前回のカレン・テイ・ヤマシタのアメリカ人日系三世、おそらくブラジル国籍も有するであろう複数の国籍とその出自、彼女の存在のクレオール性を考えると、あらためて人種とは何かという問いが浮かび上がる。
この問題に関して、どうしても取り上げておかなければならない江藤淳と吉本隆明の対談「現代文学の論理」がある。これは本ブログ「謎の作者 佐藤吉郎と『黒流』」の31「人種と共生の問題」で引いているけれど、ここでもう一度言及してみる。なおこの対談は後に吉本隆明対談集『難かしい話題』(青土社、一九八五年)などに収録されている。
この対談が行なわれたのは一九八二年で、江藤が『ワシントン風の便り』(講談社)、『一九四六年憲法―その拘束』『落葉の掃き寄せ』(いずれも文藝春秋)を刊行し、それらでアメリカによる日本占領と占領下の検閲問題の研究を発表していたことが前提となっている。それに対して、吉本は江藤のそのような仕事のモチーフがよくわからないし、知識人はもっと根本的問題、いかなる国家も歴史のある時代に出現し、またある時代がくればなくなってしまうだろうし、相対的なものだといった問題に取り組むべきではないのかと始めている。そして「江藤さんから見ると、ぼくは理想主義者で空想的、抽象的に見えるかもしれないけれど、ぼくは逆に江藤さんはリアリストすぎると思う」と付け加えている。
その吉本の言を受けて、江藤は「これが私にとって文学(傍点)だからやっている」と述べ、自分は「プラトン主義者、根っからのアイディリスト」で、「文学者や知識人なんて、別段偉くもなんともない」し、吉本の知識人定義は「ずいぶん楽観的」だし、それもまたアメリカの支配下にある戦後の知的、言語的空間がもたらした「幻想」であると返している。さらに吉本は「型通りの理想主義」で、自分のほうが「ラディカルな理想主義」を実践しているのではないかともいっている。それは問わず語りに、八〇年代まではまだ異なったかたちの「理想主義」を語り合うことができた事実をも示している。
そうした江藤の発言に対して、吉本はいう。日本国には千五百年の伝統とその思考様式があるかもしれないが、「その日本国というのもあと百年も経てばなくなっちゃうかもしれません。しかし人間という概念は、百年ぐらいではまずはなくならないでしょう」と。これはもちろん吉本の『共同幻想論』(角川文庫)などに示された、国家は共同幻想であり、国家よりも人間の歴史のほうが長いという見解に基づいている。その吉本に続いて、江藤は次のようにいっている。
(……)あなたは百年といわれたけれども、うっかりすればこの八〇年代の間にだって、日本がなくなることもあり得ると思っています。それではなくなったらどうなるのか。一億一千七百万の人間が一人残らず死んでしまうとはちょっと考えられない。そうするとベトナムのボート・ピープルではないけれど、少なくとも数十万か数百万人ぐらいはどこかへ逃げるだろう。その場合、逃げた人たちはどうなるのだろう。彼らは人間(傍点)として見られるのか、決してそうではないんですね。吉本さん、まず人種(傍点)として見られるんですよ。亡国の日本人という人種は、千五百年だか二千年だかわからないけれど、この人種がそこに至った故事来歴を背負った人種として、突き放して冷たく見られるのですよ。その時点から改めて人間であるということの自己証明を始めなければならない。それは日系移民がすでにやって来たことの、おそらくはもっと過酷な繰り返しです。いまは韓国系の新移民が非常に多くなっていてロサンジェルスだけでも八万人もいる。この人たちも人間であることの自己証明を日夜迫られている。アメリカだからまだいいんで、もしこれがヨーロッパでも行ってごらんなさい。それはもうどうなるかわかりませんね。そういうことを考えると、その点でも実は失礼ながら吉本さんは楽観的に過ぎると思うのです。つまり日本国がなくなったとき、直ちに人間(傍点)という概念が残るという考えが楽観的なのです。その次に出てくるのは必ず人種(傍点)です。それは文学的に想像してもわかることではないでしょうか。亡国の憂目を見て、只の人種になり、人間への道を模索している人々は、アメリカには沢山います。