出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話947 山田吉彦とモロッコ

 山田吉彦もモースの弟子だから、彼のことももう少しトレースしておこう。彼は一九三九年にソルボンヌ大学を中退し、モロッコ旅行を経て、日本へと帰国する。そして二年後の昭和十八年に、マルセル・モース『太平洋民族の原始経済』の版元である日光書院から『モロッコ紀行』を刊行している。前回の松平斉光の『祭』と同年で、モースと日光書院が連鎖していることを伝えていよう。

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 山田のモロッコ行は、一九三〇年にモースが生涯唯一のフィールドワークというべきモロッコ旅行を試みていることに影響を受けてだと思われる。それに加えて、渡辺公三「マルセル・モースにおける現実と超現実」(鈴木雅雄、真島一郎編『文化解体の想像力』所収、人文書院)によれば、三〇年代は「フランス人類学における『散種』の時代」だった。モースの高弟のグリオールたちのダカール=ジプチ調査団が出発し、メトローはアルゼンチン、後に民族精神医学者となるドゥブルーはベトナム、インカ研究者のスーステルはメキシコ、独自の民族植物学の提起者オードリクールはコーカサス、レヴィ=ストロースはブラジルへと向かっていたし、それらも山田の念頭にあったにちがいない。

文化解体の想像力

 しかし写真も収録されていると思われる日光書院の『モロッコ紀行』は長きにわたって留意しているけれど、入手できていないし、未見のままである。だがおそらくこれを原本とする『モロッコ』が昭和二十六年に岩波新書として出され、四十六年には『きだみのる自選集』(読売新聞社)第三巻に収録されているので、ここでは後者をテキストとするが、著者は山田として扱う。

モロッコ(『モロッコ』)f:id:OdaMitsuo:20190902203259j:plain:h115

 山田はその「まえがき」にあたる部分で、「この旅は一九三九年の春夏に行われたものである。旅行を終わっていくばくもなく、奥地の旅行は外国人に禁止され」、「日本人としては私が最後の、(中略)一番内奥まで旅行した人間であろう」と記している。それは経緯と事情に関しては不明だが、ジョゼフ・アキャン博士がモロッコ総督府の陸軍官房長に紹介状を書いてくれたことによっている。後日譚として、アキャンは地中海でドイツ潜水艦の襲撃を受け、その一生を終えたとされ、山田は同書を「彼の私に対する深い友情の追憶」に捧げている。おそらくアキャンもまた民族学者で、山田と同様にモースの弟子だったのではないだろうか。

 山田も書いているが、『新訂増補 アフリカを知る事典』(平凡社)なども参照し、まず当時のモロッコの状況をラフスケッチしておこう。一九世紀初頭に王位にあったアジス王の時代には王権が弱体化し、内乱が起き始め、これを見てヨーロッパ各国は植民地化を目論んだ。その中でもフランスは自国の医師を殺害されたりしたことから、一万五千の兵を派遣した。その一方で、フランスは隣のアルジェリアを植民地にしていたので、モロッコに他の国以上の関心を寄せざるを得ず、各国の利害関係を清算し一九一二年に保護条約を締結した。

アフリカを知る事典 

 しかしモロッコ人は自由の民を自称し、さらにイスラム教であり、軍隊の反乱が起き、フランスは自国のレンヌ部隊長リオテーをモロッコ総督に新明氏、彼はそれを果たし、モロッコを征服し、統治するに至る。そして元帥となり、その死後はカトリック信者であるにもかかわらず、モロッコの聖者廟に祀られたのである。山田は『モロッコ』のなかで、その「聖者廟」を訪れ、「リオテーの政策」と「モロッコ進攻」にもそれぞれに一章を割き、フランスによるモロッコの植民地化とそのメカニズムを浮かび上がらせているかのようだ。「砂漠への旅の誘い」が「そこに行って征服者と敗者の姿を異国的な風景の中で見て来よう」とするものだったとの言はそのことを伝えていよう。

