出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話825 大西克和訳『ゴンクウルの日記』と鎌倉文庫

 辰野隆は『仏蘭西文学』の中で、『ルナアル日記』とともに、『ゴンクウルの日記』を挙げ、フランス近代文学における「骨の髄まで文学者であつた人間のドキュマンとして、罕に見る宝庫」だと述べている。
ルナアル日記 f:id:OdaMitsuo:20180908105644j:plain:h112(『ゴンクウルの日記』)

だが『ルナアル日記』と異なり、『ゴンクウルの日記』のほうは戦前に出されておらず、戦後を待たなければならなかった。しかもその版元は鎌倉文庫で、昭和二十二年から二十四年にかけて三冊が出されている。鎌倉文庫は大東亜戦争末期に鎌倉在住の作家の川端康成、高見順、中山義秀、久米正雄たちによる貸本屋として始まり、敗戦後の昭和二十年九月に出版社として発足し、彼らの作品を始めとして、多くの小説を刊行し、二十一年には文芸雑誌『人間』を創刊している。『人間』は『日本近代文学大事典』にも立項され、その豪華メンバーによる寄稿作品掲載内容が紹介されていて、三島由紀夫の実質的な戦後デビューも同誌であった。だが二十四年に鎌倉文庫は倒産し、本連載788の目黒書店へ移行している。したがって、このような鎌倉文庫の出版活動の中で、『ゴンクウルの日記』も刊行されたことになる。

 この『ゴンクウルの日記』はエドモンとジュールの兄弟が一八五一年からつけ始めたもので、私的な生活と内心の吐露というよりも、現実の観察記録と見なしていいし、ここに文学のひとつの形式として、日記を書くことが創始されたのである。永井荷風の『断腸亭日乗』にしても、江戸文人の日乗録を範としているように見えるけれど、『ゴンクウルの日記』からその発想を得たように思えてならない。
断腸亭日乗

 それはともかく、ゴンクウル兄弟は『日記』にも記されているように、一八五四年に『革命時代の社会史』などの歴史書を著わし、六〇年には小説『文士』を上梓し、六五年の『ヂェルミニイ・ラセルトゥウ』は写実主義文学の傑作とされている。それらと併行して『日記』は書かれ、弟のジュールは七〇年に亡くなるが、兄のエドモンはそれを単独で九六年まで書き継いだのである。そしてエドモンの遺産を基金として、本連載768のゴンクウル賞が創設されたことはよく知られた事柄であろう。

 手元にある鎌倉文庫の『ゴンクウルの日記』は三冊のうちの第一、二巻で、A5判上製だが、裸本で疲れが目立ち、表紙も剥がれかけている状態にある。装幀はそのまま原書を踏襲し、六隅許六かもと思われたが、吉村力郎とあった。その序文は他ならぬ辰野隆が寄せ、「これは兄弟の日記でもあれば、文壇の日記でもあり、また近代文学の日記」で、『ルナアル日記』とともに「我等の書架になくてはならぬ尚友の書」と記している。

 訳者の大西克和は「訳者の言葉」から、辰野が恩師で、この翻訳に多大の援助を受けたこと、鎌倉文庫の巌谷大四の尽力を得たことが記されている。それは巖谷が鎌倉文庫出版部長だったことによっている。続けて大西は先述の『ヂェルミニイ・ラセルトゥウ』(岩波文庫、昭和二十五年)も翻訳している。同年にはその他にも三つの訳が出され、また『売笑婦エリザ』(桜井成夫訳、岡倉書房)も刊行されている。これは『ゴンクウルの日記』の出版によって、この時期にゴングウルの小説が再発見されたことを意味している。

ヂェルミニイ・ラセルトゥウ (『ヂェルミニイ・ラセルトゥウ』)

 それらはともかく、『ゴンクウルの日記』が一八五一年十二月二日のルイ=ナポレオンのクーデタによる第二共和制の終わりから始まっているのは象徴的で、日本の敗戦後の読者にとって無縁のように思われなかったのかもしれない。もっともフランスの場合は逆コースで、ここからナポレオン三世による第二帝政が始まっていくのである。それとともにゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」も始まり、第一巻の『ルーゴン家の誕生』(伊藤桂子訳、論創社)はそのクーデタを背景としてスタートしていく。それゆえに『ゴンクウルの日記』もまた第二帝政の社会と凋落を必然的に描いていくことになる。それらは興味深く、言及したいのだが、やはりここでは『ゴンクウルの日記』の何よりの特色でもある同時代の文学者たちのポルトレを挙げるべきだろう。フランソワ・ドーデ、テオフィル・ゴーチェ、フローベール、ボードレールたちがリアルに描かれ、フランス文壇史を目撃しているような気になる。

