出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話908 ヴント『民族心理より見たる政治的社会』

 前回の比屋根安定によれば、タイラー『原始文化』の所説はヴントの『民族心理学』へと継承されたこともあって、比屋根は後者も誠信書房から翻訳している。ただこれは全十九巻からなる『民族心理学』を要約した『民族心理学要論』の翻訳であるようだ。
f:id:OdaMitsuo:20190331151211j:plain:h115(誠信書房版)

 『世界名著大事典』の解題に従うと、『民族心理学』は一九一一年から二〇年にかけて出版され、第一、二巻が言語、第三巻が芸術、第四巻から六巻までが神話と宗教、第七、八巻が社会、第九巻が法律、第十巻が文化と歴史という構成で、そのうちの第八巻だけが日本評論社から平野義太郎訳で刊行されている。本連載582ではないけれど、またしても平野義太郎と日本評論社の組み合わせで、日本評論社も全出版目録を残していないことが残念でもある。日本評論社から出た同604の千倉書房のように全出版目録を出していれば、支那事変以後の出版物の明細を知ることができるのだが、それは現在からすると、収集が難しいだろう。
世界名著大事典

 それでもこの平野訳『民族心理より見たる政治的社会』は入手している。菊判函入、上製四二八ページで、『民族心理学』を全訳するならば、五千ページに及んでしまうと推測され、製作費や販売のことを考えても、全訳の難しさを教えてくれる。それらのことはタイラー『原始文化』にも共通しているし、民俗学や人類学の古典の全訳の困難さは今世紀に入っても解消されるどころか、さらに難しくなっているといえよう。そうした意味において、『民族心理学』がその一巻だけでも翻訳出版されていたのは僥倖だったかもしれない。しかも手元にある同書は昭和十三年発行、同十六年五刷とあり、順調に版を重ねているとわかるし、それは翻訳が待たれていたことを示しているように思われる。
f:id:OdaMitsuo:20190401154356j:plain:h120(『民族心理より見たる政治的社会』)

 『民族心理より見たる政治的社会』は口絵写真としてヴントの肖像を掲げた後、一九三二年にライプチヒ大学でヴント生誕百年祭がもたれたが、時を同じくして、東京帝大心理学教室にてヴント祭を催したとあり、その後に「訳者序言」が続いている。そこで平野はヴントの民族心理学に関して、次のように述べている。

 民族心理学は、民族の生成・発展・継起するその連関・共通所産なる言語・習俗・宗教・神話・芸術・法律・親族形態・社会結合の諸形態、文化・歴史における発展の普遍的法則を明かにし、精神発達の内面的心理法則を究明するのであるが、「諸民族生活の広範な諸連関にわたる発展を、その普遍的な合法則性の下に理解せんとする方法」(本訳書三八五頁)、民族心理の発展に貫徹するその原理こそは、史学・民族学・人類学といはず、あらゆる科学の原理たるべきものに外ならない。

 またその民族とは血縁に基づく出自、祖先、言語、礼拝、宗教、習慣、法律生活などの歴史と文化の共通性を基礎とし、連繋して保たれ、協同体意識による担われる「人間の社会結合集団(族)」とされ、ここでは民族と国民は区別されている。

 その心理学の体系も包括的で、方法は構成的で、それをベースにして、十九世紀から二十世紀にかけての民族学、民俗誌、人類学、法律学、史学、経済学の成果を網羅するものとなり、その心理学的発展法則を樹立するのである。

 このようなヴントの『民族心理学』の第八巻『政治的社会』が『民族心理より見たる政治的社会』として翻訳されたことになる。具体的に八章からなるタイトルを示したほうが解説を試みるよりも有効であると思われるので、それらを挙げてみる。

1 部族より国家への転換過程
2 政治的発展の時代における婚姻と家族
3 所有権の進化
4 所有物転換と経済的交易
5 国家と宗教
6 政治的社会の諸編制 民俗、民族学的
7 都市の創建と身分の区分
8 国家諸形態に関する民族心理学法則

 先述の「民族」や「心理学」についての説明、及びこれらの章タイトルを見ただけでも、この一冊の奥行きをうかがえるだろう。また原書にはない訳者が付した三一の挿図はそれらをフォローしている。そのことからも、『民族心理学』の全体がいかに広範にして個別的で、しかもそれらを連関させる体系として提出されているかが推測できる。

