出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話792 野上巖とクルティウス『バルザック論』

 河出書房における昭和九年と十六年の二度に及ぶ『バルザック全集』の刊行は、他に外国文学としての例を見ていないはずで、それだけバルザックが読者を得ていたことを意味しているのだろうか。それとも単なる焼き直しの金融出版と考えるべきなのか、その判断に迷うところである。
f:id:OdaMitsuo:20180515120726j:plain:h120(昭和九年版)

 しかしそれでも第二次の『バルザック全集』刊行は、確実にその落とし子めいた翻訳を送り出している。それはクルティスの『バルザック論』である。クルティウスに関しては、拙稿「クルティウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』」(『日本古書通信二〇一三年四月号所収』を書いているが、『世界文芸大辞典』の昭和十一年当時の立項を引いておこう。

 クルティウス Ernst Robert Curtius(1886~1956)ドイツの批評家、フランスの文学文化の研究家としてドイツ一流であるは勿論、その真摯な精密な攻究はフランスに於て甚だ高く買はれてゐる。マールブルク、ハイデルベルクの大学を経て、一九二九年以来ボン大学教授。著作の主なるものは『ブランテエール』(1914)、『新興フランスの文学開拓者』(1919)、『バルザック』(1923)、『新しきヨーロッパに於けるフランス』(1923)、『ジョイス』(1929)など。二三の邦訳がある。

 なお没年は付け加えたが、著作の原タイトルは省略している。

 ここに挙げられている『バルザック』が野上巖訳『バルザック論』として、昭和十七年に河出書房から刊行されている。それは第一次と比べて、第二次『バルザック全集』の見る影もない粗悪な造本と対照的で、菊判上製四五〇ページ、鮮やかな黄色と紺地の装丁からなり、それだけ見れば、大東亜戦争下の出版物とは思われない。ドイツ語の翻訳ということも作用しているのだろうか。だがページを開き、「訳者序」を読むと、いきなり戦時下にあることが示されている。
f:id:OdaMitsuo:20180517110841j:plain:h115 (『バルザック論』)

 現代日本の最もすぐれた作家の一人をして、ただ一語、「天の岩戸啓開く」と讃仰せしめた今次大東亜戦争勃発の黎明は、その日と共に人類史に曙光が齎らされ、世界史はここに新しき創造の時代を画された、との雄叫びを皇国日本の隅々にまで湧き上らせ、谺し合はせて、今は大御稜威の下、無双の忠勇武烈なる皇軍の戦果日に日に輝き、一億総進軍の力強い跫音は、先に「戦捷第一次祝賀」の勝鬨を世界に轟かしてより、愈ゝ逞しいものとなって、正規の先頭を鳴りどよもして行く。……

 本連載ではもはやお馴染みの戦時下言説ということになるか、このような言葉を伴い、ドイツ人によるフランスの作家論が刊行されたのである。しかも野上は新島繁のペンネームを有して唯物論研究会に属し、「唯物論全書」の一冊の『社会運動思想史』を著わし、戦後は神戸大学文学部教授ともなっている。

 『近代日本社会運動史人物大事典』によれば、野上は明治三十四年山口県豊浦郡生まれ、山口高校を経て、大正十五年東京帝大文学部ドイツ文学科を卒業し、翌年に日本大学予科教授となっている。しかしその後左翼文化運動に関係していたことが大学当局に発覚し、日大を免職となる。それから高円寺で古本屋の大衆書房を営みながら、昭和七年の唯物論研究会に加わった。そして十三年の唯研事件で、岡邦雄や戸坂潤たちとともに治安維持法違反で検挙され、十五年保釈出獄し、翌年から二十年まで駐日ドイツ大使館翻訳室に嘱託として勤務している。『バルザック論』の翌年に翻訳刊行されたエルンスト・クリーク『全体主義教育原理』(栗田書店)は野上の「転向」時代の産物とされる。
近代日本社会運動史人物大事典