 それらはひとまず置くにしても、カザ(ママ)・ブランカから始めて、その港町を描いていく。アトラス伝説の大陸、フランス広場、たなびく三色のフランス国旗。フランス人の町は本国より美しい秩序がある。通りを隔てたモロッコ人の部落メディナは敵襲を考慮に入れた狭い迷路のようで、中世の夢の中で暮しているイメージがあり、ノスタルジーをそそる。夜になると羊や様々な臓物の焼肉屋に土地の青年たちが群がり、「もつ」が好物の山田も誘いこまれ、ビールを飲む。そしてさらに歩いていくと、中年のポルトガル人に声をかけられ、その案内で黒人のバーにいき、それから梯子酒になった。イスパニアやフランスの女たち、モロッコ人の女の売春婦たちがバーや路地に入り乱れている。カフェからはモロッコの楽器の音に混じり、唄が聞えてくる。入ってみると、フランス人や外人部隊の兵士たちで十ばかりのテーブルが占領され、中央の空いた場所で、半裸の女が唄を歌ったり、踊ったりしていた。「明日はチェニスかモロッコか」という「カスバの女」が聞えてくるようで、それに伴い、映画の『カサブランカ』も思い出されてくる。
カサブランカ

 カサブランカが長くなってしまったので、あとはたどるだけにする。サフイ、マガザン、モガドール、アガディール、ティズニットなどで、確かに総督府官房長宛の紹介状は効力を発揮したことがうかがわれる。

 それらとともに、『きだみのる自選集』の「あとがき」を読むと、そのモロッコ旅行の目的がモロッコのベルベル族の「ホスピタリティ」を見学することにあったと書かれていた。フランス語で Hospitalité とは「歓待」に他ならず、私訳すれば、「おもてなし」で、モースの民族学でいうところの広義の意味での「贈与」と考えていいだろう。

 つまり山田もモロッコのベルベル族にそれを見出そうとしたのであり、そのことを知ると、彼がモロッコ人部落に入りこみ、様々なフィールドワークをしたことの意味があらためて了解できるし、この『モロッコ』を流れているキイトーンは Hospitalité を求めてということに尽きるように思われた。

 だがその理由として、山田はモースの教室でつき合っていたアンリ・ボンネ夫人やウーファの女優キャビー・ベルトランの名前を挙げているのだが、それらの事情は不明であることも付記しておく。


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古本夜話946 松平斉光『祭ー 本質と諸相』とアウエハント『鯰絵』

 『民族』に関係していた松本信広たちよりも少し遅れてパリに遊学した研究者がいる。それは松平斉光だった。

 彼は明治三十年生まれで、大正十年東京帝大法学部卒業後、西洋思想史を講義するかたわらで、日本政治思想を探究する試みを続けていた。しかし北畠親房の『神皇正統記』 (岩波文庫)を読み、その神話的記述に驚倒し、日本精伸の中にソクラテスやプラトンに通じる論理大系を求めることを放棄するに至っていた。
神皇正統記

 昭和戦前、もしくは大東亜戦争下における『神皇正統記』 がどのように読まれていたのかの実情に通じていない。だが松平とほぼ同世代のひとつの実例は知っている。拙稿「由良哲次『民族国家と世界観』」(『古本屋散策』所収)でふれておいたように、由良は奈良県の丹生神社の神主の家系で、京都帝大哲学科に進み、西田幾多郎や田辺元に学びながら、ハンブルグ大学に留学し、エルンスト・カッシーラの下で博士号を取得している。
古本屋散策

 そして帰国後、東京高師の教授に就任し、多くの著作を刊行していくのだが、それらはナチスドイツに傾斜し、大東亜共栄圏の発展を祈願するアジテーターのような色彩に染まっていく。その典型が『民族国家と世界観』(民族科学社、昭和十八年)に他ならず、彼はまた由良家が南朝の系譜にあることから、「南朝正閨論」も唱え、エピグラフにその一節が置かれている。英文学者の由良君美はその息子で、君美は教え子の四方田犬彦たちに、日本における比較神話学の始まりの本として、『神皇正統記』 を推薦したという。
f:id:OdaMitsuo:20190901174557j:plain:h120(『民族国家と世界観』)

