出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話964 稲村賢敷『沖縄の古代部落マキョの研究』

 もう一冊の沖縄書は稲村賢敷の『沖縄の古代部落マキョの研究』で、昭和四十三年に販売所を琉球文教図書株式会社として刊行されている。定価は五弗とあり、本土復帰以前の出版だったことを伝えている。
f:id:OdaMitsuo:20191028114544j:plain:h110(『沖縄の古代部落マキョの研究』)

 奥付の「著者略歴」によれば、稲村は明治二十七年生まれで、東京高師卒業後、沖縄師範、台南二中一中三中農林、八重山中、宮古島中各中等学校を歴任し、現在沖縄県文化財専門委員、那覇市史編集嘱託とある。また著書として、『宮古島史跡めぐり』(宮古郷土研究社、昭和二十五年)、『宮古島旧記』上巻(同前、同二十八年)、『宮古島庶民史』(共同印刷社、同三十二年)、『琉球諸島における倭寇史跡の研究』(吉川弘文館、同前)、『宮古島旧記並史歌集解』(昭和三十七年、共同印刷所)が挙げられている。

 こちらのうちの『宮古島庶民史』は前回の岡谷公二『南の精神誌』、及び外間守善『沖縄の歴史と文化』(中公新書)の参考文献のリストに見えているが、浜松の典照堂で入手した『沖縄の古代部落マキョの研究』は目にしてことがなく、沖縄史研究において、稲村とそれらの著作がどのような位置づけにあるのかは定かではない。だが『宮古島史跡めぐり』などが宮古郷土研究社から出されていることから考えると、東京高師時代に柳田国男の郷土研究社の近傍にいたと推測される。残念なことに『柳田国男伝』には名前が見当らないけれど、本連載961などの比嘉春潮が「序」を寄せていることにそれがうかがわれよう。比嘉は伊波普猷の「マキョの事は、南島の古代社会を闡明すべき手がかり」にして、その語源はおそらく「真子」で、古くは「氏族」や「血統」として用いられ、それから「祖神と同じうする血族団体の住居する地域の義」に転じ、現在に至っているという言を引いている。

f:id:OdaMitsuo:20191029151811j:plain:h110(三一書房版) 南の精神誌(『南の精神誌』) 沖縄の歴史と文化(『沖縄の歴史と文化』)

 それを受け、稲村も『沖縄の古代部落マキョの研究』を「沖縄の古代部落をマキョ又はマキウと称することは、オモロ歌謡にも歌われているし、又祭祀の時に巫女達が唱えるオタカベオモロにも見えている」と始め、それらの例を『琉球国由来記』などから引いている。そしてそれらの遺跡を訪れ、写真を示し、これは前回の「御嶽」「拝所」と見なしていい嶽の位置をたどり、風葬墓地、井泉跡、祭祀の場所と行事などを探っていく。それらに伴い、伝説や神歌も調査され、これらをベースとして、古代人の生活、生業、信仰、部落組織にも測鉛が降ろされていく。こちらに引き寄せていえば、「御嶽」や「拝所」の起源とも関連していることになろう。
琉球国由来記

 同書で最も興味深いのは、やはり表紙写真にも使用されている今帰仁村の神アシアゲという建物である。それは本文でも写真で示され、「今帰仁村宇王城ノ拝所ニアル神アシアゲ、神アシアゲノ左ニ見エルノハ霊石デアル/神アシアゲトイフ建造物ハ原始時代マキョノ住居ノ原型ヲ伝エタモノデアロウ」とのキャプションが付され、次のように説明されている。

 四隅には高さ五尺位の石柱が立てられ、それに桁が渡してある。石柱間の隔たりは約十五尺四方位であろうか、その中間には木柱の仮柱を立て、桁をさせている。屋根は萱で葺き、壁も床も天井もない。石柱の高さは五尺位で、いくらか地中にも埋めてあるから、軒は低く腰を屈して漸く屋内にはいる事ができる程度である。

 そしてさらに沖縄本島北部で残っている神アシアゲを訪ね、それらの十一にも言及し、二つの写真も掲載して続けている。

 こうして私が神アシアゲに就いて、その構造又は使用法等に就いて、出来るだけ古風と思われる点を穿鑿しているわけは、このマキョの遺跡の片隅に建っている柱と屋根だけで出来た神アシアゲと称する建物こそ、沖縄の古代部落マキョの建物の遺構であると考えられるからである。
 猶率直に言うならば、古代部落マキョの住居はこの神アシアゲの建築から柱を取ったもので、中央に一本の丸太の柱を立て、垂木をこれに結いつけ、垂木の他の端は地土に垂れ、又は地下に埋めた。そして小さい入口を一箇所だけ残して、屋根はすっかり萱で葺き、或は萱が飛ばないように其の上を泥で塗り固めるようにしたことも考えられる。則ちこれは日本々土の竪穴遺跡と同じ構造のものであっただろうという事が、この神アシアゲと呼ばれる現在まで残っている、マキョの遺跡の一隅に建っている古代建築の遺構によって推察されるのである。

