義新は安い砂糖を求め、月に何度も嘉義まで降りてきていた。そのパターンは夜明けに嘉義駅で降り、旅館を陣拠とし、砂糖を現金で買い付け、それを積んだ貨車に乗りこみ、台北まで運ぶというものだった。ある時、義新は下り列車の中で中年の商人と隣席になり、嘉義の旅館はきたなくて、いつも大入満員だとこぼしたところ、その商人は嘉義で一度も旅館に泊まったことがなく、「旅館よりも清潔で、きれいな日本人の女までいる所」に泊まると応じた。そして「生活に困った日本人が考えだしたものでしょうが、旅館と同じだけの金を出すと、女がいて適当に賄ってくれる。旅先にいながら、まるで家にいるようで、女もなかなか親切ですよ。しばらくいると、だんだん帰りたくなくなります」と続けていた。

義新にとっては耳寄りな話で、彼にその紹介を頼むと、名刺にそれを書きこんでくれた。そこで嘉義駅に着くと、人力車で教えられた番地をめざした。そこは「公学校らしい建物の見える付近に、ぽつぽつと焼け残りの日本家屋が並んでいる」一帯にあった。ただどの表札も「本島人名前」に変っていて、それは家屋の接収にくる中国人の目を避けるためだと思われた。

仲介役の中年の「日本人の小母さん」は義新の喋る日本語が流暢だったことからか、好意的で一戸建の三間の小さな家に案内してくれた。そこには丸顔で色白の可愛らしい目つきの二十一、二歳ぐらいの南美子という女がいて、彼の知っている女の子にはっとするほどよく似ていた。彼女は通学途中のところに住んでいた、おそらく総督府に勤めていた内地人の娘で、名前も知らなかったが、道で顔を合わせているうちに笑顔を見せるようになり、彼はひそかに恋するようになった。もちろん「彼の恋は単なる独りよがりで、自分でも片思いが遂げられるとは思ったことがない。たとえてみれば、お伽噺の中で、王女様に恋する黒人の奴隷のような気持」だったのである。

だが南美子のほうは台湾生まれの内地人で、日本が戦争で敗けたことで「王女様」のようではなく、とても「哀れっぽい顔」をしていた。彼はそれを気の毒だと思いながらも、「敗戦は不思議な効果」をもたらすと考えた。彼が仕事を終えて帰ると、すでに夕食の用意ができていて、彼女は風呂で彼の体をも流してくれが。話からすると、どうも彼女の両親も不慮のうちにあるようなのだ。

 いずれ金に困ったのでなければ、こんな暮しをやらないにきまっている。戦争が終わってからはなにもかも逆になってしまったのだ。本島人の上に君臨していた内地人は同じ役所に勤めても、本俸の上に六割の加給がついており、ある年限がくれば恩給で安易な老後を送ることができた。(……)この五十年来、台湾は日本人にとって文字どおりの楽園であった。それが敗戦によって逆転してしまったのである。金のある連中は家財道具を売って暮らす手もあるが蓄えのない連中はその日の生活にも困るようになってしまった。街を歩くと道端で物売りをしている日本人がたくさんいる。それらの人々のなかでも、南美子の一家はおそらく最も悲惨な境遇に追いつめられたのであろう。

そのような事情ゆえに、引揚げの船を待ちながら、家族を養うために、南美子は私設旅館と娼婦を兼ねる仕事を始めていたと推測できるのだが、義新にとっては「長いあいだの夢が実現」したことになる。彼女と一緒の嘉義滞在生活は「まるで新婚家庭のような、新鮮な空気が家の中に溢れていた」からだ。そして二人は初恋の人のことを語り合う。南美子の初恋の人は台北大学の学生で、台北空襲で死んでいた。

しかし半月後に義新が嘉義にやってきた時、その家に南美子の姿はなかった。内地へ引き揚げたと隣家の者から聞かされた。彼は彼女との短かった生活が紛れもない敗戦がもたらした不思議な「蜜月」だったと思うのだった。この作品を読み終えると、あらためて「敗戦妻」というタイトルがリアルに迫ってくるのである。

