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古本夜話607 清水俊二と六興出版社

これも日本評論社とは関係ないけれど、本連載585586でふれた六興出版社(部)のことが判明したので、少しばかり飛んでいるが、ここで書いておきたい。その後身の六興出版社も同599に出てきたばかりだからだ。

同586でエドマンド・ウィルソンの『金髪のプリンセス』に言及した後、確か六興出版社の翻訳書は他にもあったはずだと思い、探してみると、四冊ばかり出てきた。それはいずれも清水俊二訳のジュール・ロマン『欧羅巴の七つの謎』(昭和十六年)、ジョン・ガンサー『回想のルーズベルト』上巻、コールドウェル『汚れた土地』(いずれも昭和二十五年)、もう五冊は大門一男訳のスタインベック『気まぐれバス』(同二十九年)である。訳者名の清水を見て、彼が六興出版部に関わっていたこと、それが清水の自伝ともいうべき『映画字幕五十年』(早川書房)に書かれていたことを思い出した。その奥付を見てみると、刊行は昭和六十年で、三十年前に読んだこともあって、すっかり失念していたのである。まさに三十年ぶりに再読してみると、やはり六興出版部が出てきて、忘れていた戦前から戦後にかけての六興出版社(部)史が思った以上に語られていた。

[f:id:OdaMitsuo:20160916180541j:image:h120] [f:id:OdaMitsuo:20161112113753j:image:h120] 汚れた土地(『汚れた土地』)映画字幕五十年

清水の『映画字幕五十年』は映画、字幕、ニューヨーク生活、出版などが実名入りで語られ、その人柄もあってか、どこにいても彼をめぐる人脈が形成され、それが仕事と結びつき、さながらルイス・マイルストン監督による、フランク・シナトラたちを配した映画『オーシャンと11人の仲間』のような群像ドラマとしても読める。また実際に六興出版部もそのようにして設立されたといえよう。

昭和十五年のことだった。清水はパラマウント日本支社翻訳部長であったが、十三年に国家総動員法が発布され、外国映画、とりわけアメリカ映画の輸入が制限され、暇を持て余していることが多かった。そこに旧友で、東宝のPR雑誌『エスエス』の編集に携わっていた大門一男から連絡が入り、会ってみると、いきなり切り出された。「どう、出版をやってみる気はない?」と。清水にしても、「本をつくってみたいという欲望が心のすみのどこかに眠っていたこと」もあり、大門の一言で、「にわかに新しい世界が目の前にひらけてきたように感じたのだった」。近代の知識人たちの欲望をそそる装置としての出版の誘惑が語られている。そのようにして、清水も出版の世界に足を踏み入れていった。

大門をその気にさせたのは、三笠書房でベストセラー『風と共に去りぬ』を翻訳した大久保康雄だった。大門は以前の勤め先の映画会社ユナイテッド・アーティスツ時代に「手づる」があるなら出版をするように勧められていた。清水もまた大久保の企画として、シャーウッド・アンダーソン『暗い青春』(三笠書房、昭和十五年)を翻訳していた。清水も「手づる」だったが、大門はスポンサーとしての本当の「手づる」も見つけていたのである。それを清水は次のように書いている。
風と共に去りぬ

