出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話939 石田幹之助『増訂 長安の春』

 同じく『民族』編集委員であった石田幹之助は、岩崎久弥が購入した東洋学文献を主とするモリソン文庫を委託され、そのための財団法人東洋文庫の運営に長きにわたって携わっていた。
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 その石田は昭和十六年に創元社から『長安の春』 を上梓しているが、昭和四十二年には『増訂 長安の春』として、平凡社の東洋文庫の一冊に収録されているので、これも書いておきたい。
増訂 長安の春

 同書のタイトルの由来を示す冒頭の「長安の春」は、「長安二月 香塵多し。/六街の車馬 声轔々。」と始まる韋荘の「長安の春」という詩が 劈頭に置かれ、それに誘われるようにして、先ず長安の正月へと入っていく。それはまさに「詩人は逝く春の歌を唱ひ惜春の賦を作る」という風情に包まれ、そこにやはり引用された白居易の「買花」の「帝城 春 暮れんと欲し、/喧喧として 車馬 渡る」がコレスポンダンスし、眼前に唐の首都長安の物語絵巻が拡げられていくような思いを生じさせる。しかもそれは「長安の春」のみならず、全編の隅々にまで及んでいるのである。

 とりわけ「唐代風俗史抄」は「元宵観燈」「抜河(綱引き)」「縄伎(綱渡り)」「字舞」「長安の歌伎」上下の五つのテーマによって構成され、臨場感に満ちている。その例を「縄伎(綱渡り)」に見てみる。

 支那へは漠の時に西域や印度方面との交通が開けて以来、それらの地方から、またそれらの地方を通じて更に西の方エジプトの方面から、数々の奇術や軽業の類が数々渡つて来たことは東洋史上有名な話であります。(中略)この西方の遠い国から伝へられた幻術奇伎の類が特に歓迎されて異常な注意を惹いたことは紛れもないことでありました。(中略)これらは漢代既に東西の両京などで相当に流行し、魏晉六朝を通じて漸次盛となり、随唐に至つて頂点に達したかの概がありました。(中略)呑刀・吐火・跳丸・舞剣・植瓜・種棗(共に今蒔いた種からすぐに芽が出て幹が伸び、忽ち花が咲き実が成るといふ奇術)の類や昔都盧尋撞(とろじんどう)と呼ばれ、後に縁竿・険竿・長竿などと呼ばれた梯子乗りのやうな軽業、(中略)その軽業の部類に属するもの一つに縄伎とよばれた綱渡りの芸がありました。(後略)

 さらに綱渡りの芸は細部や起源にまで及ぶので、これ以上の引用は断念するしかない。また長いので所々省略してしまったが、実際に石田が長安でこれらの奇術や軽業を見てきたように語っていることだけは伝えられたと思う。多くの絵画や書籍が挙げられていることからわかるように、石田はそれらの資料を自家薬籠中のものとしていることが明らかだ。その事実は石田が長きにわたる東洋文庫の館長とも呼ぶべき人物であったことを自ずと浮かび上がらせているし、思わず「バベルの図書館」の館長ボルヘスを想起してしまう。

 それと同時に、これらの中国の幻術師や奇術師や軽業師は、大江匡房の「傀儡子記」(『古代政治社会思想』 所収、『日本思想大系』8、岩波書店)に描かれた日本の古代中世の傀儡(くぐつ)たちの存在を思い出させる。その重要なところを抽出し、現在の言葉で紹介してみる。
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 傀儡はテントなどに住み、その風俗は北方の原住民に似ている。男は弓を使い、馬を巧みに使い、狩猟を本業としている。だが二つの剣を躍らせ、七つの玉を自在に操り、桃の木で作った人形に角力をとらせたりする。あたかも生きた人間のように人形を扱うので、それは魚が竜や蛇に変幻するかのようだ。また小石を金銭に変えたり、草木を鳥や獣に変えたりする手品で、人を幻惑させる。

 長安の幻術師、奇術師、軽業師たちが西域、インド、エジプトなどから訪れてきたように、日本の傀儡たちもアジア大陸のどこからかやってきた、もしくは漂着したのであろう。それらに加えて、傀儡の女たちが紅をさし、白粉をつけ、歌をうたい、淫らなふりをし、媚態を示したりする。また傀儡の歌などの芸は天下の見もので、誰もが哀憐するという言及にもふれると、芸能の起源すらも暗示させているかのようだ。

