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古本夜話18 下位春吉と『全訳デカメロン』

梅原北明の『全訳デカメロン』刊行に際し、ボッカチオ五百五十年祭と出版記念パフォーマンスとしての浅草での仮装パレードを、前回伊藤竹酔の証言を通じて紹介しておいた。そのメンバーの中に一人だけ、梅原の出版人脈と決めつけられない人物がいて、それは竹酔が冒頭に挙げている下位春吉である。

下位は『全訳デカメロン』の序文に「ボッカチョ五百五十年祭祝辞」を寄せ、それは「『ボッカチョ五百五十年祭を日本に於いて盛大に催した』と云ふ誇り得る最上の土産を持つて私は今再び伊太利に向かつて出発します」と始まっている。そしてこれまで日本で十数度にわたって、発売禁止処分を受けた不朽の名作『デカメロン』の全訳刊行を寿ぐ言葉を並べ、「於ボッカチョ祭々典式場」とあるので、これがまさに浅草の祭典の場で読まれた「祝辞」だとわかる。下位は大正十四年に、十年近く滞在していたイタリアから帰国したばかりのはずで、イタリアに通じた文化人として、よく日本の新聞に取り上げられていたことから、どのようなルートか不明だが、祭典にかつぎ出されたのであろう。

なお私の所持している『全訳デカメロン』上下の上巻は大正十四年四月十日初版で、五月一日二十版発行とあり、祭典が功を奏したことを語っていよう。また発行所は朝香屋書店内南欧芸術刊行会、印刷者は福山福太郎で、ここにすでに艶本出版前史の配置もうかがわれる。

さてこの下位春吉だが、私は最初にこの名前を田之倉稔『ファシストを演じた人びと』青土社)で知った。田之倉は同書のダヌンツィオを扱った「武器をとる詩人」の章で、当時の寵児的文学者ダヌンツィオから「日本の詩人」と呼ばれていた下位に言及し、彼はダンテに魅せられ、東京外語学校でイタリア語を習得し、大正四年に渡伊したとまず書いている。しかしその後、ムッソリーニと親密でファシズムの近傍にいたダヌンツィオと交流することで、下位は変貌をとげる。田之倉は、めずらしい下位のイタリアでの写真を示し、述べている。

 下位もダヌンツィオに魅せられ、心酔したひとりだった。しかし詩人の遊戯性、あるいは演戯性への無邪気な共感からやがてファシズムイデオロギーへの承認という、引き返しの難しい地点へと彼は踏みこんでしまうのである。訪伊の目的であったダンテ研究は、いつしかムッソリーニを日本に紹介することとかわってしまった。外国の同時代文化へコミットするときの陥穽がここにある。

この田之倉の記述から、下位のことが記憶に残り、古書目録で彼の本を見かけるたびに購入し、三冊になった。それらを次に挙げる。

 1 『お噺の仕方』同文館、大正六年)
 2 「伊太利の組合制国家と農業政策」(『ダイヤモンド』第十八号別冊付録、昭和八年六月)
 3 「下位春吉氏熱血熱涙の大演説」(『キング』十月号付録、昭和八年十月)

123の間にあるのは長い滞伊による下位の変容に他ならない。1は下位が巖谷小波や久留島武彦などのお伽口演、及びその延長線上にある通俗講話の啓蒙運動家であったことを示しているが、23に至っては、イタリアのファシズムの完全なプロパガンディストへと移行している。その間には東京高等師範学校を経て、東京外語学校イタリア語科に学び、ダンテ研究を目的として、ナポリ東洋語学校の日本語教授として赴任するという経緯もある。だがそれらについては、もはや語られていない。三冊のすべてに言及はできないので、ここでは3だけに限定する。

3の序文にあたる「キング編輯局同人」名での「本書を満天下九千万の同胞諸君に捧ぐ」において、下位は「滞伊実に十八年、自ら軍服に身を包んで欧州大戦に活躍し、或はダヌンチオのフイウメ占領の壮挙に参加し、或はムッソリーニに従つて黒シャツ隊に投じ伊太利のフアツシヨ維新に参画」したと紹介されている。

講談社は大日本雄弁会の雑誌『雄弁』から始まり、『キング』と同様に大日本雄弁会講談社として、政治家などの「大講演集」や演説関連本を数多く出版していた。だからこのような紹介から推測すると、下位は長い滞伊にもかかわらず、日本において「人も知る国家の快男児」として位置づけられ、著名だったことがうかがわれる。つまりイタリアのファシズムのプロパガンディストの第一人者と見なされていたのだろう。下位はイタリアの「フアツシヨ主義」の精神、事業、目的を次のように定義している。

 国民の歴史伝統を基礎として、現代に最も必要にして最も適切なる施設を為し、以て国民精神を統一し、且つ樹立する実行的運動なり。

そしてこれが単なる社会運動ではなく、「国民の歴史、伝統、国体を根本とした精神運動であり、信念運動」だとも言っている。このような下位によるプロパガンダがあって、イタリアと日本の関係や連携も促進されたのではないだろうか。

またこの「付録」の巻末には、下位訳によるムッソリーニ演説集『ムッソリニの獅子吼』も掲載され、下位、イタリアファシズムムッソリーニは三位一体となって、戦前の日本社会にプロパガンダされていったと思われる。その下位の資質と立場をいち早く見抜き、『全訳デカメロン』出版の祭典に彼をかつぎ出した梅原たちの戦略は、後年の講談社ダイヤモンド社の下位をめぐる企画を先取るものだったといえよう。

おそらく下位は昭和十年代をイタリアにもどらず、日本でのプロパガンディストとして過ごしたと考えられるが、詳細は不明で、昭和二十九年に死亡したと伝えられている。だが近年田之倉のみならず、イタリア文化史研究の分野において、下位を再発見する動きが高まり、研究も進んでいるようなので、新しい下位に関するレポートを読むことができる日も近いと思われる。

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