前回の黒井千次と同様に、後藤明生も「内向の世代」の一人と目され、一九七〇年前後に団地を舞台とするいくつもの作品を発表している。これらの一連の団地小説は会社を辞めた男と団地を描いた『何?』、週刊誌のゴーストライターと団地の生活、及びその過去を浮かび上がらせる『誰?』、団地の生活とその内側を考察する『書かれない報告』などである。
これらの中編三作は前回も挙げておいた「新鋭作家叢書」の『後藤明生集』に収録され、それは半ば「団地小説集」といった色彩に包まれることから考え、この時代の後藤の代表作と見なしていいだろう。実際に後藤の口絵写真は団地のベランダで煙草を吸っているものだし、これは彼が住んでいたとされる草加市の松原団地だと思われる。それゆえに後藤の団地小説はこの松原団地をモデルにしているはずで、ここでは主としてその内的生活をテーマとする『書かれない報告』を取り上げてみる。この作品に時代とクロスする団地状況、それなりに歴史を経た団地での生活と住むことの意味、そして行き着いた団地という住居の問題などが集約して描かれているように見なせるからだ。
その前に後藤の作品に登場する団地の置かれている環境と場所について言及しておくならば、それは『日本住宅公団20年史』などを参照するまでもなく、『誰?』にそのくっきりした記述が見えるので、先に引いておく。
この団地はもともとは田圃だ。現にいまでも団地のまわりでは、夏になると蛙が鳴いている。しかしなにしろ、団地そのものが千二百メートル四方という広さであるから、田圃に取り囲まれているというよりはむしろ、田圃が団地の周辺にまだしがみつくように残っているという感じだ。二年ほど前の真裏に開通したバイパスは、ちょうど団地のために土地を売った百姓たちの住む土地と団地とを区切る境界線のようだ。
団地の出現が「百姓たちの住む土地」へのサラリーマンたちの侵入であること、しかしそのように出現した混住社会のメインは団地であり、農村はそのサブであるかのように語られている。そして混住社会であるにもかかわらず、バイパスが境界線となり、団地と農村が分離していることを、この一文は無意識に告げている。それは団地の住民たちの農村への差別的視線を象徴しているように感じられ、定住者たる「百姓たち」に向けられた、ノマド的サラリーマンの屈折した思いの表出と考えることもできよう。
これは三部作に共通しているのだが、主人公は戦前に朝鮮半島で生まれ、敗戦後に九州に戻り、そして大学に入るために上京し、就職して団地へとたどり着き、すでに五年から六年「鉄筋コンクリート五階建ての中で、他人の家族と積み重ねてられて暮す生活」を送っている。ところがその団地とは『何?』に示された言葉によれば、常に「見も知らぬところ」のようで、「記憶を抹殺する流刑地のような場所」として、その理由は詳しく挙げられていないけれども、植民地の記憶と似通うイメージがあるというべきだろう。それは田圃だったところに急激に出現した広大な団地空間がもたらすアトモスフィア、もしくはタイトルにこめられているように、絶えず「何?」とか「誰?」とか発しなければならない異国にいるようなオブセッションに包まれているトポスとして、主人公の目に映っているからだ。しかしその視線は混住社会全体へと向けられるのではなく、絶えず団地とその社会の内側へと沈潜していく。
後藤の朝鮮とは異なるが、安部公房も植民地の満州から帰還し、六七年に同じく団地を背景とする『燃えつきた地図』(新潮文庫)を発表している。こちらの主人公は興信所員で、いわば郊外と団地を捜査する探偵として、すなわち郊外からの、同時に外部への視線も携え、現われる。『〈郊外〉の誕生と死』で『燃えつきた地図』はすでにふれているので、これ以上の言及は拙著を参照されたい。
しかし後藤の作品にあって、主人公の男は団地の住人として設定され、その空間の内部構造と関係へと眼差しが向けられ、物語が紡ぎ出されていくことになる。もうひとつだけ付け加えておけば、同じ植民地的なイメージを投影させた団地であっても、安部はカフカ的状況、後藤の場合はゴーゴリ的な関係の場を浮かび上がらせているといってもいいかもしれない。
さてその後藤の三部のうちでもっとも長く、といっても中編ではあるが、『書かれない報告』は県庁の社会教育課から突然かかってきた電話から始まっている。主人公の「男」はそのようなところから電話を受ける覚えはなかった。
男はR団地の一居住者に過ぎない。もちろんR団地はR県に所属している。したがって男はR県民だった。しかしただ、それだけの話だ。生れ故郷でもなければ、親兄弟が住んでいる土地でもない。たまたま抽籤に当ったため、流れついているだけだった。なにしろ男が住んでいるのは団地だからだ。
『何?』『誰?』と同様に、『書かれない報告』において、主人公は「私」でも「彼」でもなく、また命名されることもなく、「男」と表記されているので、ここでもそれを踏襲するしかない。社会教育課からの電話は「団地生活の実態調査のようなもの」の依頼で、R団地の場合は七千世帯あることから、七十人がそのレポーターに選ばれたのである。その資格は「同一団地の同一番号の部屋に、満五年以上居住している男性」、選択の基準は「妻帯者であれば年齢職業は問わず」というもので、「男」はそれらの条件を充たしていたこともあり、その指名を受諾してしまったのである。
そして二階の3DKに住む「男」は、今回の鉄筋コンクリートの住居に関するレポートを県の土木建築課が多大な関心を寄せていることを聞き、電話を置きながら、その真上にあるダイニングキッチンの天井を見た。そこに漏水が起きていたこと、それをきっかけにして鉄筋コンクリート建造物に様々な感慨をめぐらしていたことを思い出した。
なぜ水は漏ってきたのか? 三階のいかなる水なのか? 居住して七年目に天上にヒビが入ったのだろうか? ダイニングキッチンの上は三階も同様だから、トイレットの用水でないことは確かだ。とすれば、台所か風呂場の水だろうか? 水漏りしている二階の天井は三階の床でもある。そこで「男は鉄筋コンクリート建造物の、目に見えない内部の暗闇をぼんやり頭の中に描き出」そうとしたが、その火事でも燃えないらしい構造は何ひとつわからなかった。がらんどうの空間なのか、それとも何かで埋め尽くされているのだろうか? しかしその耐熱性建築の団地でも、昼火事があり、同じ間取りの住居が「3DKの焼却炉」のように燃えたエピソードも挿入されている。
