ハメットのことばかり書いてきたが、チャンドラーについても一章を割いておこう。ハードボイルド小説を読み始めた中学時代には、チャンドラーが先行していたことも事実であるからだ。しかも同じ創元推理文庫で読んだのだ。
私たち戦後世代にとってとりわけ顕著なのは、ミステリやハードボイルド小説からの影響を強く受けたことだろう。もちろんこれにSF小説も加えられる。それは戦後になって創刊された早川書房の「ポケットミステリ」と東京創元社の「創元推理文庫」の存在に多くを負っている。前者は一九五三年、後者は五九年の創刊である。だから大袈裟なことを言えば、戦前の世代にとって岩波文庫が担った役割を、両者が戦後世代に対して果たしたとも考えられる。一九六〇年代の商店街の小さな書店においても、岩波文庫はなかったが、両者が並べられていたことからすれば、それなりに読者が確保され、売れていたのであろう。
「ポケットミステリ」に比べて、「創元推理文庫」は語られることが少ないように思うが、SF小説まで含んだ当時のラインナップは前者にひけをとるものではなく、とても新鮮で充実していたし、また定価も安かったので、多くを読んだものだった。その中の一冊には当然のことながら、チャンドラーのフィリップ・マーロウを主人公とする最初の長編『大いなる眠り』 があった。多くの読者がこの双葉十三郎訳で、正統的ハードボイルド小説と私立探偵マーロウの姿を強く印象づけられたはずだ。マーロウは冒頭から鮮やかにその姿を現わしているからだ。訳者の双葉は先頃亡くなってしまったけれど、彼の訳で『大いなる眠り』 は半世紀にわたって読まれ続けてきたことになる。その記念すべき翻訳の冒頭シーンを示す。
十月の半ば、朝の十一時頃だった。日は射さず、強い雨が来るらしく丘がくっきりと見えた。私は、パウダー・ブルーの服に、濃紺のワイシャツ、ネクタイ、飾りハンカチ、黒いゴルフ靴、濃紺の刺繍いりの黒いウールの靴下をつけていた。ひげもそり、小ざっぱりしていて、くそまじめな顔つきだった。誰に知られようとかまうことはない。どこから見ても身だしなみのいい私立探偵のピカ一だ。なにしろ四百万ドルを訪問するのだ。
これに続いて、建物やステンドグラスについての巧みな比喩による描写とワイズクラックを含んだ会話が展開され、双葉の練達な訳文を通じて、チャンドラーならではの世界へと引きこまれる。そしてこの『大いなる眠り』 はハンフリー・ボガード主演の映画『三つ数えろ』 として公開されたので、映画との相乗効果もあり、マーロウのイメージも定着したように思われる。
だが手元にあるかなり傷んでしまった『大いなる眠り』 の奥付を今一度確認すると、一九五九年初版、六四年八版とあるので、これが半世紀前の翻訳で、私が中学生の頃に購入したものだとわかる。これは先人の訳業を最大限に認めての上だが、本当に当時としては群を抜いた練達の訳文であっても、どうしても現在から見れば、古めかしさと訳語のちぐはぐな感じはまぬがれない。そこで五年ほど前に私訳を試み、新たな発見があったので、そのことを書いてみよう。ちなみに『大いなる眠り』 は既述したように、チャンドラーの処女長編で一九三九年の刊行だが、三五年の短編「雨の殺人者」、三六年の同「カーテン」(いずれも『チャンドラー傑作集4』 所収、創元推理文庫)などがベースとなり、長編へと仕立て上げられた作品である。
何度も繰り返し読んできたはずなのに、私訳を試みるまで、『大いなる眠り』 はずっと石油成金のスターンウッド家の父と二人の娘をめぐるエキセントリックな物語で、それにロサンゼルスという特異な都市が舞台となって重なり、様々ないかがわしい人物や犯罪者たちが絡み、マーロウがその中を動き回り、真相に至り着くハードボイルド小説だと思いこんでいた。
確かに物語の大きな流れはそのようなものだ。だがタイトルのことを考えると、不在の人物へのレクイエムのように読むことも可能で、三つの文脈から『大いなる眠り』 が構成されていることにあらためて気づいた。これらの錯綜が「白馬の騎士」マーロウの視線のもとに描き出されていく。それらの三つを挙げてみる。
1 二人の姉妹に表象されるチャンドラーの女性嫌悪。
2 「卑しき街」ロサンゼルスを徘徊する犯罪者群像。
3 失踪した人物へのオマージュとレクイエム。
実はこの3こそが『大いなる眠り』 のコアのように読める。この謎めいた失踪によって不在となっている男が物語の隠れた主人公として、主要な登場人物たちとつながっているのだ。ちょうど後の『長いお別れ』 のテリー・レノックスがそうであったように。
そのように読んでいくと、チャンドラーが『大いなる眠り』 にこめている自らの出自や経歴が浮かんでくる。石油成金のスターンウッド家は、石油会社の元重役でもあったチャンドラーの体験から導き出されたイメージかもしれない。マーロウは死にかかっているスターンウッド将軍に会う。将軍とはメキシコ戦争に従軍した祖父の呼称をそのまま踏襲しているのだろう。将軍は蘭の温室の中にいて、事故のために半身不随で、もはやその中でしか生きられないのだ。そして娼婦のような甘い匂いを漂わせている蘭は、彼の娘たちのメタファーに他ならないだろう。
二人は本来の用件に入る前に、長女の三番目の夫ラスティ・リーガンについての会話を交わす。彼はアイルランド人の大男で、禁酒法時代には酒の密売業者だった。将軍は言う。以下の引用は双葉訳ではなく、私訳による。
