出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話862 織田作之助『西鶴新論』と修文館

 前回、『世界文学』の表紙目次にある織田作之助「ジュリアン・ソレル」にふれられなかったので、続けて織田に関しての一編を挿入しておきたい。

 織田は大阪の下町に生きる人々を描いた『夫婦善哉』、及び豊田四郎監督、森繁久彌と淡島千景共演の同名映画による印象が強く、外国文学との関係は希薄なように見えた。しかし実際には三高に入り、山本修二、伊吹武彦教授や同級の詩人の白崎礼三を通じて、外国文学に傾倒し、それは同人雑誌『海風』に発表した作品に表出し、さらにスタンダールの『赤と黒』の出会いによって決定的となった。そうして織田は『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルに自分を擬したのである。
夫婦善哉 夫婦善哉 赤と黒

 織田は「ジュリアン・ソレル」において、スタンダールは人間を「精神的貴族と、精神的の可能性として書く」と見なし、ジュリアンがその「情熱の可能性にほかならない」と述べている。そして『赤と黒』を八回も読み、小説というものを学び、自らの小説でも「ジュリアンの爪の垢のやうな人物を描いた」と告白している。戦前の『赤と黒』の翻訳は、本連載248などの佐々木孝丸訳の新潮社『世界文学全集』や春陽堂「世界名作文庫」版しかなかったので、このどちらかで読んだと思われる。

 そのスタンダリアンの織田が次に取り組んだのは井原西鶴だった。それを本連載283の大谷晃一の『生き愛し書いた―織田作之助伝』(講談社、昭和四十八年)は丁寧にたどっている。この伝記は西鶴のことだけでなく、昭和十年代の大阪の出版社環境の中における小田の立ち位置や軌跡も記され、東京からだけでは描けない関西の文化土壌を描いているといえよう。私も大谷の伝記で教えられたのだが、第一作品集『夫婦善哉』は藤沢桓夫の口ききで、昭和十五年に、これも先の大谷がまさに創業者のポルトレを描いた大阪の創元社から刊行され、「一ヵ月で十一版を朝ね、よく売れた。一版は千部」だと記されている。
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 織田と西鶴の邂逅も『夫婦善哉』の出版を機としていて、『週刊朝日』の大久保恒次から間接的に献本された志賀直哉は、織田がもっと西鶴を読むべきだといい、大久保はそれを織田に伝えてのである。大谷は織田の「その頃まだ『一代男』すら通読していなかった私は、あわてて西鶴を読み出し、スタンダールについでわが師と仰ぐべき作家であることを納得した」という織田の言を引用している。

 そうして織田は西鶴に関する本を集め、読みまくって傾倒し、三田村鳶魚の『西鶴輪講』の伏字に至るまで、全部埋められるというほどになった。ところがその一方で、織田は昭和十七年四月に勤め先の夕刊大阪新聞社を退職してしまった。その後の事情と『西鶴新論』出版に関して、大谷は次のように書いている。

 新聞社をやめ、給料から離れて筆一本で暮さねばならない。変化がおこった。まず単行本の書き下ろしに精を出した。(中略)彼の首を切った鷲谷が心配し、大阪博労町の出版社修文館を紹介してやった。中等教科書を出していたが、固い一般書もやりたいからという。作之助は大変乗り気で、予定を変えて、『西鶴新論』を書き下ろすことにした。(中略)
 あっと言わしたる、とここでも修文館社員の秦邦夫に打ち明けている。そして脚光を浴びたい。以前に上京した際、新宿の屋台で西鶴研究者の暉峻康隆と出会い、そのうちあんたの知らない西鶴を書きますよと、作之助は昂然と言い放っている。当時出版されている西鶴の関係書はまずほとんど目を通して活用した。中でも山口剛の著書から多くを得た。『西鶴新論』を読んだ野間光辰は、学者の説を引用しすぎと評した。そこへ強引に、大阪とスタンダールをくっつけた。すなわちスタンダールとは自分のことである。西鶴に名を借りた私の小説論ノートだとも、秦に話した。

