出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話774 大同館、阪本真三、野村隈畔

 前々回は『エレン・ケイ思想の真髄』の版元である大同館にまったくふれられなかったので、ここで書いておきたい。

 『日本出版百年史年表』によれば、大同館は明治四十四年に阪本真三によって参考書出版社として設立されている。 それを『日本出版大観』(出版タイムス社、昭和五年金沢文圃閣復刻)の立項から補足すると、阪本は明治十八年大阪生まれで、吉岡宝文館に入り、四十三年に上京し、弘道館を経て、大同館を創業とある。主として文検受験参考書、及び各種学芸書に重きを置き、出版点数は四百種以上に達し、「この方面における東都屈指の出版元」とされている。「文検」とは文部省教員検定試験の略称で、この立項から大同館は参考書出版といっても、学参ではなく、文検関連書をメインとする版元だったことを教えられる。

 各種学芸書というのは前々回挙げた本間の著書やエレン・ケイの翻訳の他に、やはり『エレン・ケイ思想の真髄』の巻末広告に見えている市川一郎『教育の基礎たる社会学』、今井政吉『露西亜文明記』、高森良人『満鮮支那旅行の印象』、小林一郎『芭蕉翁の一生』、里見岸雄『人間としての日蓮聖人』、橘恵勝『支那仏教思想史』などをさしているのだろう。

 だがそれだけでなく、大正時代の大同館は小説の出版社でもあった。この事実に気づいたのは本連載766の吉田絃二郎を調べていた時で、彼は早大英文科出身で、島村抱月の推薦を受け『早稲田文学』に小説を発表するようになり、短編「島の秋」が出世作として認められ、作家としての地位を獲得したとされる。それを収録した同名の作品集『島の秋』は七年に大同館から刊行となっていたのである。
f:id:OdaMitsuo:20180317231659j:plain:h120(『島の秋』)

 こうした吉田のデビューと出版事情に関連して、エレン・ケイの『児童の世紀』の「序」と「閲」はいずれも早稲田大学教授の中島半次郎と島村抱月が担い、訳者の原田実や本間にしても、早大講師を務めていたことからすれば、大同館は文検参考書との関係からか、早稲田人脈と深くつながっていたと推測される。それが小説や文芸書の出版へと結びついていったのだろう。

 やはり『エレン・ケイ思想の真髄』の巻末広告には小説として、津田光造の『大地の呻吟』、鈴木善太郎の『暗示』、文芸書として野村隈畔の『文化主義の研究』『ベルグソンと現代思潮』が掲載されている。また津田の小説の紹介文には「吉田弦(ママ)二郎氏より著者への来簡の一節」が使われ、吉田との交流を伝えている。津田は『日本近代文学大事典』に立項があり、明治二十二年神奈川県生まれで、早大英文科を中退し、第二次『種蒔く人』などの同人として農村小説などを書いたが、後に民族主義的方向へとシフトし、没年は不明となっている。おそらくそのタイトルからして、『大地の呻吟』、は農村小説のように思われる。
日本近代文学大事典

 『暗示』の鈴木善太郎も『日本近代文学大事典』に見出され、明治十七年郡山市生まれ、早大英文科を経て、国民新聞や朝日新聞に勤め、大正期には菊池寛、野村愛正とともに新進三作家と称されたという。後に研究座などの新劇運動に携わり、大正十一年には欧米に遊学し、モルナールの紹介にその半生を傾けたとされる。とすれば、この二十の短編からなる代表的選集『暗示』は著者の言として、「生涯の殿堂を築く為の一枚の瓦」、及び「人生の旅路への新しい出発」としての出版とされているので、十年における同書の上梓は、鈴木にとってのターニングポイントとでもいうべきものだったのかもしれない。

 津田と鈴木の二人も、吉田と同様に早大英文科出身であるから、先に『島の秋』を上梓していた吉田を通じて、大同館からの小説刊行も実現したように思われる。だがそれは野村隈畔に端を発しているのかもしれない。野村も『日本近代文学大事典』に立項され、明治十七年福島県伊達郡生まれの思想家、評論家で、小学校を終え、農業に専念していたが、明治四十年頃、哲学研究を志して上京し、独学で英独語を学ぶ。そのかたわらで統一教会に通い、吉田絃二郎や加藤一夫と知り合い、ニーチェやベルグソンなどの影響を受け、『六合雑誌』に論文を発表し、自我の解放を説き、絶対自由主義を唱道したとされる。そして野村が大正三年に大同館から出版したのが先に挙げた『ベルグソンと現代思潮』で、好評を博したという。確かに波多野精一と早大教授内ケ崎作三郎の「序」を付した菊判五百ページの同書は「好評六刷」とあり、それを裏づけている。しかしここで注視すべきは吉田の『島の秋』よりも先駆けていることで、野村による大同館からの出版がきっかけとなり、吉田が誘われ、それに津田も鈴木も続いたのかもしれない。

