出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話756 富永董、北野博美、地平社書房「民俗芸術叢書」

 本連載749、750と続けて小寺融吉の本を取り上げてきたが、書き終えてから、浜松の時代舎に出かけ、柳田国男の『民謡の今と昔』を見つけた。これは昭和四年に地平社書房から刊行されたものである。四六判一四六ページの地味な本で、調べてみると、筑摩書房の旧版全集『定本柳田国男集』第十七巻に収録で、かつて読んでいたことをすっかり忘れてしまっていたのである。

f:id:OdaMitsuo:20180207174232j:plain:h120定本柳田国男集
 
 それだけでなく、同巻には『民謡覚書』(創元社、昭和十五年)の収録に加え、その「月報」の町田嘉章「私が柳田先生から受けた大恩」には、昭和十六年五月の柳田と小寺の汽車内での写真掲載、及び小寺が十九年に病没したとの証言がある。町田は昭和戦前のNHKの邦楽番組担当者で、柳田を通じて、小寺と『日本民謡大観』を編んでいるという。とすれば、本連載750の『をどりの小道具』は戦前のものの再版、もしくは宮尾しげをによって編まれた小寺の遺稿集とも考えられる。

民謡覚書 をどりの小道具

 また同じく『定本柳田国男集』第七巻には、『踊の今と昔』(『人類学雑誌』所収、明治四十四年)を始めとする踊に関する論考も見え、柳田が小寺たちの先達として民謡や踊にも着目していたことを、あらためて教示してくれる。そのような柳田の仕事を失念していたのは、彼が芸能に関しての注視を払っていなかったという私的な思いこみによっていると反省するしかない。

 それに『民謡の今と昔』の購入は新たな発見をもたらしてくれた。これは本連載749でふれた雑誌『民俗芸術』に端を発する「民俗芸術叢書」の一冊で、既刊として小寺融吉『芸術としての神楽の研究』、近刊として中山太郎『祭礼と風俗』が挙がり、「月刊学術雑誌」としての『民俗芸術』とその『合本』の案内も掲載されている。それは『民俗芸術』の発行所が地平社書房に移っていたことを告げている。しかもその発行者は富永董なのである。やはり本連載749において、小寺の『郷土民謡舞踊辞典』の前版が『日本民謡辞典』で、それは壬生書院の富永によって刊行されたことから、彼は民俗芸術の会の関係者ではないかと記述しておいたが、まさに当事者に他ならなかったことになる。しかし富永も「本屋風情」のゆえなのか、『柳田国男伝』にもその名前は見当らない。

郷土民謡舞踊辞典 (『郷土民謡舞踊辞典』復刻) f:id:OdaMitsuo:20180131142506j:plain:h110

 さらにこれも『民謡の今と昔』の本体ではなく、そこにはさまれた「北野博美謹記」とある一枚の「お詫びの言葉」によって、本連載442などの北野が「民俗芸術叢書」の編輯者であることを知った。これは小さな投げ込みといっていい一枚なので、失われている確率が高いこともあり、その全文を引用してみる。

 此集の中、「民謡雑記」の一篇は、本叢書編輯の任にある小生が、風吹き荒む二月の末、無理に先生に訖うて筆録させて貰ったものであります。然るにいろゝゝな事情の為に其浄書が非常に遅れ、鉛筆の走り書きが消えさうになつてもまだそれが出来上らなかつたといふことは、先生に対して勿論、広告によつて疾くから註文を寄せられた読者諸氏にも、十分にお詫びをしたいと思ふのでありますが、今となつては、殆んどその言葉もありません。今日只今、微かな記憶と走り書きとを頼りに漸くこれを書上げました。只々、書上げて残念にも不安にも思ふ一事は、さうした事情の為に、折角話して頂いた先生の深遠なご研究の論旨を、少なからず不徹底ならしめたこともやあらんかと恐れせしめられることであります。発行の遅延に就いては一切を黙するとしても、これだけのことは是非述べて置かねばならぬ責を感じて此一筆を書添へました。先生並に読者諸氏の御諒恕を請ふ次第です。

