出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

大藪春彦とスティーヴンスン

少年時代の読書は小説が中心だったけれども、その主人公やストーリーに引きこまれるだけでなく、物語の展開の中にあって、登場人物たちが言及する別の小説や書物にも必然的に興味を抱かされたものだった。

そのような作家のひとりに大藪春彦がいて、以前に彼について「ハードボイルドと図書館」(『図書館逍遥』所収、編書房)という一文を書いている。それは主として『野獣死すべし』(光文社文庫)にふれたもので、この多くの著者名と書名にあふれたハードボイルド小説が大藪春彦=伊達邦彦の読書史であり、戦後の一九四〇年代後半から五〇年代にかけての読書日記を形成し、彼と同時代の人々が共有していた書物記録だと書いた。

野獣死すべし 図書館逍遥

大藪が一九五八年に発表した処女作『野獣死すべし』において、主人公の伊達邦彦は植民地だった朝鮮半島から四国へと帰還し、すぐに本を読み始めるのだ。私が『野獣死すべし』を読んだのはもちろん講談社の初版ではない。六五年に徳間書店から刊行され始めた「オーヤブ・ホットノベル・シリーズ」の第二巻としてだった。敗戦と引き揚げ体験とアメリカハードボイルド作品群が結びつくことで、特異な戦後文学として出現した『野獣死すべし』の内実にはふれず、ここではそこに挙げられた書物の一冊だけを取り上げる。邦彦はツルゲーネフ『猟人日記』岩波文庫)からロシア文学に入り、レールモントフ『現代の英雄』岩波文庫)に至りつく。そしてその主人公ペチョーリンに魅せられる。「己れの破滅にまでみちびく絶望につかれ、悪行の中にのみ生きがいを感じるペチョーリンの姿は邦彦の偶像とまでなる」と記されていた。実際に『野獣死すべし』の物語もそのように進んでいくのである。ここで私は『現代の英雄』を教えられて読み、ドストエフスキートルストイとも異なるロシア文学の「余計者」の系譜を知った。
現代の英雄

このようにして私も『野獣死すべし』をきっかけにして大藪の物語に魅せられ、次々と読んでいった。同書よりもさらにヴォリュームがあり、クライムノベルとして圧倒的だったのは『蘇える金狼』で、これは確か六四年の徳間書店の平和新書の二冊本で読んだような気がする。しかしもはや『野獣死すべし』のような書物への言及は見られず、いささか残念に思っていた。

そのような時に古本屋で、同じく徳間書店から刊行されたばかりの『汚れた英雄』の第一巻に出会った。六七年の半ばの頃だった。四六判上製の辰巳四郎による装丁で、読み続けていたのがほとんど新書判だったので、重厚な印象があった。この古本屋は貸本屋的役割を兼ねていて、読み終えてから売りにいくと、買値の半額ほどで買い戻してくれるシステムを採用していた。この時代にはまだそうした古本屋もあったのだ。

この北野晶夫というレーサーをめざす少年を主人公にした『汚れた英雄』は、モーターサイクルのレースとその世界を物語背景としていたこともあって、『野獣死すべし』『蘇える金狼』のようにそれほど引きこまれるストーリーではなかった。しかし一箇所だけ本に関するシーンが書きこまれていて、そこだけが印象に残った。晶夫はブルジョワ女子大生淑子の南軽井沢の別荘に招かれ、彼女の部屋に入る。そして彼は本棚に『宝島』『ジキル博士とハイド氏』などの著者であるロバート・ルイス・スティーヴンスンの『マスター・オブ・バラントレー』を見つけ、めくってみた。読んだことがあるかと問われ、彼がないと答えると、彼女は次のように言う。

宝島 ジキル博士とハイド氏

 「ぜひ、読んでみて。恐ろしい本だわ。いえ、怪談とかそんなチャチなものではないわ。十九世紀イギリスの最高の文学よ。『宝島』を書いたのと同じ人が書いたなんて信じられないわ。その本のなかに出てくる兄殿は、どこかあなたに似ているわ」