 そのことを示すように、野村は大正十年に自己の観念内に築いた永劫無限の世界に殉じるために千葉海岸での情死に至るのだが、同年にやはり大同館から『文化主義の研究』も刊行し、これが遺著ともなっている。それゆえに野村は大正六年の『現代文化の哲学』も含め、主著をいずれも大同館から出版していることなり、両者の深い関係を告げているかのようでもある。そこにはもはや知ることのできない出版のドラマが秘められているにちがいない。


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古本夜話773 エレン・ケイ『恋愛と結婚』とハヴロック・エリス

 前回の岩波文庫の元版といえるエレン・ケイの原田実訳『恋愛と結婚』の聚英閣版が手元にあるので、やはり取り上げておこう。これは大正十三年発行、十四年五版で、その版元の聚英閣についてはかつて拙稿「聚英閣と聚芳閣」(「古本屋散策」54、『日本古書通信』二〇〇六年九月号所収)を書いている。
f:id:OdaMitsuo:20180317102917j:plain:h120(『恋愛と結婚』、岩波文庫版)

 これは余談であるけれど、『恋愛と結婚』の刊行とほぼ同時期に、井伏鱒二はズウデルマンの『父の罪』を翻訳し、聚芳閣のほうから刊行した。それがきっかけで、この版元に勤め、ゴロヴニンの『日本幽囚記』の編集に携わっていたが、奥付を落としたままで出版してしまい、大正十五年の初めに馘になっている。

 この井伏のことはともかく、聚英閣のほうの『恋愛と結婚』に戻れば、堅固な四六判上製の函入、四七三ページで、関東大震災後に小出版社から刊行されたようにも見えない一冊である。それらの事情は巻頭の「訳者の断り」に記されている。同書はスウェーデンの女流思想家エレン・ケイの名著『生命線』の前半を、アメリカのアーサー・G・チャーが英訳し、Love and Marriageとして出版したものによる重訳であり、大正九年に天佑社から出され、二十余版を重ね、多くの読者を得ていた。この版元に関しては拙稿「天佑社と大鐙閣」(『古本探究』所収)を参照されたい。ところが前年の大震災で、紙型を焼失し、絶版となっていた。聚英閣からの復刊が提起され、天佑社の承諾を得て、翻訳も修正を加え、ここに再刊に至った。しかしすでに発表した長い「エレン・ケイ論」は、原田の自著『生命の朝』(大同館)に収録したこともあり、その代わりに英訳に掲げられたハヴロック・エリスの「序文」を掲載することにしたと。

古本探究

 このエリスについてはこれも拙稿「ハヴロック・エリスと『性の心理』」(同前所収)、及び本連載78、81などで言及している。この「序文」は原田がいうように、エレン・ケイのプロフィルを簡潔明瞭に伝えている。ただそれは十一ページに及ぶ異例の「序文」であるので、要約してたどってみることにする。

 エレンは一八四九年にスウェーデンにおいて、国会の急進派論客の父と、古い高貴な家柄の代表的女性である母との間の第一子として生まれた。彼女は自然を熱愛し、同時に音楽と読書に親しみ、シェイクスピアやゲーテに熱中した。また彼女は独立性の強い性格で、それは後の『児童の世紀』にもうかがうことができる。それに母親は聡明で洞察力を備えていたことから、エレンの本能のままに進むことを許し、彼女の恋愛や母性に関する真理を目覚めさせた。

 エレンは十八歳の時母からイプセンの作品を贈られ、大いなる感化を受け、二十三歳からヨーロッパ旅行を繰り返すようになり、芸術にも目を開かれ、雑誌への寄稿も始まった。一八八〇年以後は父親の事業の失敗により、自らの職業を得る必要が生じ、女学校の教師となった。その最初の数年で、多くの知名な女性たちと出会い、その生き方や死に学んだけれど、まだ自分の真の地位を見出していなかった。そうした中で、ようやく公衆の面前で文学や美学を論議するようになり、それは次第に個人的意見や権利の主張を伴い始め、ブランデスがいうところの「生れながらの説教者」としての道をたどっていったのである。

