ずっと続けて、フランスの郊外を歩いてきたので、ここで日本へと戻りたい。原書が出されてから六十有余年を経た一九六八年のハワードの『明日の田園都市』の初めての邦訳出版は、ほとんど知られていなかった一九〇七年に刊行された一冊の本の存在を知らしめ、日本もまたタイムラグなくハワードの田園都市計画に注目していた事実を明らかにしてくれた。

それは長素連の「訳者あとがき」によるもので、明治四十年に内務省地方局有志編纂の『田園都市』(博文館)という菊判三八〇ページの本が出され、同四十五年までに七版を重ねていること、そこに「田園都市」の他にも「花園農村」「新都市」「新農村」などの言葉が使われ、ベラミーやハワードも出てくることなどが指摘されていた。また長素は「ガーデン・シティ」がいつから日本で「田園都市」と訳されるようになったのかは詳らかでないとも述べているが、内務省編纂という明示による官製用語と考えられるので、やはり『田園都市』の刊行を機としているのではないだろうか。
この『田園都市』はハワードの『明日の田園都市』の翻訳刊行、及びロングセラー化とリンクし、八〇年に『田園都市と日本人』というタイトルで、講談社学術文庫に復刻収録されるに至った。しかし八〇年代に、田園都市とはまったく異なる郊外消費社会が隆盛を迎えつつあった事実からすれば、この復刻も偶然のようには思われない。本もまたそれぞれの時代の産物、もしくは表象でもあるからだ。
『田園都市と日本人』の刊行に際しての「幻の内務省文書」である、香山健一の序文「田園都市国家への道」において、執筆編纂は内務省地方局府県課長井上友一博士、嘱託の生江孝之を中心とする地方局スタッフによると述べられている。そして井上、生江の著書として『自治要義』や『欧米視察・細民と救済』が挙げられ、前書には「田園都市の理想」が紹介され、後書にはレッチウォースを実地踏査した「田園都市の経営」と題する一章があり、生江がハワードと面識があったとの証言も記されている。
だが『田園都市と日本人』が、ハワードの『明日の田園都市』の単なる紹介と見なすのは間違いで、日本的にアレンジされた田園都市論と考えるべきだろう。ハワードの著作に続いて、一九〇五年にはA.R.Sennett,Garden Cities in Theory and Practice なども刊行されているので、それらをトータルにふまえた田園都市計画と運動、その展開までも俯瞰した、日本における先駆的な一冊に位置づけられよう。その後セネットの原書を入手したことにより、渡辺俊一『「都市計画」の誕生』(柏書房)における、ハワードではなく、セネット本が種本であるとの指摘をあらためて確認した次第だ。それは「序論」の書き出しにも表われているので、冒頭の一文を引用してみる。
近ごろ欧米の諸国にありては、都市改良の問題、農村興新の問題等の年をおうてますますその驚きを加うるあり、都市と農村とにつき、おのおのその長を探りてその短をおぎない、さらに加うるに最新の設備をもってして、自然の美と人口の精とを調和し、健全醇美の楽郷を遣らんとして、ことにその意を用いざるなし。いわゆる「田園都市」、「花園農村」といい、もしくは「新都市」「新農村」というのは、すなわちこれが理想を代表するものたり。
その名は相異なれりといえども、これが最終の帰趣とするところや、実に同胞のたがい一致戮力して、ひとしく誠実勤労の美徳を積み、共同推譲の美風を成して、隣保相互の福利を進め、市邑全般の繁栄をいちじるしくして、ひろく人を済い世を益せんとするにあり。これ田園都市、花園の首唱者が、つとに世に声明したるところにして、わが邦にもまた著々としてこれが遂行の緒につきつつあるは、まことに邦家民人の至慶たらずんばあらず。
この書き出しを読んだだけでも、Garden City が「田園都市」、「花園農村」、New Town が「新都市」「新農村」として日本にも紹介され、それらの試みが「遂行の緒につきつつある」ことがわかる。
イギリスにおけるハワードの『明日の田園都市』の元版『明日』の刊行が一八九八年で、翌年には田園都市協会が設立され、一九〇三年には最初の田園都市レッチウォースの土地が買収され、田園都市計画が本格的に展開され始めていた。また〇五年には先述のセネットの『田園都市の理論と実際』も刊行の運びとなっている。それらの動向とパラレルにこの『田園都市と日本人』は出版されたことになる。これは日本だけでなく、欧米にあっても共時的にして共通する都市計画と農村開発をめぐる重要なテーマとなっていたと考えられる。そのことを示すかのように、『田園都市と日本人』の中でも、欧米の都市の工場とスラム化による病弊が語られ、現代の言葉でいえば、そのオルタナティブとしての田園都市が「文明国に付帯して当然起こりきたるべき各種の諸病症を治療するにもっとも的確な新医術なり」というように姿を現わし、イギリスのみならず、ドイツやイタリアでの成功もレポートされている。
