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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話958 伊波普猷『古琉球』

 南島研究の嚆矢が、前回もその名を挙げた伊波普猷の『古琉球』であることは今さらいうまでもないだろうし、現在では今世紀に入って岩波文庫化もされ、読むことに関してもアクセスが容易になっている。ところがその出版史をたどってみると、それが困難な道筋を経て、現在へと至ったのだとわかる。
 外間守善編『伊波普猷 人と思想』(平凡社)所収の「略年譜」を参照し、伊波の生涯をラフスケッチしながら、それを追ってみる。

 明治九年那覇の素封家に生まれ、二十四年沖縄の尋常中学校入学。三年時におもろ研究・沖縄研究の先駆者田島利三郎が国語教師として赴任し、その影響を受ける。五年時に生徒の信望厚かった教頭や田島が校長から休職、辞職を命ぜられたことで、伊波たちはストライキに入り、退学させられる。二十九年に上京し、明治義会尋常中学に編入し、三十三年三高入学、三十六年には東京帝大文科大学に入学し、言語学を専攻、三十九年卒業とともに沖縄に帰郷。啓蒙思想家として講演、執筆活動を始め、四十二年には沖縄県立沖縄図書館々長となる。そして四十四年には処女出版として、『琉球人種論』(小沢博愛堂)が上梓され、その十二月には『古琉球』が刊行される。この著作の出版史をたどってみる。

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1 明治四十四年 『古琉球』 (「跋文」川上肇、沖縄公論社)
2 大正五年 『古琉球』 (増補訂正、「序文」新村出、糖業研究会出版部)
3 大正十一年 『古琉球』 (第三版、郷土研究社)
4 昭和十七年 『古琉球』 (改版、青磁社)

 
 この間に起きた『古琉球』をめぐるエピソードを記しておこう。明治四十五年に伊波より柳田国男宛献本三冊が届く。大正十年一月柳田が那覇に着き、伊波と会い、『おもろそうし』校訂の必要性を説く。七月折口信夫、沖縄を旅行し、伊波との親交を結ぶ。同十一年、「爐辺叢書」の一冊として郷土研究社から『古琉球の政治』、続けて『古琉球』を出版。なお「爐辺叢書」に関しては、拙稿「山中共古と爐辺叢書『甲斐の落葉』」(『古本探究Ⅲ』所収)を参照してほしい。

f:id:OdaMitsuo:20190925153342j:plain:h120(青磁社版)古本探究3

 同十四年上京し、郷土研究社内南島談話会より『校訂おもろさうし』全三冊を刊行。昭和二年朝日新聞社内で柳田主催の南島談話会が開かれ、伊波、金城朝水、富名腰義珍、比嘉春潮、金城金保、南風原驍、島袋源七、仲宗根源和などが参加する。同六年に柳田、比嘉たちと民俗学雑誌『島』を発刊。同十七年『古琉球』の改版を刊行している。

 私の手元にあるのはこの4の『古琉球』の昭和十八年再版二千部の一冊で、前年の初版は二千五百部、部数は不明だが、十九年には第三版も出ている。大東亜戦争下で、このように三回も版を重ねていることが信じられないような気もするが、奥付はそれを伝えている。また私の所持する一冊は裸本ではあるけれど、ジュート製の菊判、口絵写真一八枚、本文と索引四六六ページに及び『古琉球』の決定版を意図したような印象を与えてくれる。

 この改版は先述した、新村出の「序文」にあたる「南島を思ひて」を冒頭に起き、「琉球人の祖先に就いて」から始まる四十二編、それに「付録」として古代琉球語の唯一の辞書『混効験集』に校註を施したものを添えている。まさに古えの琉球の歴史、考古、地誌、言語、文芸、神話などを含み、「古琉球」エンサイクロペディアのような趣きに包まれている。それゆえにどれを紹介していいのか迷うけれど、やはり柳田や折口のことを考えれば、「オモロ七種」を優先すべきだろう。その「はしがき」で伊波は書いている。

