出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話712 紀平正美『哲学概論』と岩波書店「哲学叢書」

 本連載706で、紀平正美が朝倉書店の「現代哲学叢書」の推薦者の一人だったことに加えて、前回も紀平が国民精神文化研究所員であり、「国民精神文化類輯」の1『我が青年諸兄に告ぐ』の著者だったことを既述しておいた。これはふれなかったけれど、「現代哲学叢書」は明らかに大正時代の岩波書店の「哲学叢書」を範としている。出版企画は絶えず反復されていくのであり、紀平もその著者の一人だった。それゆえに紀平に関しても、ここで取り上げておくべきだろう。まずは『現代日本朝日人物事典』の立項を示す。

紀平正美1984.4.30~1949.9.20 きひら・ただよし 哲学者。
 三重県生まれ。1900(明33)年東大哲学科卒。国学院、東洋大を経て、19(大8)年学習院教授。05年小田切良太郎とヘーゲルの『エンチュクロペディー』の一部を翻訳して『哲学雑誌』に連載し、日本におけるヘーゲル研究の先駆となった。『認識論』(15年)は日本人として最初の本格的な認識論研究である。このように哲学啓蒙家として出発したが、次いで『無門関解釈』(18年)、『行の哲学』(23年)で自己の哲学を組織し、32(昭7)~43年国民精神文化研究所員として日本精神を鼓吹するする理論的指導者として活躍。43年には京都学派の哲学を批判、戦後は公職追放された。

無門関解釈

 ここに挙げられた紀平の四冊の著訳書は入手していないが、『哲学概論』が手元にある。これは岩波書店から大正五年に初版が出されたもので、私が所持するのは大正八年の第八版である。岩波書店の処女出版は大正三年夏目漱石の『こころ』とされているので、『哲学概論』が創業期の出版物だとわかる。しかも奥付定価の横には「本店の出版物は凡て定価販売実行仕候」と付されている。戦後と異なり、この時代には再販制は導入されておらず、書店においても割引販売が行なわれていた。それに対し、岩波書店は定価販売を謳って創業したのである。

 入手した紀平の『哲学概論』は菊判上製五七五ページの裸本だが、函入で、その表装画には二匹の「蛇の食ひ合」が描かれていたようだ。それは巻頭にその「説明」として、「二匹は相対を現はす。相対を関係せしめて絶対となすことが、是れ哲学的の思考なり」との文言が置かれて、その後の紀平の軌跡を伝えているようにも思われる。この一冊は早稲田大学の講義録として出されている。その「序」をあえて要約すれば、哲学による統一原理の光明によって、カントの批評的精神を実社会の全方面に要求する論述ということになる。

 さて次に紀平と岩波書店の関係を見てみる。岩波書店は大正四年から全十二冊に及ぶ「哲学叢書」の刊行を始め、その最初の一冊は他ならぬ紀平の『認識論』だった。編者は岩波茂雄の友人の阿部次郎、上野直昭、安倍能成で、彼らは著者も兼ねていた。その布石は『岩波書店七十年』に記されているが、大正三年に東京帝大哲学科を中心とする『哲学雑誌』の発売所を引き受けたことにあるはずだ。明治二〇年に『哲学会雑誌』として創刊され、本連載672の井上円了の哲学書院から出されていたが、二十五年に『哲学雑誌』と改題され、発行も哲学雑誌社に移され、漱石も編集員となり、ホイットマン論などを寄せている。
認識論 (『認識論』)

 そして大正時代に入り、古本屋から始まった岩波書店は岩波茂雄の東大人脈、漱石と『哲学雑誌』の著者人脈をメインとして出版に参入していく。漱石の出版の成功はいうまでもないが、「哲学叢書」も大成功だったのである。先の『同七十年』は書いている。

  第1次世界大戦の社会・経済的影響や西欧思潮の無秩序な流入による当時の思想界の混乱は、わが国における哲学の貧困を示すものである、との考えから岩波茂雄は、日本人哲学的思索の確立に資するため、哲学の知識の普及を思いたち、この叢書を刊行することになった。この叢書は学生層に広く浸透し、爾後岩波書店は哲学書の出版社として存在を認められるに至った。

