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古本夜話757 柳田国男『民謡の今と昔』と新井恒易『農と田遊びの研究』

 前回、柳田国男の『民謡の今と昔』の内容にふれなかったので、それをここで書いておきたい。柳田は明治以降の民謡の主たる発祥は村の小さな子守娘の「口すさび」、すなわち子守唄にあったと推察している。それに影響を与えたのは、労働と祭が融合した田植唄などで、「村の少女は悉く新しい笠と襷とを用意して、さゞめいて田植の日の来るのを待ち兼ねた」のである。
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 それから盆や祭礼も挙げられ、柳田は書いている。

 盆の三日を一年の最も嬉しい日としたのも、(中略)年寄りにもずっと小さい子供にも、此日はやはり面白くてたまらなかつた。(中略)盆や祭礼には漏れる者が無く、何人も鮮明なる意識を以て、静かな陶酔の中に入つて行くことが出来た。それが大部分は歌に由つて指導統率せられて居たことは、村に住んだ人ならばよく今でもまだ知つて居るであらう。
 盆よゝゝと待つのが盆だ盆が過ぎれば夢のよだ
 盆よゝゝもけふあすばかり明けりや野山で草刈りだ
 斯んなウタを歌ひつゝ、やはり村の人は他念も無く踊つて居たのである。

 このような記述を読んで、新井恒易の『農と田遊びの研究』(上下、明治書院、昭和五十六年)を想起した。著者は在野の研究者として、四十余年にわたるライフワークに取り組み、上梓に至っている。これはA5判、二冊合わせて千六百ページに及ぶ浩瀚な著作で、これもまた浜松の時代舎で入手したものの、大冊ゆえにまだ読了に至っていなかった。購入したのは、かつてどこかで塚本邦雄が田植歌に言及していたこと、私にとっても身近な東海地方の田遊びが多く紹介されていたことによっている。
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 あらためて新井の「序」から読んでいくと、彼が初めて田遊びを見たのは昭和十年で、それは東京の板橋の田遊びだった。しかも「すでに亡き先達の北野博美のみちびき」によると述べられていたのである。そして序章の「田遊びの研究」において、その田楽と異なる研究史もたどられている。

 それが学問としての研究の対象となるのは、二〇世紀に入ってからの郷土研究や民俗研究の成長を見るようになってからである。その一つの画期的な契機となったのは小寺融吉・北野博美の編集による雑誌「民俗芸術」が、一九二九年(昭和四)九月号(二巻九号)に「田遊び祭りの研究」を特集したことにある。(中略)
 「民俗芸術」の特集では、一九二九年六月の国学院大学の郷土研究会による下赤塚の田遊びの実験の記録(文は図師嘉彦・本田安次の協力で北野博美がまとめたもの。挿画は竹内芳太郎ほか)と、同催しのさいの折口信夫博士の講演の筆記「田遊び祭りの概念」(北野博士の筆記)、小寺融吉の「演劇史からみた田植の神事」ほか、下赤塚の田遊びについての二人の小論を載せている。

 ここで北野は柳田のみならず、折口の口述筆記者としての姿も見せている。ただ残念なことに、『民族』は昭和四年四月の第四巻第三号で休刊となっているので、『民俗芸術』の広告も、四月号の「人形芝居研究」特輯までで、九月号の「田遊び祭りの研究」の内容を見ることができない。また同じく折口の「田遊び祭りの概念」も、中公文庫版『折口信夫全集』には収録されておらず、それに代わる「日本芸能史」(第十八巻所収)「日本芸能史序説」や「古代演劇論」(いずれも第十七巻所収)の中での田遊びにふれた部分、及び新井の要約を参照するしかない。なお前者の筆記は新井自身が担ったようだ。
f:id:OdaMitsuo:20180209095958j:plain:h120  『折口信夫全集』第十七巻

 それらによれば、日本における田に関わる演芸は田遊び、田儛、田楽が挙げられる。田遊びは田の精霊をしずめるための鎮魂呪術で、当時の民俗芸能の影響を受け、宮廷に入り、田儛、田楽として園芸化していった。それは正月の初め、多くは多くは小正月、及び五月の田植の際に行なわれ、神楽が神遊びと呼ばれたように、田遊びでも田楽として分化し、平安朝中期以後、田遊びと田楽の双方が文献上に盛んに出てくるようになる。

 このような折口の田遊び論は新井も含めて多くの人々に影響を与えたが、新井は長年の田遊び研究者としての立場から、折口「独特の鋭い想像力と構想力による立論」では理解し難いところも少なくないし、証明もなされていないと指摘している。また柳田国男が農村や農業史に深い関心を寄せていたのに、どうして田遊び論を展開されなかったのか、不思議であるとも述べている。私は先に柳田の民謡にリンクする田植歌と祭への注視を見たが、それ以上の言及は他でも見られないということなのだろうか。

 折口の「田遊び論」に対し、新井は全国的な田遊びのフィールドワークをベースに置き、自らの「田遊び論」」を提出している。それを簡略に示せば、田遊びは農耕儀礼に胚胎し、芸能として成長するに至った。それは稲作りを中心とする春の耕作始めの儀礼、つまり年乞いの儀礼である。その田遊びが仏教の伝来とともに、寺院の正月行事としての修法結願の日に宴を張り、夜を明かす法楽を伴う修正会と結びつく。それは新しい社会基盤たる荘園制を背景とし、呪師が介在し、その呪師芸、呪法が舞楽や散楽とともに芸能化し、田遊びの芸能化を形成していったとされる。

 折口の「田遊び論」は実見した三河や遠江を中心とする西浦などの呪師、田楽、猿楽、田遊びからなる集合形態の芸能からイメージされているが、修正会のことはその思考に組み入れられていない。本連載574で、折口が実見した早川孝太郎『花祭』や須藤功『西浦のまつり』を挙げておいたが、あらためて後者の写真集を見ると、確かに田遊びと修正会の系譜を引く芸能が展開されているように思える。この遠江の西浦も過疎になって久しいと聞いている。今や祭はどうなっているのだろうか。
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