 『おもろそうし』は二十二冊、歌数総べて千五百五十三首(重出したものを除くと、千二百六十七種となる)西暦十三世紀の中葉から十七世紀の中葉までの四百年のオモロを収めたもので、琉球の万葉集ともいふ可きものである。オモロは我等の先祖が我等に遺した最古の文字で、古くは今日の歌人が三十字を詠むやうに一般に詠まれてゐたが、島津氏に征服された後頓に衰へて、いつしか祭司詩人の専有となり、元来詩歌といふ広い意義を有してゐたオモロは遂に神歌といふ狭い意義に解せられるやうになつた。

 またその後の研究で、「オモロはお杜(もり)うたの下略で、後にオモロに転じた」ことも記され、「世にオモロを措いて琉球固有の思想と琉球古代の言語を研究する可き資料はない」とも述べられている。それはこの『古琉球』『おもろさうし』研究の始まりがあり、戦後の『おもろさうし』(『岩波日本思想大系』」へと結実していったことになるのだろう。
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 それに関して、琉球語の起源なども探索されていくのだが、それよりも具体的で興味を覚えたのは「追遠記」における伊波のルーツ告白である。彼は語っている。「私なども矢張支那人の子孫である。しかもそれが蒙古と西蔵との間にある甘肅省の渭水に沿うた漁民の子孫」だと。そして口碑によれば、祖先は明帝の侍医で、不老不死の薬を求めて日本の日向に至り、その三代目が琉球に渡ったとされている。ここではひとつの徐福伝説が語られているようでもある。

 この青磁社改版には「後記」が比嘉春潮と角川源義の名前で記され、そこでは『古琉球』の初版が琉球研究を誘起するきっかけとなったと述べられているは当然にしても、昭和十七年の刊行理由として、東亜共栄圏構想より南方研究の必要性が問われ、大東亜戦争の発生がそれを促し、「南進する日本が振返つて、もう一度、飛石のやうに南海にひろご(ママ)る琉球を見ることの意義が新しく生じたのである。古琉球は、南進する古くして若き日本の縮図」でもあるからだ。

 だが現在でも米軍基地問題を抱える沖縄は、依然として占領下にある「日本の縮図」であり続けているといえよう。


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古本夜話957 「爐辺叢書」と本山桂川『与那国島図誌』

 前回の『生蕃伝説集』と併走するように、同時代に南島文献が出され始めていた。柳田国男研究会編『柳田国男伝』(三一書房)は、「甲寅叢書」の継続事業ともいうべき郷土研究社の「炉(ママ)辺叢書」が、南島研究史に大きな意味を持ち、全三十六冊のうち八冊が南島に関する著作で、「今日でも研究上重要視されている文献ばかり」だと述べている。それらの刊行年月は省略する代わりに、番号を付し、著者と書名をリストアップしてみる。

f:id:OdaMitsuo:20190924112555j:plain(『生蕃伝説集』、大空社復刊)

1 伊波普猷 『古琉球の政治』
2 佐喜真興英 『南島説話』
3 喜舎場永珣 『八重山島民謡誌』
4 宮良当壮 『沖縄の人形芝居』
5 東恩納寛惇 『琉球人名考』
6 佐喜真興英 『シマの話』
7 本山桂川 『与那国島図誌』
8 島袋源七 『山原の土俗』

f:id:OdaMitsuo:20190924210229j:plain:h120(『琉球人名考』)

 その他にもネフスキー『宮古島の言語』、宮良当壮『八重山語彙』、伊波普猷『宮古島民謡集』、『和訳遺老伝』が企画されていたが、これらは未刊に終わった。このうちの7だけは手元にある。といっても、これも拙稿「山中共古と爐辺叢書『甲斐の落葉』」(『古本探究Ⅲ』所収)でふれておいたように、早川孝太郎『羽後飛島図誌』との三冊合本としてで、それには「わだぶんこ」という蔵書印が打たれている。おそらくそこで菊判半截の並製の三冊が合本、上製化されたと思われる。

