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古本夜話606 山本茂美『葦』、大和書房、青春出版社

戦後のことが続いてしまうが、人生論雑誌に関して、もう一編書いておきたい。それは『人生手帖』に先行する雑誌として、『葦』があり、それにもふれておくべきだと思われるからだ。『葦』についても、『戦後史大事典』に立項があるので、こちらも引いてみる。

あし『葦』
  人生記録雑誌。一九四九年(昭和二四)一月〜六〇年六月。発行葦会、のちに八雲書店。当初季刊、のちに月刊となる。戦後人生雑誌のはしり。早稲田大学哲学科に在学する山本茂実が中心となって、学生、工員、青年団員などを対象に、主義・思想・宗教を問わず人生と向きあう人たちの日記、ノート、遺稿(とくに学徒兵)、手紙、手記を中心に投稿原稿をもとに編集。人生雑誌としてはこのほか、『人生手帖』(五二年一月〜七四年一一月、文理書院)、『雑草』(五三年八月〜五五年二月、葦会のち葦出版社)、『人生』(五五年三月〜五六年一〇月、池田書店)、『みどり』(五六年四月〜五九年一二月、学燈社)などがある。

この『葦』は入手していないけれど、葦会が刊行した山本茂実『救われざるの記』は古本屋の均一台から拾っている。昭和二十七年六月初版、四六判並製、定価150円、発行者は小澤和一である。巻頭には大隈講堂を背景とする角帽、学生服姿の山本の写真、その裏には「桃の花の咲く故郷」の風景写真が掲載され、「著者略歴」が次のように記されている。「長野県松本市並柳七五番地に生る。/小学校卒業と共に父亡き貧農の長男として農業に従事す、傍、松本青年学校に学ぶ。その後長い軍隊生活。/数年に亘る闘病生活の後、松本青年学校教師となり、強度の連合青年団長、神田塾主宰者等を経て/現在早稲田大学文学部に在籍す。/雑誌『葦』総合雑誌『潮』編集長/著書に『生き抜く悩み』等あり」。

この山本の「哲学的随想録」と銘打った著作『救われざるの記』は、その「哲学の死生観について」のサブタイトル「人生果して生きるに値するや?これ程迄に苦しむに値するや?」に示されているように、形而上学ではなく、「人生と向きあう」ための人生論的哲学とでも称すべきものである。それに山本の岩波茂雄と同郷という出自を重ねると、その著作は岩波書店の哲学の大衆版のようにも思えてくる。

そして巻末には編集長山本茂実とある『葦』、「いよいよ創刊!!」とのキャッチコピーの新総合雑誌『潮』の各一ページの広告が掲載され、後者の会長名として柳田謙十郎、編集顧問として亀井勝一郎清水幾太郎都留重人たちの名前も見える。また「葦会叢書」として、山本の著書など八冊が挙げられ、その中には『葦』連載で好評を博した早乙女勝元の十八歳の半生記『下町の故郷』も入っている。しかしここには重要なる人物の名前が欠けているのである。その名前は大和岩雄で、彼の証言を『大和書房三十年のあゆみ』(平成三年)から抽出してみなければならない。

大和は長野県伊那郡大鹿村の中学校教師だったが、七ヵ月ほどで辞め、長野市に出て、当時諏訪で発行されていた『葦』の第二号に出会い、発行人の山本を知り、第四号から編集長となる。その時二十一歳だった。そして『葦』が順調に伸びたので、昭和二十五年に東京に出て、事務所を借りた。それが『救われざるの記』の奥付に記された文京区初音町の葦会ということになる。そのメンバーは社長兼主幹が山本、編集が大和、営業が小澤で、そこに十八歳の編集者見習いとして加わったのが早乙女であった。

昭和二十七年に大和は『葦』の編集のかたわらで、『人生手帖』を創刊した。そして三号まで出したところで、『葦』から手を引き、『人生手帖』に専念することになった。発行所は文理書院で、前回ふれた経営者の寺島と大和の二人だけの出版社だった。同二十九年には六万部を突破し、その読者会として緑の会が組織され、全国に支部が何百とできたとされる。『大和書房三十年のあゆみ』が伝えるところによれば、先の立項以外にも、『若人』『若い広場』『新しい風土』『人生と文芸』も創刊され、人生論ブームがおきた。ここでようやく『人生手帖』創刊事情はつかめたが、文理書院の寺島のプロフィルは浮かび上がってこない。

しかしその翌年、大和は文理書院を辞め、小澤と青春出版社を創業し、『青春の手帖』を創刊し、また三十六年には青春の手帖社を創立に至る。これが大和書房の前身であり、三十八年に大和書房と改称される。小澤のほうはそのまま青春出版社の経営者の道を歩んでいく。また山本はルポルタージュや小説に向かい、『あゝ野麦峠』朝日新聞社)などの著者となるのである。
あゝ野麦峠

ただそのかたわらで、戦後社会は高度成長期を背景とする読者の変化もあり、『青春の手帖』のような人生論雑誌にも影響を及ぼし、『葦』も昭和三十五年に廃刊となtっていた。その代わり、『葦』時代から親交があったと思われる亀井勝一郎を始め、堀秀彦、古谷綱武、串田孫一などの人生論の単行本の出版が始まり、それが大和書房の基本シリーズである人生論の「銀河選書」へと結実していったのである。その一方で、若くして亡くなった短大生塩瀬信子の日記に串田孫一の序文を付した『生命ある日に』を三十七年十二月に刊行し、三十八年のベストセラーならしめている。

そしてこのベストセラー化が河野実・大島みち子の『愛と死をみつめて』の出版に結びつく。河野は『生命ある日に』を読み、二人の手紙を同じように本にしたいと思い、大和書房を訪ねたのである。この堀秀彦序文の『愛と死をみつめて』は百三十万部を記録する大ベストセラーとなった。私の手元にある一冊は「一九六四年八月三二六刷」で、ラジオ、テレビドラマ化され、また吉永小百合主演による映画もあり、翌年になってもまだ売れていたとわかる。

愛と死をみつめて 愛と死をみつめて(DVD)

人生論雑誌の時代は終わったとされたが、その分野に属する単行本の時代はまだ終わっておらず、『愛と死をみつめて』のベストセラー化には、『葦』から始まった大和の人生論雑誌の総仕上げであったのかもしれない。しかし『愛と死をみつめて』の系譜は繰り返しベストセラーを生じさせたが、人生論の背景にあった第一、二次産業時代が終わり、一九八〇年代以後の消費社会へ移行していくと、人生論の代わりのようにして、自己啓発書がその位置を奪っていったとも考えらよう。

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