 この「縄伎(綱渡り)」だけでなく、「唐代風俗史抄」はすべてが興味深く、未知の長安の様々なことを教えてくれるし、まさに『増訂 長安の春』そのものが中国唐代に関するカレードスコープのようでもある。それを続けて挙げれば、「唐代図書雑記」は「文化史上相当重要なこと」として、唐代にすでに「本を並べて之を商ふ家」=「本屋」があったという事実を教えてくれる。なぜならば、ヨーロッパにおいて、八、九世紀にはまだ「本屋」などなかったはずだからだ。そして白楽天の弟の白行簡の小説『李姓(りあ)伝』、呂温の詩「上官昭容書縷の歌」、外張籍の七言率「楊少尹の鳳翔に赴くを送る」、元稹の『白氏長慶集』の「序文」などを挙げ、具体的に「本屋」が存在した事実を挙げている。

 そしてさらに「中唐から晩唐にかけ暦書などを始めとして陰陽雑説・占夢・相宅・五緯・九官などの民間の信仰風習に結び付いた俗書の類や、字書・韻書の類ひの印刷が行はれるやうになりますと、この大量に算出された書物の流伝には常識として本屋の存在を考へざるを得ない」とも述べている。また唐代の愛書家、蒐書家の名前を挙げられ、それはいつの世にも愛書家がいたことを物語り、あらためて「本屋」のある「長安の春」を思い浮かべてしまうことになる。


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古本夜話938 ラッツェル『アジア民族誌』

 やはり『民族』編集委員の奥平武彦に関連する一編を挿入しておく。

 佐野眞一は『旅する巨人』において、澁澤敬三が戦前の日銀時代に、マルクス経済学者の向坂逸郎や大内兵衛に対し、ひそかに経済的支援をするために、日銀の仕事をさせていたことにふれ、その具体的事例を挙げている。だがそれは日銀の仕事だけではなかったように思われる。
旅する巨人

 本連載でもお馴染みの生活社も戦時下の企業整備によって統合され、これも福島鋳郎編著『[新版]戦後雑誌発掘』(洋泉社)の「企業整備後の主要新事業体および吸収統合事業体一覧」に見えている。それによれば、生活社は代表を鐵村大二とし、生活社、山根書房、山と渓谷社、六人社、日本常民文化研究所の「吸収統合事業体」で、歴史・地誌・日本古典などの文化科学書の出版となっている。本連載で後述するつもりだが、生活社と六人社は『民間伝承』の発売所を引き受けていたし、またこれも本連載935で既述しておいたように、日本常民文化研究所はアチック・ミューゼアムの改称であるから、日本常民文化研究所だけでなく、生活社や六人社も澁澤との深い関係を推測できる。とりわけ同913などのフレイザーの『金枝篇』の翻訳出版は、澁澤の支持を受けてのものだったのではないだろうか。
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 そしてそれは他の翻訳にも当てはまり、やはり昭和十八年に生活社から刊行されたラッツェルの向坂逸郎訳『アジア民族誌』も同様だと思われる。つまり澁澤は日銀の仕事に加え、向坂たちに翻訳の世話をし、そのことによっても支援していたと見なせよう。それを象徴するように、同書奥付は裏の広告には『金枝篇』などが掲載されているし、同934などの『民族』編集委員の奥平武彦はラッツェルの研究者だったことから、その翻訳が澁澤を通じて向坂へと委託されたのかもしれない

 ラッツェルに関しては『岩波西洋人名辞典増補版』の立項をまずは引いてみる。
岩波西洋人名辞典増補版

 ラッツェル Ratzel, Friedich 1844.8.30-1904.8.9。ドイツの地理学者。ハイデルベルク、イェナ、ベルリンの各大学で動物学、地質学を修めた。普仏戦争(1870-71)に従軍後、〈ケルン新聞〉の自然科学部特派員として東ヨーロッパ、イタリア、アメリカ、メキシコ、キューバ等を旅行し、(中略)帰国(75)してミュンヘン工業大学地理学講師(76)、同教授(80-86)、(F)リヒトホーフェンの後を継いでライプチヒ大学地理学教授(86末)。人文地理学の方法と体系を確立し、人間集団の諸特質を地理学的環境との関連において究明することによって、地理学ばかりでなく、歴史学、政治学、社会学等の人文科学に広く影響を与えた。(後略)