 ただ編者たちにとって、この「叢書」の売れ行きは危ぶまれるものだったけれど、結果として、大正期のニューアカデミズムブームのような売れ行きを示したのである。この大正四年から六年にかけてのラインナップも挙げておこう。

1 紀平正美 『認識論』
2 田辺元 『最近の自然科学』
3 宮本和 『論理学』
4 速見滉 『論理学』
5 安倍能成 『西洋古代中世哲学史』
6 阿部次郎 『倫理学の根本問題』
7 石原謙 『宗教哲学』
8 上野直昭 『精神科学の根本問題』
9 阿部次郎 『美学』
10 安倍能成 『西洋近世哲学史』
11 高橋里美 『現代の哲
12 高橋穣 『心理学』

 大正末までに最も売れたのは4の七万五千部、12の四万三千部だったという。

 安倍能成の『岩波茂雄伝』(岩波書店)は「初期の出版の内、『こころ』にも劣らず重要なのは、『哲学叢書』の出版」で、「この書が日本の思想界、殊に若い学徒に与へた影響は、その売行と共に大きかつたといつてよく、今まで殆ど哲学もしくは哲学書が顧みられなかつたのに対して、一時の哲学もしくは哲学書流行時代を作つたのであつた」と述べている。それを背景にして、大正十年の『思想』の創刊もあり、さらに昭和初年の岩波文庫の創刊へとリンクしていったと考えられるだろう。

岩波茂雄伝

 また小林勇のもうひとつの岩波茂雄伝『惜櫟荘主人』(岩波書店)には、大正十年時点での全十二冊の重版数が記され、紀平の『認識論』をあげてみても、二十五版とある。初版千部、重版は五百部とされているので、一万三千部に達していたことになろう。とすれば、先述の『哲学概論』も五千部に及んでいたし、定価にしても「哲学叢書」の一冊二十銭に対し、二円五十銭だから、ほとんど比肩する売上だったのである。

惜櫟荘主人(講談社文芸文庫版)

 しかしその紀平が岩波書店プロパーの哲学者から、昭和に入って、どのようにして日本精神を鼓舞するイデオローグへと転回し、岩波と併走していた京都学派をも批判するようになっていったのかは定かではない。思想の科学研究会編『転向』(平凡社)は京都学派に関しては言及していても、国民精神文化研究所によった紀平たちは俎上に載せていないからでもある。
転向


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古本夜話711 精神文化研究所と「国民精神文化類輯」

 実は前回の河野省三の小冊子的な一冊も入手している。それは『我が国の神話』で、「国民精神文化類輯」の第三輯として、昭和十一年に国民精神文化研究所から刊行されている。奥付には「発売元」が国民精神文化研究会、「売捌元」は目黒書店とある。これは実質的に国民精神文化研究所の出版物だが、市販に当たって、国民精神文化研究会を窓口とし、教育雑誌、教育関係書の雄である目黒書店を通じて、全国的に流通販売されていたこと伝えている。ちなみに目黒書店の二代目社長の目黒四郎は戦時下において、出版新体制結成準備委員、日本出版文化協会幹事、日本出版配給株式会社監査役に就任し、有斐閣の江草四郎、文化協会理事の田中四郎とともに若手ホープとして、出版新体制三四郎と呼ばれていたという。

 それはともかく河野の『我が国の神話』に関する言及は前回の繰り返しになってしまうので、タイトルだけにとどめ、この国民精神文化研究所と「国民精神文化類輯」にふれてみたい。前者に関しては本連載124ですでにその主たるメンバーも含め、取り上げているが、幸いにして、『日本近現代史辞典』には前者が次のように立項されている。