 そしてマキョの生活が数百年にわたって続けられると、祭祀、慣習、制度が生じ、集会の場所が必要となり、そのために造られたのが住居と異なる神アシアゲという建物で、様々な神も集まるので神アシアゲと呼ばれたのである。それは軒が地面から立ち上ったこと、すなわち「脚をあげた建物」ということから、「アシアゲ」の名称が生じたのではないかと稲村は書いている。

 それだけでなく、ここでは「御嶽」への言及は少ないけれども、マキョや神アシアゲと密接な関係にあるのだろう。


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古本夜話963 眞堺名安興と『沖縄一千年史』

 もう二冊ほど沖縄書があるので、続けて書いてみる。

 一冊は眞堺名安興、島倉龍治著『沖縄一千年史』で、昭和二十七年の四版とあり、発行者は福岡市の親泊政博、発行所は住所を同じくする沖縄新民報社、発売所は琉球文教図書株式会社となっている。
f:id:OdaMitsuo:20191028091755j:plain:h110(『沖縄一千年史』、琉球史料研究会復刻版)

 二人の著者のうちの眞堺名は『柳田国男伝』の「註」の「伊波普猷略年譜」のところに、沖縄県尋常中学校の同級で、沖縄県立図書館長とあり、主著として『沖縄一千年史』が挙げられていた。同書はA5判上製、本部六五一ページに及ぶ大冊で、六枚の口絵写真には沖縄県立図書館郷土研究室における著者の姿も含まれている。

 その構成を示せば、沖縄人の始祖から始まる古代記、四王統の興亡、尚圓王統前期、同中期、同後期の五篇からなり、それぞれの歴史、文化、神社と宗教、風俗などがたどられ、本土との関係もトレースされ、最初の沖縄の一千年通史に位置づけられるであろう。その中から何を紹介しようかといささか迷うのだが、やはり第三編第四章における「上代の遺風」の中の「拝所」を引きたい。それは次のように記されている。

 琉球神道記に「国の風として岳岳浦浦の大石大樹皆御神に崇め奉る。然して拝貴則験(をがみあがめばしるし)あり」とあるが如く、琉球にては之を拝所(ヲガミジヨ)と称へ、概ね石垣を繞らし、香爐を備へ、内部には大樹怪石ありて殊に蒲葵、恍榔、榕樹、「ガジマル」等鬱蒼たり。此の拝所は琉球全島に亘り、到る所に存在して夫々神名を有し、(年中祭祀等参照)例へば、「クバツカサ」(蒲葵司)或は「マニツカサ」(恍榔司)など称せり。本土に於ても亦鳥獣、金石、草木等珍奇のものを神と崇め、或は尊(ミコト)と唱へて、崇礼せしは一般の旧習にて、記紀等に徴せるも亦上古の風なりしこと明なり。

 しかし鳥獣に関しては沖縄には鳩、鹿、猿、狐がいないので、「蛇、鰻、鯉等を神仏視することあり」とも付け加えられている。

 この「拝所」という言葉を最初に知ったのは岡谷公二の『南の精神誌』(新潮社、平成十一年)によってである。この中で、彼は沖縄全域に見られる、本土の神社に相当する聖地としての「御嶽」を論じていた。それによれば、一般には「ウタキ」だが、「オタキ」「オタケ」とも呼ばれ、土地によっては「ハイショ(拝所)」「ウガンジョ(拝み所)」「ウガン」、もしくは「ムトゥ」「オン」「ワン」「ワー」などとも称されているようだ。さらに先の「クバツカサ」「アニツカサ」も加えられる。それは「御嶽」が外部の者に対する「一種の公的用語」であることを伝えていよう。

南の精神誌(『南の精神誌』)

 沖縄の「御嶽」は今でも「建物の類が一切なく、クバ、アコウ、ガジュマルなどの茂った森だけを、神を祀る場所としているところが多い」。沖縄に古神道の原型が残されているとすれば、神社もかつては「御嶽」と同じだったのではないかと岡谷は問うている。また「そうした森の中に立っていると、人々の心が神に向って純一になり、透明になってゆくのが実感」されるとも書いている。