 そこでこの『アジア民族誌』ということになるのだが、向坂の「訳者序」によれば、『民族学』(1894-95)の第二巻第二部第三篇の「アジアの文化諸民族」の翻訳である。『民族学』と『人類地理学』がラッツェルの主著で、向坂は同じく彼の『ドイツ』もすでに翻訳しているようだが、こちらは未見である。向坂は『民族学』の方法と成果に関して、諸民族の外的事情を詳細に考察し、同時に彼らの今日の状態を歴史的に展開させようとするもので、そうして「地理学的な見方(外的事情の考察)と歴史的な考量(発展の考察)とは相判つて」「両者の結合からのみ政党の評価が生れ得る」と見なしている。

人類地理学 
 そのような方法論に基づき、『アジア民族誌』は蒙古人、チベット人、トルコ諸民族、インド人とインド諸民族、イラン人とその結縁諸民族、インド支那諸族と南東アジアの山北部族、東アジア人、支那人、アジアの信仰形態と宗教体制が取り上げられていく。日本人は東アジア人の章に「日本の学者(陸軍大佐フォン・シーボルト人(案内者))の肖像画入りで言及されている。だが原書には日本人に関する一章があるけれど、ラッツェルの『民族学』が十九世紀末の出版で、それは「今日の我国の研究かからいつて割愛して差支へない」と判断で除いたとの断わりが見える。

 各民族を表象する図版からいっても、「日本の学者」の肖像は立派すぎるし、何らかの操作がうかがわれる。日本人の章が省かれてしまったのは大東亜戦争下における明らかな不都合があったのだろうと推測されるのである。それに「アジア及ヨーロッパの民族地図」や「同文化地図」は後の地政学を用意していたように思われる。また「トルコ人及び蒙古人の織物と装飾品」は興味深い。あるいは「インド・ペルシア人の武器と武装」を始めとする各民族の武器と武装への注視は、ラッツェルが普仏戦争をくぐり抜けてきたことを反映させているのであろう。

 ただ翻訳定本とした『民族学』第二版は八百ページ前後の二冊本とされ、その中の「アジアの文化諸民族」だけの刊行だから、全体の構成は浮かび上がってこない。向坂は『民族学』の英訳がHistory of Mankind で、自分も経済史の研究の上に多くを得られるのではないかと考え、読み始めたと述べている。ということは「アジアの文化諸民族」は第二巻所収だから、第一巻から読んでいくと、『民族学』というよりもまさにHistory of Mankindとして成立するファクターに覆われているのかもしれない。

 これはフレイザーの『金枝篇』ではないけれど、ヨーロッパの民俗学、民族学の著作は大部のものが多く、それらの大半が抄訳のままになっているはずだ。それもまた近代日本の民俗学と民族学の翻訳史といえよう。


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古本夜話937 有賀喜左衛門『家』と名子制度

 有賀喜左衛門も『民族』の編集委員の一人であり、昭和九年の日本民族学会の設立発起人も務めていた、その翌年に日本民族学会事務局は澁澤敬三邸内のアチック・ミューゼアムに移された。彼は明治三十年長野県生まれ、二高で渋澤と同期、岡正雄は二年後輩で、東京帝大美学美術史科在学中から朝鮮の仏教美術や陶磁器の研究を進めていたが、岡の紹介で柳田国男と出会い、日本の農村社会の研究の道へと入っていった。

 これは佐野眞一の『旅する巨人』ではふれられていないが、有賀の農村研究は主としてアチック・ミューゼアムの調査活動として行なわれたようだ。昭和十二年にアチック・ミューゼアムは膨大な民具とともに、東京都下の保谷の八千坪の土地と二つの建物へ移転され、そこが日本民族学会事務局、付属研究所、民族学博物館ともなった。民俗学と民族学の両立は澁澤の方針だったし、十四年に開設され、毎日曜日に一般公開される民族学博物館は澁澤の思想の体現でもあった。おそらくそれに寄り添っていたのが有賀だと推測されるし、それらの民具の集積はその後身である『国立民族学博物館』(『世界の博物館』22、講談社)に見ることができる。
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 その一方で、有賀は岩手県二戸郡荒沢村石神の調査を行ない、昭和十四年に「アチック・ミューゼアム彙報 第40」として、『南部二戸郡石神村に於ける大家族制度と名子制度』を刊行する。これは日本の村落社会についての初めての社会学的モノグラフであると同時に、彼のその後の研究方向を決定した重要な報告とされる。
f:id:OdaMitsuo:20190806154542j:plain:h120(『南部二戸郡石神村に於ける大家族制度と名子制度』)

