前回は現代詩の中に表出するコンビニ、それも日常の言葉によって織りなされているけれど、実質的には多彩なイメージと抽象性、あるいは深いメタファーを伴う詩的言語の世界に姿を見せているコンビニだった。そこで今回はより散文的なコンビニ、すなわち小説の中に描かれたコンビニを見てみよう。テキストは吉本由美の『コンビニエンス・ストア』、池永陽の『コンビニ・ララバイ』である。
吉本の『コンビニエンス・ストア』は九一年に刊行されていて、省略を施さず、中黒も付したタイトルそのものが時代を彷彿させる。これも前回記しておいたように、一九七〇年代前半に誕生したコンビニは、八〇年代後半に至って一万店を超えてはいたが、現在の五万店と比べればまだ少なく、社会インフラとしての機能と位置づけも同様だったし、それがタイトルや物語にも反映されていると考えていいだろう。さらにこれは蛇足を承知で付け加えておくと、この表題作の初出は八九年六月刊行のリトルマガジン『par Avion』終刊号で、その際には「コンビニエンス・ストアー」と音引きも付されていた。
前置きが長くなってしまったけれど、まずはこの短編を紹介しよう。主人公の「僕」=マコトは十六歳で、バイクの事故がきっかけとなり、二ヵ月前に高校を中退していた。それに加え、本連載47の『ありがとう』ではないが、家族は別々に暮らしていて、父と息子、母と娘という「子供が二人いる離婚家族の典型的パターン」を踏襲していた。その原因は親父の浮気に端を発するおふくろの家出であり、「僕と姉は、バーカみたいとかカッコ悪いとか嘲った」けれど、本当のところ「僕は仰天していた」のである。
そのような「僕」の高校中退事情や家庭状況を背景とし、コンビニとそのバイトが対置される。そのコントラストは八〇年代に急速に変容していく近代家族と社会の関係のようでもあり、「僕」にとってコンビニは社会へのイニシエーションのためのトポスであると同時に、他の人々にしても現在への入り口機能を果たしているように映る。
しかしそのコンビニ像は「ドサッ、と音がしたので僕はバイク・マガジンから目をあげた」と始まっていることからすれば、バイトが雑誌コーナーで立ち読みしても構わない事実を告げている。訪れてきた姉の可奈子が「雑誌なんか読んでいていいのかネ、仕事中だろーが」というが、「僕」は「客いないときはかまわねえんだよ」と答えるのだ。
このようなマニュアル対応とは異なるコンビニのニュアンス、あるいはサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を想起させる語り口などから、日本のコンビニというよりもアメリカのドラッグストアで起きている物語のようなイメージで始まっている。「僕」と姉の会話はそうした典型でもあり、二人のそれはコンビニの前の「ファミリー・レストラン」に移され、続いていく。ファミレスも省略されず、きちんと中黒も付されている。
そして姉と弟の会話から、離婚後の一年間の家族のそれぞれの状況が浮かび上がり、親父は「笠智衆みたいな親」とされるので、小津安二郎の『東京物語』などが想起され、これもまた『ありがとう』と共通する、裏返されたファミリーロマンスではないかと想像してしまうのである。これに続く連作を読んでいくと、その予感が当たっていたことに気づかされる。しかしそれはまだ先の展開で、タイトルが「コンビニエンス・ストア」であるゆえに、物語はもう一度そこに戻り、そのコンビニの責任者、バイト、パートタイマーからなる人員構成が語られたりもしている。でもそれはお座なりで、金を返しにきた友人、店の前を帰っていく親父が描かれたりして、友人が「マコト、今日は千客万来だなオマエ」というように、コンビニそのものよりもそこで働く「僕」を訪ねてきた姉や友人と織りなす会話がこの短編のコアとなっている。
吉本の「あとがき」によれば、これは一回限りの「マコト君の話」として書かれたとあるので、タイトルは副次的につけられたと推測できる。そのようなかたちで、「マコト君の話」は始まったわけではあるが、以下「ホーム」「コーヒーショップ」「クラブ」「病院」「カフェテリア」「路地」「水族館」と続き、連作集として上梓されたことになる。
本連載の「混住社会論」のテーマからすれば、より興味深いのは次の「ホーム」である。「僕」はコンビニの他に建設会社で土木作業員のバイト、つまり日雇労働者もしていて、その同僚に「ガイジンさん」のチャイがいたが、姿を見せなくなって二週間が経っていた。そこにタイで同郷の娘リンがマコトを訪ねてきて、行方を探るように頼まれた。彼女は医療看護学生、チャイは電子工学の学校に通う学生で、同じ時期に日本にやってきていたのである。マコトはチャイと一緒に仕事にいったことを思い出した。
僕たちのワゴン車は、大きな橋を二つ渡り、レンガやコンクリートの塀の工場地を抜けた。次に建て売り住宅の同じような家並が延々と続いた。その景色は上野駅のコインロッカー・ルームを思わせた。そっくりの家なんだ。子供たちが自分の帰るべき場所を間違ったりはしないかと、僕は考えた。
「とてもきれいですね」