古本探究3

 それもあって、『与那国島図誌』は三冊の中でも紙が白いことが目立つ。その理由は写真の掲載が多いことにより、アート紙を使用しているからである。ちなみに数えてみると、一〇八ページに四〇枚が収まり、それらは現在でも貴重な、当時の与那国島の風景、生活、島民などに関する写真ではないだろうか。また多くの写真に加え、象形文字、数字の書法も図版化されているので、コスト面はともかく、発行者として奥付にある編集者を兼ねる岡村千秋の配慮によって、『与那国島図誌』はアート紙使用となったのであろう。ただ私にしても、「爐辺叢書」のすべてを見ているわけではないので、推測によるのだが。

f:id:OdaMitsuo:20190924203620j:plain(『与那国島図誌』、名著出版復刻)

 しかしそれらの採集にしても、多大の苦労を伴っていたことが、その大正十四年十月の日付の「はしがき」からもうかがえる。まずは島へのアクセスから始まっている。

 島に渡るには小さな発動機船で運ぶ石油や味噌樽の傍に身を縮めて、辛ひ一夜を過ごさねばならぬ。梅雨期のやうな海南の冬の雨を衝いて三十八浬を走り、西表島の浦内で夜半の長時間を潮待した後、又四十二浬を十時間走りつづけ、やつと翌朝与那国島の祖納(そない)港に着いた。

 だが「あこがれの島」には旅館もなく、民家の一室を借りたが、夜具も蚊帳も村役場の宿直室のもので、食事にしても、黒い島米と豚肉だけであり、半月間、風呂には一日も入れなかった。また連日の風雨に阻まれ、交通も途絶し、島を出ることもできなかった。その二ヵ月後「自称漂流者」は大阪商船の八重山丸が南岸に寄港することを知り、その出船間際に乗りこみ、台湾を経て、八重山、宮古をたどり、ようやく旧正月を迎えた那覇に舞い戻ったのである。

 それでも「島の思ひ出は数々多い」し、「柳田国男先生の慫慂に甘えて此の一冊を編」み、「僅かに集め得た資料を似て、乏しき一つの備忘録を作る」とある。だが『与那国島図誌』は「乏しき」どころか、四十三項目に及び、それは与那国島の古い言葉とされる「イレネー」から始められている。これは「入船」の意味らしく、他島との交通不便な島民にとって、船舶を待つことは切実なるもので、入港の船影を認めると、村の人々が我先に戸外に飛び出し、声高く「イレネー イレネー」と呼びつれ、磯辺に蹲り、そのイレネーの人々の上陸を待ちわびたという。本山は笹森儀助が『南嶋探験』でこの「イレネー」のことを書いていると指摘し、今日ではもはや島民は口にしないけれど、船が入ると用もない人も駆けつけてはしゃいでいると述べ、その写真を掲載している。

南嶋探験(『南嶋探験』)

 この「イレネー」を例に挙げるだけでわかるように、『与那国島図誌』は南島の生活や習俗をレポートしていて興味深い。確かに同書も含まれる「爐辺叢書」が南島に関して、「今日でも研究上重要視されている文献ばかり」だと実感させられる。ところで著者の本山だが、そのプロフィルは『柳田国男伝』などではなく、『日本近代文学大事典』に見出される。

 本山桂川 もとやまけいせん 明治二一・九・二一~昭和四九・一〇・一〇(1888~1974) 長崎市出島町生れ。本名豊治。早大政治経済科卒。民俗および民芸の調査研究に従事。著述に『日本民俗図誌』全二〇巻(東京堂)『日本民俗図説』(八弘書店)その他。戦後、金石文化研究所を主宰し、全国の新旧文学碑を訪ねて拓本数千枚を家蔵、これに関する著書に、『史蹟と名碑』(昭和二七・三 金石文化研究所)『芭蕉名碑』(昭和三六・一 弥生書房)『写真・文学碑めぐり』シリーズ四巻(昭和三九・七・一〇、一二、四〇・三 芳賀書店)などがある。