 その『西鶴新論』が手元にある。確かに織田の自慢の書き出しの「西鶴は大阪の人である」から始まっている。四六判上製、函入、本文二八八ページで、「あとがき」には「西鶴論に名を籍りた私自身の小説論になつてゐるかも知れない」との一節が見え、いうなれば、「あるがままの人間を、あるがままに繰り返して書くより外に致し方なかつた」彼の文学のベースを物語っていることにもなる。
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 秦が装丁を、函入にすると、織田はひどく喜んだと大谷は書いているが、タイトルも著者名も自筆によるものと推測できるので、自装に近かったのではないだろうか。昭和十七年七月刊行で、初版は五千部とあり、戦時下の大阪の文芸専門書の出版社でなくても、その部数が刊行できたことにもなる。発行者は大阪市東区博労町の鈴木常松、鈴木と版元の修文館は、湯川松次郎の『上方の出版と文化』(上方出版文化会)によれば、大阪の老舗出版社兼取次の積善館の出身で、大阪の教科書出版の先達であり、大阪書籍会社重役や大阪書籍雑誌組合会長などを務めたとされる。しかし戦後は姿を消してしまったようだ。
上方の出版と文化


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古本夜話861 『世界文学』、世界文学社、柴野方彦

 やはり本連載854などの『人間』と同じく、戦後の文芸雑誌としての『世界文学』がある。しかもこれはまったくの偶然だが、入手しているのは一冊だけだけれど、『人間』と同様の昭和二十一年十月号で、表紙には「6」とある。これは第6号を意味していると思われる。
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 この号は翻訳を始めとする十一本の創作や評論などが掲載されているが、その内の表紙目次だけを示す。

創作 「水いらず」     J・P・サルトル
     「ある春の日に」    ポリス・ラスキン
評論 「歴史と文学」     鈴木成高
作品研究 「ボヴァリー夫人」   チィボーデ
       「ジュリアン・ソレル」 織田作之助
座談会 「近代文学の反省」    近代文学同人

 また表紙写真にはEUROPE=『ユーロップ』が使用され、これが『エヌ・エル・エフ』と並ぶパリとヨーロッパを代表する雑誌とされる。目次の裏の一ページはこれもサルトルの近影を付した「シャン・ポール・サルトルについて」で、「目下フランスの文学界思想界に大波紋を捲き起しつつある『エグジスタンシアリスム(実存主義)』の提唱者」と紹介されている。一九三八年に小説『嘔吐』に続き、『水いらず』や『壁』などを世に問い、戦時中は「共産党と結んで対独ゲリラ戦に参加」し、フランス解放後は哲学的大著『存在と無』、その他の小説戯曲によって、「実存主義」を説き、「昨冬はアメリカの諸大学に遊説すら試みた」ともある。ここに実存主義とレジスタンス神話をまとった世界的な第二次世界大戦後の文学思想のスターとしてのサルトルが登場していることになる。

 『日本近代文学大事典』における『世界文学』の解題によれば、世界文学社によって昭和二十一年から二十四年にかけて、全三十八冊が出され、外国文学の紹介、翻訳を主とし、それらをいち早く伝えたとされる。創刊号の編集者兼発行者は柴野方彦だが、第二号からは伊吹武彦が編集者、柴野が発行者である。この「水いらず」(吉村道夫訳)は戦後の最初のサルトルの邦訳で、その閨房シーンもあって、実存主義とは肉体文学だという誤解を呼んだようだ。だがその後も実存主義の紹介につとめ、サルトルの「唯物論と革命」も連載している。それに世界文学社は青磁社の『嘔吐』(白井浩司訳)に先駆けていたことになる。伊吹は戦後京大仏文科教授を務め、やはり昭和二十四年に世界文学社から『サルトル論』を刊行していること、またこれは『同事典』にふれられていないが、世界文学社が京都市下京区に置かれていたことからすれば、世界文学社のサルトル関係は人文書院に引き継がれ、『サルトル著作集』へと結果していったように思われる。
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 それからサルトルの『水いらず・壁』や伊吹の『サルトル論』の確認はできないけれど、世界文学社は翻訳を中心とする「世界文学叢書」を刊行していて、やはり本連載826のゴンクール『宿命の女(ジュルミニ・ラセルトウ)』
(久保伊平治訳)もその一冊であり、五十点近くが出されていたはずだが、その明細は定かでない。この翻訳シリーズも伊吹の関係から京大人脈が動員され、刊行されたのではないだろうか。
 水いらず・壁 f:id:OdaMitsuo:20190108172456j:plain:h110(『サルトル論』)

