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古本夜話495 人物往来社『考証江戸事典』

村雨退二郎が歴史文学研究会を主宰し、南條範夫もその会員だったことは既述した。村雨の死の五年後に当たる昭和三十九年に南條範夫『考証江戸事典』が人物往来社から出された。

これは南條範夫が「あとがき」で記しているように、村雨の遺稿を整備編纂したもので、「本来ならば、『村雨退二郎 考証江戸事典』と名づくべきものである」。おそらくすでに村雨の名は忘れ去られようとしていた時期でもあり、出版社の意向によって、流行作家であった南條の名前が編者として使われたと考えられる。

村雨は歴史文学研究会にいつも数冊のノートを持参していて、時代考証についての疑問が出されると、即座にそのノートを開いて明確な解答を与えていたという。このノートを村雨の遺児の坂本万理が整理し、南條の名前を借り、出版に至ったのである。

これは幕府と職制、大名・各藩、下級士卒・浪人、兵法・武器、敵討、虚無僧、治安・警察、キリシタン、交通・通信機関、通価・経済、物価、江戸の風俗、教育、租税の十六の大項目からなり、それぞれに主たる中項目が建てられ、それらにまた多くの小項目が付される形式で編まれている。「凡例」に示されているように、「本書は村雨退二郎氏が採集した江戸に関する厖大な覚え書を事典形式に整理編集したもの」で、まさに南條のいう『村雨退二郎 考証江戸事典』にふさわしい内容に仕上がっている。

この『考証江戸事典』を通読してみると、ただちに想起されるのは、村雨に対する三田村鳶魚の強い影響である。これも既述しているが、昭和八年に鳶魚は『大衆文芸評判記』(中公文庫)を書き、大佛次郎『赤穂浪士』、土師清二『青頭巾』直木三十五『南国太平記』白井喬二『富士に立つ影』長谷川伸『紅蝙蝠』吉川英治『鳴門秘帖』林不忘『大岡政談』、中里介山『大菩薩峠』佐々木味津三『旗本退屈男』子母澤寛『国定忠治』の九作について、時代考証や風俗の誤りを痛烈に批判した。
大衆文芸評判記 赤穂浪士 富士に立つ影 紅蝙蝠 大菩薩峠 旗本退屈男




この鳶魚の歴史的実証をふまえた批判に対して、作家たちは反論の余地がなく、沈黙を守るしかなかった。しかしここで提出された歴史と大衆文芸の矛盾や乖離の論点は、歴史と文学をめぐる大いなる問題であり続け、広くグローバリゼーションといった視点も射程に入れざるをえなくなった状況にまできている。しかしこの問題に意識的に取り組んだのは、社会派推理小説と歴史ドキュメントを両立させた松本清張であり、それは戦後を待たなければならなかった。

それはともかく、鳶魚の『大衆文芸評判記』は大衆文芸としての新たな時代小説を志す若い作家たちに大きな影響を与えた。彼らは後に『サンデー毎日』の「大衆文芸」入選者となってデビューし、また鳶魚の話を聞く満月会を開いていくわけであるが、それらの作品が物語性よりも歴史考証に重きが置かれたことにより、大衆文芸特有の面白さが制約され、それゆえにこそ、現在では読まれなくなってしまったのではないだろうか。

歴史と大衆文芸の両立の難しさは戦後の村雨の著作の売れ行きに示され、大村彦次郎『時代小説盛衰記』筑摩書房)において、村雨が疎開先の郷里鳥取で戦後初の衆議院選挙へ共産党から立候補して落選したこと、また戦後ジャーナリズムの波に乗り遅れたこともあるにしても、「彼のめざした緻密な文体や考証がかえって大衆読者に敬遠される結果になった」と述べている。
時代小説盛衰記

確かに戦後の代表作とされる村雨の『応天門』を読むと、表題作の「応天門」はもはや大衆文芸というよりも、芥川龍之介『羅生門』などを彷彿させる歴史に題材を求めた寓話小説のように映る。これは絵巻「伴大納言絵詞」に題材を仰ぎ、平安時代における京の応天門放火事件をめぐって繰り広げられる「政治全体が怪物」である状況の中で、その放火を目撃したひとりの下級書記の運命を描くと同時に、その目撃証言の不確実性を浮き彫りにしている。この「応天門」は同時代の松川事件に対する批判だともされ、すでに言及した『明治巌窟王』よりもさらに深く、権力がもたらす政治構造のメカニズムに鋭く踏みこんでいるように思われる。しかしそれゆえにこそ、村雨は「かえって大衆読者に敬遠される結果」を招いたのではないだろうか。
羅生門 明治巌窟王

戦後の同時代にあって、最も好評を博していたのは山手樹一郎に代表される『夢介千両みやげ』『又四郎行状記』だったからだ。また私が時代小説を読み出した昭和三十年半ばにはこの山手の二作が新潮文庫などに収録されていたが、村雨の著作は他の文庫にも入っていなかった。これも前述したが、『考証江戸事典』が南條編として出されたこともそれを証明しているのだろう。なお付け加えておけば、私の手元にある『応天門』はこれも『サンデー毎日』の大衆文芸入選者だった木村荘十への村雨署名入り献本である。

夢介千両みやげ 又四郎行状記

それから昭和三十年代の時代小説のブームを受け、青蛙房の稲垣史生編『三田村鳶魚江戸生活事典』『同武家事典』などがロングセラーになっていて、それがきっかけで『考証江戸事典』も出版されることになったと思われる。稲垣も『サンデー毎日』の大衆文芸入選者で、歴史文学研究会の会員でもあり、同じく人物往来社から『戦国覚え帖』といった著作を刊行している。これらの企画からわかるように、人物往来社は戦前の『文学建設』や歴史文学研究会と関係があり、発行者の八谷政行は彼らの近傍にいた人物ではないかと考えられる。その八谷によって人物往来社が昭和二十六年に創業され、おそらく同四十三年に倒産し、現在の新人物往来社へと引き継がれたことだけは判明したが、それ以外のことはまだつかめていない。
三田村鳶魚江戸生活事典 三田村鳶魚武家事典

こうして売れない作家の著作を刊行した版元は、出版史の闇の中に閉ざされていく。

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