 この立項が示すように、私などが本山について知っていたのは文学碑や史蹟研究者としてであった。それこそ彼の『旅と郷土の文学碑』(新樹社、昭和四十一年)や『写真文学碑』(現代教養文庫、同三十五年)を所持し、文学碑を調べる際の辞典代わりにしていたのである。その本山が柳田門下で、「爐辺叢書」の著者だったことを、『与那国島図誌』を読み、あらためて知らされたことになる。

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古本夜話956 佐藤融吉、大西吉寿『生蕃伝説集』と杉田重蔵書店

 きだみのるは『道徳を否む者』の中で、台湾の町の印象に関して、「アルジェリア・モロッコに範を取ったと云われる台北の町は美しく、そして歩道は張り出した二階の下になって、日射が遮られていた」と記している。そして「植民地に漂う異種文化は少年の中にエキゾチスムに対する嗜好(グー)を芽生えさせた」とも。これがきだをして後にモロッコに赴かせ、トラピスト修道院へと向かわせる発端となったのだろう。

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 それらだけでなく、マルセル・モースのもとで民族学を学ぶことになった発端すらもうかがわれる。それは「生蕃」についての言及と会話に、その最初の痕跡が表出していよう。「少年」は台北一中に通う汽車の中で、「生蕃の一隊」を目撃する。「彼等は広い多彩の厚手の織物を纏い、腰に弦月形の蕃刀をつけていた」。「生蕃」は台湾の原住民で、日本の同化政策により、日本の国力を見学させるための旅行に駆り出されていたのである。「少年」は「痩せた生蕃の風貌を気味悪く眺め」、父のところに訪ねてくる警察の人が語る「蕃界勤務自体の挿話」を思い出す。それは次のようなものだ。

 生蕃の馘首は悪い気でするのではなかですたい。馘首してくると奴らは部落中で集まって儀式をして、口から酒をつぎ、首から流れでた奴を受けて皆で飲むですな。そしてその首にこんなことを云うですたい。「これでお前は俺らの仲間になった。おまえは仕合せ者だよ。おれらの天国に行けるようになったのだから」と。奴らは自分の部族のいるところが一番好え国だと思うとるですな。だから自分たちの行く国が一番上等の天国と思うとるですたい。愉快ですな。

 話はまだ続いていくのだが、これだけにとどめ、註釈は加えない。

 これは明治四十年代におけるきだの体験であるが、この時期から台湾総督府の蕃族調査会によって、大正時代に『蕃族調査報告書』『蕃族慣習調査報告書』(いずれも全八冊)として刊行される蕃族研究が始められていた。この両書が柳田国男の「山人」や折口信夫の「まれびと」の原初のイメージに影響を与えたこと、また蕃族の反乱としての霧社事件を映画化したウェイ・ダーション『セデック・パレ』などについて、拙稿「見てごらん/美しい虹の橋を/祖先の霊が私を呼んでいる」(『郊外の果てへの旅/混住社会論』所収)で既述しているので、よろしければ参照されたい。

f:id:OdaMitsuo:20190924141920j:plain:h115 f:id:OdaMitsuo:20190924141614j:plain:h115 セデック・バレ 郊外の果てへの旅(『郊外の果てへの旅/混住社会論』)

 だが大正時代に出された蕃族調査書はそれらだけでなく、やはり大正十二年に佐藤融吉、大西吉寿を著者とする『生蕃伝説集』が出されていたのである。佐山は拙稿で挙げておいたように、先の調査書の執筆メンバーの一人だった。この書名だけは本連載941の松本信広の『日本神話の研究』で目にしていたが、それが台北市の杉田重蔵書店からの刊行だとは認識していなかった。おそらくこの版元は台北市で書店を兼ねていたと思われるし、戦前における植民地や外地での出版の全貌はまだ明らかにされていないし、もはやそれらの書店や出版者の消滅と時代の風化もあり、全容をたどることは難しい。