 ただ残念なのは、同書にはタイラーの『原始文化』への言及が一ヵ所しか見られないことで、それは死者の占有物を侵奪する恐怖に関しての原始的動機を説明した「註」としてだけである。やはり「政治的社会」ということもあって、『原始文化』からの継承はわずかしか見られず、第四巻から六巻にかけての「神話と宗教」のところに表出しているのだろうか。

 しかし『原始文化』は洋書のペーパーバック版を入手しているが、『民族心理学』のほうは、最初に挙げた、その要約とされる比屋根訳『民族心理学』を読むことで確かめるしかないだろう。

Primitive Culture


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古本夜話907  タイラー『原始文化』

 前々回、画期的な写真集である熊谷元一『会地村』に関し、柳田国男からの言及がなかったことにふれたが、それは民俗、民族学の翻訳書も同様だと思われる。
 f:id:OdaMitsuo:20190326172750j:plain:h115(朝日新聞社版)

 本連載755の棚瀬襄治『民族宗教の研究』や同758の南江二郎『原始民俗仮面考』には重要な基礎文献として、エドワード・タイラーの『原始文化』が挙げられている。この翻訳は両書に記載されていないし、それは『世界名著大事典』(平凡社)なども同様なので、戦前には邦訳が出ていないと思っていた。ところが数年前に古書目録のアカシヤ書店の欄に、明治三十五年刊行のタイラー『原始文化』を見つけ、申しこんだのだが、外れてしまったのか送られてこなかった。そこで国会図書館を確認してみると、こちらにも架蔵がなく、目録の明治三十五年の翻訳は出版社も訳者も不明のままで、いまだもって未見である。
f:id:OdaMitsuo:20190331151211j:plain(誠信書房版)

 そのために『原始文化』の邦訳を読むとすれば、昭和三十七年に出された比屋根安定による誠信書房版しかない。ただこれは比屋根も断っているように、原書は上下巻千ページ近い大冊であることから、抄訳というかたちを採用している。しかしそれは賢明な選択だといえるし、かえってコンパクトに原書のエッセンスを伝えていよう。

 『岩波西洋人名辞典増補版』にタイラーの簡略なプロフィルの紹介が見られるので、まずはそれを引いてみる。
 岩波西洋人名辞典増補版

 タイラー Tylor, Sir Edward Burnett 1832.10.2―1917.1.2
 イギリスの人類学者、民族学者、メキシコおよびキューバに旅行し(1856)、その後先史時代人や未開人の文化に関する広い知識をもつにしたがって、文明の進歩と文化の地理的公布ならびに伝播の研究に向った。やがてオクスフォード大学における人類学研究の指導者となり(84-95)、同大学人類学初代教授をつとめた(95-1909)。彼の業績として最も注意すべきものは宗教の起源と進化に関するアニミズム(animism)の論であり、また人類学研究の対象を文化として、研究方向を示した点である。彼はこの観点から現在の未開の民族中にわれわれ文明人の先祖が通過した太古の文化要素の〈残存 survivals〉を認め、これによって人類文化史を再構成しようと試みた。(後略)

 後半の部分は書名が挙げられていないけれど、『原始文化』Primitive Culture)の要約といっていいだろう。同書は文化の科学から始まり、その発展と残存、言語問題、計数技術、神話、アニミズム、儀礼などの九章仕立てである。だがその半ば以上がアニミズムと神話で占められていることから、比屋根訳はそれに新たな章題を付し、十八章構成となっている。

Primitive Culture

 それを読んでいくと、「神話・哲学・宗教・言語・芸能・風習に関する研究」というサブタイトルの意味が浮かび上がってくるし、『原始文化』が先史学、人類学、民俗学、宗教学の先駆けの著作だったことが伝わってくる。想像するに、国民国家としての英国のルーツ探究の書であり、本連載101などの英国心霊研究協会や同514などのマックス・ミュラーの『東方聖書』、同83のプラトンの発見ともリンクしているように思える。また同書に大いなる感動を受け、フレーザーが『金枝篇』に向かうきっかけとなったことも了解される。

金枝篇 (『金枝篇』) 