ルーゴン家の誕生

 その中でもとりわけ印象的なのはフローベールで、ゴンクウルもそれを意識してか、フローベールに関する言及部分はとても生々しい。ゴンクウルは辻馬車でフローベールのいるクロワッセを尋ね、『ボヴァリイ夫人』『サランボオ』を書いた部屋に入る。ゴンクウルはその部屋の光景を一ページ以上にわたって描写する。東洋=オリエントの色々な古道具が飾られている。それらは緑青色の錆に覆われたエジプトの護符、原始民族の楽器、銅皿、ガラス玉の首飾り、アフリカの枕や腰掛けや俎も兼ねる台、フローベールが文鎮として使っているサムワンの洞窟から盗みとってきたミイラの二本の足。そしてゴンクウルは次のように書いている。
サランボオ

 此の室内こそは―此の人、彼の趣味、彼の才能そのものである。東洋の一つの粗い姿が充ち満ちてゐる室内、そして此処では、野蛮人の或る素地が芸術家の本性の中に顕われている。

 また続けてフローベールの母親の言葉も記している。

 母堂は吾々に、彼がルウアンで半日過して帰つて来ると、同じ場所に、同じ姿勢でぢつとしてゐるのを見る事が屢々であり、息子の余りにも動かない様子に殆んど怖ろしくなると語つた。外には絶対出ず、彼は原稿と仕事部屋の中で暮してゐる。馬に乗ることもなく、ボオトで遊ぶこともない……

 フローベールは前年に五年かけて『サランボー』を完成したばかりだったし、次の『感情教育』に取りかかろうとしていたのかもしれない。

 なお近年になって、『ゴンクウルの日記』は斎藤一郎訳で岩波文庫化されている。
ゴンクールの日記


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古本夜話824 青山出版社と岸田国士『生活と文化』

 前回や本連載786の岸田国士『生活と文化』も出てきたので、これも取り上げておきたい。それは昭和十六年十二月に青山出版社から刊行されていること、また内容は先の『力としての文化』と重なり、大政翼賛会と文化の新体制に関する文章から構成されているのだが、大政翼賛会が地方に及ぼした影響、及びその配置図がチャートを含め、述べられていることによっている。
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 まず出版社のほうから明らかにすると、その住所は赤坂区青山北町に置かれ、発行者は菅原卓となっている。彼の名前は『日本近代文学大事典』に見出される。

 菅原卓 すがわらたかし 明治三六・一・一五~昭和四五・五・三(1903~1970)演出家。東京生れ。内村直也の実兄。慶大経済学部を卒業後、アメリカのコロンビア大学で演劇を専攻。昭和七年三月、岸田国士らと演劇雑誌「劇作」を創刊、以後同誌に多くの評論や翻訳を発表。戦後は文学座でソーントン=ワイルダ―の『わが町』を演出する一方、ピカデリー実験劇場運営委員長となり、ドルーテンの『山鳩の声』(昭二四)、イプセン『ヘッダ・ガブラー』(昭二五)を翻訳、製作、演出した。(後略)

 幸いなことに、その演劇雑誌『劇作』も『同事典』にほぼ一ページにわたって立項されているので、それを要約してみる。岸田に師事していた第一書房版『悲劇喜劇』の編集助手だった阪中正夫が菅原とともに主唱し、岸田のもとに集まっていた新進劇作家や演劇評論志望の生年たちを糾合し、岸田と岩田豊雄を相談役として、昭和七年に創刊され、十五年まで続いた。発行所は白水社となっているが、原稿料は支払われていない同人制による月刊演劇雑誌で、発行部数は二千部ないし二千五百部、毎日の赤字は菅原が負担したという。同人は二人の他に菅原の弟の内村直也で、田中千禾夫、辻久一、原千代海、森本薫などで、戦後の第二次『劇作』は世界文学社から出されたことを知ると、どうして『森本薫全集』が同社から刊行されていたのかを了承することになる。
f:id:OdaMitsuo:20180908225455j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20180907113747j:plain:h120(森本薫全集)