f:id:OdaMitsuo:20190924112555j:plain(『生蕃伝説集』、大空社復刊)日本神話の研究

 私はまったく偶然に、菊判上製、七二八ページの『生蕃伝説集』を神保町の長島書店で見つけたのだが、これは台北市の南天書局による一九九六年の復刻版なのである。先の二つの調査書の台湾での復刻も仄聞していたけれど、こちらも同様だったとは知らずにいた。どのようにしてこの復刻版がその二十年後に神保町へと流れついたのだろうか。それもさることながら、実はそれを入手してしばらくして、古書目録の横浜の古書馬燈書房の欄で、『生蕃伝説集』の初版のカラー書影を見つけたのである。これは復刻版と異なり、函と本体が総木版画装で、その挿画を担当している盬月桃甫によるものだ。

f:id:OdaMitsuo:20190924145144j:plain:h120(『生蕃伝説集』)

 大西の「はしがき」を読むと、彼は台湾総督府における佐山の同僚だとわかる。大西も「北部蕃界の旅」を終え、佐山と「台湾で蕃界ほど愉快な処はない、蕃人ほど可愛いゝ人はない」と話が尽きず、「生蕃の伝説は実に世界のどの国の神話伝説よりも面白いと思ひ」、『生蕃伝説集』の企画が持ち上がったという。「凡例」によれば、同書は生蕃の説話を集め、それに平埔蕃と南島群島の伝説を加えたもので、生蕃説話の大半は佐山の『蕃族調査報告書』から引き、さらに類書を参照し、平地の蕃族である平埔蕃史料はそのほとんどを旧民政部嘱託伊能嘉矩の報告により、南洋類話はScott, Indo-Chinese mythology. 及びDixon,Oceanic mythology の抄訳だとされる。

Oceanic mythology (Oceanic mythology )

 そこで「南洋類話」を除き、それらの内容を挙げると、「創世神話」「蕃社口碑」「剏始原由」「天然伝説」「勇力才芸」「怪異奇蹟」「情事情話」の七つのセクションから構成され、それらの各章がさらにそれぞれの生蕃や事象ごとに分類され、項目でいえば、三百近くに及んでいることになる。例えば、『道徳を否む者』で語られていた「馘首」は「剏始原由」のところで、「馘首」として立項され、その歌や「馘首の由来」という挿画を添え、一二ページに及び、警察の人の証言を裏づけている。

 本連載でずっと『民族』にふれてきたが、その創刊は大正十四年十一月で、大西たちも『生蕃伝説集』を編むにあたって、日本における人類学や民族学の胎動を意識していたにちがいない。大西の「はしがき」にある「私共は此の小著を以て人類学や民族学までに大いに貢献しようなどゝ大それた望は毛頭持つてゐない」という言葉は、逆にそれらを意識していたことを問わず語りに伝えていよう。

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odamitsuo.hatenablog.com

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古本夜話955 トラピスト修道院と間世潜『トラピスチヌ大修道院』

 きだみのるの『道徳を否む者』において、「私」は十五歳の少年時代を回想する。「少年」は台湾の父のところから東京の叔父の家に引き取られ、中学時代を送っていた。しかしそれは台湾の自然と光に包まれた暮らしと異なり、「溝泥の霧の中で生活しているようなもので、我慢できないもの」であった。
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 彼はもっと光のさし込む澄んだ生活の場所が何処かにあるに違いないと考えた。少年は何時か何かの本でトラピストのことを読んだ。そこでは修道士たちは神に祈り、勤労していた。少年の知っているのはそんなわずかなことばかりだったが、欠けたところは自分の想像で補った。そこは自由で平等で、少年はそこに行ったら本を読み、労働しよう。それは彼に一番気に入った生活であるに違いない。そこの生活が美しく想像で描かれれば描かれるほど現在の生活はもっとつまらなく感ぜられた。
 少年はトラピストに行くことを決心した。