 さて伊吹のほうはそのプロフィルとポジションがわかるが、発行者の柴野は『日本近代文学大事典』で立項されていない。しかし「人名索引」に名前は見えているので、確認してみると、昭和十年に青山光二や織田作之助たちが創刊した同人誌『海風』のメンバーだったと判明した。それでも他のことはわからず、柴野の名前に再び出会ったのは、『月の輪書林古書目録十七 特集・ぼくの青山光二』(二〇一四年)においてであった。
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 『同古書目録』は各号ごとに一人の作家を中心とする特集形式を採用し、本人だけでなく、周辺の関係人物の著者なども掲載している。それゆえに青山の関係者として柴野も挙げられ、その翻訳『死刑囚』(サンケイ出版、昭和五十三年)、絵葉書、彼への言及がある富士正晴『軽みの死者』(編集工房ノア)、坪内祐三『雑読系』(晶文社)などもリストアップされていた。そしてその紹介として、大正二年高松市生れ、三高を経て東京帝大心理科卒、文芸春秋編集部員、昭和十八年応召、二十年世界文学社創設、二十四年同社解散、以後フリーの編集者として出版企画会社を主宰し、犯罪学研究を続けるとあった。
f:id:OdaMitsuo:20190108170852j:plain:h115 f:id:OdaMitsuo:20190108171618j:plain:h115 雑読系

 さらに巻末には「付録」として、中野務の、青山や柴野との交流記「富士正晴と『海風』同人たち」(『VIKING』第七五二号所収、二〇一三年)が収録され、そこには次のような一節があった。

 柴野方彦は、富士正晴、青山光二と同じ一九一三年生まれ。青山、織田作之助、白崎礼三と同じく、『海風』創立同人。戦前、文芸春秋社で雑誌編集にたずさわる。菊池寛の代作者でもあった。一九四五年秋、空襲をうけず印刷機械が無傷でのこっていた京都で、出版社・世界文学社を設立。舞鶴の海軍が放出した紙をいちはやく入手した柴野は、一九四六年春に雑誌『世界文学』を創刊。四八年雑誌『世界の子供』創刊。サルトル『水いらず・壁』その他、翻訳書を中心に活発な出版活動をつづけるが、復興してきた東京の出版資本におされ、いっきに衰退。一九五〇年三月、世界文学第三八号を出して廃刊(世界文学社終焉の年月については、不明)。

 それから昭和四十年代半ばに柴野が西麻布にシバノプレスを設け、実業之日本社の編集下請けをしていること、次男の横浜国大生の春彦が京浜安保共闘幹部で、板橋区の上赤塚交番を襲撃し、射殺されたこともふれられている。

 また英文学者の金関寿夫が世界文学社の編集者だったことなども語られ、昭和五十四年の柴野の急性心不全による死も伝えられている。『世界文学』廃刊から三十年後のことだった。柴野と『近代文学』同人たちとの関係については言及できなかったが、別の機会に譲ろう。


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古本夜話860 占領下の『婦人文庫』

 これも鎌倉文庫が発行していた『婦人文庫』が一冊出てきたので、やはりここで書いておこう。それは昭和二十一年十一月刊行の第七号である。
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 木村徳三は『文芸編集者その跫音』において、『人間』創刊後の鎌倉文庫の昭和二十一年状況と雑誌創刊に関して、次のように書いている。鎌倉文庫は丸ビルから日本橋の白木屋デパートの二階、木村のいうところの「白木屋時代」に移っていた。
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 昭和二十一年のはじめ大森直彦氏が編集局長格で入社し、続いて若槻繁氏が入社した。大森さんは戦前の『改造』編集長、岩槻君も『改造』『大陸』の編集者、ともにいわゆる横浜事件に巻きこまれて辛酸をなめた、私の先輩同僚である。
 五月に女性向けの雑誌『婦人文庫』が創刊されて若槻君が編集長となり、十月には一般社会人向けの雑誌が出た。またフランス文学者の小松清氏の斡旋で、ヨーロッパ文学の紹介雑誌『ヨーロッパ』が発刊された。