 こうした京都の西田門下の右派ともいうべき由良、また同じく左派の三木清や林達夫たちとも異なり、松平は粗朴な意識と古来の心情を伝える祭の中に日本固有の思想を求めるべきだと考え、祭の研究を志したのである。それは『祭―本質と諸相』(朝日新聞社、昭和五十二年)の「はしがき」に示された次のような事情によっている。
f:id:OdaMitsuo:20190901103835j:plain:h120(『祭―本質と諸相』)

 中学時代からの畏友渋沢敬三氏が、自宅の庭内に三河の山村から花祭の祭祀団を招き、神秘華麗な祭の一夜を有志に披露したのが、その直接のきっかけであった。昭和五年のことである。
 翌年、早川幸太郎氏の『花祭』二巻を携えてパリに遊学した私は、そこで社会科学の全域に君臨していたデュルケム派社会学の力強い実証主義に感化され、グラネの奇想天外な『詩経』解釈に驚倒し、モス(ママ)の緻密雄大なポトラッチ理論に傾倒した。そして、「古いものほど長続きする」というフランス社会学の第一前提に心服して、三河の花祭を学位論文に選んだ。

 ここにもグラネやモースたちの弟子がいたことになり、その学位論文に当たるLes fêtes saisonieres au Japon によって三河花祭も、フランスに紹介されたのである。松平の滞仏には九年に及んだようだが、第二次世界大戦勃発とドイツ軍のフランス侵攻を機とし、帰国する。それは岡本太郎と同様であり、ともにモースの弟子として交流もあったにちがいない。

 松平は帰国してからも祭の探訪に全力を注ぎ、本連載922などの日光書院から昭和十八年に『祭』を出版する。それに続いて、戦況の激化する中で、その第二輯を慫慂され、破局を顧慮しながら大車輪で各地の祭を探訪し、祭りの本質、すなわち日本の神々を検出し、「祭の本質」を描こうとしたのが『祭―本質と諸相』である。しかしそれは検閲の忌避が生じ、刊行されたのは昭和二十一年であった。
f:id:OdaMitsuo:20190902114326j:plain:h115 (『祭』、日光書院)

 第一輯の『祭』は入手していないけれど、第二輯『祭―本質と諸相』は手元にあり、朝日新聞社版には付されていない「序」が昭和二十年一月付で記され、実際の刊行が二十一年十二月となっている事情が判明する。同書の前半は「祭の本質」で、「祭礼は高貴の賓客を招待して催す饗宴である。それが普通の饗宴と違ふのは、招かれる客人が唯の人間ではなくて神である点である。/されば祭礼の何たるかを知るには神の本質を知るのが先決問題である」と始まっている。

 ところが検閲は神の本質から「国体神」と「神社神」を除外せよとの要求で、双方の神がいかなる性質のものなのか、まったく不明だし、理念的にまったく明確でない神々も勝手に除外されては研究が成立しないことになってしまう。それもあって出版は戦後に持ち越されてしまったとわかる。「祭の本質」は「神」「霊魂」「祭の本質」「結論」の四章仕立てである。

 それに続けて、「祭のさまざま」が鞍馬の竹切、綱引神事、羽黒のおとしや、出雲の正月、諏訪の祭、那智の扇祭、志摩の浦風と具体的に展開されていく。しかし神と祭との関係からしても、検閲によって勝手に神々を除外されたら、観念的にも具体的にも論旨が成立しないことになってしまうので、戦前の刊行は不可能だったことを示していよう。

 この松平の『祭』と『祭―本質と諸相』は後者の朝日新聞社版の山口昌男による「解説」で言及されているように、C・アウエハントの『鯰絵』(小松和彦他訳、せりか書房、昭和五十四年)において、つぎのような評価が下されている。
鯰絵(岩波文庫版)

 おそらく、日本の民俗学研究者のうちでも、松平斉光ほど、日本の神々のもつ両義性と、多くの宗教的祭礼に内在する二元的構造を、明晰かつ実証的に説き明かした者はいないだろう。松平の思考法は、膨大な数の祭礼を分析した彼の二冊の著書の評論に示されている。