 このような少年の述懐を読むと、中央公論社の『世界の名著』全巻を読破したという友人が、高校時代にトラピスト修道院に入るといい、北海道に向けて家出したエピソードを思い出す。ただ彼のほうはそれが果たせず、北海道のサッポロラーメン屋で働き、それから戻ってきたのではあったが。

 だが「少年」のほうは函館に向かい、湾内汽船で修道院の下の発着所で降り、修道院への険しい坂道を上り、山を控えた「沈黙の館」に入っていった。迎えたのは赤い顔の粗毛衣の外人僧で、「少年」を一室へと案内し、それから、修道院の内部、食堂、礼拝堂を見学させ、さらに外の牛舎と酪農の工場へと連れていった。工場にはバターの製造機械などがあった。そこで「少年」はジョゼフ・コットと出会ったのだ。

 私が最初、彼に会ったのは入江の向こうに函館の市街の黒い屋根が見える高原であった。そこには沈黙の行と労働と祈りに一生を捧げ、それを通じて神に仕えると同時に人の社会にも仕える―というのはこの修道院の創設者たちは人の一番望まない荒れ地を所望し、それを開拓し、酪農を経営し、日本で味わえる最良のバターを生産して、死んだ土地を人を養う生きた土地にしたのだから―修道者たちの一団の館が建っていた。

 このように描かれたトラピスト修道院のイメージを写真などで確かめたいと思い、探してみたけれど、『日本の教会をたずねてⅠ・Ⅱ』(「別冊太陽」、平凡社)やガイド類などにも見当らなかった。それでも奈良原一高の『王国』がトラピスト修道院ではなかったかと思い出し、『奈良原一高』(「日本の写真家」31、岩波書店)を繰ってみると、そこには「沈黙の国」としてのトラピスト修道院の四枚が収録されていた。その一枚は牛の背後に控えるトラピスト修道院の建物が写り、祈りを捧げる修道士たちの姿もあった。

日本の教会をたずねて f:id:OdaMitsuo:20190923153721j:plain:h110  奈良原一高

 しかしこれだけではトラピスト修道院の全容はうかがえず、それはかつて手にとり、見た記憶のある婦人刑務所「壁の中」と二部仕立ての『王国』(朝日ソノラマ)を入手しても同様だと思われた。そこで想起されたのは『トラピスチヌ大修道院』のことで、こちらは偶然ながら、間世潜『トラピスチヌ大修道院』(トラピスチヌ写真帖刊行会、昭和二十九年)と野呂希市『トラピスチヌ修道院』(青菁社、平成十年)を均一台から拾っている。ここではA4判、モノクロの「ライカ写真集」である前者を見ることでトラピスト修道院を想像してみたい。トラピスチヌのほうは女子修道院だけれど、その建物や生活は共通していると思われるからだ。
f:id:OdaMitsuo:20190918232408p:plain:h110 (『トラピスチヌ大修道院』) トラピスチヌ修道院(『トラピスチヌ修道院』)

 間世は「序文」に当たる「トラピスチヌ大修道院」と題する一文において、この修道院に関して、次のように述べている。

 トラピスト女子修道院の正しい名称は「トラピスチヌ大修道院、天使園」で、北海度函館市から北東およそ八キロ、即ち函館郊外にある湯の川温泉から、更に奥へはいった静かな丘陵地帯にある。いまから五十六年前の1898年(明治三十一年)四月、フランスから派遣された八人の仏人修道女によつて、現在の場所にあつた旧孤児院を仮の修院として、聖母の保護のもとに修道生活がはじめられたのである。言葉にも風習にもなれないなか<<に、非常な辛苦をなめて、ひたすら神への道に仕へ、遂に現在日本で唯一の女子大修道院にまで発展せしめたのである。