なお「敗戦妻」が収録された『密入国者の手記』のテキストは、一九七二年に刊行された徳間書店の『邱永漢自選集』第1巻所収によった。
密入国者の手記

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」127  宮内勝典『グリニッジの光りを離れて』(河出書房新社、一九八〇年)
「混住社会論」126  江成常夫『花嫁のアメリカ』(講談社、一九八一年)と有吉佐和子『非色』(中央公論社、一九六四年)
「混住社会論」125  トシオ・モリ『カリフォルニア州ヨコハマ町』(原書一九四九年、毎日新聞社一九七八年)
「混住社会論」124  スティーヴン・グリーンリーフ『探偵の帰郷』(早川書房、一九八五年)とリチャード・ピアス『カントリー』(ポニー、一九八四年)『アメリカ教育使節団報告書』(一九四六年、講談社学術文庫、一九七九年)
「混住社会論」123  『アメリカ教育使節団報告書』(一九四六年、講談社学術文庫、一九七九年)
「混住社会論」122  カムマーン・コンカイ『田舎の教師』(勁草書房、一九八〇年)
「混住社会論」121  谷恒生『バンコク楽宮ホテル』(講談社、一九八一年)
「混住社会論」120  矢作俊彦『THE WRONG GOODBY ロング・グッドバイ』(角川書店、二〇〇四年)
「混住社会論」119  スタインベック『怒りの葡萄』(原書、一九三九年、第一書房、一九四〇年)とピエトラ・リボリ『あなたのTシャツはどこから来たのか?』(東洋経済新報社、二〇〇七年)
「混住社会論」118  ゾラ『大地』(原書、一八八七年、論創社、二〇〇五年)と長塚節『土』(春陽堂、一九一二年)
「混住社会論」117  渡辺京二『逝きし世の面影』(葦書房、一九九八年)と久米邦武編『特命全権大使 米欧国回覧実記』(新橋堂、一八七八年)
「混住社会論」116  ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』(原書、一八八三年、論創社、二〇〇二年)
「混住社会論」115  M・M・ジンマーマン『スーパーマーケット』(経済界、一九六二年)
「混住社会論」114  『大和ハウス工業の40年』(同編集委員会、一九九五年)
「混住社会論」113  安土敏『小説スーパーマーケット』(日本経済新聞社、一九八一年)とテーラー『科学的管理法』(産業能率短期大学出版部、一九六九年)
「混住社会論」112  藤田 田『ユダヤの商法』(KKベストセラーズ、一九七二年)と『日本マクドナルド20年のあゆみ』(同社、一九九一年)
「混住社会論」111  ジョージ・リッツア 『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版部、一九九九年)
「混住社会論」110  藤原伊織『名残り火』(文藝春秋、二〇〇七年)
「混住社会論」109  ピエール・ブルデュー『住宅市場の社会経済学』(藤原書店、二〇〇六年)と矢崎葉子『それでも家を買いました』(大田出版、一九九〇年)
「混住社会論」108  庄野潤三『夕べの雲』(講談社、一九六五年)
「混住社会論」107  宮部みゆき『理由』(朝日新聞社、一九九八年)
「混住社会論」106  黄 春明『さよなら・再見』(めこん、一九七九年)
「混住社会論」105  日影丈吉『内部の真実』(講談社、一九五九年)
「混住社会論」104  ウェイ・ダーション『セデック・バレ』(マクザム+太秦、二〇一一年)
「混住社会論」103  松本健一『エンジェル・ヘアー』(文藝春秋、一九八九年)
「混住社会論」102  村上春樹『羊をめぐる冒険』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」101  赤坂真理『ヴァイブレータ』(講談社、一九九九年)
「混住社会論」100  中上健次『日輪の翼』(新潮社、一九八四三年)
「混住社会論」99  多和田葉子『犬婿入り』(講談社、一九九三年)
「混住社会論」98  本間洋平『家族ゲーム』(集英社、一九八二年)
「混住社会論」97  黒岩重吾『現代家族』(中央公論社、一九八三年)
「混住社会論」96  近藤ようこ『ルームメイツ』(小学館、一九九七年)
「混住社会論」95  鎌田敏夫『金曜日の妻たちへ』(角川文庫、一九八五年)
「混住社会論」94  山田太一『岸辺のアルバム』(東京新聞社、一九七七年)
「混住社会論」93  小島信夫『抱擁家族』(講談社、一九六五年)と『うるわしき日々』(読売新聞社、一九九七年)
「混住社会論」92  佐藤洋二郎『河口へ』(集英社、一九九二年)
「混住社会論」91  佐藤泰志『海炭市叙景』(集英社、一九九一年)
「混住社会論」90  梶山季之『夢の超特急』(光文社カッパノベルス、一九六三年)
「混住社会論」89  岩瀬成子『額の中の街』(理論社、一九八四年)
「混住社会論」88  上林暁『武蔵野』(現代教養文庫、一九六二年)島田謹介『武蔵野』(暮しの手帖社、一九五六年)
「混住社会論」87  徳富蘆花『自然と人生』(民友社、一九〇〇年)と『みみずのたはこと』(新橋堂、一九〇七年)
「混住社会論」86  佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮社、一九一九年)と『都会の憂鬱』(同前、一九二三年)