 スウェーデン社会において、彼女の文学的な活動力が発揮され、成熟するに及んで、人生と恋愛と結婚に関する著作を発表していく。一九〇三年から刊行され始めた浩瀚な『生命線』の前半が英国で翻訳された『恋愛と結婚』であり、数年後に『児童の世紀』、〇九年に婦人運動に関する広範な著作『婦人運動』を発表し、「絶好の著述」として認められたという。そしてスウェーデンのみならず、新しい婦人運動の局面としてドイツでも声価が上がり、それは英国へとも伝わり、女性のための人間の権利、教育、職業、政治上の同権の要求へと結びついていったのである。

 エリスはエレン・ケイを称して「単なる孤立的な改革を超越した一運動の予言者」、その「著作は彼女の内的自我の率直な告白」だとして、次のように述べている。

 彼女は、或る人々が全然調和出来ないと見てゐる個人主義と社会主義とか、実際は織り交ぜられるものであることを示し、同じやうな方法で、今やこゝに、優種学と恋愛と―種族の社会的要求と愛情の個人的要求と―が相反するものではなく、同一なものであるといふことを示してゐるのである。同じやうに、彼女は、建設と援助と慰撫とが婦人の権利の最大なるものであると宣言する。但し彼女は、婦人達が市民として権利を持つにあらずんばこれらの最大なる権利を適切に実現することは出来ぬと付け加える。かくの如くして、彼女は、偏狭な党派者流の敵味方相方を論破してゐるのである。

 エリスの「序文」の簡略な要約だけで、『恋愛と結婚』に具体的にふれられなかったこともあり、その九章に及ぶ目次だけでも示しておく。それらは「性的道徳発達の経路」から始まり、「恋愛の進化」「自由」「選択」を経て、「母性の権利」「免除」と「合体的母心」を通じて、「自由離婚」と「新結婚法」へと至るものである。

 当然のことながら、この延長線上に『婦人運動』も上梓されたと見なせる。その邦訳は同じく原田訳で、大日本文明協会から出されているが、まだ入手していない。


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古本夜話772 本間久雄『エレン・ケイ思想の真髄』と原田実

 ここで本連載763の本間久雄と大同館に関する補遺を何編か、はさんでおきたい。それは本間が大正十年に大同館から刊行した増補版『エレン・ケイ思想の真髄』も入手しているからだ。

 保田与重郎との関係を調べるために、『日本近代文学大事典』における本間の立項を確認すると、彼は明治十九年山形県米沢市生まれ、米沢中学を経て、坪内逍遥に傾倒し、早大英文科に進み、四十二年卒業後、『早稲田文学』同人となり、自然主義系の新進評論家として活躍すると始められていた。ただそこには自然主義に触発された懐疑と懊悩、世界の終末観がつきまとい、新しい生活への憧憬を求めようとする気配もあり、それがエレン・ケイによって導き出されていったとされる。大正元年に丸善で洋書の新刊の中から、エレン・ケイの『婦人の道徳』を見出したことがきっかけで、それを次のように回想している。

 エレン=ケイが北欧のすぐれた女流思想家だということは知ってはいましたが、目のあたりその著作を見たのは初めてですね。とにかくそれを買ってきて読んでみましたが、その純情な気持ち、詩情あふれる文章、その中に人生に光を求めていくという気持ち、そういうものに私は非常な魅力を覚えたのです。それから、たとえば論文集『ヤンガー・ジェネレーション』とか、『恋愛と道徳』とか『婦人運動』などのケイの著書を読みあさったのですよ。それが私の人生観上の転換期になっていますね。

 これが『エレン・ケイ思想の真髄』という彼女に関する啓蒙的紹介の書として結実していったのだろう。先の本間の回想の出典は不明だが、同書ではないことを記しておこう。

 この一冊の構成を示せば、第一篇がエレンの簡略なポートレートと思想が提出され、第二篇から四篇はその恋愛、結婚、母権観の要約で、彼女の『恋愛と結婚』と『母権の復興』の抄訳、第五篇のその生い立ちはハミルトン夫人の『エレン・ケイ』によるものとされ、第六篇が「社会改良家としてのエレン・ケイの思想」となっている。本間はこの編著の成立について、「学友原田実氏の助力を受けたところが頗る多い」し、第五篇は原田の筆になるとの謝辞が記されている。