 それらの詳細な内容はアウエハントにまかせて立ち入らないが、山口の「解説」にも明らかなので、必要とあれば、参照してほしい。


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古本夜話945 宇野円空『宗教民族学』と岡書院「人類学叢書」

 マルセル・モースのもう一人の弟子は宇野円空である。彼も『文化人類学事典』に立項されているので、まずそれを引いてみる。

文化人類学事典 

 うのえんくう 宇野円空 1885-1949 宗教民族学者。京都の西本願寺派の尊徳寺で生まれる。1910年に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、仏教大学教授、龍谷大学教授、東京大学教授を歴任。宗教学から出発して宗教民族学(宗教人類学)という新しい分野を開拓した。1920年から23年にかけてヨーロッパ(フランス、ドイツ、オランダ)に留学し、宗教民族学の理論的研究に従事した(中略)。宗教民族学は現在、日本の文化人類学の主要な分野のひとつになっているが、欧米の宗教学や民族学の諸理論をひろく渉猟して、この学問の基礎をつくった宇野の功績は大きい。

 宇野はまさに『宗教民族学』という一冊を昭和四年に上梓している。それは菊判五四六ページ、「引用参考書目」と邦文語、外国語「索引」は六七ページに及び、それらは「欧米の宗教学や民俗学の諸理論をひろく渉猟して」いることを物語っている。山田吉彦が『太平洋民族の原始経済』の「後記」で、「宇野博士が宗教社会学を書かれたことを告げるとモース先生は“ははあ、先を越されたな”と髭の唇に微笑を浮かべられた」と述べているけれど、それは山田が『宗教社会学』と『宗教民族学』を混同していたことによっている。しかもそれには理由もわかる気がする。

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 宇野の『宗教民族学』は岡書院の「人類学叢書」として出されたもので、その「人類学叢書発刊に就て」が『民族』(第二巻第六号、第三巻第一号)に見開き二ページで掲載され、次のような文言から始まっている。

 遂に、人類学時代は到来した。
 かつては神学や哲学が学問体統の首座を占め、爾余の科学にその隷属を強ひ、かくて永い世紀、彼等の時代を誇つた。然し彼等も永久へにその地位を擁することはできなかつた。偉大なる世紀の転換と共に已に台頭しつゝあつた学問体統に於ける下克上の気運は、遂にその目的を達し、実証主義の精神は完全に観念主義を克服し、哲学を遂つて新興の科学人類学を以つて、学問の首座に拠らしめた。(中略)
 こゝに刊行せんとする「人類学叢書」は、この成果を集成して、一方人類学的精神の如何なるものなるかを闡明すると共に、他方新興科学の全原野に亙つて、その全容を展示し、以つて人類学的認識の普遍化を企図するものである。(後略)

 三分の一ほどを引用しただけだが、岡書院の「人類学叢書」に向けた情熱が伝わってくるだろう。そこには「営利的なる予約出版の方法を排し、読者の自由なる選択購需に使せん」との言も見え、この出版が昭和円本時代の只中であったことを教えてくれる。

 次にそのラインナップを示す。

1 長谷部言人 『自然人類学概論』
2 清野謙次、金関丈夫 『人類起源論』
3 松村瞭、久保栄三 『人種学』
4 柳田国男、岡正雄 『民俗学概論』
5 宇野円空 『宗教民族学』
6 浜田耕作、小牧実繁 『考古学概論』
7 新村出 『言語学概論』
8 内村吉之助 『法律民族学』
9 赤松智城 『宗教社会学』

 つまりこの「人類学叢書」には宇野の『宗教民族学』と並んで前々回の赤松智城の『宗教社会学』も含まれていたことになり、山田はそれでタイトルを混同してしまったと思われる。ただこの昭和二年から刊行され始めた「叢書」は、岡茂雄『[新編]と炉辺山話』(平凡社ライブラリー)所収の「岡書院・梓書院出版目録」で確認してみると、3と4は出されず、いずれも小山栄三『人類学総論』と『人種学各論(前編、後編)』に差し替えられている。それにこれらの九冊の揃いを見ることは難しいようだ。