彼女はそれをやはり本棚にあった『現代の英雄』と一緒にテーブルに重ね、同じように読むことを勧める。またこれは記憶になかったが、再読すると、彼女は太宰の言葉として「文学は無用の用」だとも言う。彼女にも場面にもまったくふさわしくないのだが、大藪が太宰の徒であることを代弁している。

晶夫は帰ってから、『マスター・オブ・バラントレー』を読み始める。「愚鈍なほど実直な老執事の口を通じて物語られるその内容は、はじめのうちは退屈であったが、読み続けていくうち、晶夫は次第に引きこまれていった」。晶夫によるこの作品の要約と紹介は二ページにわたり、引用はできないので、私なりにストーリーと登場人物を示してみる。

時代は十八世紀半ばで、スコットランドの名門バラントレー家のマスター(若殿)で世継ジェームスは好色な乱暴者、その弟のヘンリーは正直で堅実な若者だった。そこにジェームス党の乱が起きる。これは名誉革命によって王位を追われたジェームス二世が、ジョージ二世の治世に対して内乱を仕掛ける。兄弟は賭けによって、ジェームスが反乱側、ヘンリーはジョージ王側につく。兄は反乱の惨敗にあって死を伝えられ、ヘンリーがバラントレー家の相続人となり、兄の婚約者アリソンと結婚する。だがジェームスは生きていて、様々な悪行と試練を重ね、十年後に故郷へ戻ってくる。そして弟に家と婚約者を奪われたことで、ヘンリーを執拗に迫害し、まず兄弟の決闘から始まり、北アメリカに移っても続き、兄弟は憎み、争い、呪い合うようになり、兄と同様に弟も嫌悪をたぎらせ、極寒の荒野でふたりながらほぼ同時に落命するに至る。

淑子が言ったように、晶夫は兄のジェームスに自己を投影させる。

 ひそかに帰ってきたジェームスは、かつての軽薄で向こう見ずな美青年ではなかった。その美貌は一段と磨きがかかり、洗練された優雅な身のこなしとロマンチックな巧言には女を骨抜きにさせずにはいられぬものを持っていたが、幾度も死の深淵を覗きこんだその心は、荒寥とし、それは一個の悪霊ともいうべきものになっていた。

このように紹介されれば、何としても『マスター・オブ・バラントレー』を読みたくなるではないか。そこで当時何種類も刊行されていた世界文学全集を調べたが、収録されておらず、読むことができなかった。未邦訳なのかとも考えたが、淑子の本棚の説明は「翻訳本」とあったので、大藪春彦もそれを読んで書いたはずだと思った。

しかし見つけることはできず、しばらく忘れていたのだが、一年ほどして、小さな古本屋の片隅にあった文庫の中にそれを発見したのである。それは角川文庫の『バラントレイ卿』で一九五四年初版、五五年三版、西村孝次訳だった。すでに長らく絶版となっていたために見つけられなかったのだ。

期待を持って読み始めたが、ジェームスは晶夫が偶像視するに至ったような魅力的人物とは思われず、『嵐が丘』ヒースクリフよりも鮮烈な印象を受けなかった。そしてその後十九世紀のヨーロッパ小説のテーマのひとつが、『モンテ・クリスト伯』に代表される「帰ってきた男」であり、それにつながる人物としてジェームスもヒースクリフも造型されていること、おそらく大藪春彦も辛酸をなめて「帰ってきた男」としての自分をジェームスに投影していることに気づいた。

嵐が丘 モンテ・クリスト伯

これらは六〇年代末の読書にまつわる記憶で、脳裡の片隅にしまいこまれていた。だが大藪が九六年二月末に亡くなり、奇しくもその直後の四月に岩波文庫から、『バラントレーの若殿』が海保眞夫による新訳で刊行されたことで、『汚れた英雄』のあの場面を思い出したのである。この新訳は西村訳を参照したと記されていた。この新訳を手にして、私以外にも『汚れた英雄』を思い出した読者はいるだろうか。
バラントレーの若殿

最後にもうひとつ付け加えれば、『野獣死すべし』の中で、伊達邦彦は下訳者として、ジェームズ・ケインの千枚を超える『ミルドレッド・ピアース』を翻訳していた。こちらも読みたいと思ったが、現在に至るまで翻訳はなされていない。