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古本夜話335 アルスの円本時代と多彩な企画

これも以前に何度も書いているのだが、社史と出版物総目録がいずれも出されていない出版社も数多くあって、それはアルスも例外ではない。しかもアルスの場合は円本時代において、『日本児童文庫』を出版し、菊池寛と興文社の『小学生全集』と激しい広告販売合戦、及び訴訟を繰り広げたことでも有名であり、歴史、出版物、知名度からいっても、社史や出版総目録があっても当然のように思われるが、出されていないのである。

それゆえにその全体像ははっきり描けないし、ファーブルの著作の翻訳者のメンバーの多様性に見られるように、茫洋としたイメージがつきまとっている。それは本連載127でふれた「ナチス叢書」や『世界戦争文学全集』にも表われている。ただラフスケッチはできるので、まずそれを提出しておこう。

アルスの創業者北原鐡雄は白秋の弟で、慶応大学を中退し、金尾文淵堂に入り、大正四年に兄とともに阿蘭陀書房を設立し、芸術雑誌『ARS』を創刊し、七号まで刊行するが、同書房は数年で行き詰ってしまう。そこで鐡雄は同七年にアルスを立ち上げ、弟の義雄と正雄とともに再び出版に挑み、後に義雄はアトリエ社、正雄は玄光社を興すことになる。

ここに昭和三年に出された「アルス月報」七月号がある。B5判十二ページのもので、これは『現代商業美術全集』にはさまれていたものである。とりあえずこの「月報」から始めてみる。これを見て驚くのはこの時代におけるアルスの発展ぶりで、実に多種多様な分野の本を出している。それらの中でも円本に属する予約出版物、シリーズ物と考えていい叢書類をリストアップしてみる。巻数確認は『全集叢書総覧新訂版』によるが、記載なきは不明である。なお5から15にかけてはいずれも上に「アルス」が付せられているけれど、それは省略した。

現代商業美術全集(ゆまに書房復刻) 全集叢書総覧新訂版

1 『現代商業美術全集』全二十四巻
2 『日本児童文庫』全七十五巻
3 『分類俳句全集』全十二巻
4 『白秋全集』全十八巻
5 「電気工学大講座」全二十巻
6 「写真大講座」全十六巻
7 「建築大講座」全七巻
8 「文化大講座」全十二巻
9 「運動大講座」全九巻
10 「婦人叢書」全二十四巻
11 「英文叢書」
13 「美術叢書」
14 「ファブル科学叢書」
15 「技法叢書」

これがすべて昭和三年時において刊行中の円本とシリーズ物であり、その他にも詩歌、創作、評論、思想、哲学、科学などの単行本、さらに雑誌やいくつかの年鑑の広告掲載がなされていることからすれば、アルスは新潮社や平凡社や第一書房の規模に匹敵する出版社、しかもあらゆる分野の本を刊行する総合出版社だったと見なしてもかまわないだろう。あるいはやはり円本時代の春秋社を彷彿させる。

それゆえにアルスは初期の新潮社や円本時代の平凡社のように、一種の梁山泊を形成していたと思われるのだが、それらについて残されている証言は少ない。本連載231でふれた『大杉栄全集』を編集した近藤憲二は、アルスに入社した経緯、その住所と北原の人柄について、『一無政府主義者の回想』の中で、次のように述べている。

 大杉の紹介で北原さんの出版社アルスへ勤めることになった。北原さんは尾行をつれた我侭者を、よくも雇ってくれたものである。アルス社長の兄さんは北原白秋氏で、(中略)銀座尾張町の電車通りで、交叉点から三軒目の二階に事務所があった。北原氏は、社長とか先生とかいわれるのが嫌いで、社員たちはいつも「大将」と呼んでいた。社長の呼び方でだいたいの社風はわかるものである。

そして近藤は「大将」と相談し、「今でいう文庫本のようなものを企画」した。だが関西の著者回りをしたことは書いているが、この企画がどうなったのかを記していない。刊行の運びになったのだろうか。

拙稿「金尾文淵堂について」(『古本探究3』所収)で、荒畑寒村や安成二郎がそこに勤めていたことに言及しておいた。つまり北原鐡雄は彼らと同僚だったことになり、その出版人脈はアルスにもそのまま継承されたと考えられる。本連載で既述してきたように、安成が近藤とともに『大杉栄全集』を編集したこと、「文化大講座」の編集者が佐々木孝丸だったこと、ファブルの著作刊行担当者が安谷寛一であったことはそれらの関係を証明しているように思われる。したがって彼らの他にも多くのアナキストや社会主義者たちがアルスの企画や編集に携わり、それに加えて北原白秋の詩の人脈もクロスし、そのことによって多彩な出版物の刊行を見たのではないだろうか。

古本探究3

先に挙げた『日本児童文庫』『分類俳句全集』は白秋のライン、その他の「講座物」などの企画は様々な分野に身を措き、また様々な職業についていた社会主義者たちによる企画編集だったのではないだろうか。そしてこの百花斉放的なアルスの企画の中に、文学者や社会主義者たちと実用書出版社がつながっていく回路が見えるように思う。あるいはまたアルスからアトリエ社や玄光社が生まれたように、美術や写真に関する実用書の誕生もアルスが大きな役割を果たしたと判断できるのである。

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