 あえてここにそのまま全文を引いたのは、もはやほとんど読むことができないものであろうし、柳田の著作のかなりの部分がこのような聞き書きによって成立していると思われるからである。北野が別刷でここまで「お詫びの言葉」を発信した事情はダイレクトに伝わってこないけれど、柳田のことだから、何らかの理由が含まれているに違いない。『定本柳田国男集』第十七巻は「あとがき」で北野の口述筆記にふれているが、柳田の「朱筆訂正本」を採録したとある。だがそれは送り仮名の追加だけで、まったく内容は変わっていない「朱筆訂正本」だと思われる。

 最近になって、今村欣史による宮崎修二朗の聞書『触媒のうた』(神戸新聞総合出版センター)が出されたことで、「のじぎく文庫」の一冊として企画された柳田の自伝ともいうべき『故郷七十年』(朝日新聞社、講談社学術文庫)にまつわる未公開のエピソードを教えられた。柳田がエリート主義者であること、岡茂雄の『本屋風情』 (中公文庫)ではないけれど、とりわけ出版者や編集者に対して冷淡で、そのわがままぶりを承知していたが、戦後も同様だったようだ。その反映もあってか、柳田の周辺には多くの出版者や編集者がいたはずだが、それらの人物についての言及はきわめて少ない。そのことも作用して、『柳田国男伝』にしても、出版者や編集者の登場は多くなく、北野にしても姿を見せていない。
触媒のうた 故郷七十年 本屋風情
 それから『民俗芸術』のことだが、以前にその創刊号広告を見た記憶があり、それが『民俗』(復刻 岩崎美術社)だと思い出し、繰ってみると、昭和三年三月号に掲載されていた。その目次には折口信夫「翁の発生」、柳田「人形舞はし雑考」とともに、小野寺融吉「日本と欧州の娯楽的舞踏の比較」と北野博美「奥沢九品仏の連迎会に詣でて」も並び、発行は地平社書房で、『民俗芸術』の編集は富永や小寺や北野が中心となっていたことがうかがわれる。


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古本夜話755 畝傍書房と棚瀬襄爾『民族宗教の研究』

 少しばかり飛んでしまったが、この際だから、ここで昭和十六年に畝傍書房から刊行された棚瀬襄爾の『民族宗教の研究』をはさんでおこう。この出版社名は日本の古代文化をイメージさせる奈良の地名を借用したと見ていいし、本連載741などの森本六爾や樋口清之、あるいは保田与重郎が畝傍中学出身だったことも想起させる。ただもちろんのことだが、奥付の住所は麹町区九段一丁目で、発行者は吉村清となっている。

 巻末の既刊書広告には久松潜一、志田延義共著『古代詩歌に於ける神の概念』、折口信夫序、西角井正慶著『神楽歌の研究』、山田孝雄序、堀重彰著『日本文法機構論』、山田孝雄編『連歌青葉集』などの国文学や日本語学を始めとする研究書も並んでいる。これらに国学院大学教授だった折口が「序」を寄せていることは、著者たちがその弟子筋にあたるとも考えられるので、畝傍書房は国学院と関係が深いのかもしれない、

 だが発行者の吉村の名前は『出版人物事典』はもちろんのこと、『日本出版百年史年表』にも見つからない、そこで念のために、『出版文化人物事典』(日外アソシエーツ)を見てみると、ダイレクトな立項ではないけれど、参照先として三人の名前が挙がっていた。
出版文化人物事典

 それらは岡村千秋、唐沢好雄、宮本信太郎である。岡村は柳田国男の出版事業を担い、拙稿「岡村千秋、及び吉野作造と文化生活研究会」(『古本探究3』所収)などで言及しておいたように、郷土研究社を経営し、『郷土研究』や「炉辺叢書」などを刊行していた。その岡村が晩年、畝傍書房に入社したが、病を得て仕事をするには至らなかったことが記されていた。唐沢はその営業部にいて、戦後に桃園書房を創業し、宮本は中央公論社の社員で、企業整備で畝傍書房が吸収された際に出向したとされる。したがって畝傍書房の関係者が挙がっているだけで、発行者の吉村清に関しては何もわからないままであった。
古本探究3