 そうした入口のような部分が第七章「神話と生気説」に見えている。そこでタイラーは人間の想像の過程を研究する主題としての神話に言及し、神話が文明の各時期や異なる民族を通じて、どのような構造を有しているかを問うことが重要だと述べている。その神話研究には広範な知識に基づく広きにわたる分野を視野に入れるべきで、それらによって精神の法則と想像の過程が明らかになり、神話のほうが歴史よりも一貫しているとされる。

 だが神話解読の秘儀は忘れられてしまっているので、それを回復するために古代の言語、詩、民間伝説の探究が必要となり、グリム兄弟の採集やマックス・ミュラーのリグ・ヴェーダ編集に至る。「アーリア民族の言語と文学とは、初期の神話段階を明らかにし、自然を歌う詩の発生を示している」からでもある。

 しかしタイラーはそのままアーリア神話学に向かわず、未開人の神話と文明諸国との神話の関係に視座を定め、「未開な神話を基礎として取り上げ、それから文明の進んだ民族の神話を考え、これが未開の神話と似た起源より生じたことを、明らかにしよう」とする。そのためにタイラーは「生気説」=アニミズムのコンセプトを導入していく。それによれば、人間と同様にすべての動植物、無生物に至るまでアニマを有し、生きている。それゆえに原始未開民族は自然物を崇拝し、自然物のアニマは人間と同じく、一時的、もしくは永久にその物から遊離して存在すると目されるので、アニマは精霊であり、それが後代には霊魂、あるいは神の観点まで発達していく。そしてタイラーはこのアニマ観念の発生が未開民族の夢、病気、死の観察などから始まり、人間の霊魂と万物の霊魂から類推して、これを生きた人格のある在者、すなわち神と見なすに至る。それらのプロセスは現代の文明民族の文学、風習、信仰のうちにも現れているし、宗教の根源も原始民族のアニミズムそのものに見出される。

 このタイラーの『原始文化』は本連載745などの東大人類学教室の人々に大きな影響を与えたにちがいない。その創立者の坪井正五郎は明治二十五年に英国人類学会会員に選出されているし、坪井の著作集『うしのよだれ』(国書刊行会)にはタイラーへの言及は見られないけれど、タイラーに会っていたとも考えられる。そして東大人類学教室の様々な活動と研究も、『原始文化』を抜きにして語れないつぃ、集古会にしても、山中共古は『原始文化』を読んでいたとどこかで語っていたように記憶している。それらもあり、最初に戻ると、誰が翻訳者だったのだろうか。

うしのよだれ (『うしのよだれ』)

 最近になって、『原始文化』(松村一男訳、国書刊行会)の全訳が出され始めた。
原始文化


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古本夜話906 熊谷元一と板垣鷹穂『古典精神と造形文化』

 前回の『会地村』の出版に関して、熊谷元一は写真については板垣鷹穂、編集において本連載580の星野辰男を始めとする朝日新聞社出版局の人々に謝辞をしたためている。
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 だがそれだけでは『会地村』の成立と出版に至詳細な事情を把握できなかったといっていい。その経緯が判明したのは、熊谷が郷土出版社の『熊谷元一写真全集』第一巻に寄せた「記録写真をめざして」においてだった。これは前回既述しているように、昭和九年に熊谷は師事していた童画の武井武雄の要請により、伊那谷の案山子の写真を撮った。それが発端で、同十一年に自分のカメラを入手し、村人の生活を取り、一冊の写真帳を作ろうと考えたのである。その時、想起されたのは以前に読んだ板垣の『芸術界の基調と時潮』(六文館)に収録された「グラフの社会性」だった。これはプロレタリア美術の小作争議絵巻に関するもので、古い絵巻形式よりも、写真と文字と絵画のモンタージュという力強い特有の形式の創案の提起といえた。そこから熊谷はこのような「記録写真」に取りかかったのである。
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 そして経費を節約するために、フィルムの現像や焼付は自分の手でこなし、夜間撮影用の閃光器も入手し、自転車で村を回り、取材し、写真を撮った。すると半年ほどで六百余枚のネガができたので、その頃板垣が『アサヒカメラ』で写真展月評を書いていたこともあり、送ったところ、「従来のアマチュアの仕事にない意義がある」との評価を得た。それに力を得て、熊谷はさらに題材を求め、村を回り、板垣の評を知った村人たちも協力してくれるようになり、昭和十三年に千五百枚のネガから六百枚余を選び、上下二冊の写真帳『会地村』を作り、再び板垣に送った。それに対し、板垣は「写真帳を終始非常に興味深く拝読しました。私の知る限りでは、世界のどこにも見出すことのできないほど、独特の意味と価値をもつものと思います」との返事が届いた。これは私が復刻版を手にした時の思いと同様である。