 国民精神文化研究所 こくみんせいしんぶんかけんきゅうしょ(設立1932.8.23~1943.10.31,昭和7~18)日本教学の精神的支柱建設のため文部省が設けた研究機関。学生思想問題調査委員会の答申にもとづき〈わが国体、国民精神の原理を闡明し、国民文化を啓培し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系〉の建設を目的として設置された。研究部・事業部に分れ、事業部で教師の再教育をした。のち文部省教学局管轄となり、1943年(昭和18)11月1日国民錬成所(設置1942.1.24)と合併、教学錬成所となったが、そこでの錬成・研究は、戦時下全国民の教育方式として普及した。教学錬成所は第2次世界大戦敗戦後の45年10月15日廃止された。

 この記述から判断すれば、「国民精神文化類輯」は「研究部」が「事業部」のために編んだテキスト、教科書と見なせよう。それに加えて、「戦時下全国民の教育」のための小冊子として、大量生産され、目黒書店を通じ、大量販売されていたと考えられる。

 河野の『我が国の神話』は四六判並製、五八ページであり、その巻末に既刊として十四冊が掲載されているので、それを挙げてみる。

1 紀平正美 『我が青年諸兄に告ぐ』
2 吉田熊次 『国民精神の教養』
3 河野省三 『教学と思想統一』
4 久松潜一 『能学論と思想統一』
5 西晋一郎 『教学と思想統一』
6 大串兎代夫 『全国国家論の台頭』
7 藤沢親雄 『自由主義の批判』
8 志田延義 『古典とその精神
9 川合貞一 『恩』
10 作田荘一 『我が国民経済の進路』
11 小野正康 『日本学の拠つて立つ所』
12 山本勝市 『思想問題と母の愛行』
13 松本彦次郎 『中世日本の国民思想
14 海後宗臣 『小学教育の構成』

 f:id:OdaMitsuo:20170917120000j:plain:h120(第十一輯『日本学の拠つて立つ所』)

 これらの大半は先の同124でリストアップしているように国民精神文化研究所に在籍していた人たちであり、そこに挙がっていない著者にしても、同類だと思われる。また同706で朝倉書店の「現代哲学叢書」の推薦者に1の紀平と5の西、著者としての6の大串がいたことを既述しておいた。それに「現代哲学叢書」の『皇道哲学』の佐藤通次も研究所員だったし、前々回の鹿子木員信にしても、「同叢書」の推薦者にして同様だったことからすれば、国民精神文化研究所や「国民精神文化類輯」の企画にしても著者にしても、クロスしていたのである。

 「現代哲学叢書」の斎藤晌と同様に、唯物論研究会のメンバーだった古在義重は『戦時下の唯物論者たち』(青木書店)の中で、一九三〇年代に入ると、日本の思想的潮流にドラスチックな変化が起きたことを述べている。それは自由主義的だと思われていた哲学の分野、田辺元や西田幾多郎もそうだったし、その一方で、従来の国粋主義的、神話的な日本主義の潮流が台頭し、紀平正美、鹿子木員信、蓑田胸喜といった人々が台頭してきたと語っている。そういえば、「現代哲学叢書」の推薦者として紀平や鹿子木とともに名を連ねていたのが田辺元だったことは、そうした三〇年代状況を象徴しているのだろう。それに国民精神文化研究所が設立されたのは昭和七年、すなわち三二年のことで、古在の指摘とパラレルだったことになる。

 先に挙げた「国民精神文化類輯」のラインナップは昭和十一年七月現在のものなので、国民精神文化研究所は十八年まで存続していたことを考えれば、さらに多くの著者たちが召喚され、輯が重ねられ、膨大な部数が外地も含めて流通販売されたと思われる。しかし品川区神大崎長者丸にあった国民精神文化研究所と研究会の全貌とそのメンバー、出版物の全容とその影響はまだ明らかにされておらず、これもまた出版史の溶暗の中へと閉じ込められたままで終わってしまうのかもしれない。