 このように『民族宗教の研究』の版元に関しては、はっきりとしたプロフィルをつかめないけれど、著者については『文化人類学事典』(弘文堂)に見出せるので、それを引いてみる。

文化人類学事典

 たなせじょうじ 棚瀬襄爾 1910~64
 日本における宗教民族学の発展に寄与した人物。東京帝国大学で宗教学を学び、とくに宇野円空の影響を受けて宗教民族学の研究に専念した。宗教現象の静態的分析は宇野によって完結されたとし、宗教の動態を社会文化的脈絡を背景に理解する機能主義的宗教観を解明したが、歴史主義を退けるのではなく、多様な宗教の歴史的、民族誌的事実の解明は、宗教の基本構造の研究にとっても不可欠であるとして、これを重視した。(後略)

 これによって、宇野が『民族宗教の研究』に「序」を寄せている事情がわかる。宇野が新しい分野として開拓したとされる宗教民族学を継承したのが棚瀬ということになる。その「序」によれば、棚瀬は大学院を出た後、本連載580の東亜研究所にあって、フィリピン、蘭領東印度から太平洋諸島の未開民族の宗教現象、及び民俗文化との諸関係を研究し、その研究成果の一部をまとめたものが『民族宗教の研究』とされる。

 また棚瀬の「自序」には本派本願寺からの奨学金のことやもうひとつの名前の「日出麿」の記載からすると、宇野と同様に、棚瀬も本願寺派の寺院出身だったことから、宗教民族学に向かったのかもしれない。そこには校正刷を待つうちに、召集令状に接したとの「追記」もある。先の立項において省略してしまったけれど、応召前に宗教民族誌を渉猟し、まとめた『東亜の民族と宗教』(河出書房、昭和十九年)が挙がっているが、それらに先んじた著『民族宗教の研究』に他ならない。

 同書は「原始宗教研究序論」を始まりとして、第一部「原始宗教学の批判的研究」、第二部「原始宗教と原始文化」、第三部「民族宗教の形態」から構成され、「主要原始民族分布図」も含め、菊判上製四九五ページに及び、さらに「宗教民族学文献目録」六八ページが付け加えられている。これらのことから推察されるように、この一冊は欧米と日本の二十世紀前半における原始宗教と未開民族文化に関する集大成、及び案内といった色彩が強い。

 とりわけ興味深いのは第一部で、原始宗教学説としてのエドワード・タイラーのアニミズム理論、アンドリュー・ラングや本連載514のマックス・ミューラーなどによる、その継承と発展、R・H・コドリントンが伝えた呪術的宗教的現象の根源、ないしは本質として想定されるマナ、マナを基本観念に宗教を見るマナ説、ウィルヘルム・シュミットの原始至上神と一神教論、北方民族の原始宗教と見なされるシャマニズム、その研究の対象としてのシャマンの服飾、フレイザーの呪術論などが言及されていく。私も本連載730で、シャマンの姿や太鼓などにふれているが、ここでもそれは絵入りで五ページにわたっている。

 おそらくこのような棚瀬の『民族宗教の研究』の中に提出されているのは、欧米の宗教民族学がたどりついた研究の綜合的位相であり、それに大東亜戦争下における日本の研究がどのようにして架橋するのかという試みであったようにも思える。まだ入手していないが、『東亜の民族と宗教』にはそれらのことが具体的に表われているのかもしれない。

 ここで言及している欧米の著作が、やはり同時代に翻訳刊行されたりしているので、後に続けてそれらにふれたい。

 その後、畝傍書房の竹内芳衛『第六感』(昭和十七年)を入手したが、これは四六判並製の啓蒙的科学、医学書で、巻末の刊行書目から見て、戦時下の進行につれ、学術書からそれらの分野の出版へと移行していったように思われる。
第六感


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古本夜話754 桑原天然「精神霊動」シリーズと開発社

 拙稿「心霊研究と出版社」(『古本探究3』所収)で、日本心霊学会の刊行書目を挙げ、大正十三年に渡辺藤交の『心霊治療秘書』が出されていることを既述しておいた。本連載137でもふれておいたように、この渡辺藤交こそが、『出版人物事典』などに立項されている人文書院創業者の渡辺久吉に他ならない。