漏水の原因について考えているうちに、「男」は「それにしても人間の家族が、他人として上下に積み重ねられて生活するのは、いったいどういうことだろうか?」と自問し、団地に表われている「人間が縦に積み重なって生きている住居における階上階下の関係」の意味をも問い始める。「男」にとって、その漏水はダイニングキッチンにある板の凹みの部分と同化し、それは「凹みの意識」、もしくは「意識の凹み」へとも転化していく。「そして男が、そのたびにそれを意識せざるを得ないのは、なにしろそこは男の住居だからだ。そこ以外に住むべきところのない、住居だった」。
それゆえに「男」は水漏りに関する調査、及び修理を依頼するために、団地駅前にある公団事務所に出かけていく。しかしすでに止まっていた水漏れの原因はわからず、住宅公団の職員の訪問、女事務員の説明、ペンキ職人の指摘などによって、むしろ住居をめぐる位相は混乱する事態を迎えていく。
すると「男」は住居に侵入してきた黒い小さな虫のことも気にかかってくる。それは水漏れと同じように、原因も不明で、外部から住居の内部へ侵入してくるものであり、「男」にとって水漏れに続く「新しい傷口」となっていく。すなわち「第一の傷口」としての水漏れ、「第二の傷口」としての虫の侵入。そうして「男」は「住居そのものの防禦」を考えるようになる。しかし水にしても虫にしても、暗闇の中の迷路を通路として住居へと侵入してくるのであり、それは「男」にとって「第三の傷口」のようにも思えてくる。
「男」は団地に「たまたま抽籤に当ったため、流れ着い」た。だが鉄筋コンクリート建造物の中での「人間の家族が、他人として上下に積み重ねられて生活する」ことは、それ以前のモルタル造りの二階建てアパートでのものに比べ、住居として防禦に勝り、ほぼ完璧のように思われた。「窓のついた鉄筋コンクリート建造物である団地の四階建て一棟」は「どこまでの際限なく続く海の上から、不意に見も知らぬ陸地に流れ着」き、「坐礁したまま動かなくなった、一隻の船体のように見える」のだ。だがそれは「防禦」の象徴のようでもある。とりわけ夜にあっては。それゆえに水漏れも虫の侵入も、それらの通路をめぐる「男」の意識の迷路の暗闇もまた、「防禦」を侵犯する「傷口」として現前してくることになる。そして「男」は次のように結論づけ、『書かれない報告』を閉じる。
はっきりしていることは、唯一つだった。住居はすでに男の一部だ。同時にもちろん、男は住居の一部である以上、一日たりとも男が住居を離れて自分を考えることなどできないはずだ。そのようにして男は、日夜、住居とともに生活している。その住居が傷つきはじめているいま、どうして男だけが傷つかないまま生きていられようか。なにしろ男は、そのような形において住居と結びついていたからだ。
現在の命名からすれば、「男」は象徴的に「団地男」とでも呼ばれることになるだろう。そうした意味において、後藤が主人公を「男」としたのは、予見的にして賢明な選択だったように思える。
ここでまさにこの「団地男」は人間と住宅の普遍的な関係にたどりついたように思える。たまたま抽籤に当って流れついた団地であっても、住むことと生活を通じて、そのような人間と住居の内的な関係のドラマが生じ、展開されていくことを告げている。それゆえに団地もまた農家、商家、建売住宅、マンションと変わらないし、住むという現実を浮かび上がらせるのである。そのようにして、団地もまた人間の普遍的なトポスとして浮上してくる。それが後藤の一連の団地小説が秘めているコアのようなものではないだろうか。
◆過去の「混住社会論」の記事 |
「混住社会論」19 黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年) |
「混住社会論」18 スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年) |
「混住社会論」17 岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年) |
「混住社会論」16 菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年) |
「混住社会論」15 大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年)) |
「混住社会論」14 宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年) |
「混住社会論」13 城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年) |
「混住社会論」12 村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年) |
「混住社会論」11 小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年) |
「混住社会論」10 ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年) |
「混住社会論」9 レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年) |
「混住社会論」8 デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年) |
「混住社会論」7 北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年) |
「混住社会論」6 大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年) |
「混住社会論」5 大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年) |
「混住社会論」4 山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年) |
「混住社会論」3 桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年) |
「混住社会論」2 桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年) |
「混住社会論」1 序 |