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古本夜話831 今日の問題社「ノーベル賞文学叢書」、『新鋭文学選集』

 やはり昭和十年代半ばに「ノーベル賞文学叢書」が刊行されている。これはマルタン・デュ・ガールの『ジャン・バロアの生涯』しか入手していないし、その巻末に三冊の既刊が記載されているのを見ているだけだが、最終的に全十八巻で完結したようだ。
f:id:OdaMitsuo:20180916115045p:plain:h120(『ジャン・ バロアの生涯』、本の友社復刻)

 この版元は今日の問題社で、その古本はよく見かけるけれども、『日本出版百年史年表』には名前を見出すことができない。実はデュ・ガールの小説の他にも、今日の問題社の単行本が手元にあり、それは昭和十八年刊行の平田禿木序文、和田芳恵解説、樋口悦編纂『一葉に与へた手紙』である。この一冊は半井桃水の手紙十通なども含み、和田がいうように、「今までの一葉論に根本的な変革を要求するであらう」ことがうかがわれ、興味深いのだが、ここではそれだけにとどめたい。
f:id:OdaMitsuo:20180917144312j:plain:h120(『一葉に与へた手紙』)

 今回ふれたいのは、その巻末広告にあるからだ。そこには「ノーベル賞文学叢書全十八巻完結」として、その明細が挙げられているし、これは『日本近代文学大事典』でも言及されていないので、それを示す。なお受賞年度は省く。
 

1 F・E・シツランパア 『しとやかなる天性』(鶴田智也訳)
2 シンクレーア・ルイス 『妖聖・ガントリー』(前田河広一郎訳)
3 マルタン・デュ・ガール 『ジャン・バロアの生涯』(青柳瑞穂訳)
4 デレツダ 『沙漠の中』(岩崎純孝訳)
5 パール・バック 『ありのまゝの貴女』(新居格訳)
6 ビヨルンソン 『日向丘の少女』(宮原晃一郎訳)
7 パウル・ハイゼ 『カプリ島の結婚』(舟木重信訳)
8 ロマン・ロオラン 『姉と妹』(高橋広江訳)
9 アナトル・フランス 『火の娘』(吉川静雄訳)
10 レイモント 『祖国に告ぐ』(三宅史平訳)
11 ロザモンド・レエマン 『舞踏への勧誘』(本田顕彰訳)
12 クヌウト・ハムスン 『白夜の牧歌』(宮原晃一郎訳)
13 ラドヤード・キプリング 『印度物語』(佐久間原・渡鶴一訳)
14 トーマス・マン 『主人と犬』(江間道助訳)
15 ルイーヂ・ピランデル 『或る映画技師の手記』(岩崎純孝訳)
16 ゲルハルト・ハウプトマン 『女人島の奇蹟』(逸見広訳)
17 イワン・ブーニン 『村』(中村白葉訳)
18 セルマ・ラーゲンレーフ 『エルサレム』(前田晃訳)

f:id:OdaMitsuo:20180917143647j:plain:h120(『主人と犬』)

 これらは3の『ジャン・バロアの生涯』がそうであるように、B6判フランス装、裕伊之助装幀、定価一円八十銭とされている。ただし3は二円二十銭だから、ページ数によって異同があるはずで、刊行は昭和十五年から十七年にかけてと推測され、いわば大東亜戦争下における外国文学全集と見なせるし、版権を含めて、どのようにして企画編集が進められたのか、気になるところだが、それらの手がかりはつかめない。

 それでも「ノーベル賞文学叢書」というコンセプトから、先に挙げたように、翻訳陣を広く集めなければならないことは明瞭で、『ジャン・バロアの生涯』にしても、青柳の「序」によれば、第二部は高橋広江、第三部は佐藤朔によるとある。それゆえに奥付に見える今日の問題社の発行者の伊藤隆文がそれ以前に、外国文学を発行する出版社に関係していたことは確実であると思われる。

 そればかりか、『一葉に与へた手紙』の巻末には同様に、『新鋭文学選集』全十五巻の掲載があり、既刊として、野村尚吾『旅情の華』、中島敦『南島譚』、南川潤『白鳥』が挙がっている。これには「全篇書下し長篇を主とし何れも近来の力作を輯めて日本文学に新世代の息吹きを与へんとした野心的傑作ばかりであります」とのコピーが付されている。この『新鋭文学選集』のほうは幸いにして、『日本近代文学大事典』に立項され、昭和十九年にかけて第十二巻までが刊行されたようだ。

 先の三人に続いて、それらの「現文壇に特異な性格を放つ新鋭作家」と作品も挙げておこう。井上友一郎『雁の宿』、野口富士男『黄昏運河』、長谷健『新星座』、福田定吉『風眠る』、高木卓『復讐譚』、牧屋善三『新生』、和田芳恵『離愁記』、田中英光『端艇漕手』、白川渥『山々落暉』で新たに福田が加わっている。予定されていたのに刊行されなかったのは宮内寒弥、牧野吉晴、丸岡明、織田作之助である。

 これらはやはりB6判、鈴木信太郎装幀の美本とされるが、残念ながらすべて未見で、『日本近代文学大事典』によれば、刊行者は伊藤彰となっている。それは『一葉に与へた手紙』と同じで、東京市芝区田村町に位置する今日の問題社が、伊藤隆文と伊藤彰という、おそらくは兄弟によって、昭和十年代半ばに立ち上げられたことを示唆しているのだろう。このような大東亜戦争下における出版社の設立は想像する以上に活発で、用紙配給の割当権をもつ出版文協=日本出版協会加盟出版社数は十六年には千七百社、十八年四千七百社、十九年千二百社となっていた。それに十八年からは一元配給の日配は買切制に移行したことで、用紙の割当を獲得すれば、皮肉なことに戦時下において出版ビジネスはかつてない好況を見出していたのかもしれないし、岩波書店の買切制もその時代の恩恵ともいっていい。そうした例を本連載786などで見ている。

 もはや現在となってはその時代のことはほとんど記録として残されておらず、時代の証人にしても大半が鬼籍に入ってしまい、その詳細をリアルに浮かび上がらせることができない。ただそれを抜きにして、戦時下における外国文学や文芸書出版の隆盛を語ることはできないように思われる。


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