「あの男はわしにとって生命の息吹きだった。とりわけここにいる間は。わしと一緒に長い時間を過ごし、大汗をかきながらブランデーを勢いよく飲み、アイルランド革命の様々な話をしてくれた。彼はアイルランド共和国軍の幹部だったからだ。この合衆国でも合法的な存在ですらなかった。(後略)」
この部分は隠れたる主人公ラスティへの最初の重要な言及だが、原文のHe had been an officer in the I.R.Aが双葉訳では「アイルランド共和国の士官だった」となっているので、彼の実像がうまく伝わっていないと思われる。
だからここで大島真弓編『イギリス史』 (山川出版社)やIRA関連諸などを参照して、補足説明しておこう。
十七世紀以来、アイルランドはイギリスの植民地支配下にあり、秘密結社シン=フェーン党を中核にしてアイルランド義勇軍が編成され、一九一六年にダブリンで復活祭蜂起が決行される。千三百名からなる反乱軍が市内の重要建築物を占拠し、アイルランド共和国成立を宣言した。だが六万人のイギリス軍と戦うことになり、一週間占領地を死守したが敗れ、主たる指導者はすべて銃殺されてしまった。
しかしこの蜂起を契機として、独立戦争が始まり、一九年から義勇軍はアイルランド共和国軍として、イギリスに対し執拗なゲリラ闘争を行なった。二一年にイギリス=アイルランド条約によって、アイルランドは北と南に分裂し、北はイギリスにとどまり、南はアイルランド自由国を経て共和国になった。ところがその後もIRAは条約支持派と反対派の対立が続き、内ゲバ状態に陥り、反対する急進派はテロリズムに走って地下に潜り、IRAそのものが大打撃を受け、後の弾圧につながることになる。
将軍の言葉の背景にはこのようなアイルランドの同時代史があるのだ。それゆえに「アイルランド革命の様々な話」とはダブリンの復活祭蜂起のことを意味し、また別の人物がラスティについて、「一九二二年の内ゲバの背後で、またいかなる時にも一部隊の指揮官だった」と語っていることからすれば、彼はIRAの急進派に属し、弾圧から逃れ、アメリカに密入国してきたことをほのめかしているのだろう。
ここでラスティは単なる酒の密売業者だったのではなく、アイルランド革命に参加した兵士として聖化されていることになる。『大いなる眠り』 のほぼ最後の場面で、マーロウは将軍がどうしてあれほどラスティ・リーガンに入れこんでいるのかと執事に問う。すると執事は「若さ」に加えて「兵士の目をしているからだ」と答える。将軍以外にも、何人もの登場人物たちがラスティを称賛しているのだ。だから彼こそが『大いなる眠り』 の隠れたるヒーローの位置にいると断言していいだろう。
さらに付け加えれば、フランク・マクシェインの『レイモンド・チャンドラーの生涯』 (清水俊二訳、早川書房)が明らかにしているように、チャンドラーの母はアイルランド人、父もアイルランド人の血を引き、自らも「私のからだにはアイルランド人の血が五十パーセント流れている」と書いているのだ。だから『大いなる眠り』 におけるラスティへのシンパシーは、チャンドラーのアイルランド革命と兵士に対する意識の投影だったのではないだろうか。
それならば、誰からも慕われていたはずのラスティはどうして失踪したのか。その謎とパラレルに次々と事件は起きていくが、それは省略する。それでもとりあえずの解決を見て、再びマーロウはスターンウッド家の温室を訪ねる。すると将軍はマーロウに婿探しは頼んでいないのに勝手に行動し、自分の信頼を裏切ったと言い出す。この二人の最後のやりとりは図らずも、失踪した男がこの小説のテーマだったことを浮かび上がらせている。
だがラスティの失踪をめぐるマーロウとスターンウッドの心理的探り合い、その失踪に関する推理、警察との駆け引きの経緯などが煩雑なためなのか、ひとつのクライマックスにもかかわらず、この部分は双葉訳では抄訳となっていて、原書の一ページ分以上がカットされている。その部分は創元推理文庫版の二五三ページから五四ページにかけてである。最後の会話も省略されているので、これを私訳で示す。
「わしは罪を負わされたセンチメンタルな老いぼれだ」と彼は言った。「それに兵士も誰もいない。わしはあの男を見こんでいた。わしには真っ当な男だと思えた。わしの人物判断はそんなに間違っていないはずだ。マーロウ、わしのために彼を探してくれ。かならず探し出してくれ」
「やってみます」と私は言った。「もう休むべきですよ。私はあなたを痛めつけてしまった」
すでにマーロウはラスティの失踪の謎を突き止めていた。色情狂として描かれてきた妹娘のカーメンがラスティを誘惑し、はねつけられたことで、射殺してしまったのだ。その死体は油井のある小沼に沈められ、死体を始末した者とその事実をつかんだ連中によって、事件は起こされていたのである。
ラスティ・リーガンはすでに「大いなる眠り」をむさぼっている存在であり、スターンウッドもほどなく「大いなる眠り」につこうとしている。同じ「大いなる眠り」によって、将軍と兵士の二人は結びつく。だからスターンウッドの二人の娘と婿の不幸な関係と事実は知らせるべきではないし、それがせめてもの救いなのだ。
なお原書 The Big Sleep は Ballantine Books の一九七三年ペーパーバック版を用いた。
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