 このような野上の個人史と併走するように、『バルザック論』も翻訳刊行されたのである。彼は「あとがき」において、昭和九年に出されたクルチウス著、長谷川玖一訳『バルザック研究』(建設社)はフランス語訳からの重訳なので、これがドイツ語原著からの最初の邦訳だと述べている。そして続けて、この翻訳の経緯と事情が語られていく。『バルザック論』の訳出が企てられたのは昭和九年の第一次『バルザック全集』と同時期で、当初は前回記した『人間戯曲総序』の訳者太宰施門が校閲し、『ゴリオ爺さん』の訳者の坂崎登、ドイツ文学者らしい吉田次郎が予定されていた。ところがたまたま『バルザック全集』の「編輯事務の一部に関与」していたことから、野上が坂崎の担当部門を翻訳することになった。それは「当時河出書房に関係のあった仲小路彰氏」などからの配慮を受けたもので、とりあえず昭和十年に完成を見た。

 しかしそれは出版の機会に恵まれず、そのままになり、「訳者等の身辺にも種々の移り変りがあった」のだが、第二次『バルザック全集』刊行に際し、河出書房からの出版の申し出を受け、「『また来る春』にめぐり合ふ倖せを得た」として、河出孝雄と「再交渉」仲介の労をとってくれた壺井繁治、野上一人の訳者名の刊行を許してくれた吉田などへの謝辞がしたためられている。なお同時期にいずれも大野俊一によって、クルティウスの『フランス文化論』(創元社)、『現代ヨーロッパに於けるフランス精神』(生活社)も翻訳されていることを記しておこう。
フランス文化論 (『フランス文化論』)

 ここには本連載626などに見られる唯物論研究会員たちの出版と翻訳の関係、それに加えてこれも同133などの仲小路彰の同様の位相が垣間見えていることになる。それらもまた戦時下出版史の謎の一端を示していよう。

 また『バルザック論』(小竹澄栄訳)がみすず書房から出されていることも記しておく。


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古本夜話791 河出書房『バルザック全集』と『セラフィタ』

 前回の河出書房の『新世界文学全集』の翻訳企画へと結実していく伏線は、それまでに刊行されていた、主としてフランス文学の個人全集などに胚胎していたのではないだろうか。

 その先駆けは昭和九年に刊行された『バルザック全集』だったように思われる。これは日本におけるバルザックの作品の初めてのまとまった翻訳であり、戦後の東京創元社の『バルザック全集』を始めとするいくつかの全集や叢書の範となったはずだ。
f:id:OdaMitsuo:20180515120726j:plain:h120(河出書房版) バルザック全集 (東京創元社版)

 そうした先陣としての翻訳刊行を告げるように、その装丁と造本はフランスの全集を踏襲したと思しき濃い緑に金色の紋章などをあしらったもので、一冊の豪華本としての見かけを備えている。装丁者の名前が記載されていないので、誰が担当したのか不明だけれど、まだこの時代にはそのような装丁が可能だったことになる。その上部にはLA COMÉDIE HUMAINE=「人間喜劇」と銘打たれ、この全集がバルザックの十九世紀前半のフランス社会を描く作品群を中心にしたことを伝えている。それらのこともあるし、少しばかり煩雑だが、前回の『新世界文学全集』と異なり、これまでリストアップされていないので、その全十六巻に及ぶ作品と訳者名を挙げておこう。

1『人間戯曲総序』(太宰施門訳)、『ゴリオ爺さん』(重野紹一郎、坂崎登訳)
2『ユルシュウル・ミルエ』(神部孝訳)、『アディユ』(新庄嘉章訳)
3『幻滅』(太宰施門、丸山和馬、森本久雄、宮本正清、工藤肅、大坪一訳)
4    〃
5『セザアル・ビロトオ』(芹沢光治良、新庄嘉章訳)
6『プチブルジョア』(芹沢光治良訳)
7『現代史の裏面』(和田顕太郎訳)、『無神論者の弥撒』(秋田滋訳)、『社会綱領』(山田珠樹、市原豊太訳)
8『暗黒事件』(小西茂也訳)、『捨てられた女』(新城和一訳)
9『木莬党』(小林龍雄訳)
10『農民』(水野亮訳)
11『村の司祭』(吉江喬松、恒川義夫訳)
12『麤皮』(山内義雄、鈴木健郎訳)
13『追放者』(河盛好蔵訳)、『ルイ・ランベエル』(豊島与志雄、蛯原徳雄訳)、『セラフィタ』(辰野隆、木田喜代治訳)
14『シヤベエル大佐』(堀口大学訳)、『コブセック』(内藤濯訳)、『知られざる傑作』(水野亮訳)、『偽りの愛人』(淀野隆三訳)、『職を止めたメルモツト』(前川堅市訳)
15『エーヴの娘』(武林無想庵訳)、『不老長寿の秘薬』(難波浩訳)、『フアチーノカーネ』(和田顕太郎訳)、『財布』(須川弥作訳)、『ピエール・グラスウ』(高山峻訳)、『こんと・どろらていく』より(神西清訳)
16『カトリーヌ・ド・メヂシス』(鈴木信太郎、渡辺一夫、川口篤、杉捷夫、鈴木健郎訳)  