 その岡谷の『南の精神誌』を読んでから、それほど間を置かず、岡本敏子編『岡本太郎の沖縄』(NHK出版、平成十二年)が出された。そしてその中に七枚の「御嶽」の写真が見出された。それは「天地開秒闢の時、はじめて神々が降臨したという久高島」のクボノ御嶽(通称・大御嶽)、本島知念村の斎場御嶽、石垣島の拝所で、確かに「この神聖な地には、神体も偶像も何もない」のだ。斎場御嶽に関しては岡谷も『南の精神誌』の中で、「伊勢神宮に比すべき聖地」として、長く詳細に論じ、描いている。これらの写真は昭和三十四年十一月から十二月にかけて撮られ、その記録は『沖縄文化論』(中公文庫)としてまとめられている。おそらく岡本は本連載で言及を続けてきたマルセル・モースの Manuel d'ethnographie (Payot ,1947)を携え、沖縄へと向かったのであろう。

岡本太郎の沖縄 沖縄文化論 Manuel d'ethnographie

 さらに続けて「御嶽」に言及したいのだが、それは次回に譲り、『沖縄一千年史』には巻末に先の発行者の親泊政博による「『沖縄一千年史』四版刊行に際して」が収録されているので、それにふれてみたい。同書の初版は大正十二年に、やはり島倉龍治共著として、五百部限定版で出された。その事情は初版刊行の助力を約し、激励していた、沖縄財界の伸吉朝助が失脚し、印刷費が捻出できなくなり、出版が頓挫しようとしていたことにある。

 ちょうどその頃、島倉が那覇地方裁判所検事正として着任し、沖縄史研究に関心を寄せ、様々な活動を展開し、眞堺名と肝胆相照らし、『沖縄一千年史』の出版援助の議がまとまった。そして島倉の積極的強力による上梓の機運の到来とその深甚なる友好にほだされ、眞堺名は島倉に「序」を乞い、「合著の形式をもつて礼をつくした」とされる。ここでようやく「合著の形式」が了承され、そのような出版のかたちもあることを教えられる。

 それから眞堺名はさらに資料収集と再検討を加え、昭和七年に増補新版刊行を意図し、沖縄県立図書館で親泊に助力を求めた。親泊が直ちに応諾したことに眞堺名は満悦の意を表されたという。しかし眞堺名は不幸にして病に付し、増補新版刊行の実現を見ずして、病床に呻吟し、昭和八年十二月、五十九歳でその一生を閉じることになった。再版刊行は昭和九年三月であり、それで同書の口絵写真に同年四月の沖縄郷土協会主催の「故眞堺名安興氏追悼会」の一枚が掲載されている事情を理解することになるのである。


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古本夜話962 笹森儀助『南嶋探験』

 柳田国男は昭和三十六年に筑摩書房から刊行された『海上の道』(岩波文庫)の中で、笹森儀助の『南島探検』に言及し、次のように述べている。
海上の道

 笹森儀助の『南島探験』という一書は、明治二十六年(一八九三)かに、この人が沖縄県の島々を巡歴して、還ってきてすぐに出版した紀行であるが、何かわけが有って十数年も後に、やや大量に東京の古本屋に出たことがある。自分もそれを買い求めてひとたび精読し、始めて南端の問題の奇異且つ有意義であったことに心づいた。それを読んだという人にはその後幾十人というほど出逢ったが、各自の印象はまだ十分に語りかわすことができずにいる。

 そして柳田の記憶に焼きつけられているのは、笹森が人の止めるのも聞かず、マラリヤの病によって消え去ろうとしている高地の村々を通ったという場面、また他の村では老人が一人いて、どうしようもない窮状を告げているところだと。

 幸いにして、この『南嶋探験』(東喜望校注)は昭和五十七年に平凡社の東洋文庫の二巻本が出されている。サブタイトルは「琉球漫遊記」で、口絵写真には尻ばしょりで帽子をかぶり、傘をさしている笹森の「真像」の掲載がある。これは、『柳田国男伝』にも採用され、「当時の彼のいでたちをよく伝えている」とのキャプションを目にすることができる。

 それはともかく、柳田の記憶を確認してみると、やはり半世紀前の読書であることを告げるように正確ではない。それは明治二十六年七月後半の「西表島巡回」に見出されるもので、「高サ十丈余、土民此辺ヲ恐テ行クモ少ナシ。コレ亦風土病ノ潜伏スルカノ恐レアルヲ以テ也。(中略)丘陵ノ上ハ数多ノ旧屋跡アレ」がそれに該当する。また「有病地ノ故ヲ以テ、来レハ死スルト為ス。故ニ無病地各嶋ノ婦人ニシテ、誰一人来ル者ナシト」。こちらは村の老人の話になるのだろう。それに両者は柳田がいう古見村ではなく、前者は船浦村、後者は高那村、古見村にはそれらしき記述は見当らない。さすがの柳田にしても、明治二十年代に読んだ『南嶋探験』は手元になく、記憶によって書いたのではないだろうか。