 初版への増補分は定かでないけれど、構成から考えても、第六篇が加筆増補されたと見なせよう。エレン・ケイをめぐって、この初版と増補版の間に発生していたのは彼女の主著の翻訳刊行であり、それは同様に『日本近代文学大事典』に見える原田の立項にも明らかである。彼は本間の早大英文科の後輩で、大正期から自由主義な教育評論を書き、教育学を講じ、エレンの『児童の世紀』(大同館、大正五年)と『恋愛と結婚』(天佑社、同九年)を翻訳刊行していたのである。前者は『エレン・ケイ思想の真髄』の巻末に「世界的名著全訳成る」として一ページ広告が掲載され、「仏のルツソーの『エミール』に次ぐ大名著」にして、「エレンケイ女史の名は今や全く世界的である」とのキャッチコピーで。「好評激甚」第五版が謳われている。それに合わせ、『恋愛と結婚』も翻訳され、本間の著書も増補重版されたことになろう。

 また本間のほうも、新著『現代の思潮及文学』を上梓していて、そこにはウィリアム・モリスの「民象芸術論」が見える。それとその後の著作から推測されるのは、本間の場合、エレン・ケイを足がかりにして、モリスの生活の芸術観、芸術の生活化へと向かった。そして昭和三年に英国留学を経ることで、オスカー・ワイルドやウォルター・ペーターの影響を受け、『英国近世唯美主義の研究』の上梓へと至ったのであろう。これも読んでみたいとは思うが、『東京堂の八十五年』の記すところではタイトルと内容ゆえか、「絢爛にして高雅なもの、装幀界空前の美本」で、「番号入り五百部限定版だったため、戦後の古本界で驚くべき高価をよんでいるが、手に入れ難い」という。その書影を見ると、確かにその美本ぶりがうかがえるが、これまで一度も目にしていない。現在の古書価を確認してみると、やはり高価である。それでもいずれ出会い、読むことができるだろうか。
東京堂の八十五年 (『東京堂の八十五年』)

ところで本間のほうはさらに明治文学研究へとシフトしていったのだけれど、原田のほうはエレン・ケイをベースにして教育学や結婚論の道をたどり、昭和五年には新しい結婚制度を論じたリンゼイの『友愛結婚』を翻訳している。これは中央公論社から刊行され、手元にあるのは二十版を数え、この時代にはエレン・ケイの『恋愛と結婚』からリンゼイの『友愛結婚』へと至る新しい結婚のイメージが探求され続けていたと考えていいだろう。
f:id:OdaMitsuo:20180315224808j:plain:h120(『友愛結婚』、中央公論社版)

それを受けてなのか、同じく昭和五年には原田訳のエレン・ケイ『恋愛と結婚』が岩波文庫化されているし、同じく『児童の世紀』も十三年に冨山房百科文庫に収録され、大正から昭和戦前にかけて、結婚と児童に関する思想のヒロインとして、エレン・ケイの時代を伝えているようだ。
f:id:OdaMitsuo:20180317102917j:plain:h120(『恋愛と結婚』)

しかし現在では新訳の『児童の世紀』(小野寺信、百合子訳、冨山房百科文庫)として残されているが、もはや人名事典などに立項が見えず、リンゼイとともに忘れられてしまったといえるかもしれない。

児童の世紀


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古本夜話771 保田与重郎『日本語録』と「新潮叢書」

 続けて保田与重郎の著書を取り上げてきたし、昭和十年代が保田と日本浪漫派の時代だったのではないかと既述しておいたように、彼と『日本浪漫派』同人の著作を合わせれば、かなりの量になると思われる。

 それらを刊行したのは新潮社も例はなく、昭和十七年に保田の『日本語録』という一冊がある。これは五十人の古人の言葉を選び、その言行保田のにかなり長い注を施し、一冊に編んだもので、ひとつの大東亜戦争下における古典アンソロジーといっていいだろう。保田もそれをふまえ、「はしがき」において、「かゝる書物の性格として、多分に時代的色彩を帯びることが当然ではあるが、(中略)それは、現代に対する著者の思想」だと断わりを入れている。
f:id:OdaMitsuo:20180314164318j:plain:h120
 それは倭姫命の「慎んで怠ること勿れ」から始まり、大友家持の「海行かば 水漬く屍…」、北畠親房の「大日本は神国なり」、などを経て、岡倉天心の「Asia is One…」へと至るものである。最後の天心のところで、保田は天心の思想は「所謂南進論や北進論」と同一のものではなく、「神話」としての「東洋が日本に於て一つである」との発見によるとし、『日本語録』のクロージングの一文を次のように結んでいる。

