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古本夜話158 龍吟社と彰国社

前回の建築工芸協会、『建築工芸画鑑』『建築工芸叢誌』のラインは、大正時代後半と推定される岡本定吉の解散によって途切れてしまったわけではない。それは定かな軌跡をつかめないにしても、龍吟社、大塚巧芸社、彰国社という系譜をたどり、建築工芸協会と龍吟社の出版企画と流通販売システムは彰国社へと引き継がれていったと考えられる。

建築工芸画鑑 建築工芸叢誌

そのひとつの例を示せば、昭和十九年に田辺泰の『日光廟建築』が龍吟社から刊行されている。この巻末広告に、「東亜建築撰書」三十点近くがラインナップされていて、これらは彰国社版であったものも、龍吟社刊行となっている。それは龍吟社に統合されたゆえで、同書も含め、戦後は彰国社に版元が移っている。

この『日光廟建築』に関しては渡辺保忠が『彰国社創立五十周年』所収の「師、田辺泰先生と下出社長」の中でふれ、戦時中に彰国社が龍吟社に会社統合されていたことを書きとめている。それは確かにそのとおりで、福島鑄郎編著『新版戦後雑誌発掘』(洋泉社)によれば、彰国社ばかりでなく、財政経済学会、大日本皇道奉賛会も、草村松雄を代表者とする龍吟社に統合されている。財政経済学会は本連載155 でふれた『新聞集成明治編年史』の直販ルート出版社にして、龍吟社のダミーであるが、大日本皇道奉賛会も政治家永井柳太郎の著作などを刊行しているので、やはり主として直販出版社だと考えられる。

しかし昭和五十七年に刊行された建築専門書の『彰国社創立五十周年』と銘打たれたこの社史は、渡辺の証言を除いて、龍吟社との関係にはほとんど言及されておらず、社長の「下出源七の歩みをたどる―略年表」の昭和十九年のところに「戦時体制下の企業整備により合併の株式会社龍吟社常務取締役就任」とあるのがわずかに見つかるだけだ。

このような彰国社の背後に見え隠れする龍吟社の存在に加えて、社史とはニュアンスの異なる彰国社と下出像が、山本夏彦の『私の岩波物語』(文藝春秋)に描かれている。山本はそこで「私ははじめ彰国社を印刷屋だとみて、出版社だとは見ていなかった。出版社になったのは戦後である」と書いている。だが前述の「略年表」などには昭和七年に彰国社創業とある。
私の岩波物語

これらのギャップは何に由来しているのだろうか。それらの事情を、やはり『彰国社創立五十周年』所収の社長下出源七と創立以来の顧問の服部勝吉や太田博太郎たちの「記念座談会」、及び「刊行図書等年次別一覧」と「略年表」を照合し、考えてみたい。

まず下出の「略年表」によれば、大正十四年に中央大学法学部を中退し、「巧芸社に入る(美術関係の出版)」とあり、「座談会」からはこの巧芸社が『国宝全集』という後の彰国社の範となる建築書を出していたことがわかる。

これに注釈をつければ、巧芸社とは建築工芸協会のふたつの月刊誌の写真技師大塚稔が興した写真印刷の大塚巧芸社で、建築工芸協会が解散した後、これまでの関係もあって、企画に上げられていた『国宝全集』の出版も引き受けていたのではないだろうか。それに巧芸社の社名も建築工芸協会からとられたのではないだろうか。もちろんその企画には岡本定吉の手に残された数千枚の写真原板が使用されたと思われる。そしてまた『国宝全集』の流通販売は、建築工芸協会と同様の会員制予約出版システムに基づいていたと考えるべきで、一冊五円の高定価はそれを物語っている。

ところがその『国宝全集』も印刷を主とする大塚巧芸社の事情と高額な製作費、及びスポンサーの関係で、採算と収支が合わなかったようなのだ。下出は巧芸社に入った理由と出版に関わるようになった経緯を、「座談会」で次のように語っている。

 私も将来弁護士になるつもりであそこに入ったんだけれども、途中でぐれちゃって出版屋になっちゃった。あれは出版は斉藤赫夫というのが所有だった。それを債権債務の関係で篠崎仙司が引受けたんだな。それでやるやつがいないからお前やれ、ということで僕は出版の勉強を始めたんです。

下出が「私の師匠」とよぶ篠崎は弁護士で、大塚巧芸社の出版を絡めた再建に大きく関わり、『国宝全集』の文部省監修者たちとも親しくなり、それらを下出へと引き継がせたようなのだ。そのような前史があって、下出は山本夏彦が証言しているように、印刷業に携わるかたわらで、彰国社も立ち上げ、昭和八年に『国宝建造物』第一期十二巻を国宝建造物刊行会名で刊行していくことになる。これは明らかに巧芸社版『国宝全集』の延長線上にある企画と見なしていいだろう。

そして下出はこの出版にあたって、「座談会」で語っているように、ひとりのスポンサーを得ることになる。それは矢野国太郎であり、彼は徳富蘇峰の娘婿で、下出の幼馴染、白鷹の旧蔵元、当時の百万長者とされている。また彼の夫人である矢野鶴子の聞書、渡辺勲の『二人の父・蘆花と蘇峰』(創友社)によれば、矢野は兵庫県西宮生まれ、慶応を出て、『国民之友』や『主婦之友』の編集に携わり、文部省の『国宝建造物』の出版も手がけたと述べられている。
二人の父・蘆花と蘇峰

この篠崎と矢野が下出の彰国社設立時におけるキーパーソンと考えられ、それにもうひとり草村北星を加えることができるのではないだろうか。彰国社は『国宝建造物』に続いて、続編ともいえる『日本建築』を昭和十六年から刊行し、同十九年に龍吟社に統合されている。この間に龍吟社と彰国社は資本、企画、印刷、流通販売、さらに文部省の出版助成金なども含めて、詳細は明らかになっていないけれども、かなり深い関係にあったと考えられ、それがいわば龍吟社グループへと彰国社が統合された要因であろう。

草村北星の『戦塵を避けて』の中に、山陰の疎開先に「会社のI氏、S氏が戦災後始末の要務を帯びて来訪」の章が置かれている。それは戦災による龍吟社の清算処置の承認を求めてだった。それについて、北星は記している。

 I、S両氏は私の協力者として尊敬すべきである。I氏は綿密巧緻の編輯に技倆があり、S氏は経営的世才に長ずるものがある。両人の間柄は古くないが、打見た所水魚の交りである。私の会社戦災後の処置案は専務常務として両人の合議によりてつくられ提示され、私は無条件に承認を与へたに過ぎぬ。遠行して実情に疎いためである。とは云へ会社の成行について両人が哀傷を懐かざるは、私の立場と自ら異るが為であらうし、年若くして前途の光明を予想してゞもあらうか。

ここで述べられている「経営的世才に長ずる」S氏とは「常務」ともあるから、下出だと断言してかまわないだろう。このようにして北星と龍吟社の時代は終わり、戦後の彰国社の発展の歴史が始まろうとしていた。

だが「綿密巧緻の編輯に技倆」のある「専務」のI氏は誰なのか、またその戦後の行方は判明していない。

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