古本探究3  出版人物事典

 井村宏次の『霊術家の饗宴』(心交社)に「孤高の霊術開祖・天然」と題する章があり、そこに渡辺が見出される。
霊術家の饗宴

 天然の死後、彼の影響をうけた初期霊術家たちは、続々と〈病気治療〉を看板に、名乗りをあげていった。影響力の強かった人物を一、二あげると、まず天然の真弟子では「思念術」の開祖・松橋吉之助、京都人文書院の社長で霊術家を兼業した渡辺藤交(日本心霊学会)などである。松橋の霊術は〈祈り〉観念力治療、渡辺のそれは。おさすりとお手かざしであって、メスメリズムの系統を引き継いだものであった。彼らの扱う患者たちは西洋医学からも漢方からも見放された人々が主であった。

 この渡辺の師である桑原天然=俊郎の著書を入手したので、それを参照し、井村の記述もたどりながら、桑原の軌跡を追ってみよう。桑原は明治六年岐阜県生まれで、三二年高等師範を卒業し、静岡師範に漢文教師として赴任する。そして書店で近藤嘉三『魔術と催眠術』(頴才新誌社、明治二十五年)に出会う。これは未見だが、一柳廣孝が『〈こっくりさん〉と〈千里眼〉』(講談社)の中でその書影を示し、明治二十年代の「精神の感通作用」と催眠術をめぐる風景の一端が集約されていると評している。
『〈こっくりさん〉と〈千里眼〉』

 福来友吉の科学的な催眠術研究書の『催眠心理学』(成美堂書店)の刊行は明治三十九年であることから、近藤の『魔術と催眠術』の出版が先駆けていたとわかるし、桑原は同書に魅せられ、「精神の感通作用」=「神通力」と催眠術を会得し、それは病気治療へと向けられていく。明治三十六年に静岡師範を退職して東京に転居し、麻布中学の教師となる。そして自宅に精神研究会を設立し、号を天然と称し、病気治療とそのプロバガンダに励み、独自の「精神学」の到達し、三十九年に三十四歳にも充たない人生を終えることになる。だが井村によれば、その間に「たちまち名声嘖々とし、全国区から弟子志願の者たちが参集してきた」という。おそらくその一人が京都仏教専門学校在学中の渡辺久吉だったのではないだろうか。

 それにまた、このような病気治療とプロバガンダに際し、必ず併走する出版社が存在する。桑原の場合、それは開発社で、入手したのは「精神霊動」第二編『精神論』、明治三十七年五月初版、同三十八年十月六版である。菊判和本仕立ての二九五ページの一冊で、巻末広告を見ると、その第一編が『催眠術』、第三編が『宗教論』だとわかる。その他の著書として、『安全催眠術』、『実験記憶法』、その門人中堂謙吉『催眠術に於ける暗示法』が掲載され、さらに幕内椿三郎『催眠学独修』、渡辺龍聖『倫理学序論』も挙がっているけれど、開発社が桑原の著作を主とする出版社であることは明らかだ。
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 ちなみに第十三版とある『催眠術』の広告文を引いてみる。そのレイアウトは大文字、小文字、二行組からなるが、引用は通常文とする。

 催眠術が、器質的疾患を治し得ることを破道せるは、実に、桑原天然氏を以て、嚆矢とす。(機能的疾患の治癒するは無論)同氏の手により、或は同氏門人の手によりて、肺結核、皮膚病、痳病、近視眼、僂麻質斯等の全快せしもの僂指に遑あらず。其理を知らむと欲するものは斯書を看よ。日露交戦の今日、仁川に於ける露艦二隻の沈没といひ陸軍が廿八にちに定州を占領したる其日限といひ、共に、之を一ケ月も前に予知したるは、是れ催眠術に於ける通力作用なり。天然氏は之を某男爵と某伯爵とに語り置かれしが、果然、正鵠を得て、伯爵男爵をして驚嘆せしめられたり。其理を知らむと欲するものは斯書を読むべし。本書は悉く実験を基礎とし精神音妙用、宇宙の活動、説き尽くして余蘊なし。今や第十三版成る請ふ講読あらんことを。

