「消費社会をめぐって」の連載で、ゾラの『ボヌール・デ・ダム百貨店』を取り上げたが、ここではこの小説を含む連作としての「ルーゴン=マッカール叢書」に言及し、その現代的意味と もたらした波紋について、考えてみたいと思う。
既述しておいたように、「ルーゴン=マッカール叢書」は全二十巻からなり、一八七二年の『ルーゴン家の誕生』から始まり、九三年の『パスカル博士』に及んでいる。この叢書は、フランスの十九世紀後半の社会を描いた一大パノラマを形成し、二十作の長編小説を通じて、単に文学だけにとどまらない、ナポレオン三世の第二帝政期の社会史となっている。
第一巻の『ルーゴン家の誕生』において、南仏の架空の町プラッサンに住む神経症の女性アデライド・フークが農夫ルーゴンと結婚して一人の子供を生み、夫の死後、アル中のマッカールと同棲して二人の子供をなす。このようにして生まれたルーゴンとマッカールという同母異父の家系の子供たちが様々な社会に進出し、それぞれの特異な物語を紡ぎ出していく。ゾラ研究の第一人者H・ミットランは『ゾラと自然主義』(佐藤正年訳、文庫クセジュ)の中で次のように言っている。
だから今日なお、十九世紀における諸階級の歴史、それらの条件や生存様式についてのあらゆる研究が、少なくとも便宜的には「ルーゴン=マッカール叢書」を読むことから始めざるをえないのである。
文学作品に関してここまで評価される資料的価値を秘めた連作は少ないにもかかわらず、「ルーゴン=マッカール叢書」は日本では全巻が翻訳されていなかった。叢書中の著名な『居酒屋』や『ナナ』はいくつもの訳が出されているが、まったく未邦訳のものが何作もあり、完結後一世紀を経ても、日本語で全巻を読むことができない状態におかれたままだった。
しかし今世紀に入って、私も編集者兼訳者として参加した論創社版「ルーゴン=マッカール叢書」、及び藤原書店版「ゾラ・セレクション」の刊行に至って、ようやくすべてを新訳で読めるようになった。このような機会だから、その新訳リストを掲載しておく。新訳は一九九〇年の清水徹訳の集英社ギャラリー『世界の文学』所収の『居酒屋』からとする。
1 | 『ルーゴン家の誕生』 | (伊藤桂子訳、論創社) |
2 | 『獲物の分け前』 | (中井敦子訳、ちくま文庫/伊藤桂子訳、論創社) |
3 | 『パリの胃袋』 | (朝比奈弘治訳、藤原書店) |
4 | 『プラッサンの征服』 | (拙訳、論創社) |
5 | 『ムーレ神父のあやまち』 | (清水正和・倉智恒夫訳、藤原書店) |
6 | 『ウージェーヌ・ルーゴン閣下』 | (拙訳、論創社) |
7 | 『居酒屋』 | (清水徹訳、集英社) |
8 | 『愛の一ページ』 | (石井啓子訳、藤原書店) |
9 | 『ナナ』 | (拙訳、論創社) |
10 | 『ごった煮』 | (拙訳、論創社) |
11 | 『ボヌール・デ・ダム百貨店』 | (伊藤桂子訳、論創社/吉田典子訳、藤原書店) |
12 | 『生きる歓び』 | (拙訳、論創社) |
13 | 『ジェルミナール』 | (拙訳、論創社) |
14 | 『制作』 | (清水正和訳、岩波文庫) |
15 | 『大地』 | (拙訳、論創社) |
16 | 『夢想』 | (拙訳、論創社) |
17 | 『獣人』 | (寺田光徳訳、藤原書店) |
18 | 『金』 | (野村正人訳、藤原書店) |
19 | 『壊滅』 | (拙訳、論創社) |
20 | 『パスカル博士』 | (拙訳、論創社) |
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私はゾラの専門家ではないので、フランス本国の研究に通じていないが、ミットランの記述からすると、一九五〇年以後、ゾラの小説に対する新たな読み方が提出され始め、七〇年前後から現代批評のあらゆる潮流の関心を寄せられるに至ったようである。これらの動向は「ゾラ・セレクション」の責任編集者の小倉孝誠と宮下志朗編『ゾラの可能性』(藤原書店)に、日本における研究の深化も含めて、強く反映されていると思われる。だからそこまで自覚的でなかったとしても、論創社版も藤原書店版と同様に時宜を得た企画であり、新訳ブームにも寄り添っているのだが、売れ行きは厳しく、プルースト、フロベール、バルザックに比して、読者への浸透の難しさを痛感してしまう。
そして『ジッドの日記』 (新庄嘉章訳、日本図書センター)の中の一九三〇年代の慨嘆を思い出す。ジッドはゾラの愛読者で、「ルーゴン=マッカール叢書」を読み返していて、フランスには彼ほど個性的で、しかも代表的な小説家はいないのに、現在の不評判は奇怪にして不公平だと述べていた。だがそれは時代が早過ぎたのであり、例えば当時まだ消費社会を迎えていなかったフランスにおいても、『ボヌール・デ・ダム百貨店』をリアル、かつ切実に読むことはできなかったのではないだろうか。ジッドも会話はすばらしいが、重要な作品ではないと言い切っている。
私の「ルーゴン=マッカール叢書」への注視は、日本の八〇年代における郊外消費社会の成立によっている。郊外消費社会とは、それまで田や畑だった農耕地帯にロードサイドビジネスが林立するようになった風景を意味している。そして他ならぬ「ルーゴン=マッカール叢書」が『大地』という農耕社会と『ボヌール・デ・ダム百貨店』という消費社会の双方を描いた小説を並置させ、日本の現在のみならず、高度成長期をも想起させたのである。このことについて、最後の未邦訳『ウージェーヌ・ルーゴン閣下』の刊行に際し、「『ルーゴン=マッカール叢書』(論創社版)邦訳完結によせて」(『図書新聞』〇九年五月二三日)で、すでに書いているので、繰り返さない。
だが近年のフランス社会学の研究によれば、『大地』の舞台で、一面の麦畑だったボース平野も、現在は日本と同様にロードサイドビジネスの林立する風景に変わりつつあるようだ。
これもグロバリーゼーションの流れであり、ヨーロッパの各国でも起きているし、またアジア諸国も同様で、急速なモータリーゼーションの進行によって、農耕社会は駆逐され、ロードサイドビジネスのある風景に覆われていくだろう。
「ルーゴン=マッカール叢書」全体に描かれているのは、近代という新しい時代を迎えての様々な社会インフラの出現によって、民衆や社会が新しい欲望に目覚めていく物語ではなかっただろうか。パリの大改造、万博、鉄道、百貨店、株式市場などが何をもたらしたかのドキュメントのようにも読める。とすれば、「ルーゴン=マッカール叢書」は断じて一世紀前の物語ではなく、ロードサイドビジネスから始まり、インターネットなどの新しいインフラに組みこまれた現代そのものを描いているといっても過言ではないのである。おそらく「ルーゴン=マッカール叢書」の世界はグロバリーゼーション化の波が押し寄せている各国で、現在でも繰り拡げられている物語に他ならないと思われる。