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古本夜話396 千代田書院『西條八十詩謡全集』と河野鷹思

またしても飛んでしまったが、もう一度西條八十を取り上げたい。大正時代に本連載380『砂金』によって、いってみれば、象徴主義的抒情詩人としてデビューした西條八十は関東大震災を経て、昭和に入ると抒情、童謡詩人として確固たる地位を占め、また「東京行進曲」や「東京音頭」によって、歌謡曲や民謡の作詞家としても名をなすに至った。そしてそれらをめぐる多くの詩歌集が出されていったのである。

砂金 (日本図書センター、復刻)

そのような過程で、西條の「石階」(『砂金』所収)の中の次のような象徴主義的イメージは後退し、忘れ去られていく。この詩はメーテルリンクの影響を受けているという。

一の寡婦は盲ひ
二の寡婦は悲み
三の寡婦は黄金の洋燈を持つ、
彼等ひとしく静かに歩む
彼等ひとしく石階を登る。

この一連の詩句は、荒川洋治(「窓の下の密度」、『西條八十全集』第一巻月報所収、国書刊行会)も指摘しているように、吉岡実の「四人の僧侶」から始まり、「一人は食事をつくる/一人は罪人を探しにゆく/一人は自瀆/一人は女に殺される」と続いていく「僧侶」(『僧侶』所収、ユリイカ、昭和三十三年)を彷彿させる。吉岡は西條の「石階」を範として「僧侶」を発想したのかもしれないのだ。

西條八十全集 『西條八十全集』

しかしその一方で、西條は戦後を迎えても、「青い山脈」「赤い靴のタンゴ」「トンコ節」「ゲイシャワルツ」などの流行歌の作詞家、ヒットソングメーカーであったので、特異なモダニズムのイメージに充ちた吉岡の「僧侶」との通底に関し、誰も類推しなかったにちがいない。

しかも高 護が『歌謡曲』(岩波書店)の中で述べているように、「歌謡詩の作詞家は、長年にわたって『高尚な詩人による大衆に迎合した低俗な流行歌の詩作』という自家中毒的なコンプレックスから逃れられずにいた。西條八十はそのギャップに悩み続けた典型的な作詞家」とされていたからだ。それでも久世光彦が「青い山脈」の歌を引き、「西條八十と服部良一がいなかったら、私たちは〈復興〉し損ねて、いまごろどうなったかわからないと思う」(『マイラストソング』 、文春文庫)とのオマージュを捧げていることも、忘れないで記しておこう。

歌謡曲 マイラストソング

ところが早くも昭和十年にそのような西條の全貌を見渡そうとする企画が出現した。それは『西條八十詩謡全集』である。これについては本連載でも何度もふれた、二〇〇三年から〇四年にかけての特種製紙コレクション展に基づく『紙上のモダニズム1920−30年代日本のグラフィック・デザイン』(六曜社)収録のモダニズムを追跡した「年表」の昭和十年のところに、その記述を初めて見つけているので、それを引いておく。
『西條八十詩謡全集』 紙上のモダニズム1920−30年代日本のグラフィック・デザイン

 ◎『西條八十詩謡全集』(千代田書院)刊行開始。河野鷹思がブックデザインを担当、本文組に写植を導入、なお全集は第2巻「抒情詩(前)」(35年10月)、第6巻「民謡」(35年2月)、第3巻「抒情詩(後)」(36年2月)の3巻で刊行中止。

この全集がモダニズムのグラフィックデザインの「年表」に掲載されているのは、ひとえに河野がブックデザインを担っていたからだろう。彼は昭和四年に東京美術学校図案化を卒業し、松竹キネマに入社し、演劇、映画の美術監督を務め、ポスターデザインを手がける。その後、花王石鹸、レート化粧品、日本工房などで、河野独特の日本的な色と形によってスタイルを確立し、近代デザインの先駆者とされている。

『紙上のモダニズム 』『西條八十詩謡全集』の書影は掲載されていないが、日本工房が国際文化振興会から資金援助を受け、刊行したグラフィックな対外宣伝誌『NIPPON』の三つの表紙が見え、河野のスタイルがうかがわれる。写真家の名取洋之助が主宰し、デザイナーの河野や山名文夫や亀倉雄策たちが集った日本工房についてはまた後述することになるので、ここではこれ以上の言及は差し控える。

この四六判上製、箱入の三冊しか出されなかった全集の装丁は、各巻が色彩とデザインを異にしているけれど、河野のメタリックなデザインの感触が生かされ、それが本体のページの色構成と詩の写植レイアウトとのバランスを意図しているように思われる。奥付に意匠河野鷹思とあるこの全集の発行者は大島憲二、発行所は東京・麹町・一口坂の千代田書院となっている。そして巻末のページ下に編輯責任・門田穣・戸田勇とある。門田は西條の弟子で、ゆたかのペンネームを用い、「東京ラプソディ」などを作詞している、大島、戸田のプロフィルは千代田書院も含めて、それらの詳細が明らかではない。

しかし発行者の大島にしても、昭和十年時点における西條の「詩謡」を分野別に編んだ全集を出そうとしたわけだから、西條の本を出したことがある編集者で、しかも門田と同様に、かなり西條の近傍にいた人物だと推定してかまわないだろう。そして全集の巻数にしても、少なくとも十巻は予定されていたと思われる。

例えば、「抒情詩篇」に当てられている第二、三巻を見ても、それだけで西條が『静かなる眉』(交蘭社、大正八年)を始めとして、八冊出しているとわかる。しかも先述の「年表」の「前後」は間違いで、実際には「前中」であり、「抒情詩篇」はもう一巻が予定されていたことになり、彼がまさに流行の抒情詩人だった事実を示している。さらに第六巻の「民謡篇」は時謡、歌謡、小唄、民謡と四部に分かれ、二百近い作品が収録されている。

これらも本の形式の一つである歌本、譜本として流通販売されていて、それらの取引は書店で百冊単位が当たり前で、取次では千冊単位であったことからすれば、詩集とは比較にならない部数が出回り、多くが歌われていたことになる。それが西條を著名にしたのであり、この時代に全集が企てられた理由となる。だが読まれたわけではなかった。それが全集中絶の原因と見なせるだろう。それらの購入者は決して全集の読者を形成することはなかったと考えられるからだ。

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