 ここで少しだけ横浜事件にふれておけば、これは神奈川県特高課が『中央公論』や『改造』などの編集方針が左翼的で、雑誌編集者の組織を通じて共産主義運動を展開するものと見て、中央公論社、改造社、日本評論社、岩波書店の編集者たちなど三十余名が逮捕され、拷問され、四名の獄死者を出し、中央公論社と改造社は内閣情報局による解散命令を受けた。元『中央公論』編集長の黒田秀俊『血ぬられた言論』(学風書院)から横浜事件の改造社関係者を挙げれば、その大森、若槻の他に、水島治男、青山鉞治、小林英三郎だった。
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 そうした横浜事件で「辛酸をなめた」二人が戦後に釈放され、鎌倉文庫に迎えられたことになり、若槻のほうは『婦人文庫』の創刊編集長に就任する。確かに『婦人文庫』の奥付は編輯人として、若槻の名前が記載されているが、彼以外の編輯者として、北條誠、耕よし、松田信子、橋爪常子、高山豊子が並記されている。このうちの北條は新進作家だったが、鎌倉文庫に入社していたと木村がふれているので、事情がわかるけれど、後の四人の女性編輯者はどのような人たちなのだろうか。『女性改造』関係者と考えれば、納得がいくような気もするけれど、こちらも昭和二十一年六月に先の黒田を編輯長として復刊されているので、それは考え難い。松田の信子は本誌記者として、「浮浪児と生活を共にして」という「浮浪記」を寄せていることからすると、戦前はプロレタリア文学の近傍にいたのかもしれないし、「編集日記」にはクリスチャンともある。また同様に高山豊子は「婦人警察を訪ねて」、橋爪常子は「アメリカの職業婦人」の翻訳を寄せ、彼女たちも単なる女性編輯者ではないと思われる。

 それらはともかく、このA5判、一二八ページには三枝博音の巻頭論考「女性とその『解放』」を始めとして、高見順「女性と恋愛」、吉屋信子「女性と自我」、林芙美子「女性と教養」、深尾須磨子たち四人による「女性解放讃」などが続き、実用、文化記事、詩や短歌も織りこまれている。そして折口信夫「女流短歌史」、室生犀星の長いエッセイ「ぱちんこ」に加え、巻末には船橋聖一「くろ髪記」、吉屋信子「花鳥」、北原武夫「婚約者」という三本の小説もある。さらに表紙は中原淳一の手になるもので、カットや挿絵なども猪熊弦一郎や岩田専太郎といった十五人ほどが担当していて、粗末な用紙は時代を感じさせるけれど、コンテンツは敗戦からほぼ一年後の世相と女性状況を浮かび上がらせているようでもある。
 
 とりわけ象徴的なのはグラビアで、それは松本政和の「アメリカ生活を東京に運んで」と題する「進駐軍家庭訪問記」と見なせよう。それらの写真に添えられた一文は次のように始まっている。「ヘイズ中佐ご夫妻は、新装なったお茶の水文化アパートにお住ひです。所収の一日その日本に於ける新居を訪問させていいたゞきました。金髪の優雅そのものゝやうな夫人は、美しいものごしでさあどうぞと各部屋をご案内して下さいます」と。そして広いリヴィングルーム、その奥の一方がキッチン、もう一方がベッドルーム、その奥がバスルームと紹介され、折から来ていたアーサー夫人とともにソファの上で談笑する「お美しいお二人」の姿も映し出されている。さらに「沢山のお洋服」がつまったクローズ・クロセット、美しい靴入れに入ったカラフルな靴の数々、食器棚なども公開され、それからパーティにおけるロングガウンの仕着姿、自動車でビューティハウスに出かける姿もキャメラは捉えている。まさにオキュパイド・ジャパンにおける「進駐軍家庭」の生活が浮かび上がるのだ。

 このような光景を目にすると、昭和二十九年に発表された小島信夫の『アメリカン・スクール』(新潮文庫)の一シーンを想起してしまう。このアメリカン・スクールの住宅地に住む人々は「天国の住人のように思われる」のだ。まして『婦人文庫』のグラビアは、昭和二十九年どころではない、まだ敗戦から一年後のことであり、それ以上に「天国」のように映ったに違いない。そしてこのような「アメリカ生活を東京に運んで」と題するグラビアのコンセプトは、高度成長期を通じて雑誌の定番となったこと、そして消費社会を出現させ、昭和五十年代に日本もまたアメリカ的郊外消費社会の風景に包囲されてしまったことを実感するのである。