このように田園都市の「理想」が語られ、次にその「範例」としてハワードの『明日の田園都市』収録の設計図が転載され、レッチウォースが紹介されていく。だが『田園都市と日本人』の用意周到な知見の一端をうかがわせるものとして、ハワード以前のイギリスの実業家たちによる「新農村」の試みの紹介もなされている。これはロバート・フィッシュマンが、サブタイトル「郊外住宅地の盛衰」を付した『ブルジョワ・ユートピア』(小池和子訳、勁草書房)の中で、十八世紀後半にロンドンのブルジョワエリートの集団がウィークエンドヴィラを農村に求めたことに郊外住宅地の起源を見出しているが、それらも視野に入れている事実を物語るものだ。フィッシュマンはこれを「クラシック郊外」と呼び、十九世紀末にアメリカへと伝播したと書いている。ところが『田園都市と日本人』もまたアメリカのハワード以前に創設されたと思われるプルマン田園都市の写真を示し、まだそうよばれてなかったにしても、田園都市計画が産業革命の進行する過程で、各国において立ち上げられていたことをも伝えている。
そしてさらに具体的に田園都市と生活の問題が語られていく。田園生活における趣味と楽しみ方、農園や花卉栽培、工業生活と農業生活の調和、家庭や住居の改善、家屋建築組合とその設立、家屋制度の確立、衛生状態の向上、節酒問題、娯楽の多様性、協同精神の形成、協同組合の活用、民間教育の必要性と図書館、救貧防貧事業などが細部にわたってまで言及され、田園都市計画が具体的なディテールを伴ったユートピアプランのように検討されてもいる。だが現在に至ってこれらの問題が解決されたのかを考えると、百年後の今も多くがそのまま問題であり続けていることに気づく。それどころか、格差社会の露出、及び生活保護者が二百万を超えるという現在こそ、さらに「救貧防貧」のための事業に取り組まなければならないのだ。逆に百年経って、ユートピアがはるかに遠去かっていくような思いに駆られてしまう。
『田園都市と日本人』はこれらの田園都市と生活の問題を取り上げた後で、「わが邦田園生活の精神」が論じられているのだが、それに至って次のような感慨がもらされている。
「田園都市」「花園農村」の名は、絶えてわが邦に聞かざりしところなり。されどその実体につきてこれを言わば、なんぞかならずしもひとつの「田園都市」なしといわんや、あにまた一種の「花園農村」なるものなしとせんや。
これを当年平安の旧帝都に見ずや、山紫水明もっとも天然の風光に富み、(中略)禁裏を中心にして、東西に開き南北に通いる街衢の井然たるは、泰西の識者が近ごろ理想の都市(中略)にあらずしてなんぞや。
そして京都が「自然の風趣を帯びて、おのずからなる田園都市」として称揚され、さらに首都東京ですらも「天然の風物を配してその趣」があり、その他の多くの地方の都市も、「おのずから田園の趣味」を帯びている。これらの事実を裏づけるために、先に挙げた田園都市の問題が日本全国各地の田園生活の実情と照らし合わされていく。それゆえに京都こそは古今を隔て出現した「田園都市」、遠近至るところの農村は天然の美を集めた「花園農村」にほかならず、「さればわが邦の都市農村は、その形より言えば、つとに泰西人士の唱導する田園都市、花園農村に比してむしろ優れることありとも、決して劣るところなきをみるべし」という結論へともちこまれていく。
ただこれをあまりに日本的な「田園都市」ナショナリズムと見なすだけで終わりにしてはならないだろう。一九〇〇年当時の各国の産業構造を佐貫利雄『成長する都市 衰退する都市』(時事通信社)によって見てみると、第一次産業就業者比率は日本が70%、イギリスは10%、アメリカは37%。第二次産業は日本が18%、イギリスは48%、アメリカは30%となっている。つまりイギリスやアメリカに比べ、日本はまだ農耕社会に他ならず、工業社会に至っていなかったと考えることができる。いってみれば、『田園都市と日本人』の最後の「わが邦田園生活の精神」で説かれているように、日本社会そのものが「田園都市」と「花園農村」の趣の中にあったことになる。それゆえに日本における田園都市計画の展開は理念と同様に、異なった道筋をたどることになったように思われる。