本連載916で、マリノウスキーの『未開人の性生活』も新泉社から刊行されていることにふれたが、実はこれも復刊なのである。それも元版は戦前ではなく、戦後の昭和三十二年に河出書房の、『世界性学全集』第九巻として、泉靖一、蒲生正男、島澄の共訳で出されている。同書はマリノウスキーがニューギニアのトロブリアンド諸島における二年間のフィールドワークを通じて、その未開人の性生活を分析し、記録した一冊である。この出版に関して、泉の復刊「はしがき」は、この全集が全十二巻だという事実誤認などを含んでいるので、新泉社の「叢書文化の復興」と同様に、戦後の刊行だけれど、ここでふれておきたい。
まずその全巻リストを挙げてみる。
1 エリス | 『性の心理学的研究』 | 斎藤良象他訳 |
2 フロイト | 『性と精神分析』 | 井村恒郎他訳 |
3 クラウス | 『日本人の性生活』 | 安田一郎訳 |
4 シュトラッツ | 『女体の美』 | 高山洋吉訳 |
5 ヒルシュフェルト | 『戦争と性』 | 高山洋吉訳 |
6 シュテーケル | 『女性の冷感症』 | 松井孝史訳 |
7 クラフト=エビング | 『変態性欲心理学』 | 平野威馬雄訳 |
8 ヴァンデヴェルデ | 『完全なる結婚』 | 柴木豪雄訳 |
9 マリノウスキー | 『未開人の性生活』 | 泉靖一他訳 |
10 ディキンスン | 『人体性解剖学図譜』 | 古沢嘉夫訳 |
11 ハイムズ | 『受胎調節の歴史』 | 古沢嘉夫訳 |
12 エクスナー他 | 『結婚の性的面・性の倫理』 | 青木尚雄訳 |
13 性問題研究会編 | 『東洋性典集』 | 樋口清之訳 |
14 ブロッホ | 『性愛の科学』 | 谷崎英男訳 |
15 ワイニンガー | 『性と性格』 | 村上啓夫訳 |
16 モル他 | 『性と芸術』 | 斎藤良象訳 |
17 リンゼルト | 『欲情の科学』 | 高山洋吉訳 |
18 ウルヘン | 『犯罪と性』 | 井上泰宏訳 |
19 ストープス | 『女体の結婚生理』 | 青木尚雄他訳 |
20 ウィーン性科学研究所編 | 『性学事典』 | 高橋鐵訳 |
このようにあらためてリストアップしてみると、それぞれの例は挙げないけれど、著者、著作、訳者の半数近くを本連載で言及してきたことに気づくし、この『世界性学全集』が近代における性学の総集編的性格を帯びているとわかる。しかもその四大特色のひとつに示されているように、「古典としての評価高い世界的名著」が選ばれ、マリノウスキーの著作もその一冊として選ばれたことになる。ただ例によって、河出書房も全出版目録や社史を刊行していないので、その企画の詳細な事情や経緯は明らかではない。それでも第二十巻『性学事典』の「あとがき」が「『世界性学全集』全二十巻完結に際して」とあり、次のような説明がなされていた。
『世界性学全集』は故永井潜博士の御構想の下に昭和三十一年四月、計画に着手し、同年七月には早くも第一回配本の刊行を見、その後、着々と進行し、ついに昭和三十三年五月に全二十巻の完成を見るに至った。
この間、この完成を見ずして永井潜博士は病臥し、この完成を我々編集委員一同に託しながら永眠されたのである(後略)。いままで科学的にして総合的な性の科学全書がなかっただけに、われわれ編集委員としても、かかる完成を「一応」世に贈ることができたことを喜ぶととともに、一般人への性の正しい啓蒙書として寄与できたことを確信している次第である。
ここで挙げられている『世界性学全集』を構想した永井潜は、『現代人名情報事典』によれば、明治九年生れの生理学者、優生学者で、東京帝大や台北帝大医学部教授を務め、生理学に物理科学の実験技術と理論を導入したとされ、確かに全集完結の前年の昭和三十二年に亡くなっている。また「われわれ編集委員」とは望月衛、古沢嘉夫、篠崎信男、谷内辰樹、青木尚雄で、『世界性学全集』は「日本性学会々長永井潜監修/性問題研究会編集」と銘打たれているので、永井を会長とする日本性学会という学術団体が存在し、その中にこれらの五人を中心として性問題研究会があったとわかる。そのうちの望月は心理学者で、昭和三十年のベストセラー『欲望』(カッパ・ブックス)の著者である。古沢と青木は前掲のように、『世界性学全集』10、11、19の訳者で、前者は産婦人科医、後者は人工問題研究所の科長である。
ただ望月の『欲望』のベストセラー化で想起されるのは、昭和三十五年刊行の謝国権『性生活の知恵』(池田書店)のことで、これは何と百五十万部のベストセラーに及んでいる。その事実を考えると、『世界性学全集』が「一般人への性の正しい啓蒙書として寄与できた」かは疑わしいにしても、まさに「性の正しい啓蒙書として」の『性生活の知恵』の企画とベストセラー化の露払いの役目を果たしたことは確かなように思われる。
ここでマリノウスキーの『未開人の性生活』の新泉社復刻版に戻ると、河出書房版がB6版だったことに対し、A5判で挿入写真も拡大されたことで、人類学の古典としてのリーダブルな風格を付与されている。それにおそらく河出書房版と異なり、昭和四十六年の復刊は順調に版を重ねたようで、手元にあるのは五十六年新装版第三刷とある。それは昭和四十年代におけるレヴィ=ストロースの『野生の思考』(大橋保夫訳、みすず書房)を始めとする構造人類学の台頭とリンクしているのだろう。
さらに付け加えておけば、『世界性学全集』は第一巻が河出書房、第二十巻が河出書房新社とあるように、刊行中に破綻し、新社として再建に至というプロセスをたどっている。そうしたアクシデントや、先述した『世界性学全集』の著作の性格と内容からしても、ロングセラーとならなかったのは確実で、『未開人の性生活』のように昭和四十年代に入っての再評価を待たなければならなかったのである。
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