アメリカン・スクール

 なお『婦人文庫』は昭和二十五年の鎌倉文庫の解体とともに廃刊になったようで、若槻はその「にんじんくらぶ」を立ち上げたと伝えられている。


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古本夜話859 高梨茂と中央公論社『荷風全集』

 もう一編『断腸亭日乗』に関して続けてみる。昭和二十二年で扶桑書房主人についての言及は消え、昭和二十三年六月からは中央公論社の高梨氏の名前が頻出するようになる。そしてそれは昭和三十年以降は少なくなるにしても、荷風の死の三十四年まで絶えることなく続いている。そのことを考えると、荷風の晩年において、高梨は最も親炙した編集者と見なすこともできよう。

 だがまずはその前史にふれなければならない。中央公論社は戦前に『荷風全集』刊行を約束していたこともあり、昭和二十年十月に社長の嶋中雄作は荷風に書信している。それを受け、荷風は「遠からず中央公論社を再興し余が全集梓行の準備をなすべしと言へり」と『断腸亭日乗』に記し、その準備に入っている。十一月になると、そのために中央公論社小瀧氏が訪れてくるようになり、二十一年三月には荷風に「顧問給料金五百円」が贈られたりして、全集計画は進行していったようだ。二十二年四月には「全集出版契約文案を中央公論社小瀧氏に郵送」し、七月には「全集出版契約書に調印す」とある。そして二十三年四月に『荷風全集』の刊行が始まり、「小瀧氏全集五巻持参。駅前闇市の天麩羅屋に一酌す」とは、第一回配本を手にしての祝盃ということになろう。

 ところが五月に入って、荷風は「社内に紛擾あり小瀧氏已むことを得ず退社」を聞かされ、「丸ビルに島中氏を訪ひ小瀧氏退社後余が全集編纂のことを議して」いる。そうして六月に高梨氏の名前が出てくるので、とりあえず小瀧の仕事を高梨が引き継ぐことになったと推測できる。『中央公論社の八十年』所収の「年表・中央公論社の八十年」を繰ってみると、昭和二十三年のところに、ちょうど入れ代わるように、高梨茂の入社と小瀧穆の退社が記載されている。
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 私が所持する『荷風全集』は第十一十八巻の二冊だけだが、前者は二十三年十一月刊行なので、高梨によって荷風の手に届けられたのであろう。しかも『中央公論社の八十年』の本文にも、「『荷風全集』は、昭和二十八年四月、荷風をしくじらなかったただ一人の編集者高梨茂の手によって無事完結した」とあり、そこに掲載された荷風の二十七年の文化勲章祝賀宴の写真にも姿を並べている。その後の『断腸亭日乗』から見ても、高梨が「荷風をしくじらなかったただ一人の編集者」であり続けたことを語っていよう。

 高梨は『荷風全集』を完結させたことで、中央公論社における編集者としての地位を不動にし、中公文庫や各種の全集を仕切り、役員にまでなっている。それらの事柄からすれば、高梨は不世出の編集者として周囲からも認められていたはずなのに、寺田博編『時代を創った編集者101』(新書館)や『出版文化人物事典』(日外アソシエーツ)などにも、その名前は見当らない。
時代を創った編集者101 出版文化人物事典

 それらの事情は多々あるはずで、高梨のパーソナリティだけでなく、中央公論社の内部事情と深く関係していると考えられる。それでも実質的に中央公論社が消滅したことによって、かつての社員たちが高梨と中央公論社に関して語り始め、粕谷一希の『中央公論社と私』(文藝春秋、平成十一年)は貴重な証言といえるだろう。粕谷は自らの中央公論社時代と高梨について、次のように書いている。
中央公論社と私