 これらのことから、次のように推測できる。菅原は『劇作』の当初、白水社を発行所としていたが、自らが赤字を負担するようになったこともあり、実質的な発行所も兼ねる立場をとらざるをえなかった。それを可能にしたのは、菅原の実家は父が創業した菅原電気で、弟もその重役だったことから、経済的なパトロンも兼ねていたことに求められるのではないだろうか。だが『劇作』が昭和十五年に休刊となったこともあり、その代わりに青山出版社として、書籍の出版を始めたように思われる。ただそうはいっても、『劇作』の経験から戯曲の出版は難しいことを承知していたので、師事する岸田の著書が選ばれたと考えられよう。

 岸田はその前年に大政翼賛会文化部長に就任したところで、その出版物助成金やまとめ買いも期待できたのかもしれないのである。本連載786の『力としての文化』の初版部数が三万部だったことは記述しておいたとおりで、ひょっとすると、内容だけでなく、それも『生活と文化』は範としていたとも想像される。

 それにその内容だが、巻末に置かれた昭和十六年七月の日付のある「地方文化の新建設」は、そこに示された「地方文化新建設に関する当面の方策」全文と「地方文化機構図」の双方を引けば、そのほぼ全貌が明らかになろう。しかしそれは紙幅が許さないので、そのコアとしての「一、地方文化に関する中央機構の確立」の4項目を挙げてみる。

 1 大政翼賛会文化部に地方文化に関する委員会を設立し、地方文化再建のための企画及び運営に当たらしめること。
  右委員会委員は、地方文化に関係ある館長及び民間各職域に於て、識見と指導力ある第一線的中堅人物を以てこれに当てること。
 2 中央各省に於る地方文化に関する行政事項の統一をはかり、新しき規模並に攻勢をもつ文化宣伝啓蒙の内閣直属主務官庁の設置を促進すること。
 3 地方文化に関する中央諸団体の連絡およびその統合を図ると共に、文化配給について計画的組織化を図ること。
 4 国土計画に基き文化の大都市集中主義の弊を打破すること。

 そうして具体的に、大政翼賛会文化部を頂点として、そこに関係諸官庁の連絡を図る地方文化委員会が置かれ、その下に産業報国会、産組中央会、壮青少年団、その他団体が管理され、大政翼賛会道府県支部を通じて、都市と町村生活共同体の指導がチャートとして提出されることになる。これらをあらためて考えてみると、大政翼賛会の活動は都市部を中心とする様々なプロバガンダにあったと思われるがちだが、実は地方のほうで大きな力をふるい、都市以上に影響をもたらしたように思えてならない。戦時中に大政翼賛会に在籍していた、後の『暮しの手帖』の花森安治、同じく『平凡』を創刊する岩堀喜之助や清水達夫たちが果たした役割も同様だったのではないだろうか。そこで彼らは戦後の雑誌のノウハウを身につけたのではないだろうか。
暮しの手帖 f:id:OdaMitsuo:20180908230301j:plain:h115

 それと同時に、昭和十六年には出版物の画一的・均一的な配給をめざす国策取次の日配が誕生しつつあったことも、大政翼賛会文化部の発足や活動とリンクしていると見なすこともできよう。いずれも岸田がいっているように、「新体制に於る文化の建設」をスローガンとしていたのである。 


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古本夜話823 岸田国士訳『ルナアル日記』と『にんじん』

 これまで昭和十年代におけるフランス文学翻訳ブームといったトレンドにふれてきたが、その中の一人がルナアルでもあった。それは本連載808のブールジェほどではないにしても、私たち戦後世代にとっては馴染みが薄い。『にんじん』の作者であることは承知しているが、『ルナアル日記』は身近なものではなかった。それは同786でふれた、ルナアルの訳者たる岸田国士の戦前の知名度と昭和二十九年の死も作用しているのだろう。
ルナアル日記