 その板垣を通じて、朝日新聞社から「まったく驚嘆に値する仕事で、時局下農村研究の貴重な資料」であり、出版したいとのオファーが出され、四六倍判、グラビア一七六頁、定価二円、初版三千部が、昭和十三年十二月に刊行の運びとなったのである。この出版によって、熊谷は朝日新聞記者の世話で、拓務省の嘱託となり、満州移民と青少年義勇軍の写真を撮ることになった。これらの満州や開拓地の写真はネガの多くが空襲で焼失したが、それらの一部は『熊谷元一写真全集』に収録されている。

 このように熊谷は板垣という触媒を通じて、『会地村』出版の実現を見たのだが、その板垣のプロフィルを『[現代日本]朝日人物事典』から引いてみる。
[現代日本]朝日人物事典

 板垣鷹穂 いたがき・たかほ 1894・10~1966・7・3 
 美術評論家、美術史家。東京都生まれ。1921(大10)年東大哲学科中退。在学中の20年東京美術学校(現・東京芸大)で西洋美術史を講義。24年文部省在外研究員としてヨーロッパ留学。22年『新カント派の歴史哲学』を著わして以後、西洋美術史に関する著作を多数発表。のちには建築、写真、映画などの分野にも幅広い関心を示し、評論、著作活動を展開した。(中略)著書に『建築』『芸術概論』『肖像の世界』『芸術と機械との交流』『肉体と精神』ほか。妻は文芸評論家の板垣直子。

 この立項には挙げられていないけれど、板垣の『古典精神と造形文化』が手元にある。これは本連載831などの今日の問題社から、昭和十七年十二月に初版三千五百部が刊行されている。その巻末広告には「姉妹篇」としての『写実』も見え、そこでは「カメラの写真性」が論じられているようで、『会地村』への言及もあると考えられる。
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 それはともかく、おそらく『写実』と同様に、『古典精神と造形文化』も多くの写真と図版を収録し、ギリシャ、ローマ時代の造形文化からドイツとイタリアにおける革新的建設計画、そこに表出している民族精神涵養の方策、東亜文化圏の建築精神までが「古典」と密接に関係づけられ、言及されている。だが同書にあって、突出しているのは口絵写真に集約されているように、ナチスが体現している建築精神への注視であろう。第四部の「現代に於ける造形文化政策と伝統」においてはナチス・ドイツ、ファッショ・イタリア、東亜建築史と南方政策が三位一体のようにして提出されている。そこでナチス・ドイツが次のように論じられる。ナチスはギリシャ・ローマの根本精神―ゲルマンアーリア民族の国粋的造形性という「過去の優れた伝統」に基づき、新しい社会目的と国家精神を実現させようとしている。それは日本でも公開された記録映画『意志の勝利』『民族の祭典』、各国に配布された大がかりな写真帳『ドイツ』などに明らかとされる。リーフェンシュタールのベルリンオリンピックのドキュメンタリー『民族の祭典』は見ているが、『意志の勝利』と『ドイツ』は未見なので、いずれ見てみたいと思う

意志の勝利 民族の祭典

 ここでいささか唐突だが、『会地村』に戻ると、先述したように、これらの映像や写真に先駆ける昭和十三年に、板垣はこの写真集を送られ、「世界のどこにも見出すことができないほど、独特の意味と価値」を発見したのである。それはそこに「ゲルマニア民族」ならぬ「日本民族」の原郷を幻視したにちがいない。しかし大東亜戦争下を通じて、板垣などの思想も含め、そうした原郷がいかなる変遷を経ることになったのかはまだ明らかにされていない。


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古本夜話905 熊谷元一『会地村』

 前回の福田清人の『日輪兵舎』の奥付裏の新刊・重版案内に熊谷元一『会地村』を見出し、この長野県の「一農村の写真記録」もまた、大陸開拓の時代とパラレルに刊行された事実にあらためて気づいた。
f:id:OdaMitsuo:20190321163832j:plain:h120  f:id:OdaMitsuo:20190326172750j:plain:h120 (『会地村』、朝日新聞社版)