  私が在社した昭和三十五年(一九五五)から昭和五十三年(一九七八)までは、嶋中鵬二氏の時代であったが、同時に嶋中・高梨時代が形成されていった時代であったといえるかもしれない。
 (中略)高梨さんの趣味は古本の世界であり、江戸文学を中心とした国文学の世界であった。これらはのちに、森銑三著作集、三田村鳶魚全集に始まり、水谷不倒、山口剛、潁原退蔵などの著作集に結実した。また中公新書につづいて創設された中公文庫の初期には、色濃く高梨茂氏の好みが投影されていたように思う。
  遡って考えると、戦後、中央公論社から発刊された昭和二十三年版の永井荷風全集を担当したのは高梨氏であり、嶋中鵬二氏が最初から直轄部門として責任を負わされた荷風・谷崎に関する実務は高梨氏が大むね担当していた。

 また粕谷は中央公論社の絶頂期を形成する『世界の歴史』や『世界の名著』も含めた全集体制時代は、宮脇俊三の参加によって成功への道を拓くことになったとも付け加えている。そうした全集体制時代の中心人物の高梨が最も早く取締役となり、嶋中の絶対的信頼を得て、専務へと昇進していくのだが、現在の言葉でいえば、パワハラ気質が露呈していったようで、これについても粕谷はふれている。「本造りの名人として他の追随を許さない職人肌の人であったが、ひとの上に立つ管理者としては狭量」で、「専務となり、(中略)経営者になっていくにつれて周囲の人々への不寛容が目立った」。それは他社の人間に対しても同様だったようだ。

 そのために同世代の『婦人公論』『中央公論』の編集長たち、部下の書籍局部長たち、宮脇俊三までが辞めてしまい、それが中央公論社の衰退の一員だったと粕谷は見ている。それに加え、嶋中と高梨の関係はよくわからず、高梨が野田醤油一族であることから、借金があるのではないかとの噂も流れていたという。そういえば、『断腸亭日乗』に「高梨氏野田の醤油一升恵贈」とあったことを思い出す。「若いころは周囲の人々にもやさしい振る舞いが多く、自らも謙虚であった」高梨が、パワハラ人間へと変身してしまったのは、単に社内で出世したことだけではないようにも思われる。彼が手がけた国文学関係の全集編集がもたらした毒のようなものがあるように感じられてならない。

 なお粕谷の同期入社の近藤信行が「文芸誌『海』がめざしたもの」(『エディターシップ』3 所収、日本編集者学会)において、やはり高梨に関するエピソードを語っていることを付記しておこう。
エディターシップ


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古本夜話858 扶桑書房と永井荷風『勲章』

 本連載856で、横光利一の戦後の遺作ともいうべき『夜の靴』を取り上げたので、永井荷風の戦後の出版にもふれておきたい。それは昭和二十二年に扶桑書房から刊行の小説・随筆集『勲章』が手元にあるからだ。
勲章 (『勲章』)

 戦後を迎えて、荷風は扶桑書房から単行本を続けて出している。扶桑書房は中野区野方町を住所とし、発行者は清水嘉蔵で、おそらく戦後になって雨後の筍のように簇生した出版社と見なせよう。荷風以外の単行本は見ていないので、清水は戦前も出版社に関係していた荷風文学の信奉者だったと思われる。ちなみに山田朝一『荷風書誌』(出版ニュース社)により、扶桑書房から出された荷風の著作をリストアップしてみる。
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1『冬の蠅』   昭和二十年十一月
2『すみだ川』  昭和二十一年四月
3『問はずがたり』    〃  七月
4『罹災日録』  昭和二十二年一月
5『夏姿』       〃  三月
6『勲章』       〃  五月
7『荷風日暦』上下     〃  六月

f:id:OdaMitsuo:20181215221022j:plain:h110(『問はずがたり』)罹災目録 (『罹災日録』)

 これらの上梓からわかるように、扶桑書房は敗戦直後の出版業界の混乱の中にあて、二年にも充たない間に、他社の戦前の再版も含めてだが、七点八冊を刊行したことになる。しかも6に収録の「勲章」や「亜米利加の思い出」、4の『罹災日録』、7の『荷風日暦』などは新生社の『新生』、3の『問はずがたり』は筑摩書房の『展望』に掲載されたものであり、それらを扶桑書房が単行本化できたのは、この時代に荷風の信頼を得ていたこと、及び特異な当時の出版状況が反映されているはずだ。