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古本夜話710 河野省三『すめら せかい』

 前回の鹿子木員信『すめら あじあ』の発行者を宇野橘とする同文書院に関して、そのプロフィルをつかめていないのだが、その巻末の十二冊の文学博士の肩書がついて刊行図書からすれば、人文系アカデミズム出版社と見なせるだろう。また戦後も実用書出版社として記憶され、その後インターナショナル的企画を展開していたことまでは仄聞している。しかしそれがどのような経緯をたどったのかは確かめるに至っていない。

 その同文書院から鹿子木の著書と同時代に、それもタイトルも重なる、河野省三の『すめら せかい』が出版されている。こちらも昭和十六年第一刷発行で、入手したのは昭和十八年第三刷、A5判のカバーのない裸本である。

 河野はその昭和十五年十二月付の「序」でいっている。満州事変、国際連盟脱退、支那事変に直面し、ここに「八紘一宇の理想に基づく皇道的国際活動に乗出さねばならぬ皇国日本の立場が明かになった」。それを象徴するのは日独伊三国条約の締結で、天皇と国民の上下一致する道徳が皇道、もしくは神道として国体の精華を発揚し、培養しつつある。そして次のように続いている。

 茲に「すめら みくに」(皇御国)の崇高なる国性が存し、其の歴史の展開に伴つて「すめら あじあ」(皇亜細亜)の理想が具現し、明治の末以来、力強く東洋の平和が唱へられて来たが、今やさらに東亜の新秩序から百歩進めて、世界平和の確立や世界新秩序の建設に、日本自らが指導的の位置に立ち、其の指導の精神が最も日本的に、而も同時に普遍的、世界的な本質を存する学術的、文化的の社会とを顕現せねばならぬ。そこに堂々と「すめら せかい」(皇世界)としての光華を万邦に及し、世界人類をして、宗教的、道徳的、家族的な国家生活を楽しましめる道が拡がつてくるのである。

 かくして「皇統連綿、万古変ることのない神国日本の時代は進んで、いよいよ皇道光被の世界新秩序建設の秋が近づきつゝある」ことになる。鹿子木にとっては「すめら あじあ」がビジョンであったけれど、河野に至っては「すめら せかい」が「すめら みくに」の究極のイメージとして顕現しているのだ。『すめら せかい』を形成する第一章の「八紘一宇の理想」から第十三章「世界に於ける皇国日本の使命」は、これも鹿子木の著書と同様に、大東亜戦争下における「すめら みくに」をたてまつる呪文とアジテーションに他ならない。

 河野は「すめら せかい」は新しい用語だとしているが、本連載121などのスメラ学塾の命名にも表象されているように、「すめら」というターム自体が昭和十年代になって、「皇国日本」のキーワードとして使用され始めたのかもしれない。

 『すめら せかい』の河野省三はやはり『現代日本朝日人物事典』に立項を見出せるので、それを引いてみる。
[現代日本]朝日人物事典

 河野省三 1882・8・10-1963・1・8 こうの・せいぞう 神道学者。埼玉県生まれ。号・紫雲。1905(明38)年国学院師師範蕪国語漢文歴史科を卒業して生家の業である埼玉県玉敷神社社司となった。15(大4)年国学院大講師、20年教授、35(昭10)~42年国学院大学長を務めたほか、文部省国民精神文化研究所の事業や大倉精神文化研究所の編纂事業にも参画、神道学に大きな功績を挙げた。戦後も、神道研究と神職の養成などに熱意を示した。学位論文「国学の研究」(31年)のほか、著書に『国民道徳史論』『国学の研究』『近世神道教化の研究』など多数ある。

 この神道学者という記述から、『すめら せかい』の「付録」として、「神ながらの道」が収録されている理由が了承される。河野がそこで述べているように、「神ながら」の「神」は皇祖の天照大神をさし、それが神道と神社をめぐる「思想の根本」でもあるし、国学にも通じていることになる。また「すめら」ではないけれど、この「神ながらの道」というタームもまた、大東亜戦争下における流行語のように機能していたと考えられる。