 ここに「同氏門人」という言葉が置かれているが、これが先の中堂や渡辺たちであり、同時に彼らは開発社の編集や営業にも携わっていたと思われる。そのようにして渡辺は催眠術や病気治療だけでなく、出版活動も学び、京都に戻って日本心霊学会を立ち上げたのではないだろうか。

 ところでこの開発社だが、その住所は神田区小川町、発行者は辻太とある。『日本出版百年史年表』を繰ってみると、開発社は明治十八年に大竹次郎によって創業され、『教育時論』を創刊とある。つまり開発社は師範学校絡みの出版社のように推測される。印刷者は本連載526などの河本亀之助と国光社であり、さらに驚くのは巻末一ページの「各府県売捌所」一覧で、全国の特約取次と書店は八十に及んでいる。明治三十年代としては全国の、地方取次を兼ねる主要書店を網羅していて、桑原の「精神霊動」シリーズを始めとする催眠術と病気治療書が広範に売れていたことを物語っていよう。

 なおそこには静岡市の場合、吉見義次が挙がっていることからすれば、桑原が『魔術と催眠術』を買い求めたのは、吉見書店だったと見なしていいだろう。

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古本夜話753 カーリングトン、関昌祐訳『現代心霊現象の研究』と福来友吉

 二回続けて人文書院の文芸書にふれてきたが、拙稿「心霊研究と出版社」(『古本探究3』所収)や本連載137で言及しておいたように、人文書院は日本心霊学会としてスタートしている。その拙稿で、大正十三年から十五年にかけての日本心霊学会としての出版物を挙げておいたが、H・カーリングトン著、関昌祐訳『現代心霊現象之の研究』から始まっている。
古本探究3

 日本心霊学会は昭和二年に人文書院と改名されるけれど、八年に『現代心霊現象之研究』を『現代心霊現象の研究』として再び刊行している。それは拙稿で既述しておいたように、明治四十年代において、催眠術研究者、及び千里眼事件のプロデューサーともいえる福来友吉の『心霊と神秘世界』(復刻、心交社)の出版との関連を推測できる。実際に入手した『現代心霊現象の研究』の巻末広告には「最新刊」として、同書と『心霊と神秘世界』が並び、その事実を裏づけているように思われる。
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 それは福来が『現代心霊現象の研究』に「序」を寄せていることにも表われているし、おそらくこの「序」は初版からの転載であろう。そこで福来は「生命主義の宣伝者」として、科学万能の思想の行き詰まりを打開し、生命を物心即応の活動と見なそうとする「生命主義」の立場から、心霊研究への期待を述べ、「私の友人関昌祐君」の訳業に華を添えている。著者のカーリングトンは米国で著名な哲学博士、関は「米国心霊協会会員」との肩書が付され、関のほうは再版に際し、新たに「序文に代へて―心霊研究の態度と立場」を掲載している。

 それによれば、関の心霊研究は二十二年に及び、カーリングトンが『現代心霊現象の研究』を書いた時代に比べれば、現在は物質主義から心霊研究を否定する者がほとんどいなくなったことが一大変化だと述べている。だがすでにオランダで第四回世界心霊主義者大会が開かれている一方で、SPR(英国心霊研究協会)では心霊研究とスピリチュアリズムの対立が起きている。この科学的研究と宗教的信仰に対し、関は「その中庸を心得とすべきこと」としてきたけれど、霊魂に対する「非同情的研究方法よりか、一歩を進めて同情的且つ崇拝的とならぬ迄も愛敬的、乃至霊魂の人格を認めた方法に拠るべきではなかろうか」という立場に自らを置いていることが告白されている。