ポーランド難民、チェコの難民、とにかくさまざまな国からやって来ている。かつては高校の先生だった人が、アメリカの大学の小使いさんになって、床を毎日磨いている。その時彼らは何と見られているか、もちろん建前からいえば人間(傍点)ということになるでしょうが、実際にはスラブ人とかあるいはユダヤ人という人種(傍点)としてしか認識されていない。あなたのお考えからは、この問題が抜けていませんか。吉本さんが人間に至る思想を構築される上で、是非この人種の問題を踏まえていただきたい。人種というとナチスのユダヤ人排斥とか、日本人の人種差別とか、いろいろな連想が沸きますが、この問題はやはりきちんと一段階踏まえた上で、人間に至る道をお考えいただきたいと思います。そうでなければ、その思想は綺麗ごとだとぼくは思う。
この一九八〇年代初頭における江藤の発言は自らも挙げているように、本連載24、25、26でもふれてきたインドシナ難民の日本への漂着などもふまえている。また現在の世界的状況に引き寄せて注釈すれば、さらにリアルに響いてくる。それに「八〇年代の間にだって、日本がなくなることもあり得る」との言説は、当時の日本の社会状況ともクロスしている。それに八〇年代に隆盛しつつあった郊外消費社会と同時期の東京ディズニーランドの開園は、アメリカ的風景に覆われてしまった日本を意味し、その産業構造は五〇年代アメリカのそれとまったく重なってしまい、そうした事実は第二の敗戦をも暗示させるものだった。
そして九五年の阪神淡路大震災、二〇一一年の東日本大震災と福島原発事故は、日本国内でも難民と同様の状況を生じさせ、多くの人々がディアスポラ状態に追いやられてしまっている。また今世紀に入ってのグローバリゼーションの急速な進行、戦争や内戦に伴うシリア難民に象徴される問題は、欧米だけでなく、日本でも現実化し、一五年の難民認定申請はこれまで最多の七五八六人に及んでいる。
それゆえにこの時点での江藤の生々しい言説は、欧米や日本でも起きている共通の問題を浮かび上がらせていよう。難民も移民も「人間として見られる」のではなく、「まず人種として見られる」。「その時点から改めて人間であることの自己証明を始めなければならない」からこそ、「この人種がそこに至った故事来歴」、つまり日本人の場合、それを支えるのは必然的に日本という国家と天皇制ということになる。この江藤の発言に対して、吉本は『共同幻想論』における国家と天皇制を形成する「観念の運河」をあえて展開せずに、江藤の「だいぶ強力な主張」に、「そういう事実について無知なんですよ。無知なんであって、別に楽観的というんじゃないんです」と述べ、とりあえずそこで「人間」と「人種」の問題は途切れてしまう。
しかし「現代文学の論理」と題された対談のこのシーンには、江藤と吉本の二人ならではの文学者や知識人としての深い感慨が含まれているはずだ。だから吉本は江藤の白熱する「張力な主張」のよってきたるべきところを察知し、「そういう事実に無知なんです」といって、持論を提出しなかったと思われる。それはアメリカを始めとして海外生活とその事情に通じた江藤と、一度も外国に出なかった吉本自身の立場を弁えていることに起因している。江藤のほうはここで紛れもなく『アメリカと私』(文春文庫)の二十年後の姿を見せている。そして驚くべきことに、自ら任じる文学者や知識人として、アメリカで自分も「人間」ではなく、「人種」として見られてきたと告白しているに等しいと判断できよう。
本当は当たり前のことかもしれないが、「驚くべきこと」と記したのは、蓮實重彦や柄谷行人であったら、これに類する発言を絶対にしないであろうからだ。太宰治が『如是我聞』(角川文庫)でいっているように、大半の「外国文学者」の「洋行」は「外国生活に於けるみじめさを、隠したがる」のだ。それは日本の経済大国への移行、海外旅行の自由化と大衆化、円高状況にあっても変わっていないはずだ。少なくとも欧米においては。
