前回の島田謹介の写真集『武蔵野』において、雑木林に象徴される武蔵野の過去の風景の代わりに、戦後になって米軍基地とその諸々の施設が出現した事実が語られていた。
それは武蔵野だけではない。青森の三沢、山口の岩国、長崎の佐世保、沖縄の嘉手納などにも米軍基地が置かれている。前世紀のデータになってしまうけれど、梅林宏道の『情報公開法でとらえた在日米軍』(高文研、一九九二年)によれば、在日米軍基地は140に及び、北は北海道の稚内、南は沖縄や小笠原諸島の硫黄島まで広がり、その基地面積合計は大阪市や名古屋市よりもはるかに広く、東京23区の半分を占めている。在日米軍の現役軍人は4万5千人、これとは別に基地で働くアメリカ人軍属、及び軍人、軍属の家族は5万5千人で、合計10万人となる。さらに日本を母港とする海軍の艦船乗組員1万人も実際には在日米軍基地に居住している軍人であり、これも加えれば、11万人が在日米軍の実数と考えられよう。11万人の人口と見なせば、ひとつの地方都市に匹敵するものになる。敗戦と占領を起源とし、それに続く講和条約と日米安保条約によって、日本の中に継続的にアメリカの基地が散種されたのであり、その現実は今世紀に入ってもまったく変わっておらず、半世紀以上の長きにわたって、日本社会を呪縛してきた。米軍基地との混住は何をもたらしたのか。
本連載でもそれらを山田詠美の『ベッドタイムアイズ』の他に、宇能鴻一郎の『肉の壁』や豊川善次の「サーチライト」に見てきたが、ここでは岩国基地を背景とする児童文学を取り上げてみよう。それは岩瀬成子の『額(がく)の中の街』』である。児童文学と呼んだのはこの作品が「理論社の大長編」シリーズの一冊として刊行されていること、岩瀬が『日本児童文学大事典』(大日本図書)に立項され、やはり同シリーズの『朝はだんだん見えてくる』で日本児童文学者協会新人賞を受賞し、他にも児童書を出していることによっている。
『額の中の街』は児童文学というよりも、近年の分類からすれば、ヤングアダルトと見なすほうがふさわしく、それに合わせるかのように、主人公の尚子は十四歳の中学生と設定されている。この作品の舞台は「基地の街××市」とあるが、これが岩瀬の故郷にして、執筆当時も暮らしていた岩国がモデルだと考えていいだろう。
岩瀬の『額の中の街』に言及しようと思ったのは、この「額」が米軍基地を意味し、これが基地の街での混住を描いた作品に他ならないからだった。またそれが少女の眼差しを通じたもので、そこでの彼女のアイデンティティの揺曳こそがこの作品を貫くテーマであるからだ。尚子の母はこの街で働き、「ヘイタイ」の父と出会い、結婚し、尚子を産み、アメリカへと渡った。そしてアメリカで弟のティムを出産し、しばらくして尚子を連れ、この街へと戻り、十五年間どこにもいかなかったような顔をしてスナックで働いている。
十一歳になった弟のティムからスージィに英語の手紙が届く。尚子はアメリカでスージィと呼ばれ、この弟と暮らしていたのだ。しかしそれは遠い昔のことのようだったが、弟の写真を見て、背後に映るアパートとそこでの生活とが思い出された。尚子と母は九年前に日本に帰ってきた。日本に向かう飛行機の中で、母はひどく酔っ払い、尚子に酒臭い息を吐きかけていったのだ。
いい、忘れてしまえばいいのよ。アメリカのことなんか。わかった? 忘れちゃいなさい。これから、おまえは日本人になるんだからね。母は日本語がわからない尚子に英語で囁きかけた。ただ日本人という語だけは「ニホンジン」と日本語を使った。「ニホンジン」は不思議な響きをもっていた。尚子は、母の言うとおり、「ニホンジン」ばかりが住んでいる「二ホン」にこれから行くのだから、わたしも「ニホンジン」になってみたいと考えた。それはこの窓の外のやみのむこうにあるはずの、小さな捩じれた幼虫のような恰好をした国で、そこに住む人たちの仲間入りをしてみたい、という小さなかわいらしいあこがれだった。
このようにして尚子は日本、しかも基地のある街へと戻ってきたのである。それから九年後の物語がこの『額の中の街』ということになる。母は若い「ヘイタイ」を恋人扱いするが、それはいつも数ヵ月後に破綻し、「ヘイタイたちはただ通りすぎてゆくだけの人間」でしかなかった。彼女にとってはアメリカの生活も置いてきたティムのことも、「過ぎ去ったことは、そこで凍りついてしまったことなんだから、いまさらあれこれ考えてみたってどうすることもできない」のだ。
尚子の顔に白人種の痕跡は見当たらなかったけれど、それは骨太で肉付きがよい体つきに表われ、背はクラスで一番高かった。クラスには父親を白人のアメリカ人とするもう一人の女生徒の幸がいて、彼女は尚子と異なり、見るからに白人種の特徴を引き継ぎ、栗色の髪と薄桃色の白い肌で、美しい容貌を備えていた。ところが彼女の父親はアメリカに一人で帰り、行方知れずになっていたこともあり、幸は英語を話せなかった。ただ彼女の特技は「アメリカ人の振りをすること」で、高校を卒業したら東京へいき、ファッションモデルかテレビタレントになるつもりだと公言していた。彼女のような顔をした女の子がいっぱいテレビに出ているし、自分も売れるはずだと思うからだった。