 そして男子修道院として、渡島国当別村にトラピスト大修道院があるとも記載され、これが少年とフランス人が出会った修道院、『王国』の「沈黙の園」に他ならない。

 それから『トラピスチヌ大修道院』の写真は「祈り」から始まり、「生活」「動労」「沈黙」「祭服の種類」へと至り、一二八ページに及んでいる。いずれも修道女が「キリイ・エレエソン」という祈りを唱え、牛を引き、トラピスチヌ・デセールやバターをつくっている光景が写され、修道院から見た函館の夜景も映し出されている。もしトラピスト大修道院の写真集が試みられたにしても、被写体は女子と男子が異なるだけで、同じような構成になっていたのではないだろうか。

 『トラピスチヌ大修道院』は頒価を一七〇〇円として、二〇〇〇部限定出版で刊行され、私が所持する一冊は1349とナンバーが打たれている。写真家の間世潜、装幀の里見勝茂、製作に携わった最上運一郎については何も知らない。しかし巻頭に見える、これも写真入りのエ・エム・ミカエル大院長のメッセージによれば、「東京の世界的に名声のある芸術写真家間世氏は、教区の司教の例外的許可を得て修道院内に入り、馘首の写真を撮られて」とあるし、それは五年間にわたったという。とすれば、この写真集の出版は間世たちとトラピスト修道院のコラボレーショによって刊行に至ったことになる。「少年」とフランス人の出会いではないけれど、そこにも様々なドラマが起きていたにちがいない。


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古本夜話954 きだみのる『道徳を否む者』

 もう一編、ジョゼフ・コットに関して書いてみる。

 前回取り上げた小説 『道徳を否む者』『きだみのる自選集』第二巻に収録されている。これは明らかにきだみのる=山田吉彦の自伝というべきものだが、「山村槙一の手記」によるとのサブタイトルが付されているように、フィクションの体裁をとっている。さらにジョゼフ・コットは「彼」、またアテネ・フランセも一貫して「A…F…」の表記である。そしてその周辺人物も多くはイニシャルで記され、おそらくそれらの匿名化への配慮は、この作品の中でもふれられているように、「A…F…」が財団法人化され、新たな公的フランス語学校として認められていくことに対し、波紋を投じることを避けようとしたのだと判断できよう。

f:id:OdaMitsuo:20190914235119j:plain:h115   f:id:OdaMitsuo:20190914235928j:plain:h115

 『道徳を否む者』は「私」=山村が新聞で写真入りの「彼」の訃報を見たことから始まっている。そこには「七十五年の生活の生涯の半ば以上を東京で過したこのフランス人の略歴」が記されていた。しかも「私は彼を一番よく知っている一人」で、その写真は他ならぬ「私」が写したものだったのであり、その日の情景を想起させた。それはフランスに三年滞在後に東京に戻ってきた日とされている。しかし現実には五年滞在し、モロッコ旅行後に帰国し、アテネ・フランセの語学教師になっているので、昭和十四年のことだったと推測される。

 「私」は「彼の子、次いで弟子であり、友であった」から、「私の家は彼の家」で、「私の突然の出現」を見て、彼は自分の目が信じられないような表情を浮かべ、言葉がすぐに出てこなかった。

 やっと(アンファン)、と彼は嘆息するように呟いた。そしてつけ加えた。おまえは帰って来たね。そう云って彼は立ち上り、私の頬に接吻し、私はそれを返した。私はそこに旅に出して待ち兼ねた子を迎える父、修業に送りだした弟子の戻りを待つ師(メートル)、長い別離の後で再会する友を感じた。

 このシーンは二人の関係を象徴的に浮かび上がらせている。同書でも描かれているが、明治四十四年に十六歳の「私」は「彼」に函館のトラピスト修道院で出会った。そこで一度だけ、「彼」の名刺には「J…C…」とあったとの言及が見える。それから大正六年には慶應大学理財科を中退し、「A…F…」の仕事にたずさわり、昭和九年にはフランス政府奨学生として渡仏し、ソルボンヌ大学でマルセル・モースに民族学を学び、四十四歳で「やっと」帰国してきたのである。すでに最初の出会いから三十年近い月日が流れている。