 といっても戦前版の『会地村』を入手しているわけではなく、昭和六十年に熊谷元一写真保存会によって復刻された一冊を見ていたからだ。戦前版は「あふちむら」、復刻版は「おおちむら」とのルビがふられていた。それは私にとって驚きといっていい写真集で、戦前の一農村の風景が一冊の本として残されていたことに加え、そのような変哲のない農村の生活風景が写真として編まれ、しかもそれが朝日新聞社から刊行されていたという事実を知らしめることになった。この復刻を知ったのは『アサヒカメラ』(朝日新聞社)で、そこに紹介されていた熊谷元一写真保存会から直接入手したのである。昭和六十年といえば、もはや三十年以上前だが、バブル時代が始まりつつあったことを記憶しているし、私が『〈郊外〉の誕生と死』を書こうとする発端でもあった。
〈郊外〉の誕生と死 〈郊外〉の誕生と死(論創社版)

 当時、やはり長野県を出自とする田中康夫の『ブリリアントな午後』新潮文庫化され、再読していたかたわらに、この『会地村』が届いたことを思い出す。一方にファッションモデルを主人公とする高度資本主義消費社会の快楽と悲しみを描いた作品があり、そこに戦前のアジア的農村共同体の風景、それは高度成長期以前の日本の農村に他ならず、両者は対照的なかたちで私の前に出現したのである。そして私たちの世代こそは、田中たちと異なり、このアジア的農村共同体と高度資本主義消費社会を、共時的に体験した最後の世代なのかもしれないと考え、そのことを業界新聞の連載コラムで書いたりもしていた。
ブリリアントな午後

 前置きが長くなってしまったが、『会地村』は「村の四季」と「わしが村」(本文では「わしの村」)の二部構成で、農林大臣の有馬頼寧が、時局下における得難き「農村記録写真」とする「序」を寄せ、続けて編者が、熊谷の会地村でのカメラとペンによる「今までにない、カメラによる綜合的な農村生活の報告書」だと述べている。そして会地村がそれを俯瞰する見開き二ページ写真と野良着の娘の姿を添え、次のように紹介されている。

 会地村は長野県下伊那郡の西部にある。面積〇・七五方里、戸数六百三十余戸、人口三千二百余人に過ぎない小さい村だ。
 四囲を山に囲まれた此の村は、約半数が養蚕と稲作とを営む農家で、他は農村を相手とする小売商、手工業者、雇傭労働者及び俸給生活者だ。
 郡下の農村としては比較的文化程度の高い方であるが、別に模範村でも、更生村でもない。
 といって窮乏村と呼ばれる程逼迫もしてゐない、ひと極平凡な村だ。

 その第一部「村の四季」において、会地村の季節の移り変わりが写真と文章で語られていく。「初詣」の写真には「元旦の朝一時ごろから村人たちは産土神社の初詣に行く」と始まる一文が添えられ、かつての農村の正月と生活史を浮かび上がらせる。まさに高度成長期以前の農村の時間の流れは農業生産、民俗行事、四季の移り替わりに従っていたのである。そうした中にも戦争の痕跡は記され、「盆踊り」の写真には「支那事変が起つたので昨年と本年は休んだ」との記述が見られる。
 
 その第二部「わしが村」では、第一部の「元旦から除夜の鐘に至る縦の生活」ではなく、会地村の「社会的政治的文化的な各種の分野における村の横の生活」の記録が報告されている。すなわち伊那谷と狭い耕地、天気と農業事情、村の財政と人口減少、農業状況、野菜と果樹、蚕と桑畑、養蚕農家の不景気、家畜と林産、悩む小売商の実態などもまた、写真と文章を組み合わせて伝えられる。そしてこれも見開き二ページで、「護れ、銃後を!」と題し、「出征」のシーンが挿入され、「真夏の短い夜もいまだ明けきらず田の上には薄靄がなびいてゐる。/出征兵士を送る村人の行列は長々と村境まで続く。路傍の稲の葉末は人々の歓声に揺れ、露は鈍く光る」というキャプションが添えられている。それは会地村もまた盆踊りの中止と同様に、「時局下」にあることも否応なく露出させている。