 東京美術学校庭に立つてゐる六角堂内の天心の像の背後には、この『アジアは一つだ』という文句が/Asia is Oneと原文のまゝ刻されてゐる。

 『日本語録』は新潮社が昭和十七年七月に刊行し始めた「新潮叢書」の第一冊目に当たるもので、そこには「刊行の辞」も記されて、「御稜威の下大東亜建設の偉業に挺身する我々にとつて今日ほど日本文化の精髄の闡明と日本国民の偉大なる可能性の計算を必要とする時代はない」と始まり、これらの「重要なる諸問題に対して極めて親しみ易く且、興趣豊かなる方法を以て適切有数なる解答を与へんがために我が新潮叢書は生れた」とある。

 それが保田の『日本語録』から始まったのは象徴的で、「大東亜建設の偉業に挺身する」出版企画に他ならなかったことを告げている。巻末には続刊も含めて「新潮叢書目次」も示されているので、それらを挙げてみる。これも番号は便宜的にふったものである。

1 保田与重郎 『日本語録』
2 三好達治 『諷詠十二月』
3 和田伝 『農村生活の伝統』
4 佐藤通次 『学生訓』
5 芹沢光治良 『新しい家庭』
6 佐藤春夫 『古典の読み方』
7 浅野均一 『青年と体力錬成』
8 富塚清 『日本人の科学性』
9 綿貫勇彦 『日本の風物』
1 0緒方富雄 『人体の強みと弱み』
11 河盛好蔵 『音楽と創造』
12 江沢譲爾 『国土の精神』
13 藤沢桓夫 『大阪人』
14 火野葦平 『九州人』
15 奥野新太郎 『支那詩選』
16 片山敏彦 『ドイツ詩集』
17 浅野晃 『日本的日本人』

 f:id:OdaMitsuo:20180314144810j:plain:h120 ドイツ詩集
 
実はこの和田伝『農村生活の伝統』|も入手していて、それらも見ると、この他にも三好達亊『続諷詠十二月』、中野好夫『アメリカ』、吉川幸次郎『支那人』、高橋健二『国民的教養』、生島遼一『日本の小説』、亀井勝一郎『日本人の死』なども予告されていた。

それでも幸いなことに『日本近代文学大事典』にはこの「新潮叢書」の立項と刊行明細があるので、刊行書を照合してみると、タイトルどおり出版されたのは、1、2、3、12、16の五冊である。6の佐藤は『日本文芸の道』|、17の浅野は『明治の精神』とタイトルが代わり、それに生島の『日本の小説』と亀井の『日本人の死』が加わり、昭和二十年四月までに合計九冊が刊行されたことになり、予告されたものの半分にも達しなかったことを示している。中野の『アメリカ』、吉川の『支那人』、片山の『ドイツ詩集』などは読んでみたい気になるが、未刊に終わったことは当人にはよかったのかもしれない。
日本文芸の道

これはもはや数えることもできないけれど、「新潮叢書」のみならず、大東亜戦争下に企画されたシリーズや全集類などは敗戦を迎え、刊行を続けることができず、中絶してしまったものがかなりの数に及ぶのではないだろうか。

それでいて、それらがひっそりと戦後の叢書や選集などに収録されていたことに気づかされる。「新潮叢書」も同様で、生島の『日本の小説』は朝日選書で読んでいるが、ここでこの時代に出されていたことを知ったし、実業之日本社の中村光夫の『戦争まで』も「筑摩叢書」に収録されていたが、これも同時代の出版だったのである。そのような著作は数多くあると考えられるが、それこそ発掘したりすることは難しいと実感するしかない。


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古本夜話770 『日本国家科学大系』と統制経済

 実業之日本社は昭和十年代半ばから日本の文芸書や外国文学を刊行する一方で、ご多分にもれず、本連載582の日本評論社、同681の白揚社、同708の朝倉書店、同715のアルスなどと同様に、大東亜戦争下に寄り添うシリーズを刊行していた。