 これは入手していないけれど、有賀が昭和四十七年に刊行した『家』(『日本の家族』改題、日本歴史新書、至文堂)があり、その口絵写真に斎藤家住宅(母屋)、その住宅平面図、斎藤家成員(其の他)、その写真の説明が掲載されている。そして巻末に「口絵写真について」が付され、次のように記されている。
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 昭和九年七月故渋沢敬三は東北旅行の途次、石神という部落の名前にひかれて、偶然立ちより、初めて斎藤善助家の存在を学界に紹介した。この写真は同年九月彼が再度探訪した折に撮影した十数葉の写真の中から選んだもので、巨大な家屋と家の成員内容がほぼ推察されよう。写真の掲載を許された日本常民文化研究所に感謝する。(後略)

 少しばかり補足しておけば、「石神という部落の名前にひかれて」は柳田の『石神問答』 が想起されたからだと思われる。またアチック・ミューゼアムは昭和十七年に日本常民文化研究所と改称され、澁澤も亡くなっているので、写真などの権利がそちらに引き継がれたことを伝えている。

』『柳田国男全集』15

 有賀の初めての探訪は昭和十年八月で、澁澤の写真も含めたそれらの探訪が、『南部二戸郡石神村に於ける大家族制度と名子制度』として報告されることになったのであろう。

 有賀の石神の斎藤家に関するレポートは『家』の第二章「近代の家」の「非親族を含む大きな世代の家」で論じられ、アチック版のコアだと思われるので、それらをたどってみる。この齋藤家の三十一人からなる世帯には召使夫婦の二つのグループが含まれていた。当時斎藤家は田畑三町歩を自作、他に漆器業を営んでいたので、主幹労力として長男、召使男女五人を有していたが、それだけでは労力が不足していた。

 そこで求められたのは名子(ナゴ)の家からの補足労力である。名子とは斎藤家の場合、非親族の召使を分家させたもの、斎藤家においては次三男の分家を別家(ベツケ)、召使の分家を名子と呼び、前者には斎藤姓、後者には別家格の名子以外は異姓を与え、区別しただけでなく、分与した分子財産にも差異が大きかったという。この斎藤家の場合からわかるように、このような複合大家族の世帯員構成は、とりわけ傍系成員において複雑であった。それを有賀は次のように説明している。

 斎藤家の召使はこの家が持つ世帯の成員であった。彼らは世帯主の日常的家計に含まれていたばかりでなく、この家の生活の連帯関係に深くはいっていた。彼らがこの家の成員になったのは、彼らの父親が世帯主に托する時に結んだ約束によって決定したのであり、それは慣習できまっていた。すなわち世帯主は彼らを一〇歳前後に引きうけ、養育し、家業で訓練し、結婚させて、その後も同じ家に同居させ、家業に勤務させた。適当な時期(多くは三五歳前後)に分家を許し、分家後名子として、その小規模な農業経営をなしつつ、一生本家に一定の限度の奉仕をさせる関係を持った。このような習慣をバックとした召使であったから、同じ世帯の中で、世帯主の妻や子供に対し奉仕すべき義務を負い、主人の恩を深く感ずべきことを自らもみとめ、世帯の内でも、外部からも、社会的地位の低いことがきめられ、その慣習に順応しなければならなかった。

 これ以上の詳細な「名子制度」に立ち入らないけれど、戦前の農業を主とする大家族の成立がこのような制度によって支えられていたとわかるし、それは商業における「のれん分け」をも想起させる。ただ私は農村で育ったので、このような「名子制度」というか、その残影を理解できるような気がする。高度成長期以前にはそのような本家、別家、名子といった構成によって、多くの農村のメカニズムが機能していたのではないだろうか。