 本連載799の辰野隆『仏蘭西文学』においては「ルナアルを語る」という八十ページを超える長い一章が設けられ、『にんじん』『博物誌』に加え、『ルナアル日記』全七巻に関する詳細な紹介をしている。これらの一部は彼の随筆集『南の窓』(創元社、昭和十二年)収録のものである。そこで辰野は、岸田による『ルナアル日記』の全訳が、豊島与志雄の『レ・ミゼラブル』『ジャン・クリストフ』(いずれも新潮社)、関根秀雄の『モンテーニュ随想録』、山内義雄の『チボオ家の人々』(いずれも白水社)、河野与一の『アミエルの日記』(岩波文庫)と並ぶ訳業だと推奨している。
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 『ルナアル日記』は白水社から昭和九年の『にんじん』の普及版に続いて、同十年から十三年にかけて全七巻が刊行されている。本連載812でふれておいたように、これらは草野貞之が編集担当者だったと考えていいだろう。日本でのジュリアン・デュヴィヴィエ『にんじん』の映画公開は昭和九年なので、それに合わせての翻訳出版で、ベストセラーになったと伝えられている。この『にんじん』の戦前版は未見だが、昭和二十五年二月刊行版は入手していて、これは戦前版の再版だと思われる。なぜならば、四六判並製、旧仮名のままであるからだ。ちなみに裏帯には辰野の『仏蘭西文学』の『にんじん』紹介の一文が使われている。

f:id:OdaMitsuo:20180904111201j:plain:h115 (戦前版)f:id:OdaMitsuo:20180904153204j:plain:h120(戦前版)f:id:OdaMitsuo:20180904110310j:plain:h120(昭和二十五年版)にんじん(DVD)

 『白水社80年の歩み』を確認すると、その後の昭和三十四年に戦後版と見なしていい合判函入の『にんじん』の刊行が挙げられている。それはロングセラーで、図書館などでも容易に見られるが、そこには先の昭和二十五年二月刊行版になかった「あとがき」が付され、「版をあらためる」に際し、新かなづかいと当用漢字の制限によったことが述べられている。その日付は昭和二十五年九月とあるので、同年に『にんじん』は戦前版の重版と、「版をあたらめ」た新版で出たことになる。これは『日本出版百年史年表』でもふれられていないけれど、この時代における「新かなづかい」と「当用漢字の制限の実施」が、戦後の出版界に与えた影響に関して、まさにあらためて一考すべき事柄なのかもしれない。
f:id:OdaMitsuo:20180904112451j:plain:h120(昭和三十四年版)

 それはともかく、『ルナアル日記』のほうは昭和十一年刊行の第三巻を入手している。それは「1902-1903」に当たるもので、『にんじん』収録の「年譜」によれば、「戯曲『別れも愉し』仏蘭西座に上演さる。/フィガロ紙の寄稿家となり、文芸時評を担当す。/戯曲『ヴェルネ氏』アンドレ・アントワアヌに依つて初演さる」の年月である。日本では明治三十六年から三十七年にかけてということになる。この巻には十六枚の写真が挿入されているが、そこには仏蘭西座での上演やアントワアヌ座での『ヴェルネ氏』初演も含まれている。

 辰野は『ルナアル日記』からアフォリズム的文章を紹介することに専念しているけれど、ここではそれよりもきわめて散文的な部分を引いてみる。それは一九〇二年八月二日のところである。

 シトリイ。初めて来たのだが、名前を隠しておきたかつた。今しがた、宿屋の前を通ると、人人が大声で話をしてゐるのが聞えて、そのうちの一人は、それでも声を抑えながら、殆んど叫ぶやうに、「にんじん!」と云つた。私もいつかは振り向いてかう答へねばならないやうなことになるのだらうか―「ぢやあ、君の名はなんていふんだ! ならずものか、それとも道楽者か?」。にんじんの物語がまた始まり、そして私にとつてこの国が住むに堪へない国となるのだらうか?
 なんといふことだらう。私が八十まで生き永らへることにでもなつて、「辣腕を振ふ」村長にならねばならなかつたとしたら、村の小僧たちは私をにんじんと呼びながら、私の後を追ひかけるだらう。

 これを補足すれば、『にんじん』は自らの少年時代をモデルとしたもので、赤毛のためににんじんと呼ばれ、母親からいじめられた体験をベースとしている。したがってシトリイの村でも自分がそうなるのではないかと語っていることになる。先の「年譜」によれば、『にんじん』の出版の翌年の一八九五年に故郷のシトリイ村近くの農家を買い、そこで毎年四月から十月までを過ごすようになり、一九〇〇年には『にんじん』も戯曲化され、同年にシトリイ村会議員に選出されている。第三巻にはそのシトリイ村の写真の掲載もある。