  このうちの13を入手したのは半世紀ほど前のことで、かつて「バルザック『セラフィタ』の魅力」(『日本古書通信』、二〇一一年三月号所収)を書いているが、もう一度言及してみる。

 バルザックの『セラフィタ』という作品を知ったのは、澁澤龍彦の『夢の宇宙誌』(美術選書)の「アンドロギュヌスについて」という一章においてだった。そこで澁澤は『セラフィタ』が両性具有の理想的な最高天使を意味し、この小説がスウェーデンボルグの影響を受けた「アンドロギュヌス神話を中心テーマとした伝統的ヨーロッパ文学の、いわば最後の達成、最後の微妙な開花であった」と述べていた。後にこのような指摘がガストン・バシュラールやミルチャ・エリアーデに基づいていることを知るのだが、『セラフィタ』の邦訳の記載はなく、東京創元社の『バルザック全集』にも収録されていなかったのである。現在から見れば、信じられないかもしれないが、昭和四十年代までは邦訳の有無に関して、古本屋で見つけるまで不明だったことも事実なのである。
f:id:OdaMitsuo:20180515234825j:plain:h120(『夢の宇宙誌』)

 そのような時に早稲田の古本屋で、背は汚れていたが、『中篇集神秘の書』という一冊を発見した。よく見ると、背の上の部分に横書きで『バルザック全集』とあった。しかもその中には『セラフィタ』が収録されていて、扉の次にある挿絵はその小説の登場人物を描いたものだった。

 そしてこのノルウェイを舞台とする両性具有者の物語、あるいは天使論としての『セラフィタ』は、バルザックがヨーロッパの神秘思想のコアともされるスウェーデンボルグ神学の流れを「人間喜劇」に取り込んだもので、『ゴリオ爺さん』や『幻滅』とは異なるバルザックの幻視者としての奥深さを知らしめてくれた。それに『追放者』にあって、主人公のルイ・ランベエルはスウェーデンボルグの『天国と地獄』、すなわち本連載247などの『天界と地獄』を読んでいるのだ。

 それに付け加えておけば、昭和九年版の『バルザック全集』の一冊として『セラフィタ』を読んだことは僥倖だったと考えられる。その装丁と造本はまさに『中篇集神秘の書』にふさわしい仕上がりで、物語に見合っていたといえるからである。実は昭和十六年になって、第二次『バルザック全集』がそのままの構成で刊行されるのだが、それは判型も四六判で、上製といっても並製に近く、用紙も劣化し、装丁や造本からも、もはやアウラは失われてしまい、こちらで読んだとしたら、異なるイメージをもたらしたと思われるのだ。

 その後『セラフィタ』は昭和五十一年に国書刊行会の『世界幻想文学大系』に沢崎浩平による新訳が収録され、そちらで読まれていくようになった。
f:id:OdaMitsuo:20180515234034j:plain:h120(『セラフィタ』)

 また私も別のところで、バルザックの『幻滅』論(『ヨーロッパ本と書店の物語』所収)を書いていることを付記しておこう。
ヨーロッパ本と書店の物語


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古本夜話790 河出書房と『新世界文学全集』

 河出書房は昭和十年代になって、本連載628や783で既述しておいたように、多くの全集類の刊行を始めている。しかもその特色は外国文学の翻訳に顕著だ。それはこれまでもふれてきたが、河出書房が社史や全出版目録を刊行していないので、詳らかな経緯と事情は不明である。ただそれに関してひとつだけいえるのは、河出孝雄が二代目を継いだことに起因している。