 なお有賀の「近代の家」において、大正九年の第一回国勢調査をベースとする戸田貞三の『家族構成』(弘文堂、昭和十三年)を始まりとしている。だが本連載489などの江馬美枝子の『白川村の大家族』(三国書房、昭和十八年)、や玉城肇の『日本における大家族制の研究』(刀江書院、同三十四年)に見られる「飛騨白川村の大家族」、それらに同じく青森県三戸郡階上村の野沢家の「オエ(本家)」と「カマド(分家)制度への言及もなされ、大家族の多様性のあり方を伝えている。
f:id:OdaMitsuo:20190806212739j:plain:h120(『白川村の大家族』)

 また有賀の『南部二戸郡石神村に於ける大家族制度の名子制度』は、未来社の『有賀喜左衛門著作集』第三巻に収録されていることを付記しておく。
南部二戸郡石神村に於ける大家族


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古本夜話936 岡正雄とバーン『民俗学概論』

 前回、兄の岡茂雄を取り上げたこともあり、続けて弟の岡正雄にもふれておくべきだろう。

 岡正雄は『民族』の編集に携わりながら、「異人その他」(第三巻第六号)を寄稿している。これは「古代経済誌研究序説草案の控へ」というサブタイトルを付した四十ページに及ぶ論稿である。この論稿は市に山人、異人、山姥、鬼が出現し、その市行事の何らかの構成に参ずるという六つのフォークロアを示し、交易の相手たる「異人」の問題に言及していく。それらの交換や交易は功利的視点だけで解釈できないし、当事者間の相互義務から経済的恣意のままに行なわれていなかった。そしてこのようなフォークロアは古代の経済生活の一面を伝えているし、それゆえに文化史的方法としてのフォークロアの可能性を浮かび上がらせ、岡のいうところの歴史的民族学へとリンクし、まずは原始交易における椀貸伝説や無言貿易がたどられていくのである。

 この『異人その他』をタイトルとする一冊がほぼ半世紀後に言叢社から刊行され、さらにその十五年後に、収録論文は減りはしたけれど、やはり同タイトルで、岩波文庫化されている。後者の編者の大林太良はその「解説」で、「『異人その他』はいわば岡民族学の原点であて、その後展開したさまざまな考えがすでに含まれている」と述べ、そこに「水平的な神出現の表象ないしマレビトの問題」を見ている。
f:id:OdaMitsuo:20190805105324p:plain:h115 異人その他

 「異人その他」はこのように再読、評価され、寡筆ながらも日本の民族学に多くの影響を与えてきた岡のコアを伝えているが、それとパラレルに翻訳が進められ、昭和二年に出されたバーンの『民俗学概論』のほうはほとんど忘れられているように思える。だがそれは原題をTHE HANDOBOOK OF FOLKLOREとするもので、テーマや訳語から考えても、『民間伝承概論』という邦訳タイトルも可能であろう。

 柳田国男監修『民俗学辞典』 (東京堂、昭和二十六年)の「民俗学史」の昭和時代に、「ことに岡正雄の訳出したバーン女史の『民俗学概論』は、この学問に概論がなかった時代だけに裨益する所が大きかつた」とある。それゆえにこの翻訳出版は昭和九年の柳田国男の『民間伝承論』(共立社)の刊行、翌年の民間伝承の会とその機関誌『民間伝承』の創刊へとリンクしていったと考えられる。後者に関しては拙稿『橋浦泰雄と『民間伝承』』(『古本探究Ⅲ』所収)を参照してほしい。

民俗学辞典 f:id:OdaMitsuo:20190805140653j:plain:h110 古本探究3

 手元にあるバーンの『民俗学概論』は岡書院の造本の本領を示すにふさわしい菊判上製、函入で、「用語篇」などの付録を含めて五〇〇ページ近くに及んでいる。「訳者小序」によれば、同書は英国民俗学協会(The Folk-Lore Society)から一八九〇年にゴンム卿が刊行した著作にバーン女史が新たに増訂し、一九一四年に同タイトルで出版したものである。その「序論」の一は「民間伝承(Folk-Lore)とは何か」と題され、次のように書き出され、この一冊の目的の在り処を物語っている。

異人その他(ゴンム卿)異人その他(バーン女史)