「混住社会論」85  『東京急行電鉄50年史』(同社史編纂委員会、一九七二年) 『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」84  『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」83  谷崎潤一郎『痴人の愛』(改造社、一九二五年)
「混住社会論」82  三浦朱門『武蔵野インディアン』(河出書房新社、一九八二年)
「混住社会論」81  大岡昇平『武蔵野夫人』(講談社、一九五〇年)
「混住社会論」80  国木田独歩『武蔵野』(民友社、一九〇一年)
「混住社会論」79  水野葉舟『草と人』(植竹書院、一九一四年、文治堂書店、一九七四年)
「混住社会論」78  小田内通敏『帝都と近郊』(大倉研究所、一九一八年、有峰書店、一九七四年) 『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」77  『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」76  『宝塚市史』(一九七五年)と『阪神間モダニズム』(淡交社、一九九七年)
「混住社会論」75  小林一三『逸翁自叙伝』(産業経済新聞社、一九五三年)と片木篤・藤谷陽悦・角野幸博編『近代日本の郊外住宅地』(鹿島出版会、二〇〇〇年)
「混住社会論」74  柳田国男『明治大正史世相篇』(朝日新聞社、一九三一年)と山口廣編『郊外住宅地の系譜』(鹿島出版会、一九八七年)
「混住社会論」73  柳田国男『都市と農村』(朝日新聞社、一九二九年)
「混住社会論」72  内務省地方局有志『田園都市と日本人』(博文館一九〇七年、講談社一九八〇年)
「混住社会論」71  ローラン・カンテ『パリ20区、僕たちのクラス』(ミッドシップ、二〇〇八年)とフランソワ・ベゴドー『教室へ』(早川書房、二〇〇八年)
「混住社会論」70  マブルーク・ラシュディ『郊外少年マリク』(集英社、二〇一二年)
「混住社会論」69  『フランス暴動 階級社会の行方』(『現代思想』二〇〇六年二月臨時増刊、青土社)
「混住社会論」68  ディディエ・デナンクス『記憶のための殺人』(草思社、一九九五年)
「混住社会論」67  パトリック・モディアノ『1941年。パリの尋ね人』(作品社、一九九八年)
「混住社会論」66  ジャン・ヴォートラン『グルーム』(文春文庫、二〇〇二年)
「混住社会論」65  セリーヌ『夜の果ての旅』(原書一九三二年、中央公論社、一九六四年)
「混住社会論」64  ロベール・ドアノー『パリ郊外』(原書一九四九年、リブロポート、一九九二年)
「混住社会論」63  堀江敏幸『郊外へ』(白水社、一九九五年)
「混住社会論」62  林瑞枝『フランスの異邦人』(中公新書、一九八四年)とマチュー・カソヴィッツ『憎しみ』(コロンビア、一九九五年)
「混住社会論」61  カーティス・ハンソン『8Mile』(ユニバーサル、二〇〇二年)と「デトロイトから見える日本の未来」(『WEDGE』、二〇一三年一二月号)
「混住社会論」60  G・K・チェスタトン『木曜の男』(原書一九〇八年、東京創元社一九六〇年)
「混住社会論」59  エベネザー・ハワード『明日の田園都市』(原書一九〇二年、鹿島出版会一九六八年)
「混住社会論」58  『日本ショッピングセンターハンドブック』と『イオンスタディ』(いずれも商業界、二〇〇八、〇九年)
「混住社会論」57  ビクター・グルーエン『ショッピングセンター計画』『都市の生と死』(いずれも商業界、一九六九、七一年)
「混住社会論」56  嶽本野ばら『下妻物語』(小学館、二〇〇二年)
「混住社会論」55  佐伯一麦『鉄塔家族』(日本経済新聞社、二〇〇四年)
「混住社会論」54  長嶋有『猛スピードで母は』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」53  角田光代『空中庭園』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」52  宮沢章夫『不在』(文藝春秋、二〇〇五年)
「混住社会論」51  吉本由美『コンビニエンス・ストア』(新潮社、一九九一年)と池永陽『コンビニ・ララバイ』(集英社、二〇〇二年)
「混住社会論」50  渡辺玄英『海の上のコンビニ』(思潮社、二〇〇〇年)
「混住社会論」49  いがらしみきお『Sink』(竹書房、二〇〇二年)
「混住社会論」48  佐瀬稔『金属バット殺人事件』(草思社、一九八四年)と藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、一九八三年)
「混住社会論」47  山本直樹『ありがとう』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」46  重松清『定年ゴジラ』(講談社、一九九八年)
「混住社会論」45  ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1