 「私」の渡仏は「彼」の知人たちへの紹介状を携えてのもので、「彼」はいう。「みんなおまえを満足させるような歓待をしてくれたかね」と。本連載946で山田のいうところのモロッコにおける「ホスピタリティ」の問題とリンクする。それはモースの多文化共生のための『贈与論』が二人の前提となっていたことを意味しているだろうか。そのことはともかく「私」はパリの生活で最も親切だった人々を別のところに見出していたけれど、「ウイ」と応えるしかなかった。それを聞いて、「彼」は自分がまだ忘れられていないと呟くようにいった。だが「私」は思う。

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  彼の日本の滞在が五年、十年、十五年とフランスに帰ることなく長引くに連れてパリからの便りも段々と少なくなり、最後の今では昔の知り合いとの付き合いもクリスマスのような儀礼的な名刺の交換のようなものに限られてしまった。それも年々数は減ってきたので、彼はパリのことを考えると、いつも置き去りにされたような孤独の感じを持っていたのだ。私の訪問のとき与えられたそんな人たちの歓待の物語は、丁度私が彼の代理であるかのような風に彼には考えられたに違いない。しかし……

 その後は語られず、パリでも日本人ではなくフランス人との友情が述べられ、「彼」のやはり同様のフランス大使館や在東京のフランス人との不和が対比される。それからパリで求めた「彼」へのプレゼントの金のカフスボタンを並べ、同じくドイツで買ったカメラのレフレックスで、「彼」の写真を撮ったのだ。それが訃報に添えられた写真だったのである。

 ただ「私」は「A…F…」でのルーチンワークとしての語学教師に向いておらず、それに加え、「私の精神は大半潜在的ながら彼の慈愛に過度の重圧と束縛を感じていて」、病気の見舞いにもいかないでいた。それが冒頭にある「しまった」という呟きにこめられていた。それから最後に会ったのは去年の「新聞賞を貰った時」と出てくるので、それが『気違い部落周游紀行』(吾妻書房)で毎日出版文化賞を受賞した昭和二十三年だとわかる。「彼」の死はその翌年だったことになる。

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 「私」は見舞いの代わりのように葬儀に向かう。そして日本での「彼」と「A…F…」の軌跡が回想される。東京帝大や外国語学校での語学教師としての不和からの「A…F…」の創設、それは「高等仏語」という私塾として、神田橋際の和強楽堂の汚い一室から始まり、次に美土代町のYMCAに移った。第一次世界大戦が起きた頃で、医学者や外交官や武官たちも加わるようになっていった。そして「私」は創設者で校長の助手のような立場にいたのである。

 「私」の回想のかたわらで、少ないながら会葬者が集まり始め、「校長はどうしてmisogyne(おんなぎらい)だったんだろうなあ」という声がもれる。おそらく「歓待」と「misogyne(おんなぎらい)」はどこかでリンクしているのだろう。そうするうちに、葬列の儀式は終わった。「彼」は無神論者だったが、晩年にカトリックに回帰していたようで、カトリックの葬式で送られた。

 墓地には会葬者たちが集まり、埋葬の場所に近づいた。そして「彼」が「あなたも、死ぬとき、わたくしの傍に埋めるよう、遺言しなさいね」といった言葉を思い出した。「私」は「最後の別れ」を告げなかったので、「最後の体面」への願望が激しく募った。だがすでに棺は太い綱で穴に降ろされ、もはや硝子のはまった木蓋を開けることはできなかった。しかし人夫がシャベルで土を投げ入れると、蓋のところに当たり、その反動で蓋が開き、死者の顔が見え、その「慈愛に満ちた眼」が地の底から「私」に迫ってくるようだった。「私は彼の眼を見つめていた。私は涙が流れはじめるのを感じた」。そして教会の一隅に戻り、彼のために祈ると、思わず「キリエ・エレエソン」というひとつの言葉がもれた。それは二人が初めて出会ったトラピスト修道院にあって、祈りの中で繰り返されていた、日本語で「主よ、憐れみ給え」と訳されている言葉だったのである。


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