 それは日本の心霊研究において、関が他ならぬ福来友吉に寄り添ってきたことを伝えているし、その「凡例」には『現代心霊現象の研究』の翻訳出版も、福本の斡旋によることが記されている。福来は東京帝大助教授として催眠術と近代心理学と心霊研究をドッキングさせることを試み、明治四十三年に千里眼女性の御船千鶴子による透視、念写実験を敢行し、そのことで大正二年に大学の職を追われてしまう。その後福来は大日本心霊研究所を設立し、ロンドンにおける第三回国際心霊研究者会議(先述の世界心霊主義者大会と同じ)にも参加し、高野山大学教授に就任するに至る。これらの福来の軌跡に関しては前掲の拙稿に、千里眼事件も含め、詳述しているので、必要であれば参照されたい。

 その福来と併走するようにして、『現代心霊現象の研究』は翻訳出版されたと見なせるし、しかも第八章は「心霊写真」と題され、福来も登場しているので、その最初の部分を引いてみる。

 また欧州大戦の少し前に、東京大学の福来博士は観念写真即ち念写に関する彼の実験結果を集めて一著書を公表して居る。吾人の見る限りに於て其間何等詐偽の行はれ得る余地が無いのである。此等実験は凡て数人の科学者の立合の下に而も職業的霊媒にあらざる能力者に就いて行はれたものである。最初は二人の婦人(御船千鶴子、長尾夫人)―但し両人とも今は故人となつて居る―に就いて実験し、(中略)成功したものである。実験の方法としては、カメラは一回も使用せず、乾板を包装の儘にて能力者の前に置き、而も大抵の場合には、数枚の乾板を重ねたる儘包装を施して置いて、其内の一枚或は二枚を任意に選定して、それに念写する様にしたものである。

 この後に長尾夫人による念写写真三枚が掲載され、それに米国の心霊写真が続いている。ここで福来の「一著書」とされているのは『透視と念写』(宝文館、大正二年)のことであり、この念写事件は光岡明の『千里眼千鶴子』(文藝春秋、昭和五十八年)に詳細に描かれている。

千里眼千鶴子 (福来出版、復刻版)透視と念写

 さらにつけ加えておけば、「凡例」には「第八章心霊写真の章中で福来博士の報告に関する部分は原著の記事を全然取り替ひ、其趣旨に従て博士が新しく執筆せられたものである」との断わりが見られる。これらの『現代心霊現象の研究』における福来の痕跡、大正十四年に福来の『観念は生物也』、翌年に同じく『精神統一の心理』が日本心霊学会から続けて刊行されていることは、日本心霊学会も福来とともに歩み、彼の集大成ともいうべき昭和八年の『心霊と神秘世界』の刊行と、『現代心霊現象の研究』の復刊からしても、人文書院と改名した後も、その背後にはそれらの出版人脈との関係が続いていたにちがいない。

 なお三浦清宏『近代スピリチュアリズムの歴史』(講談社)を読んでみても、カーリングトンと米国心霊協会のことは出てこないし、不明のままである

近代スピリチュアリズムの歴史


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古本夜話752 人文書院の文芸書出版と『文芸日本』

 前回の丸岡明『或る生涯』の巻末広告を見ると、昭和十年代半ばの人文書院が『作家自選短篇小説傑作集』だけでなく、多くの文芸書を刊行していることがわかる。そこには佐藤春夫『むさゝびの冊子』、岸田国士『時・処・人』、吉江喬松『朱線』、正宗白鳥『一日一題』なども挙げられ、私の手元にも、やはり同様の相馬御風『土に祈る』、河井酔名『南窓』、芳賀壇『司祭と法則』がある。

 本連載138で、昭和十四年に出された円地文子の随筆集『女坂』を取り上げているが、『或る生涯』の巻末広告には円地の夫である、外務省情報部、東日元調査部の円地与四松『世界の変貌』も掲載され、おそらく妻の出版に絡んで夫の著書も上梓となったのではないかと思われる。関西在住の河井や芳賀はともかく、これらの東京在住の著者たちのことを考えれば、この時代に人文書院は創元社と同様に、東京支店に当たる編集部が置かれていたと推測できる。奥付の人文書院住所は京都市河原町二條下ルとあるだけだが、現在とはまったく著者人脈、通信事情といった出版編集インフラが異なっているわけだから、そのように見なすべきだろう。