炉辺山話

 さて最後になってしまったけれど、宇野の『宗教民族学』にもふれておくべきだろう。同書に収録された「宗教民族学の発生」を始めとする十三の論稿はやはり『宗教研究』と『民族』などに掲載されたものである。最初の「宗教民族学の発生」において、それは同義語とされる民族人類学の誕生と同様に二、三十年前で、未開社会に見られる宗教現象の研究をさしている。近年の宗教民族学の進展はウィルヘルム・シュミットによるもので、彼は一九〇六年に創刊された『アントロポス』を通じて、民族学的宗教の研究が進められ、認められるに至った。それゆえに宗教民族学の創立者はシュミットとその一派にあるといっていい。

 このような宇野の立場からすると、前々回の赤松智城の、『輓近宗教学説の研究』が欧米の宗教学説の整理と紹介であったことに対し、宇野の『宗教民族学』はドイツ、オーストリアの文化史的民族学を中心とする諸宗教民族学説を俯瞰し、紹介していることになろう。

 なおシュミットに関しては別に言及するつもりでいることを付記しておく。


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古本夜話944 バーバラ・ドレーク、赤松克麿、赤松明子共訳『英国婦人労働運動史』春山行夫

 前回の赤松智城が、社会運動家の赤松克麿の兄であることにふれておいた。たまたま昭和二年に厚生閣から出された赤松克麿、赤松明子共訳のバーバラ・ドレーク 『英国婦人労働運動史』を入手しているので、ここで一編を挿入しておきたい。

 著者のバーバラ・ドレークのプロフィルは不明だが、同書はその『労働組合婦人論』第一章の翻訳とされ、タイトルに示されているとおりの内容で、英国における一八七四年から一九一八年にかけての婦人労働組合史となっている。日本での翻訳刊行の理由と目的は訳者の「序文」に謳われている。

 我国の産業に於て、繊維工業が重要なる地位を占める関係から、婦人労働問題が可成り注目さるべき立場にある。現在我国には農業婦人労働者を除いて約百五十万人の労働婦人が居り、その中、約百万人は工場労働者である。一方に於て、職業婦人と呼ばれる婦人頭脳労働者の数も、今日、百万人を越えて居る。切実なる無産階級の生活意識と婦人の個性的自覚とは、今後益々婦人大衆を労働市場へ借り出すであらう。そして労働婦人の解放問題は社会運動の途上に於て、大いなる波紋を描くに至るであらう。

 そのための「種々なる有益なヒントを与へるものと信ずる」ことによって、ここに翻訳されたのである。折しも大正十四年七月改造社から細井和喜蔵の『女工哀史』(岩波文庫)が出され、ベストセラーになっていたし、「約百万人は工場労働者である」という一節に投影されているのだろう。それゆえにここでは赤松克麿よりも共訳者としての赤松明子に注目すべきだし、 『英国婦人労働運動史』そのものが明子の訳によっているのではないかと推測されるからだ。
女工哀史 

 『近代日本社会運動史人物大事典』には赤松明子も含め、赤松一族が揃っているので、それらを参照しながら、彼女の軌跡をたどってみる。その前に赤松克麿をラフスケッチしておくと、彼は西本願寺の赤松連城を祖父とし、与謝野鉄幹の実兄の僧侶を父とし、東大で吉野作造の教えを受け、東大新人会を創設している。卒業後、日本労働総同盟に入り、調査部長、出版部長を歴任し、大正十一年には創立直後の日本共産党に入党する。そして十二年の一斉検挙後に党を去り、昭和元年に社会民主党創立に参加し、五年に書記長に就任し、昭和七年には日本国家社会党を創立に至る。また実弟の赤松五百麿も兄と同様に、左派労働運動から国家社会党への道を歩んでいく。

近代日本社会運動史人物大事典

 赤松明子は吉野作造の次女で、彼女もまた夫の克麿の軌跡と併走していたのである。克麿の実妹の赤松常子とともに、労働総同盟や日本民衆党系の女性運動家として、昭和二年には東京電機、日本縫合組合の女工たちと労働婦人同盟を結成し、信州岡谷の山一林組製糸争議に参加する。翌年には社会民衆婦人同盟が結成され、六年にはそれらが合同し、社会大衆婦人同盟が発足し、書記長に選ばれるが、脱退して、国家社会主義婦人同盟を結成している。このような彼女の動向も夫に寄り添っていたことになろう。その所産として 『英国婦人労働運動史』も翻訳刊行されたと了承できるし、昭和四年には本連載394のクララ社から『婦人解放論』も出しているようだが、こちらは未見である。

