出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

30 日本における日系ブラジル人

◆過去の「謎の作者佐藤吉郎と『黒流』」の記事
1 東北書房と『黒流』
2 "> アメリカ密入国と雄飛会
3 メキシコ上陸とローザとの出会い
4 先行する物語としての『黒流』
5 支那人と吸血鬼団
6 白人種の女の典型ロツドマン未亡人
7 カリフォルニアにおける日本人の女
8 阿片中毒となるアメリカ人女性たち
9 黒人との合流
10 ローザとハリウッド
11 メイランの出現
12『黒流』という物語の終わり
13 同時代の文学史
14 新しい大正文学の潮流
15 『黒流』の印刷問題
16 伏字の復元 1
17 伏字の復元 2
18 ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』
19 モーパッサン『ベラミ』
20 ゾラ『ナナ』
21 人種戦としての大衆小説
22 東北学院と島貫兵太夫
23 日本力行会とは何か
24 日本力行会員の渡米
25 アメリカと佐藤吉郎
26 ナショナリズム、及び売捌としての日本力行会
27 『黒流』のアメリカ流通
28 浜松の印刷所と長谷川保
29 聖隷福祉事業団と日本力行会



30 日本における日系ブラジル人

日本力行会の海外発展運動は永田稠の南米視察を機にして、ブラジルに向かい、永田の出身地で信濃海外協会を設立し、資金を募り、サンパウロ州のアリアンサに五千五百歩という広大な土地を購入し、密林を開拓し、農業を主とする移民が活発になった。アリアンサ移住地を中心として日本人の移民地は広がり、ブラジル各地に及んでいくことになる。

そして戦後になっても力行会からのブラジル移民は続いたが、GNPが世界第二位となった昭和四十年代になると激減する。私見によれば、戦後の日本社会は四十年代後半に第三次産業人口が五〇%を超える消費社会となり、そこで日本の近代は終焉し、現代を迎えたのである。移民もまた近代のドラマであったゆえに、現代を迎え、その役目を終えたと考えられる。もはや農業を主とする移民の時代ではなく、海外放浪の旅の舞台、もしくは企業進出と輸出市場の開拓地となりつつあった。

ちなみに海外各地に多くの会員を有する日本力行会の現在の事業は、力行幼稚園と海外からの日本留学生などの宿舎である力行会館の経営、及び力行キリスト教会が中心となり、新たな事業の創業、検討が行なわれているという。それでも戦前からのブラジル移住者は力行会員だけでも三千人近くに及び、その子孫も合わせると一万余人になり、合計すると日系人は八十万とも百二十万人ともいわれている。

さてこのような日系ブラジル人の数字を挙げたのは一九九〇年代になって、他ならぬこの日系ブラジル人たちがかつてとは逆に日本へと向かい、現在では地方自治体によっては、人口の数パーセントから十パーセント以上に及ぶ市や町もめずらしくなくなってきたからだ。それは移民者の子孫たちが豊かな日本をめざし、次々とやってきたことを意味している。

昭和四十七年度版の『農業白書』(農村統計協会)において、「混住社会」という概念が初めて提出された。この言葉は都市近郊の農村地帯が郊外社会化する過程で、農家と非農家の比率が逆転する現象が起きたことで使われ始めたが、現在ではその「混住社会」の用語は日本人と日系ブラジル人の関係に当てはめても通用するように思われる。とりわけ私の住んでいる静岡県の西部地方は日系ブラジル人が多く、すでに十年以上にわたって、彼らが私の隣人であり続けているし、人口の何割かが日系ブラジル人ではないかと錯覚するほど、日常生活の中に彼らを見ることが普通の風景になっている。

戦前の日本人移民はそれこそ農地を開拓するためにアマゾンの密林に向かったが、現在の日系ブラジル人たちは高度資本主義消費社会の日本に着地し、郊外の消費社会を日本人と同様にケータイを手にし、動き回っている。ブラジルに向かった日本人移民が同じような外見であったのに比べると、日系ブラジル人たちは日本人二世や三世というよりも、むしろ白人が多く、金髪の人たちもいて、日系ブラジル人は多種多様な外見を呈している。