 河出書房は岐阜市で出版と取次を営んでいた成美堂が東京に日本橋支店を設けた際に、河出静一が上京して始め、独立して創業されている。当初は成美堂、後に河出書房として、農業、数学、理学、地理学、国文学書を出していた。本連載754で挙げた福来友吉『催眠心理学』は成美堂からの刊行である。そして昭和五年頃に養子の孝雄に受け継がれたとされる。その河出孝雄の『出版人物事典』における立項を引いてみる。
出版人物事典

 [河出孝雄 かわで・たかお 旧姓・島尾] 一九〇一~一九六五(明治三四~昭和四〇)河出書房社長。徳島県生れ。東北大法律学科卒。河出書房創業者河出静一の婿養子となる。一九三〇年(昭和五)ころから全面的に経営を担当、ことに書き下ろし長篇小説や翻訳全集などの文芸書に独自の分野を開いた。戦後、四八年(昭和二三)株式会社に組織を改め社長に就任。五〇年出版した笠信太郎『ものの見方について』は大ベストセラーとなり、『現代日本小説大系』全六五巻、『世界文学全集』全四〇巻など戦後の文学全集の先陣を切った。また、雑誌『知性』『文芸』などを創刊、復刊、ジャーナリズムに新風を送った。しかし、五七年(昭和三二)三月倒産、新社として再興した。六八年(昭和四三)再び倒産したが再建した。
f:id:OdaMitsuo:20180504151609j:plain:h120

 この立項は河出孝雄が新たな文芸書出版の立役者だったことを裏づけているし、ここに挙げられている「書き下ろし長編小説」本連載782ですでに言及したとおりである。したがって今回は「翻訳全集」のうちの『新世界文学全集』を取り上げてみたい。
新世界文学全集

 だがそうはいっても、『新世界文学全集』は全巻を見ておらず、実際に古本屋での大揃いに出会ったことがない。それゆえに手元にあるのは第十一巻の一冊だけで、それにはシチュードリン『ゴンヴリョフ家の人々』(湯浅芳子訳)、コロレンゴ『森はざわめく』(上田進訳)が収録されている。管見のかぎり、この『新世界文学全集』への言及は、矢口進也の『世界文学全集』(トパーズブレス、平成九年)において見出されるだけである。これは明治から昭和の戦後にかけての「世界文学全集」の明細も含めた初めての研究ガイドであり、労作といっていいだろう。私にしても、かつてこの矢口の著作に触発され、こうしたかたちで「昭和円本全集」を編むことができればと夢想したりしたことを思い出す。

世界文学全集

 それはともかく、矢口は『世界文学全集』において、「河出書房の新世界文学全集」という一章を設け、これが戦前の最後の世界文学全集で、昭和十五年に企画が発表され、予約募集が始まったと述べている。そしてその構成と体裁は全二十四巻、四六判、頒価一円八十銭、厚表紙、箱入特製本は二円三十銭とある。手元の第十一巻を確認してみると、後者の特製本で、第七回配本、しかも「予約頒価」が謳われている。前者の普及版は未見だし、わからないけれど、こちらのほうは円本と同様の予約販売システムで刊行されたことになる。

 矢口はこの時代の出版状況に関して「物価等統制令が公布されて物資はきびしく統制され、国民生活も日に日に窮屈になっていった時期であり、このような全集を出版すること自体、かなり困難な時代」への突入を指摘している。そのような時代に出されたことが、この『新世界文学全集』をほとんど見かけない原因となっているのかもしれない。

 続いて矢口はその全二十四巻の明細をリストアップしているのだが、それは彼も「内容見本」によるとし、全巻を見ることができなかったことも考えられる。ここではそれを挙げられないので、必要とあれば、同書に当たってほしい。実際に第二巻のメルヴィル『白鯨Ⅱ』(阿部知二訳)その他は第一巻にそのⅡも収録されたこともあって、欠巻のままで、昭和十八年二月に全二十三巻として完結しているようだ。