 Folk-Loreといふ言葉―字義的には「民間の知識」(The leaning of the people)―は「民間の旧風(popular antiquities)といふ早い頃の用語に代へて、一八四八年、故W・J・トムス氏(W.J.Thoms)の作つたものである。爾来此の言葉は、文化低き民族の間に現に行はれ、或は開花民族中の蒙昧な人民の間に保留されて居る伝統的な信仰、慣習、説話、歌謡、及び俚諺を総括し包含する汎称となつた。此の言葉は、無生、有生の自然界に関する、人間の性質及び人間の作つた事物に関する、霊界及び此れと人間との関係に関する、妖巫術、呪文、寿文、御護り、縁起、予兆、疾病及び死に関する、総て是等の未開且野蛮なる信仰を包含する。又更には、結婚、相続、幼年期及び成年期の生活そして祭礼、戦争、狩猟、漁労、牧畜其の他、或は又神話、伝説、民譚、譚話(パラツド)、歌謡、諺、謎々及び子守歌等を包含する。略言すれば、民間伝承は、民間の心的方面の装備をなす凡べての事項を包含するものであつて、民間の工芸的技倆とは区別される。(後略)

 そうしてそれらの民間伝承は三つの主要項目に排列され、さらにそれぞれの亜項目へと分類される。それらは「信仰と行為(Belief and Practice)」とにおける十亜項目、「慣習(Customs)」における五亜項目、「説話、歌謡及び言慣し(Stories ,Songs and Saying)」における四亜項目であり、それらの採集と記録方法が提示される。したがって続く第一、二、三部では三つの主要項目のそれぞれの亜項目が具体的に言及されていく。そしてこれらが「民俗学(Folk-Lore)なる名称の下に包括される」ことになるのである。

 このような実践的フィールドワークまでを扱った「民間伝承=民俗学のハンドブック」の出現は、『民族』の創刊と並んで、日本の民族学に対しても大きな刺激を与えたにちがいない。

 なお『民族』休刊後、岡正雄は渋沢敬三の援助を受け、昭和四年にヨーロッパに向かい、ウィーン大学でウィルヘルム・シュミットのもとで民族学を研究し、「古日本の文化層」により学位を取得するに至る。これが戦後になって、GHQの民間情報文化局(CIE)がウィーン大学から取り寄せ、「授与式」が行われたエピソードが『異人その他』で語られている。この「授与式」には何が秘められているのだろうか。


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古本夜話935 岡茂雄、『民族』、渋沢敬三

 『民族』は柳田国男と民族学を志向していた岡正雄の出会いをきっかけとして、大正十四年十一月に創刊され、昭和四年四月に休刊となった。休刊に至る経緯は 『柳田国男伝』の「雑誌『民族』とその時代」に詳しいが、創刊のきっかけとなった岡と柳田の不協和音によるものだった。それはいうなれば、もちろん両者の性格もあるけれど、岡の民族学と柳田の民俗学の違和から生じたと見なせるかもしれない。

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「雑誌『民族』とその時代」はそれらも含めて、創刊から休刊までのプロセスを丁寧にたどり、編集者としての柳田や岡の姿も伝えている。だが『民族』の奥付にずっと記載されていた編輯人岡村千秋、発行者岡茂雄、発行所民族発行所に関してはラフスケッチに終わっている。私はかつて拙稿「岡村千秋、及び吉野作造と文化生活研究会」(『古本探究Ⅲ』所収)で、岡村のプロフィルと柳田の裏方としての出版代行者であったこと、また「人類学専門書店・岡書院」(『書店の近代』所収)において、岡茂雄に言及している。

古本探究3  書店の近代

 しかし岡茂雄の『本屋風情』 (中公文庫)や『閑居漫筆』(論創社)などでも、『民族』に関しての証言はほとんど見られず、私もふれてこなかってけれど、『民族』にあっても、この二人が実際の編集や製作、販売を担っていたことは確実で、柳田の出版代行者だった。ちなみに岡村は柳田の長兄松岡鼎の次女と結婚し、これも柳田の世話で博文館に入り、『民族』創刊の頃はその編集者だった。岡正雄は岡茂雄の弟で、しかも郷里の先輩の岡村を通じて、柳田と出会ったのである。