 著者の熊谷は明治四十二年会地村に生まれ、昭和四年飯田中学卒業後、小学校に勤務しながら、武井武雄に師事し、童画を描いた。それがきっかけとなり、昭和十一年から会地村の記録写真を撮り始め、『会地村』の出版により、その後拓務省嘱託となり、戦後は『かいこの村』『一年生』(いずれも岩波写真文庫)などを刊行している。このような熊谷の仕事は郷土出版社の『熊谷元一写真全集』として集大成されることになるのだが、その一方で、ふたつの記念すべき写真イコノロジーとも称すべき出版プロジェクトへと結びついていったと推測できよう。

f:id:OdaMitsuo:20190330173650j:plain:h120 一年生 f:id:OdaMitsuo:20190330175501j:plain:h120

 それらの編著者はいずれも宮本常一の仕事の継承者である須藤功によるもので、『写真で見る日本生活図引』(弘文社)、『写真ものがたり 昭和の暮らし』(農文協)として結実する。とりわけ前者は宮本も関係している澁澤敬三、神奈川大学日本常民文化研究所編『絵巻物による日本常民生活絵引』(平凡社)の延長線上に成立した試みであることは明白である。それに加えて、熊谷の写真と文章による『会地村』の影響を見逃すわけにはいかない。そのことは『写真で見る日本生活図引』『写真ものがたり 昭和の暮らし』の双方に、熊谷の写真が多く使われていることからもうかがうことができる。

写真で見る日本生活図引  写真ものがたり 昭和の暮らし 絵巻物による日本常民生活絵引

 またさらに拙稿「甲鳥書林と養徳社」(『古本探究Ⅱ』所収)で、柳田国男、三木茂『雪国の民俗』にふれているが、これも『会地村』の影響を受けていると断言してもいい。しかし『会地村』への言及が見られないとは残念だというしかない。

古本探究2 雪国の民俗


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古本夜話904 「開拓文学叢書」と福田清人『日輪兵舎』

 前回の「大陸叢書」と同時代に、やはり朝日新聞社から「開拓文学叢書」が出されている。それは「大陸叢書」と異なり、和田伝『大日向村』、福田清人『日輪兵舎』、丸山義二『庄内平野』の三冊だけで終わってしまったようだ。私にしても福田の『日輪兵舎』は所持していたにもかかわらず、『朝日新聞社図書目録』を確認するまでは、それが「開拓文学叢書」の一冊であることを知らずにいた。
大日向村  f:id:OdaMitsuo:20190321163832j:plain:h120  f:id:OdaMitsuo:20190321163411j:plain:h120

 福田に関しては後に本連載で言及するつもりなので、ここではこの『日輪兵舎』、及びそれに関連する事象を見てみたい。この小説は宮城県遠田郡南郷村の小森為男が、早朝に東北本線の鹿島台駅に新聞を受け取りにいく場面から始まっている。南郷村の八割ほどの土地は三十八戸の大地主によって占められ、その他の千戸の農家は小作農の立場にあった。為男の家も小作農で、両親と兄の営む農地はあまりに狭すぎたので、彼は高等小学校を出て新聞配達に携わりながら、郵便局員の資格試験を受けようとしていた。

 その南郷村には大地主が寄付し、新築した高等国民学校があり、校長の杉山は札幌の農科大学を出た農学士だった。彼は卒業生を出す段になって、南郷村は働く農地が不足していることから、ブラジル移住を構想していたが、加藤という満洲移民運動を続けている人物と出会い、ブラジルを満蒙の天地へと転換させる。そして卒業式に際し、「地に生きて、満蒙の土に新しく、深い鍬をいれようといふ人」に呼びかける。そして集まった八人の卒業生たちと、訓練場としての山での荒地開発作業に励む。杉山にとって、そこは「満蒙の地」「大陸の土」のように思えてきた。脱落しなかった五人に対し、村では壮行会が催され、彼らは満洲へ出発した。それに為男も続いた。

 昭和八年に為男たちが渡満して以来、武装移民の問題が露出してくる。そのような中にあって、杉山は「満洲気違ひ」といわれながらも、満州視察に向かい、次のような認識を得る。