 これらの事実からすれば、郷里にあってルナアルは『にんじん』の著者として有名で、そのことによって『にんじん』と呼ばれていたのである。それもあって、一九〇四年にはシトリイ村長となり、農村の改革を思い立ち、社会主義運動にも加わったとされる。まさに現実的に「『辣腕を振ふ』村長」となったわけだが、その詳細は「一九〇四年―六年」にあたる『ルナアル日記』第四巻に記されているのだろうか。それを読む機会をまだ得ていない。

 なお辰野によれば、日記の中にはルナアルと愛人の関係も詳述されていたが、それらはすべてルナアル夫人によって破棄されたという。


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古本夜話822 秦豊吉『伯林・東京』と岡倉書房

 本連載819のピチグリリ『貞操帯』に序を寄せた丸木砂土が本名の秦豊吉で、昭和八年に岡倉書房から『伯林・東京』というエッセイ集を出している。冒頭にはまず「秦生」名による「小序」が置かれ、それは丸木名による艶笑随筆的なものとまったく異なる秦の肉声がこめられ、昭和八年における自らの決意表明ともいえるトーンに染められているので、全文を挙げてみる。
f:id:OdaMitsuo:20180817110254j:plain:h120(『貞操帯』)

 学校を出て満十六年間、僕は三菱の一社員として勤めた。この三菱の大恩は、決して忘れ得ぬと共に、僕がこの永い間に叩き込まれたものは、長短ともに所謂三菱式以外に何もない。この微々たる一サラリイマンの僕を、幸ひにも拾い上げて下すつた新主人東宝劇場社長小林一三氏に、僕は旧主人三菱に仕へたその精神をそのまゝで仕へる以外に、何も出来ない所以である。
 この決心をした昭和八年は、僕にとつて重大な年だ。この年に出る第十四冊目の散文集は、他のどの一冊よりも、僕には大事である。僕の新主人の随筆集「奈良のはたごや」の後から、僕の本の出る事も、大いに嬉しい。これは出版元岡倉君の好意であらう。

 これには少しばかり注釈が必要なので、『日本近代文学大事典』などを参照し、補足してみる。秦は明治二十五年東京日本橋に生まれ、大正六年に東京帝大独法科を卒業し、三菱商事ベルリン支店に勤務する。昭和八年小林一三の知遇を得て、東京宝塚劇場に転じ、戦後に新宿の帝都座で日本最初のストリップ「額ぶちショー」をプロデュースし、二十五年には帝国劇場社長に就任する。叔父は松本幸四郎、同窓の友人には芥川龍之介や久米正雄たちがいて、その文才をたたえられ、マルキ・ド・サドをもじった丸木砂土名で多くの艶笑随筆を書く一方で、翻訳者としてゲーテ『若きエルテルの悲み』(『兄と妹』所収、聚英閣)やレマルク『西部戦線異状なし』(中央公論社)などを出している。
f:id:OdaMitsuo:20180902201601j:plain:h120(『西部戦線異状なし』)

 この自らの「小序」と補足からわかるように、秦にとって昭和八年は三菱商事のサラリーマンから東宝に転職した「重大な年」ゆえに、同年刊行の『伯林・東京』も「他のどの一冊よりも、僕には大事である」との思いもこめられるに至ったことになる。その言葉に違わず、同書はその文才と多様な観察眼、機知とユーモアが充全に発揮され、一九三三年=昭和八年におけるアクチュアルな伯林と東京を結んでの文化、社会レポートを形成している。「小序」から推測すると、それは東宝と小林へ提出する欧米派遣報告記とも考えられる。 

 昭和八年五月にレマルクを自宅に訪問した写真を中表紙に掲載した『伯林・東京』は三ヵ月に及ぶ伯林、巴里、倫敦、紐育をめぐる旅行記といっていい。それは「旅行」を始めとする十章立てで、それぞれの章に二編から五篇が収録され、いずれもが興味深く、すべてにわたって紹介したい誘惑に駆られるが、それは紙幅が許さないので、そのうちのいくつかをピックアップして挙げるしかない。