 それらをたどるために、戦後の『断腸亭日乗』(『荷風全集』第二十四巻、岩波書店)を繙いてみる。すると昭和二十年十一月廿六日のところに、「午後扶桑書房主人来り、随筆冬の蠅を重印したとて金五千円を置きて去る」とあり、これが扶桑書房の初出であろう。しかし『冬の蠅』『荷風書誌』によれば、「一一月一五日」発行とあるので、すでに荷風の了解を得ずに「重印」し、その印税として五千円を届けたと解釈することもできる。

 もちろん戦後を迎え、荷風を訪ねてきたのは扶桑書房だけでなく、中央公論社、筑摩書房、新生社、鎌倉文庫も同様であり、荷風は扶桑書房来訪前の十一月十六日付で、これらの四社から収入が「〆金三萬参千百四拾九円」だと書きつけている。昭和二十年になると、これらの版元の人々以上に、「扶桑書房主人」が頻出し、新円、米国製食料品、白米などをもたらしていて、荷風の話し相手、側近のような関係になっているとわかる。

 昭和二十二年一月には、荷風は扶桑書房主人から「余か往年戯に作りし春本襖の下張」の「秘密出版」の話を聞かされ、「此事若し露見せば筆禍吾身に到るや知る可からず。憂ふべきなり」で、「憂慮眠るを得ず身心共に疲労す」という状態になる。そして市川警察署に事情を話し、「秘密出版」を防止せんとする一方で、扶桑書房主人にも「秘密出版」を内偵させていたらしく、その一味が判明し、その交渉を彼にまかせている。そして一週間後に「扶桑氏来り猪場秘密出版の事余の身には禍なかるべき由を告ぐ。初めて安眠を得たり」と記すに至る。扶桑書房の清水は荷風の「憂ふべき」問題の解決一助にもなっていたのである。

 その後も相変わらず、扶桑書房主人の来訪は続いているのだが、六月になって、印税未払分らしい「扶桑書房勘定覚書」が書かれ、さらに十月に入ると、再び「同覚書」の記載があり、それによれば、『勲章』初版は一万二千部とされている。そして十一月には「扶桑書房本年六月以後の印材を支払はざるにつき催促状を郵送す」る事態となる。それから十二月に「扶桑書房主人来り印税金約束手形にて支払ひたしと言ひて遂に現金の支払をなさず」とある。それで終わったわけではない。昭和二十二年十二月卅一日には「本年は実に凶年となりき」と記され、「年末に至りて扶桑書房のために十六万円の印税金を踏み倒さる。而して枯れ果てたる老躯の猶死せざる。是亦最大の不幸なるべし」と慨嘆している。翌年早々にも「兎に角扶桑書房ほど不届至極の出版商はなし」と書きつけているが、それでも手形は不渡りにならなかったようだ。

 これらの体験をふまえ、荷風は昭和二十四年の『文藝春秋』十一月号に、「出版屋惣まくり」(『荷風全集』第十七巻所収)を発表し、明治末期からの「文学書類を出版する本屋」に関して書いている。それらは博文館、春陽堂、新声社=新潮社から始まり、冨山房や岩波書店を経て、戦後にも言及している。

 戦争後は新しい出版屋が数知れず出来ました。一しきり新生社の雑誌に寄稿したのは文壇に関係のない方面から紹介されたからです。然し誤植が多いので段々いやになつて書かなくなつたのです。鎌倉文庫は初に川端さんが来ての話だつたから単行本の出版を承諾したのです。然し印税の支払になると現金の中へ第二封鎖の小切手をまぜて寄越すやうな事をするので其後は用心して一切関係しない事にしてゐます。今日までの多年の経験から考へて見ると、出版商と出版の話をするには直悦に応接するのは大いに損です。文学も芸術も商品に下落してしまひ、自分も印税でおまんまを食ふやうになつたら法律に明い代理人を頼んで出版の掛合をして貰ふのが一番良いと思ひます。

 これが文学者荷風が「今日までの多年の経験から」見た出版エコノミストの視点であり、第二の敗戦の只中にある現在の出版業界においても、何が起きているかはいうまでもあるまい。

 なお新生社と青山虎之助に関しては本連載465、荷風とコラボレーションした籾山書店とのことは同219を参照されたい。


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