 人文書院の大正創業期から昭和戦前までの出版物は『京都出版史明治元年―昭和二十年』(日本書籍出版協会京都支部)に収録され、それらの明細は把握できるけれど、社史が刊行されていないこともあって、そうした昭和十年代の企画編集事情は詳らかでない。

 しかし人文書院だけでなく、関西の出版社が東京に進出していたこと、及びそれらの出版社にしても、この時代には想像する以上に小説を始めとする文芸書出版が盛況で、多くのシリーズの刊行を見ていたことも紛れもない事実である。それは高見順が『昭和文学盛衰史』(文春文庫)で描いている同人雑誌の隆盛と併走していたと思われる。だが当然のことながら、高見の視点は主として文壇や文学者たちの動向に置かれ、出版社や編集者の内実、あるいは同人雑誌群と出版企画の結びつきにはほとんど注視が及んでいない。そうした意味において、『昭和文学盛衰史』は昭和の同人雑誌ムーブメントに最も言及している文学史といえるのだが、出版史と併走しているとは言い難い。ただそのような同人雑誌ムーブメントを抜きにして、昭和の文学書出版は語れないだろう。
昭和文学盛衰史

 それは人文書院にしても同様だし、例えば、前回の『作家自選短篇小説傑作集』も、同人雑誌と不可分であろう。この編集企画の背景には『文芸日本』の存在がうかがわれる。同誌は『日本近代文学大事典』に立項されているので、それを要約してみる。

 昭和十四年に編集発行人を牧野吉晴とし、文芸日本社から刊行された文芸雑誌で、尾崎士郎、富沢有為男、大鹿卓、浅野晃、中谷孝雄たちを同人とする。「文学をもつて政治の原理をつらぬかん精神」で創刊され、昭和十年代の文学界、芸術界への国家統制に抗する意図もあったとされ、当初は美術写真なども含んだ文芸総合雑誌だった。だが十五年の大政翼賛会結成以後、「国家的使命を果す」文学路線へと急傾斜し、「聖戦完遂」という政治に奉仕する文学雑誌になっていったとされる。

 あらためて『作家自選短篇小説傑作集』の中から『文芸日本』同人を挙げれば、『夫婦』の富沢有為男、『千島丸』の大鹿卓、『春』の中谷孝雄が該当するし、浅野晃は小説ではなく、評論集『悲劇と伝統』を出している。また『或る生涯』の丸岡明にしても、「序にかへて」で、出版は大鹿卓の勧めによるものだとの謝辞を述べている。これらのことを考えれば、『同傑作集』は『文芸日本』の同人を中心とし、その近傍にいた作家たちも動員され、企画刊行されたことになろう。そして当初の『文芸日本』の創刊意図とクロスするようなかたちで、丸岡の「或る生涯」も収録されたとも見なせよう。

 尾崎士郎の著書は掲載されていないが、本連載722でふれたように、昭和十五年に新潮社から『成吉思汗』を上梓していることからすれば、『文芸日本』の行方を暗示するものだったかもしれない。またそれは同132の、やはり牧野吉晴を編集人とする文芸雑誌『東洋』、それに掲載された富沢有為男の小説『地中海』ともリンクしているようにも思える。富沢は昭和十二年に『地中海』で、芥川賞を受賞し、新潮社からの刊行を見ているが、十三年には『芥川賞全集』第五巻としても出版されている。
成吉思汗(外函)

 この『芥川賞全集』は発行所を書物展望社と新陽社とするもので、編輯発行人は斎藤昌三となっている。だがこれは書誌研究懇話会編『全集叢書総覧新訂版』によれば、五冊出されただけで完結に至らなかったようだし、川村伸秀の評伝『斎藤昌三 書痴の肖像』(晶文社)にも挙げられていない。
全集叢書総覧新訂版斎藤昌三 書痴の肖像

 ただ私の推測によれば、この麹町区内幸町大阪ビルに住所を置く新陽社のほうが、人文書院の東京編集部と何らかの関係があったのではないかと思われる。本当に文芸書の分野においても、大東亜戦争下の出版は錯綜していると思わざるをえない。


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