 秦にとって伯林は第二の故郷で、七年ぶりの訪れだったが、そこで買った初めての老眼鏡をかけて見ると、もはや変わってしまい、ヒトラー、ドイツ国民主義、ビスマルク主義の伯林で、バロック趣味の劇場には客が少なく、映画館では国粋映画が上映され、ユダヤ文士や芸術家は弾圧されていた。それからドイツ各地のラフスケッチがあり、欧米各地での芝居見物がレポートされ、次いでアメリカのシカゴ博覧会の日本館にいるカリフォルニア生まれの日本人二世の娘たちの、座ることを知らずに育った足の美、カリフォルニアの日光と果物によってもたらされた美しい肌を見出す。続いて巴里における黒い踊子ジョセフイン・ベエカアとの会見が実況中継のように語られる。

 そして都会における百貨店がゾラの『女の幸福』(『ボヌール・デ・ダム百貨店』伊藤桂子訳、論創社)を枕にして語られ、春の三越百貨店が対比、対照の運びとなる。その後に再びシカゴ博覧会に戻り、「博覧会は、近代世界都市の謝肉祭であらう。博覧会が一つのお祭騒ぎである意味において、陳列品を研究的に見せようとする展覧会とは、自ら区別しなければならぬ」というベンヤミン的なアフォリズムも発せられる。この「進歩の世紀」博覧会には「『生きてゐる不思議』とい片輪物の見世物」があり、それが東京で観た映画「怪物団」(トッド・ブラウニング『フリークス』)を想起させるとし、その「見世物」の詳細を述べ、さらに「闇の中の生活」「オオルド・プランテエシヨン・シヨウ」「神秘の寺院」などといったグロテスクな「見世物」をたどっていく。それは「進歩の世紀」どころか、「退化の世紀」であるようで、ここにおいて、アメリカの博覧会のコンセプトが「見世物」へと移行してしまったことを伝えようとしているのだろうか。
ボヌール・デ・ダム百貨店 フリークス

 その他にも紹介しておきたいエピソードが多々あるのだが、もはや紙幅も尽きたので、本連載にふさわしい、とっておきのものを最後に示し、終わりにしようと思う。秦はこの旅行の間、ずっと日本に残してきた妻のことを引き合いに出しているが、そのひとつに「おらが女房」とのタイトルで、それに続いて行替え、小文字で「を褒めるぢやないが(越後獅子)」を置き、次のような一文を書いている。

 妻は金持の娘だったが、持参金を持ってくることを忘れ、僕には金目のものなどの財産が何もない。
 僕の財産と言へば、本だけである。僕は微々たる収入を挙げて、本を買つてしまふ。そこでいつも乍ら貧乏してゐる。従つて僕と結婚する事によつて、妻の生活程度は、令嬢時代からみると、余程低下した訳である。
 そこで新婚間もなくである。僕は既に人生の前途暗澹たるを望んで、
 「おれが死んだら、お前、どうして暮すね」と訊いたものである。
 僕の妻は、可愛い目をしてゐる。その目を愈々あどけなくして
 「あたし、古本屋を初めますわ」
と答えた。

 それではお後がよろしいようでと、本来であれば、これで終わりとしたいのだが、もうひとつ付け加えておかなければならない。小林の随想集『奈良のはたごや』が『伯林・東京』の巻末広告に見え、両書が同年に出されたと確認できる。だがここでそのアウトラインがつかめないのは、発行者を岡村祐之、住所を神田区淡路町とする岡倉書房で、この版元もずっと留意しているけれど、まとまった紹介を見出せずにいる。それでも奥付にはめずらしいことに、校正渡辺清、装幀奥江徇との併記が見出される。本連載819などの建設社ではないけれど、この岡倉書房のこともまた、後にふれることになるだろう。


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古本夜話821 谷口武訳『現代仏蘭西二十八人集』とコント

 前回のカルコの『モンマルトル・カルティエラタン』において、これを映画とすれば、カルコ主演で、共演が詩人でコント作家のピエール・マコルランだと既述しておいた。この「コント」に関して教えられたのは、柳沢孝子の「コントというジャンル」(『文学』二〇〇三年3、4月号所収)によってであった。
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 それをラフスケッチすると、大正十二年にフランスから帰国した岡田三郎によって紹介され、実作を示したことで、大正末期から昭和初期にかけての「コント」の流行を見るに至った。その流行は『文芸春秋』や『文芸時代』と並んで、岡田三郎によって大正十四年に創刊された『文芸日本』(文芸日本社)が大きな役割を果たし、川端康成の「掌の小説」三十六編からなる最初の創作集『感情装飾』(金星堂、大正十五年)も、そのブームの中での刊行だとされている。
感情装飾 (『感情装飾』、ほるぷ出版復刻)