 ユナイテッド・アーティスツのオフィスがあった大阪ビル新館に六興商会という耕作機械を扱う小さな商事会社が部屋を借りていた。軍需景気で金回りがよく、社長小田部諦以下全社員が三十そこそこというので活気にあふれていた。この小田部と大門が地階のバアで知り合い、大門の出版社設立の夢は大きくふくらんだ。
(中略)ある夜、大門と飲んでいて、おもしろいように入ってくる金を何か異議のあることに使いたい、といった。大門がこれをうけて、大久保康雄の話を持ちだし、出版をやってみる気はないか、と持ちかけた。これがきっかけで、(中略)昭和十五年夏、六興商会出版部が誕生、オフィスを新しく日本橋本石町にかまえることになった。(中略)
 私は嘱託ということで、夕方になると、内幸町のパラマウントから日本橋まで出かけた。文芸春秋社の「オール読物」編集長香西昇、編集部員石井英之助、吉川晋の三人もしじゅう顔を見せた。この三人は六興出版誕生前から大門一男の強力なブレーンで、大門が出版社設立の意志をかためたことにはこの三人の存在が大きくものをいっていたようだ。それにしても、この三人は天下の文春にいて、どんな不満があったのだろう。三人とも、六興出版に異常なほどの肩入れをしていた。この三人の場合といい、小田部諦の場合といい、大門一男に男をひきつけるふしぎな魅力があったことはたしかである。

この清水の説明によって、本連載585などで不明だった六興出版部の設立経緯を知ることができる。またそこに書影も掲載されている『欧羅巴の七つの謎』を出し、売行も上々で無難なスタートを切った。確かに手持ちの一冊には第四十四刷とある。だが大門と文春三人組が召集されてしまい、それで十六年に清水がパラマウントを辞め、同書を装丁した画家山下謙一と企画編集に携わることになった。山下は大門の親友だった。

太平洋戦争が始まるその時までに刊行したものはサロイヤンの清水訳『わが名はアラム』、小川真吉『隻手に生きる』、大仏次郎『氷の花』(ママ)、中島健蔵『文化について』、小松清『仏印への途』、井出季和太『華僑』などで、多くは文春三人組が持ちこんだ企画だった。ちなみに私も「移民の町の図書館」(『図書館逍遥』所収)で、サロイヤンの『人間喜劇』『わが名はアラム』を取り上げていることを付け加えておこう。
わが名はアラム 図書館逍遥 人間喜劇

また清水の得心の企画は自らが聞き書きし、十七年に出した宮内省雅楽部長老の多忠龍の『雅楽』で、これは類書がないものだった。十八、九年の出版やそれらをめぐるエピソードを省略し、戦後の六興出版社にふれよう。

社長の小田部は召集され、小笠原に向かう輸送船の中で病死し、大門はまだ帰還していなかった。それもあって、文春を退社した三人組が中心となり、それは大仏次郎、林芙美子、田村泰次郎などの文春的な文芸路線に向かい、これが昭和二十五年の『小説公園』創刊につながっていったのだろう。その一方で、吉川晋が吉川英治の弟であったことも大きく絡んでいるはずだが、出版契約の不備をつき、講談社の『宮本武蔵』と新潮社の『新書太閤記』を六興出版社から刊行することになった。


『宮本武蔵』は「刷れば刷るだけ売れる」事態を迎え、六興出版社はにわかに出版業界の注目を浴びた。また大門も沖縄から帰還し、丹羽文雄を中心とする早稲田系の文芸雑誌『風雪』を引き受け、清水のほうは野球雑誌『野球日本』を二十三年に創刊し、「雑誌づくりとグラウンド通いでたっぷり楽しませてもらった」。

そして六興出版社は昭和二十五年に人気作家十二名を並べた『小説公園』を創刊し、文芸誌『風雪』も刊行し、『宮本武蔵』『新書太閤記』も売れ、武田麟太郎、高見順、佐々木信綱の各全集も出て、世間からはひとがどの出版社として認められていた。だがその内側から見ると、いつ崩れるかわからないもろさを清水が感じていたところに、金食い虫の『野球日本』の廃刊を促された。そこで清水は六興出版社を辞めようと決意し、その年の十二月三十一日に集まっていたみんなの前でいった。「会社をやめたいんだ。きりがいいから、今日でやめることにしてくれないか」と。

まだ清水は『さらば愛しき女よ』(早川書房)に始まるレイモンド・チャンドラーの翻訳を手がけていないが、これはフィリップ・マーロウのセリフのようでもあり、清水の生きるスタイルを表出させているように思える。
さらば愛しき女よ

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