 『新世界文学全集』の特徴は巻数が少ないけれど、主要な長編小説に同時代の作家の短編を配置していることだ。また国別に見ると、当然のことながらアメリカ文学は先の『白鯨』だけで、ショーロホフ『開かれたる処女地』(米川正夫訳)やワッサーマン『若きレナーテの生活』(国松孝二訳)などのソ連やドイツ文学が、現在から見ると目を引く。誰が企画編集したのかも不明だが、それが大東亜戦争下の世界文学全集の在り方を象徴しているのかもしれない。

 それでも矢口もいっているように、「よくこんな時期に世界文学全集が出ていたものだ、と感心したくなる」し、河出書房が戦後にいち早く世界文学全集に着手したのは、「困難な時期に世界文学全集を出したという自信」に基づいているのではないかとの指摘に同感する。そのような戦前の出版史があるゆえに、私たちは昭和三十四年から刊行され始めていた河出書房の『世界文学全集』グリーン版に出会うことになったのだと了解するのである。
新世界文学全集


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古本夜話789 『阿部知二自選集』と「野の人」

 本連載785で、『阿部知二自選集』にふれ、河上徹太郎の証言を引き、同787において、昭和十年代半ばの「間違ひなく売れる」四人の作家の一人としての阿部の『北京』を紹介しておいた。他の三人は島木健作、石川達三、丹羽文雄だが、島木は正続『生活の探求』というベストセラー作家、石川と丹羽は戦後も昭和四十年代までは「間違ひなく売れる」作家であり続けたので、河上の言にも納得できる。
生活の探求 (『生活の探求』)

 しかし阿部知二に関しては、こちららの読書史とクロスしておらず、リアルなものではない。どちらかといえば、阿部は私たちの世代にとっては、作家というよりもボードレール学者の阿部良雄の父親で、メルヴィル『白鯨』(岩波文庫)などの翻訳者、英文学者の印象が強い。また戦前において、春山行夫のリトルマガジン『詩と詩論』から生まれた「現代の芸術と批評叢書」の一冊としての『主知的文学論』(厚生閣、昭和五年)の著者でもあった。
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 だがあらためて考えれば、『全集叢書総覧新訂版』にも掲載がないので、何巻出されたのかは不明だが、昭和十五年に河出書房から『阿部知二自選集』が刊行されたことは、彼が「間違ひなく売れる」作家だったことを証明しているのだろう。私が入手したのはその第1輯『野の人』で、七作の短編、中編からなり、装幀は春山行夫が担当している。ただ手元にあるのは裸本なので、カバー表紙がどのようなものだったのかわからない。阿部の「あとがき」に春山の「気持のいい装幀」に対する謝辞が示され、それから河出書房の「桑原君」との共同編集も明記され、「もう一冊ほど出来さう」だとの言も見えている。
 
 冒頭の「日独対抗競技」は昭和四年に『新潮』に発表された阿部の文壇デビュー作で、「九月。シベリアは灰色に冷却した」という書き出しはモダニズムや新感覚派の影響を想起させ、テーマもナラティブも時代背景とクロスして興味深い。だがやはりここではタイトルとなっている「野の人」を紹介すべきだろう。

 この中編は作家の「私」は知人として招かれた結婚式で、新郎の弟である旧知のMに出会い、「Tの発見」の物語を聞かされる。Mは地方の豪家に生れたが、京都と東京の大学でドイツ文学を勉強し、周囲を驚かせながら、小学校の教員、それも貧しい子供がいいといって江東の特殊小学校を志願した。その秋にK市の絵画展覧会が会堂で開かれ、Mも学生時代に絵を描いていたことから、 そこに入ってみると、片隅に路面と建物を描いた小さな絵があり、すっかり魅せられてしまった。Mはその絵がほしくなり、それを描いた村の農夫のTを訪ねていく。Mは驚くTに、その絵に感心したので買いたい、他にもあれば見せてほしいといった。Tは材料もろくに買えないし、描く暇もないといいながらも、数枚の絵を出した。Mはそれらにも「或る力の芽」を感じた。しかし年老いた両親や「気のふれたやうな弟」と小さな家に住み、その境遇の中で絵を描こうとしているTのことが痛ましく思え、東京から絵具などの材料を送ることにした。

 この励ましは「村に埋れて孤独な手探りで描いていた農夫の熱情」に火をつけたことから、MはTを東京に呼び、小学校の俸給で二人の生活をまかない、Tに絵を描かせること、いい絵を見せることに集中させると、Tの腕は目に見えて伸びていった。それが結婚式でMが「私」に語った「Tの発見」の物語だった。