チャイはぽつんと言った。僕はどう答えて良いやら判らなかった。こういう景色をきれいという人間は初めてだったから。
「ここはとても整然としてきれいです」とチャイは続けた。「僕の国にはこういう整然とした住宅地はないですから」
このチャイの発言が何らかの事実に基づいているのか、まったくのフィクションであるのかはわからないが、この「ホーム」もまた九〇年に発表されていたことに留意すべきだろう。「コンビニエンス・ストア」のコンビニがまだ現在のイメージを伴っていなかったように、アジアにしてもタイにしても、まだグローバリゼーションに伴う郊外化が進んでおらず、「建て売り住宅の同じような家並」はまだ出現していなかったことを告げているのではないだろうか。
それゆえに「ガイジンさん」が建築現場にいた「ホーム」の時代もまた、ほぼ四半世紀前だったのをあらためて思い出させるのである。まだ日本はバブルの時代であり、九〇年代になってからは日系ブラジル人を始めとする「ガイジンさん」が労働者として出稼ぎにやってくる事態を迎えつつあった。
そのようなかつての時代に対する思いは池永陽『コンビニ・ララバイ』を読んでも喚起される。これは『コンビニエンス・ストア』よりも十年以上後、つまり今世紀に入って書かれているが、タイトルの「ララバイ」=子守歌からもうかがえるように、コンビニがことさら現代のファンタジー的なトポスとして描かれていることによっている。もちろんフィクションであるから、ファンタジーでも悲劇でも喜劇でもかまわないにしても、このコンビニを舞台とする物語の前提は現実離れしすぎているのではないだろうか。
だがおそらくそれは池永があえて意図したことであり、現代において最もポピュラーな店と化しているコンビニをそのように設定することによって、物語が発生するトポスならしめるように造型したと見なすべきかもしれない。
単行本でも文庫でも同じよう表紙に描かれているそのMiyukiMart =「ミユキマート」は、「青梅街道沿いにある、小さな町の小さなコンビニエンス・ストアだった」とされている。青梅街道については、本連載2、3の『OUT』や、同44の『鬱』の重要な物語背景だったことを既述してきた。だから「青梅街道沿いにある、小さな町の小さなコンビニエンス・ストア」という設定はいいにしても、その立地は本通りから外れた住宅街で、繁華街まで歩いて十分かかると説明されている。このような無理のある立地の設定こそが、このコンビニをめぐる物語をまずメルヘン的にしている。
経営者の幹郎は食品卸の会社に勤めていたが、一人息子を交通事故で失い、精神的に参っていた妻の有紀美と夫婦でできる仕事をと考え、妻の「賑やかだけど乾いているから……」という希望に応じ、コンビニを選択したのである。後に妻の言葉は、混んではいるけれど、それほど騒がしくなく、沈んだ喧噪とでもいうように、客は黙々と買物をし、雑誌を読み、こちらも黙々と商品をカウンターに並べることを意味しているとわかる。その立地は生家が戦前から酒屋を営んでいたところで、それを壊し、銀行融資を受け、新たな建物を造った。ここまではまだリアルだとしても、次のくだりはファンタジーと考えるしかないのである。
どうせやるなら自分流の個性的な店を作ろうと、大手のチェーン店には入らなかった。両親はもういないが、酒店を開いていたときの伝手(つて)を頼って仕入れから接客まで様々な相談にものってもらい、酒類を販売する許可も取った。名前は幹郎と有紀美からとって「ミユキマート」とつけた。
だが実際にコンビニはチェーンでなくしては成立しないし、「自分流の個性的な店」というコンセプトはコンビニにおいてはありえない。コンビニはそういう業態として存在しているし、引用文はその前提と事実に抵触していることになる。それはともかく開店二ヵ月後、妻の有紀美も息子と同じように交通事故で呆気なく世を去ってしまい、ただ「……しあわせでした」という遺書めいた走り書きが夫に残されていた。
これらのいくつもの事柄をふまえ、「ミユキマート」の物語として『コンビニ・ララバイ』の連作七話が展開されていくことになる。それらは当然のことながら、コンビニと様々なトラウマをめぐる物語を形成していくことになるのだが、それは店主の幹郎だけでなく、客や店員にも及んでいくので、それらの物語を列挙してみよう。
客のヤクザ八坂が店員の治子に惚れたことから起きる事件と治子をめぐる人生事情、離婚して会社も辞め、ミユキマートに勤めた照代の、シナリオライターをめざす夫との結婚と離婚に至る物語、バイト暮らしの劇団員香の物語とコンビニの関係、商品代金を踏み倒して逃げたバーのホステス克子、常連の万引き女高生加奈子の援助交際、店の客の老人同士の店のベンチでの恋などである。
これらの物語は、すべてファンタジーのようなコンビニを舞台として繰り広げられていく現代の人情噺とでもいっていいだろう。中原中也の「汚れちまった悲しみに」の使用などはあまり感心しないけれど、コンビニを発祥とする現代のメルヘンとして読むことができよう。そしてあらためて、吉本の『コンビニエンス・ストア』と池永の『コンビニ・ララバイ』の間にある時代の相違と、コンビニのイメージの変容に想いをはせることになるのだ。