 ところで、 『英国婦人労働運動史』の厚生閣からの出版だが、これは赤松克麿との関係からであろう。奥付の裏の巻末広告に赤松の『転換期〈の〉日本社会運動』の一目広告が掲載され、そこには当時の赤松の置かれた状況がキャッチコピーのように記されている。それは次のようなものだ。

 日本労働総同盟の分裂に端を発してから、無産政党の樹立に至る迄の目まぐるしい二三年は、日本社会運動史上に於て最も多事多端なる時期であつた。この間にこの間に社会運動は決定的な方向転換をなし、重大なる転換期を閲した。右翼、左翼が判然と分裂すると二個の異つた指導精神が出現した。著者はこの渦中にあつて自ら運動を指導する総同盟を代表する唯一の理論家である。本書は日本社会運動の歴史的発展を理解するには好箇の資料である。識者の一読を薦む。

 これを書いたのは春山行夫だと見なしていいだろう。本連載108などで指摘しておいたように、春山は大正十三年頃に名古屋から上京し、厚生閣にただ一人の編集者として勤めるようになる。独学で英語とフラン語を身につけていたし、『詩と詩論』を創刊するのは翌年の昭和三年であることから考えれば、『英国婦人労働運動史』にしても、『転換期〈の〉日本社会運動』にしても、春山が編集に携わったはずだ。

 同じく巻末広告には御木本隆三の『ラスキン研究』『ラスキンの経済的美術観』及び文芸書や翻訳書も見えるけれど、これらも春山が手がけていたにちがいない。拙稿「春山行夫と『詩と詩論』」(『古雑誌探究』所収)において、「春山は群を抜いたエンサイクロペディストで、近代出版史においても比類なき編集者だった」と指摘しておいたが、六年間の厚生閣時代に、春山が『詩と詩論』や関連書以外に、編集した書籍の明細なリストを作成すれば面白いと思う。だが 『英国婦人労働運動史』がそうであるように、当時は編集者への謝辞などは書かれていないので、断定する根拠を添えての提出はやはり難しいであろう。

f:id:OdaMitsuo:20190913084639j:plain:h113 ( 『ラスキン研究』) f:id:OdaMitsuo:20190913084148j:plain:h115 ( 『ラスキンの経済的美術観』) 古雑誌探究


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古本夜話943 赤松智城『輓近宗教学説の研究』

 『民族』の寄稿者にはもう一人の赤松がいて、それは「古代文化民族に於けるマナの観念に就て」(第一巻第三号~第六号)を連載している赤松智城である。彼は前回の赤松秀景と異なり、『文化人類学事典』(弘文堂)に立項が見出されるので、それをまず引いてみる。
文化人類学事典 

 あかまつ ちじょう 赤松智城 1886~1960 宗教学者。1886(明治19)年12月山口県徳山市に、明治期の浄土真宗本願寺派の指導僧赤松連城の孫として生まれる。1910(明治43)年京都帝国大学哲学科卒業、松本文三郎に師事し1915(大正4)年東京帝国大学と提携して宗教研究会を設立し、翌年その機関紙『宗教研究』発刊に尽力した。1927(昭和2)年から京城帝国大学教授となり、朝鮮、満州、モンゴルの宗教を研究し、秋葉隆とともに実地調査を行った。また外国の宗教研究を広く紹介し、“宗教史”の概念、方法、組織について検討した。秋葉との共著『朝鮮巫俗の研究』(上、下 1937年)と『満蒙の民族と宗教』は東アジアにおけるシャマニズム研究の代表的業績である。(後略)