ところがここで江藤はその「外国生活に於けるみじめさ」をカミングアウトしたことになる。吉本は太宰の徒として、「江藤淳ともあろう人」がそれについて告白したことに、あらためて驚きを覚えたのではないだろうか。まだ「日本国」はなくなっていないのに、「人間」ではなく、「人種」としてみられているという江藤の言に対して、先に挙げた返答をするしかなかったと思われる。
もはや二人とも故人となっているし、これ以上の言及は差し控えるが、この「人間」と「人種」の問題は混住化のプロセスにおいて、アポリアとして表出し、それは現在の移民や難民問題にも常につきまとっているし、そのことをひとつのテーマとして本連載も書かれてきた。ここで私のささやかな体験も記しておこう。
『〈郊外〉の誕生と死』でもふれておいたけれど、九〇年代半ばから、私の隣人には日系ブラジル人も含まれるようになった。それは隣の家が所有する一戸建の古い借家に、日系ブラジル人が住むようになったからである。それからの状況をトレースしてみる。九〇年に出入国管理法および難民認定法が改定されたことで、それまで日系一、二世しか適用されていなかった働くことができる定住者資格が三世にまで及び、その数は増加するばかりだった。それは当時のバブル景気による求人増、企業の労働力の需要と確保とも重なるものであった。私の住む東海地方は特に顕著で、カレン・テイ・ヤマシタも、『サークルK・サイクルズ』 で豊田市保見団地に二千人の日系ブラジル人が住んでいることにふれていたが、二〇〇八年に浜松市は二万人、豊橋市は一万三千人に達した。
そのことによって九〇年代に入ると、八〇年代に成立していた郊外消費社会は、日系ブラジル人がいる風景が見慣れた日常的なものになった。日系ブラジル人は夫婦、もしくは家族と一緒に来日していて、その買物などの日常生活も同様に営まれていたからだ。それに三世まで加えられたことで、混血化も進み、夫婦や家族も日系、ラテン系、黒人系などが混じり合い、日系ブラジル人の多様性を知らしめてくれたし、それらの多様な人々と日本人の一般的混住は、日本の歴史が始まって以来のことだと思われた。そうして市役所には多文化共生・国際課といった部署が設置され、公共施設やゴミ回収などにはポルトガル語表記が併記され、その一方で日系ブラジル人による商店や飲食店も立ち上がっていった。
しかし二〇〇八年のリーマンショックによる世界的不況の影響を受け、東海地方の自動車関連産業にもそれが及び、日系ブラジル人の急速な減少が始まり、その数は半減したと伝えられ、私の隣人たちもいなくなり、それと同時に郊外消費社会からもその姿を見かけることが少なくなり、何か寂しい気にさせられるほどだった。九〇年代半ばから十年間ほどは常に日系ブラジル人が隣人で、仕事の関係ゆえだろうが、絶えない移り変わりもあり、その数は二十人以上に及んでいる。深いつき合いをしたわけではないけれど、日常的に挨拶を交わし、人によっては相談を受け、多少なりとも助言し、公共サービスを紹介したこともある。それに私はいつも自転車に乗っているせいか、同じく自転車を利用することが多い、面識のない日系ブラジル人から、すれちがいざまによく挨拶されたものだった。私も同じ「人種」として見られたことになる。それはともかく、彼ら/彼女らは無事に帰国できたのであろうか。それともまだ日本のどこかで住み続けているのだろうか。その一方で、定住者は減少するばかりだが、永住者は増加する傾向にあるとも伝えられている。
だがここで私もあらためて考えてしまう。私も日系ブラジル人と書いてきたように、彼ら/彼女らを「人種」として見ている。それはかならずしも「人間」として見ていないということではないが、混住しているにもかかわらず、言語と生活習慣の相違もあり、彼らとのコミュニケーションが成立していたとはいえないからだ。ただそうはいっても、十年以上に及ぶ混住は平穏なものであり、日本の郊外消費社会の風景の中にあっては、彼ら/彼女らの存在が肌や髪の色の多彩さ、その身体とファッション、日常のハビトゥスゆえに、私たち以上に似合っていたように思われてならない。それは北アメリカを出自とする郊外消費社会がラテンアメリカ状況と異なり、曲がりなりも平和であることを前提としているゆえなのであろうか。
だがこれからはその存続が問われる時期へと向かっているのかもしれない。