 河野の神道との関係から、神社新報社の『神道辞典』を見てみると、河野も立項されていて、戦後は神社庁長を務めたとあった。そしてその「国学とは古典、神道の研究を通じ国体の精髄・特色の発揮にある」とも述べられていた。しかし大東亜戦争下にあっては、それが「すめら みくに」から「すめら せかい」にまで及んだことに対する言及はなされていない。戦後を迎え、象徴天皇制下において、河野の「すめら みくに」はどのような変化を遂げなければならなかったのだろうか。
神社辞典

 それから付け加えておけば、この安津素彦、梅田義彦を編集兼監修者とする『神社辞典』は昭和四十三年に堀書店から刊行されたが、版元の事情により絶版となっていたものを、六十二年に神社新報社が復刻している。この辞典もまた河野の軌跡と重なるように、戦後の神道の位相とその変容を伝えているのだろう。

f:id:OdaMitsuo:20170916113134j:plain:h120(堀書店版)


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古本夜話709 鹿子木員信『すめら あじあ』

前回の朝倉書店の「現代哲学叢書」の推薦者の一人として、鹿子木員信の名前を挙げておいたが、彼は『現代日本朝日人物事典』に立項されているので、まずはそれを引く。
[現代日本]朝日人物事典

鹿子木員信1884・11・3~1949・12・23/かのこぎ・かずのぶ 思想家。東京都生まれ。1904(明37)年海軍機関学校卒。日本海海戦のさなか、非戦闘員のロシア人従軍牧師が海上をただよっているのをみて軍艦を止め救助したことから人生問題に煩悶、海軍を退役して哲学研究に入った。07年移行アメリカ・ドイツに留学、東大講師を経て26(大15)年九大教授、27(昭2)年ベルリン大教授。戦争中は言論報告会事務局長をつとめ、『日本精神の哲学』(31年)にみられる超国家主義の理念で思想運動をリードした。敗戦後A級戦犯に指定され、のち公職追放。ほかに『すめら あじあ』『皇国学大綱』などの著作がある。

 この鹿子木の『すめら あじあ』を入手している。四六判函入、四八八ページで、版元は同文書院である。昭和十五年五月増補第三刷とあり、初版は同十二年、十三年第八刷との奥付記載からすれば、昭和十年代のロングセラーだったと見なすこともできる。同書には昭和六年の「亜細亜大戦の必然性と大陸すめらみくにの建設」から同十二年の「対支思想作戦―三民主義爆破」に至る十八編が収録され、これらはほとんどが新聞や雑誌に発表されたもので、雑誌名を示せば、それらは『国民思想』『月刊維新』や『大亜細亜主義』である。

 鹿子木のいう「すめらみくに」とは「皇国」、「すめら あじあ」とは「皇亜細亜」を意味し、その「はしがき」において、これらが十八編の文章を貫き、統一する理念だとしている。先にその二編の発表年を記しておいたように、満洲事変から上海事変、満洲国建国宣言、リットン報告書、国際連盟脱退、支那事変、南京占領などと併走していたことになる。また実際に鹿子木は支那に向かい、「思想征戦」として「北京臨時政府機関たりし新民学院に於て、親しく新興支那青年の気魄に接し、これに皇軍聖戦の意義を説いて、日本皇道に依る支那王道再建の大義を鼓吹せん」としたという。それに基づき、手元にある増訂版にはさらに「東亜協同体の理念」を始めとする三編が追加されている。

 その一端を「皇国と亜細亜」に見てみよう。鹿子木はそれを「亜細亜の空、亜細亜の海、亜細亜の地、亜細亜の心、―これ実に、嘗て我が祖国日本を擁せる揺籃であり、また今日皇国日本を囲む環境である」と始め、傍点を付し、「皇国日本を包む亜細亜の世界は、実にかくのごとき渾沌と動乱の世界である」とも述べている。そして「皇国日本」が理念として対置される。