 その『南嶋探験』出版史をたどる前に、笹森のプロフィルをラフスケッチしておく。笹森は弘化二年に弘前藩御目付役の家に生まれ、安政四年に父の死去に伴い、家禄を継いで小姓組となり、藩黌稽古館で学んだ。ところが山田登という武芸の師の憂国と農本思想的影響を強く受け、国防の必要性を説いた国政改革意見書を藩主に提出したことで、師弟ともども蟄居の身となる。明治三年に維新の大赦を受け、弘前藩庁に入り、県下の民政、財政の仕事に携わり、中津軽郡長に任ぜられ、弘前病院監督や県立女子師範学校長を兼務し、地方行政官としての手腕を発揮した。

 だが明治十四年には政争に巻きこまれ、辞表を提出し、開拓を進めていた常盤野に農牧社を開業する。以後十年にわたって、その経営に当たり、苦難の中で、政府拝借金の返済目途が立ったことから、二十三年に社長を降り、翌年から『南嶋探験』の「緒言」にある「余ハ草莽ノ士」として、所謂「貧旅行」を試みていく。それらは横浜からの近畿、中国、九州などを一巡した『貧旅行之記』、翌年には『千島探験』に挑むことになる。
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 さてその出版史だが、東喜望の東洋文庫版「解題」によれば、その底本は青森県立図書館特別資料の笹森儀助自筆写本(稿本)である『南嶋探験』乙である。さらに主として写本の『南嶋探験』丙が参照されている。それは明治二十七年に洋本として上梓された『南嶋探験』も同じプロセスをたどったようだが、こちらは「明らかに私家版」だとし、『非売品 南嶋探験』の書影も示され、その体裁も述べられている。菊判五三二ページで、井上毅など三人の漢文「序」や「跋」は東洋文庫版と同じだが、発行所兼編輯人が笹森儀助、印刷所は東京京橋恵愛堂とあり、確かに出版社名の記載はない。

 東は笹森が「これを知己・学会等に配布し」たと述べ、「同書の一、紅色表紙本は天皇への献上へ備えたものだ」と指摘している。だが柳田がいうところの「何かわけが有って十数年後に、やや大量に東京の古本屋に出たことがある」事情は定かでないとされる。しかしこの大正初期と思われる時代に、『南嶋探験』が「やや大量に東京の古本屋に出た」ことによって、柳田が読み、沖縄への関心を高め、そこに伊波普猷の『古琉球』の献本が届き、大正十年の沖縄旅行と『海南小記』(大岡山書店)へと結びついていく。

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 そして翌年には南島談話会が開催され、本格的な南島研究に結びついていく。おそらく南島談話会の人々も、、『南嶋探験』が「やや大量に東京の古本屋に出たこと」によって、柳田と同様に読んだのであろう。私なりにその理由を推理すれば、『南嶋探験』は早すぎる琉球書だったこと、及び出版社を経由しない自費出版であったことも相乗して、取次や書店ルートでの販売はできなかった。それゆえに、かなりの部数がそのまま東京の印刷所の恵愛堂の倉庫に残ってしまった。そうして大正四年に笹森が死去したことにより、それらが古本屋へと「やや大量」に流出してしまったのではないだろうか


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古本夜話961 比嘉春潮、崎浜秀明編訳『沖縄の犯科帳』

 本連載958で、伊波普猷『古琉球』の「後記」が比嘉春潮と角川源義の連名で書かれていることを既述しておいた。後者の角川は昭和二十年に角川書店を創業し出版業界ではよく知られているので、ここでは前者の比嘉にふれてみたい。たまたま彼と崎浜秀明編訳の『沖縄の犯科帳』が手元にあるからだ。

f:id:OdaMitsuo:20190925153342j:plain:h110(青磁社版)沖縄の犯科帳

 それに比嘉は『[現代日本]朝日人物事典』にも立項されているけれど、『柳田国男伝』において、昭和初期の南島研究の組織化とその展開にあたって、「柳田自身の学問にとっても、比嘉は欠くことのできない重要なインフオーマントであった」とされ、言及や登場頻度も高いのである。それもそのはずで、柳田との出会いも奇妙な偶然といえるものだった。比嘉の自伝ともいうべき『沖縄の歳月』(中公新書)などを参照し、その軌跡を追ってみる。

