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古本夜話808 太宰施門『ブゥルジェ前後』と髙桐書院

 本連載799の辰野隆『仏蘭西文学』と同様に、太宰施門の『ブゥルジェ前後』も、戦前からの企画が戦後になって実際に刊行に至ったと考えられる。「序」の日付は昭和二十一年三月、発行は八月で、版元は発行者を馬場新二とする髙桐書院、住所は京都市中京区麩屋町通とある。残念ながら『京都出版史』(書協京都支部)には出版社も発行者名も見当たらないことからすれば、戦後を迎え、澎湃として起こった新興出版社のひとつであり、それもその後、必然的に消えるしかなかった多くの文芸書版元と見なしていいだろう。

f:id:OdaMitsuo:20180716164920j:plain:h120(『ブゥルジェ前後』)
 著者の太宰は本連載791の『バルザック全集』の「人間戯曲総序」や『幻滅』の訳者で、同792のクルティウスの『バルザック論』の校閲者として、その名前を見てきたが、『日本近代文学大事典』に立項されているので、それを引いてみる。
f:id:OdaMitsuo:20180515120726j:plain:h110(『バルザック全集』)

 太宰施門 だざいしもん 明治二二・四~昭和四九・一・一一(1889~1974)仏文学者。岡山県生れ。大正二年東大仏文科卒。九年二月から一二年二月まで仏蘭西留学。大正一〇年、京大文学部助教授。仏文科を創設。昭和六年九月バルザック研究にて文学博士。八年教授。二四年五月定年退職。京大名誉教授。わが国仏文学界の草分けで、はじめて『仏蘭西文学史』(大正六、玄黄社)を書いた。主著『バルザック』(昭和二四、甲文社)。

 この立項から、太宰が京大における辰野隆のような立場にあったとわかる。
 『ブゥルジェ前後』の「序」を読むと、立項に示されている以外の著作が挙げられている。それらは『ルソーよりバルザックへ』『バルザック研究』『バルザック以後』で、十八世紀後半から十九世紀前半にかけてのロマン主義、それに続くレアリスムと自然主義の時代の一八八五年ごろまでのフランス小説史をたどったもので、ほぼブゥルジェのところまで達したとされる。

 そして『ブゥルジェ前後』は「ブゥルジェの諸作を中心に置き、なおそれを出来るだけ明確にし得るやうな周囲前後のいろいろの条件、当代の人心に最も影響の大きかつた数かずのものを適宜その場で述べて行つた」著作というコンセプトが述べられている。しかし現在ではこのブゥルジェがもはや忘れられた存在と考えられるし、その翻訳も絶版になっているので、『増補改訂新潮世界文学辞典』を参照し、紹介しておこう。ただしここではそこでの表記であるブールジェを使用する。

増補改訂新潮世界文学辞典

 ブールジェは一八五二年に北仏のアミヤンに生まれ、最初は高踏派の詩人として知られていたが、『現代心理論叢』で同時代の作家たちのペシミズムを分析し、そこからの脱出を試みた。その心理開明の方法を小説に適用し、『残酷な謎』を書き、続いて唯物論の危険、及び作家や思想家の教師としての倫理的責任を問う問題作『弟子』を上梓する。

 この主人公シクストはテーヌやルナンをモデルとする徹底的な実証主義者で、人間については生理の存在しか認めず、心理を問題とすることは愚だと教える。その弟子グレルーは師の教えを信奉し、家庭教師をしている家の令嬢シャーロットを実験のために誘惑し、心中を約束させる。だが彼女はグレルーの日記を読み、その本心を知り、自殺する。グレルーも彼女の兄にすべてを告白した後、殺されてしまう。シクストは弟子の通夜で、自分の非を悟り、長い間捨てていた祈りを口ずさむ。

 このようにストーリーを紹介してきて、これも半世紀前に読んでいたことを思い出し、探してみると出てきた。それは河出書房の山内義雄訳『弟子』(『世界文学全集』19所収、昭和三十一年)だった。ブールジェは実証主義的風土の中で育ったが、この『弟子』によって、伝統的権威、宗教、社会秩序への尊重へと向かい、王党的、カトリック的な立場へとシフトし、ドレフュス事件では反ドレフュス派に組みしたとされる。
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 太宰も『ブゥルジェ前後』において、ルナンとテーヌから始め、第三共和制とアナトール・フランスの位相を論じ、それから『弟子』を中心とする本格的なブゥルジェ論を展開していく。つまり太宰は先述したようなブゥルジェに寄り添っているのだし、それが戦後を迎えても変わらなかったといえる。現在ではもはや誰も語らないけれど、ブゥルジェの翻訳もかなり出されていて、国立国会図書館編『明治・大正・昭和翻訳文学目録』を調べてみると、前述の『現代心理論叢』は『近代心理論集』(平岡昇訳、弘文堂、昭和十五年)、『残酷な謎』は『傷ましい謎』(田辺貞之助訳、春陽堂、同)などとして翻訳されている。また東京堂から出された広瀬哲士訳『死』に関しては、斎藤瀏の『獄中の記』と並んで、昭和十三年のベストセラーになったことを本連載761で既述したとおりだ。また『弟子』も、山内訳はすでに昭和十二年に白水社、同十六年には内藤濯訳の岩波文庫も刊行されていて、それこそ昭和十年代前半が、日本におけるブゥルジェの時代だったことを教えてくれる。
 f:id:OdaMitsuo:20180213151634j:plain:h112 f:id:OdaMitsuo:20180212162553j:plain:h120 弟子 (白水社版)弟子 (岩波文庫復刻)


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