 若し日本に特に著しき特色ありとすれば、それは実にその二千数百年の歴史を貫いて実現し実証し来れるその崇高透徹の秩序の精神である。日本精神の発展そのものゝ跡を深く尋ねても見よ。そこに我等の見出すところは、実に厳密正確なる律動の秩序である。而して特に日本精神の永遠の意志として、その永遠に創造し実現しつゝある『皇国(すめらみくに)』の理念である。
 蓋し、皇国とは、申すまでもなく『すめらみこと』の知ろしめる国の謂である。然るに『すめらみこと』とは『すぶるみこと』を意味し、『すぶるみこと』とは、『すべてを一つにまとむるみこと』を意味する。従つて皇国とは実に、雑多の統一者、―即ち天皇―に依る全体的国家、一致団結統一結束国家の謂に外ならぬ。

 これはもはや「皇国」と「皇亜細亜」をめぐる呪文、もしくはアジテーションに他ならない。先にふれなかったが、函の題字は中村不折画伯の手になるもので、タイトル、著者、出版社名は呪術的な印象すらもかもし出している。『すめら あじあ』は全編がこのような調子で進められているし、それに「皇国日本」と「ナチス独逸」と「イタリアに於けるフアツシヨ」が同一視され、自由主義と共産主義はそれらの呪いの的と見なされる。おそらく『日本精神の哲学』や『皇国学大綱』も同様であろうと推測できる。

 このような鹿子木が前回の佐藤通次と共に大日本言論報国会の要職あったわけだから、まさに「皇道」と「皇国」のイデオローグにふさわしい役割を果たしたことだろう。『日本近現代史辞典』によれば、これも前回の斎藤晌、井沢弘、斎藤忠などの日本世紀社同人、津久井龍雄、穂積七郎たちの日本評論家協会関係者を中心として、昭和十七年に発足している。会長は徳富蘇峰で、内閣情報局や軍部と密接に連携し、「日本世界観の確立と国内思想戦の遂行」のために、西田哲学、京都学派の人々、『中央公論』に対して執拗な攻撃を加えた。

その結果として起きたのが横浜事件であり、細川嘉六「世界史の動向と日本」掲載の『改造』が発禁処分を受け、細川は出版法違反で検挙され、それを契機として改造社や中央公論社の社員も同様で、『改造』や『中央公論』も解散命令を受けるに至った。この後も本連載582などの美作太郎や岩波書店の小林勇たちも同じく検挙され、治安維持法違反をでっち上げられ、四人が獄死している。これらに関しては美作太郎他の『横浜事件』(日本エディタースクール出版部)、黒田秀俊『血ぬられた言論』(学風書院)が詳しい。
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古本夜話708 朝倉書店、「現代哲学叢書」、斎藤晌

 大東亜戦争下においては出版社も総動員体制となり、それは哲学の分野にも及んでいった。その典型を朝倉書店の「現代哲学叢書」にも見ることができる。

朝倉書店は同文館出身の朝倉鑛造によって昭和四年に創業された賢文館の後身で、教育書や農業書の出版から始め、本連載680の養賢堂と並ぶ農業学術書の版元であった。その朝倉書店が昭和十六年になって、どのような経緯と事情で「現代哲学叢書」の刊行に至ったのかは不明だが、それは全二十六巻に及ぶ本格的なシリーズだといっていい。

 このうちの何冊が出されたのかも、書誌研究懇話会編『全集叢書総覧新訂版』にも見えていないので、そのラインナップを挙げてみる。ただしナンバーは便宜的にふったものである。

1 佐藤通次 『皇道哲学』
2 大串兎代夫 『国体学』
3 磯部忠正 『神話哲学』
4 高山峻 『哲学概論』
5 高成喜馬平 『科学概論』
6 小野勝久 『数理哲学』
7 加茂義一 『技術論』
8 豊川昇 『学問論』
9 山本修 『形式の論理学』
10 篠原寛二 『倫理学』
11 須藤新吉 『心理学』
12 田中晃 『生哲学』
13 今井仙一 『人間学』
14 鬼頭英一 『存在論』
15 佐竹哲雄 『現象学』
16 山際靖 『美学』
17  〃  『文芸学』
18 結城錦一 『実験心理学』
19 三井為友 『教育哲学』
20 大串兎代夫 『政治哲学』
21 難波田春夫 『経済哲学』
22 片山正直 『宗教哲学』
23 小糸夏次郎 『儒教哲学』
24 圭室諦成 『仏教哲学』
25 大坪重明 『ナチス世界観』
26 斎藤晌 『日本的世界観』