 それで終わったのではなく、Mは「私」のところに絵を見せにもきた。それらは「一種の力を含んだ光線のやうなもの」を放っていた。そして「私たちを動かすものはほんとうにいつわりのないせきららなムクリ出しのたましい」だと書かれたTの手紙も読む。そうして「私」もMの熱情に感染したらしく、二人の下宿を訪ね、カンバスに向かうTの姿を見た。「私」はその夏に書いた長編小説『幸福』の中に、この二人をモデルとして取り込み、Mの「なだらかな自由な心」とTの「強く素朴な本能」を描いたことで気まずい重苦しさが生じ、往来が途絶えてしまったのである。この『幸福』は本連載782の「書きおろし長篇小説」の一冊として出されているが、読むに至っていない。
f:id:OdaMitsuo:20180504140459j:plain:h120(『幸福』)

 それから二年後、「私」は人づてにTの死を聞き、彼らのことを書いたことに加え、その病気を助けなかったことで二重の罪を感じた。その翌年に省線電車の中で、偶然にMと出会い、Tの死という悲しい事実が二人の歩み寄りを促した。そしてTの残された四十枚ほどの絵をMの家に見にいき、Tの死の事情を説明されたのである。その頃MとTはさびれた農漁村の面影が残る船堀といふ部落の藁屋の離れに住み、Mは小学校に通い、Tは絵に専念していた。しかしこの船堀の生活も、Mの結婚と兄の出征による転居の必要もあり、引き払うことになり、Tも甲州の村に引き上げることになった。

 村に帰ったTはMと離れたことによって、ものに関しての表現欲としての「もえふるえたちあがりくるふ」状態が始まったと手紙に書いてきた。それが功を奏してか、Tの絵は評価され始め、再びMと一緒に上京することになったが、Tはすでに病を悪化させ、上京は不可能となった。またしてもTからの手紙が引用され、彼の絵の背景にあるのは、弟を絵によって生かそうとする決意で、それが表現にかなうとの告白を知る。それを表象するように、残された絵には「狂人」というタイトルが付されていた。それをコアとしてTの絵は「もつと深い複雑な謎」を秘め、成立していたことになる。

 巻末の「制作年表」によれば、「野の人」は昭和十五年に発表されている。おそらく阿部の身近な人物たちをモデルとする作品だと考えられるが、大東亜戦争下に入りつつある社会状況との関連も含まれているのだろうか。 


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古本夜話788 ゴビ沙漠学術探検隊編『ゴビの沙漠』と目黒書店

 前回、阿部知二の『北京』において、支那が有史以前のゴビ砂漠にたとえられていることにふれ、それで閉じた。
実はそれから数日後、まったく偶然に浜松の時代舎で、ゴビ沙漠学術探検隊編『ゴビの沙漠』を見つけ、購入してきたばかりなのである。つまりここで書いておくようにとの古本のおぼしめしだと判断するしかない。これは四六倍判、上製一九〇ページ、函入の一冊だが、そのうちの一四二ページが写真で占められ、昭和十八年九月に目黒書店から刊行されている。本体の表紙カバーを外してみると、黄色ジュート装で、写真集を兼ねた豪華本と見なせよう。これもまた戦時下の写真を含んだ大型本に分類できようが、これだけアート紙を使った出版は異色であろう。しかも初版二千部で、定価は十四円である。

 「序」を寄せている多田文男は『現代人名情報事典』に地理学者としての立項が見出され、辻は東京帝大理学部助教授と文部省資源科学研究所書院を兼任していたと思われる。それをふまえて「序」を読むと、そのニュアンスが伝わってくる。多田は中央アジアの沙漠地帯が「東亜文化と西洋文化との緩衝地帯」にして、「大東亜共栄圏の防共壁」と見なし、「この地帯の確保」が重要不可欠とし、次のように述べている。

現代人名情報事典

 私共学術研究にたづさわる者は、先づこの乾燥した沙漠地方を純学術的に調査し、その事態を究め、更に進んではこの地方の土地利用及び地下資源・有用実用植物・有用動物等の基礎的研究を行ひ、以てこの地方の経済開発に資すべきである。沙漠地帯の経営は、風土、文化に対する周到な科学的知識の上に立つて甫めて行はるべきであるからである。