本屋風情 f:id:OdaMitsuo:20190804114900j:plain:h110

 岡茂雄のほうはあらためて『出版人物事典』の立項を引こう。
出版人物事典

 [岡 茂雄 おか・しげお]一八九四~一九八九(明治二七~平成元)岡書院創業者。長野県生れ。陸軍幼年学校・士官学校卒。一九二〇年(大正九)軍籍を離れ、島居龍蔵に師事し人類学を志す。関東大震災後、文化人類学関係の岡書院、山岳関係の梓書房を創業。南方熊楠に親炙。『南方随筆』などを出版、柳田国男の『雪国の春』や金田一京助の『アイヌ叙事詩 ユーカラの研究』などの名著も出した。また『山日記』『山』、人類学誌『ドルメン』などを創刊。著書『本屋風情』で第一回(昭和四九)日本ノンフィクション賞を受賞。「本屋風情」は自らを卑下したものではなく、柳田国男にそういわれ、愛着さえもつようになったからだという。

 『南方随筆』 に関しては本連載37で取り上げているし、他の出版物にしても、いずれ機会を得て書いてみたいが、ここでは『民族』のことに限りたい。民族発行所は創刊号において東京都麹町区上六番町、最終号は神田区駿河台北早賀町となっているが、いずれも岡書院の住所である。

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 前者は河東碧梧桐に書いてもらった岡書院の看板を入口に掲げた創業地で、岡は『本屋風情』 の中で、碧梧桐から「私が書く看板を掲げた本屋は、たいがい潰れるが、それでもいいですか」といわれ、「かまいません」と応えたが、「何とそのとおりになったのは笑止」だと書いている。

 後者は明治大学前の一階が「薄汚い土器や埴輪などを窓にならべた、変わった本屋」で、内田魯庵の慫慂による人類学関係図書の専門書店、二階が岡書院の仕事部屋になっていた。つまり民族発行所、編集室であり、「天井は低く、備品万端粗末」で、昼食は来客も「あんぱんとそば」という「御馳走」に限られていたけれど、いつも研究者たち集い、出版企画においても、「掛け替えのない温かな産小屋」となっていたのである。

 さて『民族』に関してだが、岡茂雄は『本屋風情』 の中でダイレクトに言及しておらず、「渋沢敬三さんの持ち前とそのある姿」において、遠回しに語られているだけだ。岡は柳田国男に渋沢を訪ねるようにいわれる。それは大正十四年の暮れで、『民族』創刊号の発行は同年十一月一日であったから、その後のことだったと推測される。柳田の「編輯者より」で、当初は隔月刊予定、「新春早々の刊行」と予告されていたことからすれば、取次、書店ルートの販売入金で製作費をまかなうことはできず、それをどこからか調達する必要に迫られていたはずだ。

 そこで柳田は岡に「会えば、わかる」と命令調で渋沢を訪ねるようにいい、岡はしぶしぶ第一銀行本店に渋沢に会いに出かけた。すると渋沢はいきなり「私はあなたのお仕事に敬意を表しています。(中略)柳田さんたちの雑誌『民族』を続けられるそうですね。手伝わせていただきます」といったのである。それで岡は「柳田先生と話があったんだな」とわかり、「柳田さんたち」の中には渋沢と二高で同級だった編集委員の有賀喜左衛門、後輩で同じく山岳部の岡正雄も含まれているのではないかとも考えられた。つまり『民族』のパトロンとは渋沢だったことになる。『柳田国男伝』に引かれた岡の証言によれば、それは「一万円にものぼる資金援助」だったとされ、この二人の出会いによって、渋沢の「アチック・ミューゼアム」(後の「日本常民文化研究所」)も発足するに至ったという。

 しかもそのような渋沢が控えていたにしても、『民族』の休刊は避けられないもので、資金的にも耐えられなくなったことが、岡正雄による「『民族』の休刊」(第四巻第三号)告知にも書きこまれている。

 「民族」は又可成りの経済的犠牲を耐えて参りました。之は最初から覚悟して居たことですから、今更休刊の理由とすることは出来ないかもしれませぬが、然し休刊理由の四分の一の理由として、こゝに挙げることは又恐らく事の真相を語るものであります。

 それは『民族』が出版ビジネスとして成立しなかったことを意味していよう。その事実はその時代の民俗学や民族学、人類学や考古学書の出版がまだ採算に乗るほどの読者を得られなかったことを告げているし、岡茂雄もまた『本屋風情』 の最終章「落第本屋の手記」を、「商道に徹することの出来なかった私は、本屋風情の資格さえなかった」と結んでいることも付記しておこう。


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