 残念ながら入手しているのは1の『皇道哲学』だけだが、その巻末には朝倉鑛造による「現代哲学叢書発行に際して」が掲げられ、それは「明治、大正、昭和を通じて現在ほど思想の混乱せる時代は無い」と始まり、次のような文言が置かれている。

 惟府に世界新秩序の一翼として東亜共栄圏を樹立するてふ八紘一宇の聖業を翼賛すべく、日本国民の一人々々が臣道実践、職域奉公に粉骨碎身して、一億一心高度国防国家体制に向つて突進しなければならぬということは今更吾人の喋々するを要せざるところである。(中略)弊店は一介の商売に過ぎすと雖も、また新体制の捨て石の一つとして転換期の文化奉仕に盡悴するの微衷無くんばあらず、ここに『現代哲学叢書』刊行の計画を決意するに至つた。(後略)

 この「同発行に際して」の次ページに前掲の全二十六巻が並んでいるのである。それによれば、「責任編輯者」は26の著者の斎藤晌とされている。この斎藤は本連載596などの唯物論研究会のメンバーで、『近代日本社会運動史人文大事典』に立項があるが、それは長いので要約して抽出してみる。
近代日本社会運動史人文大事典

 斎藤は昭和七年に唯研の発起人兼幹事として参加し、哲学関係部門の責任者となり、スピノザ研究を発表した。しかし唯研が弾圧され、それが身辺に及ぶことを懸念し、脱会した。そしていち早く転向し、反動、反共主義の皇道哲学者としてジャーナリスティックに活動し、天皇制ファシズム遂行の国策路線を哲学的、イデオロギー的に根拠づける役割を果たしたとされる。その極めつけの著書が他ならぬ『日本的世界観』だったようだ。とすれば、この「現代哲学叢書」の企画、編集、執筆は斎藤のそのような転向後の総仕上げだったことにもなろう。戦後は漢詩学者として東洋大学、明治大学教授を務めた。

 1の佐藤の『皇道哲学』も「現代哲学叢書」を表象するようなタイトルであり、斎藤の『日本的世界観』と通底していると見なしていいだろう。その「緒言」に「皇道は、日本民族の祖先以来の生活原理」「実践道としての神道」で、「本書は、わがこの惟神の大道に一の論理的地盤を与へて、西欧文化に感応してみずからの中の理の綿を開展しつつある現代の歴史的使命を、いささか果さんことを企図したもの」とあるのはそのことを伝えていよう。ちなみに佐藤は『現代日本朝日人物事典』によれば、哲学者、ドイツ語学者で、「天皇陛下万歳」に収斂する『皇道哲学』を刊行し、文部省の国民精神文化研究所員となり、紀平正美、田中忠雄たちと西田哲学、京都学派を激しく批判したとされる。戦後は亜細亜大学教授や皇学院大学長を務めた。

 紀平の名前が挙がっているので付け加えれば、「現代哲学鵜叢書」の推薦者として彼に桑木巌翼、西晋一郎、田辺元、伊藤吉之助、鹿子木員信も名を連ねていて、ちなみに監修者名は本連載558の井上哲次郎なのである。また同698の伊藤吉之助のことも考えれば、宗教学者、哲学者、唯物研究会の転向者、天皇制ファシズムに抗するイデオローグたちが大東亜戦争下にあって、なだれを打って、皇道に基づく「東亜共栄圏を樹立するてふ八紘一宇の聖業を翼賛すべく」一堂に会していたといっていい。そうした事実を「現代哲学叢書」は浮かび上がらせているのである。


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