 ここではゴビ沙漠の大東亜共栄圏への参入と植民地化が提唱され、それが科学的知識に基づくべきだとされていることになろう。そのような目的から、昭和十五年に多田を団長とする東京帝大中心の学術調査団が組織され、二ヵ月にわたって内蒙古渾善達克(コンゼンタール)沙漠地帯西部地方、十六年には同沙漠中央部を横断し、砂 (ママ) 丘の実態を究めたとされる。

 それに加えて、二回目の探検の場合、読売新聞社に報道班、写真班、さらに映画班の派遣を求めたところ、それが実現し、新聞紙上にも発表され、映画も『ゴビ沙漠探検』として映画館で上映され、「乾燥アジア」への一般的認識の普及に貢献したとされる。それで巻末の「ゴビ沙漠探検日誌」を書いている澤壽次が読売新聞記者で、写真も主として読売新聞社写真班の宮内重蔵によるものゆえに、奥付の著作者はゴビ沙漠学術探検隊とあるけれど、その代表者が澤となっている事情を了承することになる。写真の中でも、「砂(ママ)丘地帯」は五三ページから一〇五ページに及び、ゴビ沙漠の様々な砂丘の姿、沙漠とはいっても、そうではない森や川、植物や動物なども映し出している。

 巻末の折込地図には探検隊が自動車(トラック)で蒙古を経て、それから牛車で、「砂丘地帯」を横断する行程がたどられている。また蒙古の写真の中には蒙古相撲と力士、それらを見物する徳王一族の姿もあり、相撲を通じての蒙古とのつながりが、新聞を通じてプロパガンダされた事実を伝えているのだろう。

 しかし本来であれば、これは読売新聞社協賛の探検であったわけだから、同社からの出版が当然であっただろうに、どうして読売新聞社からの刊行とならなかったのだろうか。それは多田が「序」で、「上梓するに当り、終始御高配を下さつた目黒書店主目黒四郎氏並びに同店地主光太郎氏に深甚なる感謝」と述べているように、多田、もしくは探検隊プロジェクトが読売新聞社よりも、目黒書店とのほうが関係が深かったことをうかがわせている。目黒四郎は『出版人物事典』に立項されているので、それを引いてみる。
出版人物事典

 [目黒四郎 めぐろ・しろう]一八九七~一九七〇(明治三〇~昭和四十五)目黒書店社長。新潟県生まれ。早大商学部卒。長岡市の目黒書店目黒十郎の弟。目黒甚七も創業の目黒書店に入り、甚七の養子となる。戦時中、二代目社長に就任、出版新体制の結成準備委員に選ばれ、日本出版文化協会監事、日本出版配給株式会社監査役に就任、当時、有斐閣の江草四郎、文化協会理事田中四郎とともに若手ホープとして出版新体制三四郎と呼ばれ活躍した。終戦後、公職追放になり、業績もふるわず、息子謹一郎を三代目に立て、鎌倉書房の雑誌『人間』を譲り受け発行を続けたりしたが(昭和二五・一~二六・八)、社業回復はならず、目黒書店の姿は出版界から消え去った。日本出版クラブ評議員もつとめた。

 この立項から目黒四郎が大東亜戦争下の出版新体制下にあって、飛ぶ鳥落とす勢いにあったとわかる。それゆえに日配の中枢にもいたことから、配給の実力者であり、それに『ゴビの沙漠』の編集や製作の主導権は読売新聞社側にあったと判断できようが、その判型や内容の特殊性から見ても、目黒書店に版元を譲るしかなかったに相違ない。それに社員の地主も広く関与していたと考えられる。

 なお目黒書店は明治二十四年に創業し、当初は取次だったが、学術図書、中学教科書、教育雑誌の分野を開拓して出版社も営み、創業者目黒甚七は大正時代には東京出版協会会長、昭和七年には全国書籍商組合連合会会長、十二年からは東京古籍商組合長の要職も務めている。その老舗も敗戦後の混乱の中で、消滅してしまったことになる。出版物の命の長さに比べ、出版社の寿命は驚くほど短い。


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