[現代日本]朝日人物事典  f:id:OdaMitsuo:20191023113849j:plain:h120

 比嘉は明治十六年に沖縄の中頭郡に生まれ、父は首里の元士族だった。沖縄は十三年の琉球処分に続く混乱期にあり、物心両面における激変にさらされていた。その中で比嘉は多感な少年時代を送り、キリスト教やトルストイズムや社会主義から深い影響を受け、自らがいうところの「明治末年の革新的な有識青年一般のたどる道すじ」を進んでいた。しかしそこには近代日本における沖縄の現実が重なっていた。明治三十九年に沖縄師範学校を卒業し、小学校の教師となった。
 そして明治四十三年頃、伊波普猷と知り合い、彼の語る沖縄の歴史から郷土に関する新しい知識を得て、比嘉は伊波に深い尊敬の念を覚え、大きな影響を受けるのだが、その一方で社会主義へも接近し始めていた。彼は小学校の校長に抜擢されながらも、大正七年には新聞記者になり、その翌年には県庁に移っていた。十年一月五日に柳田が初めて沖縄の土を踏み、県立図書館に伊波を訪ねた時、比嘉は県庁地方課の役人だったこともあり、その場に居合わせたけれど、初対面の挨拶をしただけで、言葉を交わすことはなかった。

 しかし比嘉は新聞記者から県庁に転職しても社会主義活動を続け、堺利彦と文通したり、仲間の一人がアナキストの岩佐作太郎を沖縄に招くことになっていた。それを警察が察知したこともあり、心配した上司が岩佐の沖縄滞在中、支庁事務調査の名目で比嘉に宮古島出張を命じたのである。その一月二十日は柳田も宮古島に向かう船中にあり、『柳田国男伝』で述べられている「晩年まできわめて親密に交流し、彼の南島研究にとっても大きな役割を果たすことになる一人の人物」比嘉と出会い、期せずして彼を学問の世界へと招来することになった。

 そして比嘉は大正十三年に上京し、改造社に入社する。その後の彼の軌跡が『柳田国男伝』に「註」として付されているので、昭和十年代までを引いておこう。昭和二年南島談話会に参加し、幹事役を務め、六年にはそれを復活させ、会の運営に当たる。八年には柳田とともに雑誌『島』を発刊し、九年には木曜会に参加し、山村生活調査に加わっている。『柳田国男伝』には木曜会初期メンバーの集合写真が掲載され、そこには比嘉の姿もある。また当然のことながら、十年には柳田の還暦記念民俗講習会にも参加している。

 昭和十年で止め、比嘉の戦後と昭和五十二年の死までたどらなかったのは、『沖縄の犯科帳』に関して書けなくなってしまうからだ。これは琉球王国の裁判所である平等所(ひらじょ)の記録で、戦前には那覇地方裁判所にかなりの分量が保存されていたようだが、戦禍でほとんどが消滅してしまい、大正十三年頃に平等所の一部の裁判記録を筆写させたものだけが唯一の現存で、それを口語訳したものである。「まえがき」は謳っている。

 この「犯科帳」は、琉球王国が最初に制定した刑法典である「琉球科律」「新集科律」を、どのように具体的に適用したかを知る上に、また当時の社会状態の一端を窺う上にまことに興味深いものがある。琉球王国はつねに平和を愛好し、無刑の世を理想としてきた。一七三四年(享保十九、雍正十二)に平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)が処刑されたほか、死刑はそう多くなかったようである。

 『沖縄の犯科帳』に記載された事件は徳川末期から明治初期の約百年間の沖縄で起きたもので、それらの事件は今日の沖縄とも、当時の日本とも異なる、数世紀にわたる旧時代的社会諸制度や習俗を反映していることは明らかだ。だがそれが法的に遅れていたということを意味していない。これらの事件は放火、窃盗、姦通、脱走、殺傷、癇癪持ち、酔狂者、契約不履行、位牌・墓所に関する事件、戸籍に関する事件からなる26の裁判記録である。

 それらを一読しての印象は「解説」にもあるように、「審理判決に当たっては、常に慎重な態度をもってし、ことの疑わしきを罰せず、たとい自白しても確たる証拠のないものは処刑しないという、現代の法思想と相通じる公正な態度」が認められる。ただ「位牌・墓所」「戸籍」に関する事件が11と、半分近くを占めているのは、沖縄の社会法制度ゆえであろう。そこには南島のみならず、日本の源初の法制が埋めこまれているのかもしれない。

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