 確かに『日本近代文学大事典』にも「コント」は「conte(仏)。短編小説の一形式」として立項され、大正末から昭和初頭に流行し、「小説、掌編などとも呼ばれた。いわゆる短編小説よりもさらに短い体裁で人生の断面をエスプリ(うがち)をきかして軽妙に描き、ウイット、ユーモア、ペーソス、エロティシズム、さまざまなニュアンスをとおしての人生批評を含む」と定義されていた。

 しかしこのような日本における「コント」の流行の言説のかたわらに、それに先行する大正十二年に谷口武訳として新潮社から刊行された『現代仏蘭西二十八人集』を置いてみると、少しばかり異なった視座も見出されてくるように思われる。その前にタイトルの由来と訳者についてふれておこう。

 『新潮社七十年』に述べられているように、新潮社は国木田独歩の茅ケ崎の病院での療養費を援助しようとして、大冊の『二十八人集』を出版した。これは二葉亭四迷、島崎藤村、徳田秋声などを始めとする、ほとんど自然派の二十八人の作家や評論家たちで、編者は田山花袋と小栗風葉だった。この一冊は当時の新しい文壇の傾向を代表するものとして重要視され、新潮社の文学的出版として高く評価された。
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 その後に「新潮社と翻訳文学」の章が設けられているように、新潮社が次に考えたのは翻訳出版で、大正二年に、ダンヌンツイオ『死の勝利』(生田長江訳)に始まる「近代名著文庫」、四年にドストエフスキーなどを収録した第一次新潮文庫、九年にはフロオベエル『ボワ゛リイ夫人』(中村星湖訳)を第一巻とする『世界文芸全集』を刊行する。そうした長編をメインとした出版のかたわらで、まだ未紹介の作家たちに関し、短編を通じて発見しようという試みも続けられ、その一冊が『現代仏蘭西二十八人集』だったと考えられる。なお同書の巻末広告には、『露国十六文豪集』(衛藤利夫訳)、『英米十六文豪集』(宮島新三郎訳)も見えている。この二冊の訳者に関しては、本連載555、571で既述している。だが『現代仏蘭西二十八人集』の谷口武は、『日本近代文学大事典』の索引には見出されるのだが、立項されておらず、大正時代の早大英文科出身者を主体とする同人誌『十三人』(十三人社)の一人として出てくるだけである。
f:id:OdaMitsuo:20180818115208j:plain(『世界文芸全集』第18編)

 それゆえに谷口の詳細なプロフィルはたどれないけれど、『現代仏蘭西二十八人集』には欧米文学の動向に通じたジャーナリストの千葉亀雄が序文を寄せ、アメリカのボーから始まった短編小説はフランスにおいて、傑出したジャンルに発達したと述べ、次のように記している。

 全くフランスの短篇小説は世界芸術の光である。輝きである。ところがこゝで谷口君が訳して居る二十六篇のコントはその世界芸術の光であるところのフランスの短篇小説を更に三稜鏡に透射し、その光射のみを集めたと云つてもよいやうな、さうした世界に類の無い芸術様式である。近代芸術に類の無い芸術のアンソロジイである。何といつてもコントのやうな形式の芸術は、フランスの国民以外には一寸出来さうもないものである。そしてそれは前に挙げた、十九世紀の短篇小説に希求された条件のすべてを具へて居て、更にその条件の、精髄の身を蒸留したものが、差しあたりコントだからである。

 つまりここで、千葉はフランスのコントを十九世紀短篇小説の到達した近代芸術として捉えていることになり、続けていっている。「このコントのような芸術を、フランス以外のどこの国民、どこの芸術家がつくり上げ得ようと誰がいふのだ!」いうなれば、岡田三郎以前に、千葉は「コント」のイデオローグをして、『現代仏蘭西二十八人集』に「序文」を寄せていたのであり、コント流行の下ごしらえはすでになされていたことを告げている。それゆえに千葉は『文芸日本』の執筆者としても招喚されているのだろう。

 しかしその流行が短期間でついえてしまったのも、わかるような気がする。その二十八人のうちで、こちらがわかるのは「ヂタネット」のコレットだけで、あとの二十七人はほとんど名前を聞いたこともない作家たちなのである。この『現代仏蘭西二十八人集』とコント流行の関係はつかめないけれど、そうした動向と無縁ではないと思われる。


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