尚子の母は「ヘイタイ」相手の外人スナックの仕事にうんざりしているが、「新しい生活」「もっと別の健康的で明るい生活」を始めることができず、相変わらず「ヘイタイ」たちが「通り過ぎてゆくだけ」の生活を送っていた。その一人がジョージで、彼は母と尚子を基地のレストランへ連れていったりしたが、その後家に住みついてしまった。彼はアメリカでの少年期にトラウマを抱え、日本へとやってきたようなのだ。
日曜日の朝、尚子は外に出て、表通りを歩いてみた。七月の太陽の下で道路は吐瀉物が飛び散り、ポリバケツがひっくり返り、残飯をぶちまけ、無惨な姿をさらしていたが、若いアメリカ人の男女は汚れた街の姿など気にもせずに歩いていた。「彼らにとって、この地は外国なのだから。外国の街がどんなに不潔だろうと、(中略)気にしない。眉をしかめて、嫌悪すればすむことだ。この街に繋っているわけではないのだから。自分たちの国に繋り、自分たちの国から伸びた命綱に繋っているのだから」。だが尚子はちがうし、見慣れた「この街から伸び出ているひげ根のような手が、知らないうちに尚子を抱きしめはじめている」ことに気づいた。それはアメリカ人と異なり、「この街に繋っている」ことを意味していた。
裏通りで尚子はヨシコを見かけた。ヨシコは髪を伸び放題にし、色褪せた花柄のワンピースも着て、この辺りを歩き回り、夜になると物陰に立ち、「ヘイタイ」を手招きした。彼らは新たにきた者ですら、ヨシコのことを知っていたし、彼女を冷やかし、写真に撮り、ある者はヨシコの客にもなった。尚子にとってヨシコ「不潔でもっとも穢らわしい女」ったが、そのヨシコから彼女は「汚物を投げられたように」、「売女(ばいた)」と二度も、しかも英語で呼ばれたのだ。
家に帰ると、母とジョージが言い争いを始め、それを無視してテレビを見ていた尚子に母はいう。
「おまえは、わたしが産んだ子なのよ。(中略)海軍病院でね。アメリカ人の軍医や看護婦に助けられて、おまえは生まれたのよ。……おまえが、いくらそんな、軽蔑するような目でわたしを見ても、わたしは平気よ。わたしはわたしのやり方で生きているのだし、おまえだってちゃんと立派に育てているんだから……」
思わず様々な戦後の日米関係のメタファーを読みとりたくなるが、それは慎み、尚子の居場所の複雑なねじれの表出を見るべきだろう。尚子は日本人の母とアメリカ人の父との間に、基地の海軍病院で生まれた。これが彼女の「額」をも意味していよう。そしてアメリカに渡ったが、「二ホン人の国で、ニホン人みたいな振りをして暮らしてみ」るつもりで、基地の街へと戻ってきた。だが数年通ったアメリカンスクールのほとんどの級友たちの外貌が幸と同じだったことに対し、尚子は日本人と変わらず、外部の人間からはいつも日本人扱いされた。だが日本の小学校に転入すると、それは何の役にも立たず、日本語が満足に話せない気の毒な生徒として、同情や憐れみを受けるだけで、尚子の自尊心は傷つくばかりだった。だから「ニホン人みたいな振り」を愉しむ余裕を失い、「日本人になりたい」と本気で思うようになったが、鞄の底に入れてある外国人登録証だけがアメリカ人であることを語り続けてもいた。
基地の街は日本であるようで日本ではないし、アメリカであるようでアメリカではない。つまり日本人にもアメリカ人にもなりえない尚子こそは、その基地の位相を体現する象徴的な存在として描かれていることになる。その一方で、ジョージはアメリカへの望郷と軍隊嫌悪から精神に異常を起こし始める。また母が山陰の谷間の村の出身であることを知ると、彼女が本連載5 の大江健三郎の『飼育』の村の系列に属し、ジョージは小島信夫の『抱擁家族』の同名の兵士の末裔のようにも見えてくる。そして尚子とは谷崎潤一郎の『痴人の愛』において、ジョージに君臨するナオミになれなかった存在を意味しているようにも思える。ナオミは外国人を思わせる混血児のようだったのに、尚子は混血児であったにもかかわらず、容貌はまったく日本人だったのだ。そのような錯綜したメカニズムによって、『額の中の街』は成立しているのではないだろうか。
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その基地の街の錯綜した日本の男女のメカニズムを象徴しているのがヨシコの存在だ。引き裂かれて狂気へと追いやられ、他ならぬジョージによって殺害されてしまうのだ。新聞に「気狂いヨシコ」の本名が掲載され、「殺されて突然ひとりの日本人に戻った」のである。
尚子はジョージがヨシコを殺したことを知り、夜の街へと出ていく。「この街で母は何年も働いてきた。夜毎、名もないヘイタイの誰かに出会い、気が向けば冗談半分に家へ誘った。ジョージもロバートも、父でさえ事故のように母と会ったのだろう」。母と同じように、彼女も若い「ヘイタイ」に誘われ、安ホテルの一室にいた。ヨシコが尚子を「売女」と呼んだのは、そのような尚子の行方を透視していたからなのだろうか。
しかし物語のクロージングにおいて、兵士たちが「非常呼集」がかかり、MPが街を回り、兵士の群れは基地へと吸いこまれていった。アメリカと軍隊の支配が基地の街を覆い始めたのだ。『額の中の街』は「見慣れたはずの街が、急にどこか見知らぬ街のようにみえてきた」と閉じられている。
いきなり街は「非常呼集」という米軍基地の命令と介入によって包囲され、基地の街の現実をむき出しにしたのである。そういえば、山田詠美の『ベッドタイムアイズ』もそのような基地の介入によって物語の終焉を見たことを想起してしまうのである。