 なお国家社会党党首を務めた赤松克麿は弟、婦人運動家の赤松常子は妹であることからすれば、赤松秀景も縁戚関係だと推測される。

 この赤松智城の『輓近宗教学説の研究』を入手している。これは昭和四年に同文館から「宗教研究叢書」第一篇として刊行されたようだ。その「序言」によれば、同書と「叢書」の発刊は宇野円空、古野清人、紙本治一郎たちの厚情によるものとされる。実は前々回の松本信広の『日本神話の研究』にしても、昭和六年に同文館の「フランス学会叢書」の一冊としての刊行だが、「同叢書」も古野の尽力によっているとの言がある。しかし同文館の社史『風雪八十年』にはそれらに関する言及は見られず、この二つの「叢書」も何冊出たのかも不明のままだ。ただ同文館の「年表」をたどってみると、大正十五年のフランスのドラクロアの古野訳『宗教心理』が挙げられているので、この翻訳がきっかけとなり、赤松や松本の著作や各「叢書」へとリンクしていったとも考えられる。

f:id:OdaMitsuo:20190819105355j:plain:h120(『日本神話の研究』)風雪八十年

 それらはともかく、これも赤松がいっているように、『輓近宗教学説の研究』は『宗教研究』や『民族』などに掲載した十数年来の諸論文をまとめたもので、上編「宗教学説の諸類型」と下編「宗教本質論上の諸問題」に分類された各三論文から成立している。これらの掉尾を飾るのは大正十五年の「マナの観念」で、先述した『民族』連載の「古代文化民族に於けるマナの観念に就て」に加筆修正し、七〇の「注」を付したものに他ならない。それゆえにここではこの論考にふれるべきだろう。

 赤松は「現今民俗学、人類学、乃至宗教学の研究上一般にマナ(mana)という言葉で総称されて、甚だ重要な一の意義をもつてゐる原始民族の神秘的観念」と始めている。この言葉はメラネシア群島地方の土語で、英国人宣教師コッドリントンの著書『メラネシア人』(一八九一年)によって広く知られるようになり、フレイザーやマレットたちがその重要なる意義を認め、その他の様々な原始民族にも、それが等しく発見されることになった。

 コッドリントンの報告によれば、メラネシア人はマナと呼ぶ「一の超自然力(スーパーナリュラル・パワー)に対する信念」を有し、「然もそれはあらゆる方法を以て善事のためにも悪事のためにも働らくのであつて、従つてこの超自然力を所有し又はこれを御することは、彼等未開人に取つては最も大切な功徳」と見なされた。とすれば、マナは「原始の神秘的観念といふよりも、寧ろ神秘力(ミステイツク・アワー)若くは呪力(マヂカル・パワー)」と判断すべきだろう。

 そして赤松はコッドリントンの挙げるマナの実態に言及し、それらの例を示し、次にメラネシア以外の原始民族のアメリカ・インディアン、日本のアイヌ人、マダガスカルのマラガシー人、オーストラリアのカビ族などにおけるマナと同様の観念を見出していく。これらのマナの広い「学問上の意味」からして、それはアニミズムと異なると見なし、マナの力は「原始の聖なる呪法や宗教を産み出す神秘の母胎であつた」と位置づけられる。

 それゆえにマナは原始的自然民族の言葉であり、これを古代の文化民族にまで拡張して考察しようとするのは、一種の時代錯誤にして余りに不当な延長となる。その事実を確認するために、古代のエジプトを見てみれば、古代エジプト人は死と死後の神秘に多くの考慮を払い、現世の努力をすべてといっていいほど彼方への用意にささげ、死後の永生を確保しようとしていた。それは『死者の書』が伝えているし、ピラミッドや神殿建築が物語っている。その特異な神秘は古代のエジプトにおいて「カー(ka)」と呼ばれ、「近代語には訳し難い一種の神秘力の観念」を意味する。

 はたしてこれはマナと通底しているのか。それが検討され、さらにセム民族やヘブライ民族、古代インドや支那や日本へとたどられていく。そしてマナに類する諸観念は長い文明と哲学的説明を経て発展し、今では未開の思想信念とリンクしているのかを見極めるのに困難なほど複雑になっている。しかしマナの探究は呪法と宗教の本質規定には重要な要素を有しているといえる。曖昧な結論で終わっているのだが、これが当時のマナの位相だったと考えるしかない。


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