そしてこれも日系ブラジル人の特徴だと思うが、夫婦や家族で来日し、生活を営んでいる場合が多い。それらの場合の一例を挙げると、夫は日系人で妻は白人、子供たちはその混血ということになる。実際に私の隣人はそのような家族構成である。したがって、日系ブラジル人とはいっても、多種多様な外見の人々が人口集積の中に組みこまれ、私の住んでいる地方都市は成立していることになる。彼らが住み始めた九〇年代の当初は車の保有率が低かったために、買い物などは自転車で動き回ることが普通だった。私は地方都市に住む人間としては例外に属するのだが、車を持ってないので、日常生活は自転車を使ってすませていた。するとよく同じく自転車に乗った日系ブラジル人たちとすれちがい、彼らから同じ日系ブラジル人だと思われ、挨拶されることもしばしばだった。

それからもうひとつ目立ったのは彼らが休日にはよく集まり、バーベキューをしたりして、楽しそうに交流していることだった。もちろん日本にきて寂しいからブラジル人同士の交際が盛んに行なわれているのだろうと考えられたが、それらの風景はとても明るく、ブラジル人特有のもののようにも思われ、日本人よりも親密なコミュニティを形成している感があった。彼らが日本に次々とやってきている理由は賃金格差で、日本での月収はブラジルの二十倍から三十倍に達するらしかった。戦前の日本人移民がブラジルに向かったのは広大な農地をめざしてだったが、現在の日系ブラジル人は何よりもまず日本における高賃金を目的にやってきているのであり、現在の移民は賃金格差という経済原則によって海を渡り、国境を越えてくる。それは逆の現象であるが、外国籍企業が賃金の安い国へと生産拠点を移していくのと似ている。まさにこれが高度資本主義消費社会を背景とするグローバリゼーションの中で起きている、金と物と人の移動なのである。

しかし一九九〇年代を経て二十一世紀に入ると、当初は違和感のあった日系ブラジル人のいる風景が当たり前のものになってきた。彼らが市の人口の五パーセントを占めるまでになり、次々と日系ブラジル人専用のアパートが建てられ、彼らが経営するスーパーや飲食店なども出現し、車の保有率も高まり、子供たちも日本の小学校や中学校に通うようになり、公共の場には彼らのためにポルトガル語の説明も表記されるようになった。もちろん外国人として、フィリピン人や中国人、その他にも東南アジアの人たちもいるが、日系ブラジル人が圧倒的多数を占めるようになったからだ。それと同時に社会・経済的にも労働環境的にも彼らの存在なくして、地方自治体の構造を考えられなくなってしまっている。彼らが一人残らずブラジルに帰国してしまえば、日本は巨大な損失をこうむることだろう。いずれリトル・トーキョーやチャイナタウンのような日系ブラジル人の町も出現するかもしれない。

だがこのような社会状況を迎えても、私たちは彼らがどのような仕事に従事しているのかを具体的にほとんど知らないし、日本語を話せる人々も少ないので、コミュニケーションが成立しているわけではない。しかしそれは日本人であっても同様で、密接なつながりを必要としない群衆的な郊外消費社会にあってはそれで暮らしていけるのだ。だからこそ日本とブラジルの安易な生活比較は慎まなければならないが、日系ブラジル人はそれなりに定着し、生活してきたのであろう。一九八〇年以前であれば、まだ緊密であった町や村といった日本共同体の壁にはばまれ、日系ブラジル人が長く生活していくことは不可能だったように思われる。だがすでに彼らとの混住も長くなり、混住から共住へと確実に移行している。

これははっきりとしたデータによって示されてはいないが、近年のファッションは明らかに日系ブラジル人の影響を受けているし、近年の日本人女性の肌の露出や胸の強調といった身体のハビトゥス日系ブラジル人女性の模倣であるようにも思えるし、女性を対象とするファッションしまむらなどのロードサイドビジネスも彼女たちが客層としてかなりの割合を占めるようになったために、ロードサイドビジネスもそのような日系ブラジル人女性向きの商品を開発しているらしい。衣服ばかりでなく、日系ブラジル人の消費行動が現在の日本社会の経済に大きく関与しているのは間違いない。おそらく百円ショップやリサイクルショップは彼らを抜きにして語れないだろう。それらのことを総合すると、彼らによる事故や犯罪も発生しているが、アメリカの戦前の排日のような排ブラジルといった動きは日本において起きることはないと思われる。そして双方の混住の歴史も踏まえ、共生社会へと向かっていくことを願わずにはいられない。


〈付記〉
「まえがき」に本稿を書いたのは四年ほど前だと記しておいたが、今回述べた在日日系ブラジル人事情はリーマンショック以後、急速に変わった。多くが帰国し、彼らは目に見えて少なくなり、ここに記した光景も今ではかつてのものになってしまった。したがって今回の記述は現在のものではないことを了承されたい。

次回へ続く。