 それは昭和十六年から出された『日本国家科学大系』全十四巻で、『実業之日本社七十年史』の本文には言及されていないが、「同出版総目録」を確認すると、十一冊しかリストアップされていない。だが『全集叢書総覧新訂版』を見ると、全巻刊行となっているので、「同出版総目録」を編むに際し、現物の三冊が欠けていたことによっているのだろう。
f:id:OdaMitsuo:20180309102603j:plain:h120 全集叢書総覧新訂版

 ただ手元にあるのも、裸本の一冊の第八巻だけだけれど、幸いにしてそこには付録として「国家科学」6がはさみこまれ、その全十四巻のタイトル明細と「総目録」も見ることができる。それによると、執筆寄稿者は百人近くに及んでいて、すべての執筆者と寄稿タイトルを挙げることができれば、『同大系』の全貌を伝えられるのだが、それは紙幅が許さないので、まずその巻の最初の執筆者とタイトルだけを示す。

 1 神宮皇学館大学長 山田孝雄  『肇国及日本精神』
 2 九大助教授 田中晃 『哲学及社会学』
 3 広島文理大助教授 正木慶秀  『国家学及政治学』(一)
 4 東洋大学教授 藤澤親雄  〃 (二)
 5 京大教授 牧健二 『法律学』(一)
 6 慶大教授 山崎又次郎  〃 (二)
 7 京大教授 石田文治郎  〃 (三)
 8 貿易統制会理事 杉村廣蔵 『経済学』(一)
 9 阪商大学長 河田嗣郎  〃 (二)
 10 東京商大教授 井藤半彌  〃 (三)
 11 長谷川如是閑 『文化・教育厚生政策論』(一)
 12 慶大教授 小林澄兄  〃 (二)
 13 京大教授 黒田覚  『国防論及世界新秩序論』(一)
 14 東大教授 神川彦松  〃 (二)

 当然のことながら、これらの執筆者たちは先に挙げた別の出版社のシリーズにも寄稿しているし、いちいち名前は挙げないが、本連載でおなじみの人たちもいる。

 だが国家学と政治学で二冊、法律学と経済学がそれぞれ三冊で、これらが半分以上を占めていることからすれば、これらの分野のアカデミズムの人々たちが総動員されているとも見なせよう。それを象徴しているのが、先の「同出版総目録」には『日本国家科学大系』の監修が孫田秀春だと謳われていることだろう。彼は『現代人名情報事典』に立項があるので、まずそれを引いてみる。
現代人名情報事典

 孫田秀春 そんだひではる
 労働法学者、弁護士 (生)山形、1886、3・13-1976、11・10 (学)1915東京帝大法科大学独法科(博)1930法(経)1927東京商科大学教授、のち東洋音楽学校校長、日本大学教授、48弁護士、54専修大学教授(著)1973《労働法の起点》(以下略)

 ただこの孫田は8に「勤労新体制の基本原理」の一編を寄せているだけであり、どのような経緯と事情で、監修者となったのかはわからない。それに孫田も含め、寄稿者たちは実業之日本社から、それ以前の昭和十年代に誰も著書を上梓していない。それでも後の昭和十九年になって、4に「新政治体制の原理」を寄せている内田繁隆が『日本政治学大綱』をただ一人だけ刊行しているが、これは『日本国家科学大系』の出版を通じて実現したものだと推測される。

 そこで手元にある8を読んでみると、最初の「現代の経済哲学」が貿易統制会理事の杉村廣造によるものから推測されるように、所謂戦時下の「統制経済」の合理化を意図していることがうかがわれる。次に続くのが谷口吉彦「国家科学としての日本経済学」、難波田春夫「日本戦争経済の理論」、杉本栄一「掲示統制原理」、峯村光郎「法と統制経済」であることもその証左といえよう。

 実業之日本社は明治三十年の『実業之日本』創刊から始まっている。同誌は独立自営の実業の発展をコンセプトとして発刊され、成長してきたし、それが実業之日本社のエトスでもあった。したがって、『日本国家科学大系』のような企画、まさに「統制経済」をコアとするものはプロパーではなく、外部から、それも助成金付きでもちこまれたと考えるしかないと思われる。あるいは実業之日本社の経営者増田義一が衆議院議員だったことに起因する出版であったのかもしれない。

 それにしても、大東亜戦争下の出版は謎が多く、また今となってはその謎を解くことができず、それでいてそのような出版物だけが取り残されているといっていい。

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