 日本の民族の生命(いのち)は、満州にあふれて、この土地に興りつゝある新しい国の声明を生々とよみがへらせ、また日本そのものの生命も、そのことによつて新しい血をそゝがれて、創世記のやうな青春をとりもどすことが、はつきりと感ぜられた。
 その新しい国つくりは、日本の農民のふかくうちこむ鍬でなければあらない。それはたゞ単なる人口過剰による移民政策といふやうな、あるひは就職難の緩和といふやうな卑近な現実生活的な技術の問題ではない。もつともつと、深い本質的なものが横たわつてゐるのだ。この視察によつて初めて、杉山はそのふかぶかとして鉱脈のやうな、おごそかな実体にふれ、宗教的開眼にも似たものをえて帰つた。

 これが当時の満洲に向けられた日本からの眼差しに他ならないだろう。満洲は異なる先住民族の地ではなく、「日本の民族の生命」によって「新しい国つくり」をめざし、「宗教的開眼」といった「おごそかな実体」に包まれているのだ。それは満洲の地における『古事記』や『日本書紀』の再現を見ていることになる。福田は杉山に「神秘主義的傾向」「民族主義的理想主義」「宗教的にまでたかめられた、農民の立場による民族的理念」を託しているが、それらこそ大東亜共栄圏の理念であったし、満洲こそはそれらの象徴なのだ。

 しかしその一方で、ソヴェトの国境に近いウエリイ江の近傍に滞在している為男たちは開拓というよりも、祖国の生命線の最前衛にいるような環境の中にあった。すなわち鎌や鍬ではなく、剣と銃という武装移民の立場に近かった。そうして昭和十一年を迎えようとする中で、杉山は好調退職後も、南郷村満蒙移民後援会を結成し、移民計画とそれに基づく第二南郷村の設置を推進していた。

 その年に南郷村から送り出された二十二名の少年隊の半数は為男たちと合流し、満洲の地に日本人宿舎として、建築指導者が「夢のうちに暗示を与へられ」、創案した日輪兵舎を建てることになった。それは「傘をひろげたやうな円形の、(中略)蒙古の包(パオ)に似た不思議な建物」だった。この名前は日輪の万物を育てる慈愛と何ものも焼き尽くす赫々たる熱の二相に由来し、教室兼トーチカとして名づけられたのである。そしてそれは飛行機から見れば、大きな日の丸の旗のようにも見え、完成に至る。

 昭和十二年の秋には為男たちがトラクターで処女地を耕している姿が見られるようになった。来春には新たな耕作地となって出現するであろうし、杉山からは満蒙開拓青少年義勇軍という新しい組織に基づく国民運動を、政府に建白書として提出したとの報告も届く。そして日本でも日輪兵舎が茨城の松林地帯に三百棟が建てられ、義勇軍訓練所となり、全国から幾千の若者たちが集まり、唱和する声が轟く。「三百の日輪兵舎と、千本の松の林の影をひきつゝ、いま若き太陽は登つてゆく。日本の夜明けの日輪は登つてゆく」と閉じられ、この『日輪兵舎』は終わる。

 福田はその「後書」において、「私たち大陸に関心を持つ作家たちが、大陸開拓文芸懇話会を結成したのは、昭和十四年二月」で、その後「会員たちと共に、茨城県内原の、満蒙開拓青少年義勇軍訓練所の渡満部隊壮行会に参列した」と書いている。福田は「その日の強い感動」を背景として、さらに大陸開拓文芸懇話会の現地派遣団の一員となり、大陸の旅を続け、青少年義勇団を中心に見て歩き、それから南郷村も訪れ、この『日輪兵舎』を書き上げたとわかる。

 『日本近代文学大事典』には「開拓文学」の立項が見出され、大陸開拓文芸懇話会の結成動機は、日本が満洲に五百万人の開拓民を送り、民族協和の理想国家建設という国策への協力にあったとされる。また同会に関しては川村湊『異郷の昭和文学』(岩波新書)にも言及がある。会長はこれも本連載786などの岸田国士で、「開拓文学叢書」の福田は内地農村の行きづまりの打開を求めた同185の和田伝や、同199の丸山義二と同じ位相に置かれていたことになる。福田の系列作品として、『松花江』(昭和書房、昭和十五年)、『東宮大佐』(東亜開拓社、同十七年)などがあるようだが、これらは入手に至っていない。

異郷の昭和文学  f:id:OdaMitsuo:20190326171332j:plain:h115(『松花江』)


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