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古本夜話152 草村北星と大日本文明協会

草村北星と大日本文明協会の関係については拙稿「市島春城と出版事業」(『古本探究』)の中で、流通販売の問題も絡めてラフスケッチしておいた。
古本探究

本連載149でふれた「近代文学研究叢書」第六十七巻の「草村北星」において、明治四十一年に大隈重信を会長として、大日本文明協会を発足させ、隆文館にそれを置いたと記されている。この協会の設立目的は中村尚美の『大隈重信』(吉川弘文館)によれば、「東西文明の調和」と日露戦争後の国民が「軽佻浮薄に流れようとするのを戒め、世界的知識を吸収することによって、わが国文化の向上をはかろうとした」ものであった。そのために欧米のあらゆる分野の翻訳を主とする「大日本文明協会叢書」が明治末期から昭和初年にかけて、三百冊以上が刊行されることになった。その明細は判明していないが、大正十三年までのまとまった叢書の写真を、協会が同年に刊行した『明治文化発祥記念誌』から拙著に転載しておいたので、よろしければ、そちらも参照されたい。

さて「叢書」収録の訳書に関しては次回に譲ることにして、ここでは草村が大日本文明協会設立に至った事情を、以前の自らの間違いを訂正する意味も含め、より踏みこんで推理してみたい。まずその前史として、同じく大隈重信をトップにすえ、明治三十八年に発足した国書刊行会の成功があったと考えられる。国書刊行会の目的は、民間の出版社ではできない事業としての、文字通りの国史国文の重要な「国書刊行」で、第一期七一冊一帖は『続々群書類従』から『新井白石全集』『伴信友全集』までを含むものだった。

それは予約出版形式を採用し、菊判七百ページのものを月二冊配本し、会費は二円であった。この募集を新聞広告したところ、杉村武の「国書刊行会」(『近代日本大出版事業史』所収、出版ニュース社)に示されている数字によれば、会員数は四千人に達し、一般の出版業者を驚かせたという。予約出版は石井研堂が『明治事物起原』(ちくま学芸文庫)の中の「予約出版の始」で述べているように、明治十四年頃から古書の復刻を中心にして始まっている。
明治事物起原

その後の予約出版の推移について、私は「田口卯吉と経済雑誌社」(「古本屋散策」92、〇九年十一月号)で、同社の『大日本人名辞書』を例に挙げ、明治十九年第一版が予約者二四一人だったことに比べ、同三十三年第三版が三五三〇人に及んだことを示し、そこに近代出版業界と読者社会の成長がくっきりと表われていると述べておいた。そのような状況を背景として、国書刊行会の成功がもたらされたと考えていいだろう。

この出版事業の中心となったのは早大図書館長の市島謙吉(春城)と吉川弘文館顧問の今泉定介だった。またこの企画は今泉が立案したこともあり、編集は国書刊行会が受け持ち、製作、流通販売は吉川弘文館が担当する取り決めとなり、編集兼事務所は吉川弘文館内に置かれた。

この今泉が旧『新声』の関係者だったこと、また北星が佐藤義亮から譲渡された『新声』を復刊したのが、国書刊行会設立と同年の三十八年だったことから、国書刊行会と吉川弘文館がタイアップした予約出版システムとその会員の獲得の成功は、北星にいち早く伝わったにちがいない。

そこで北星はやはり大隈重信を会長にかつぎ、大日本文明協会を立ち上げ、国書刊行会と同じ予約出版システムにより、吉川弘文館の役目を隆文館が担い、ただ企画は異なる「大日本文明協会叢書」という翻訳シリーズの出版に至ったのではないだろうか。

手元にある第一期のウェルズの『第二十世紀予想論』(第六回配本、明治四十二年)の巻末に「大日本文明協会々則摘要」が掲載され、その目的は「欧米最近の思想を移植」し、「新興の国運に応ずる新文化開進の基礎に貢献せん」とあり、次のように宣言されている。

 此目的を遂行せんが然め、本会は当代の碩学に依嘱し、欧米最近の名著中、最も健全にして我国に薦めて適当なるものを選択し、達意を主として簡明に和訳し、或は編纂し、若しくは世界最近の思潮を窺ふに足る学者の新著を上梓し、最も便宜なる方法を似つて会員一般に頒ち、以て国民文庫の模範と立せんことを欲す。

そして三年間で五十巻の刊行、非売品扱いで会員以外には分与しないこと、通常会費は月二円であることが記されていて、これはほとんど国書刊行会の予約出版システムを範としているといっていい。また大日本文明協会の第一期の役員は大隈だけでなく、ほぼ半数が国書刊行会のメンバーと重なり、ともに早稲田大学人脈を背景とした出版プロジェクト体だとわかる。国書刊行会が国書、大日本文明協会が欧米の翻訳書を分担して刊行するに至ったとでもいおうか。

さてこの「非売品」と奥付にある。『第二十世紀予想論』は編輯兼発行者を大日本文明協会、右代表者を磯部保次としているが、政友会出身の衆議院議員で、隆文館の取締役も務めている。また特筆すべきは、長女節子は澁澤龍彦の母でもある。つまり磯部は澁澤の祖父ということになる。奥付裏の「大日本文明協会役員」名簿によれば、「本会理事」とある。しかし草村北星の名前は奥付にも役員リストにも表われていない。だが大日本文明協会と磯部保次の住所は東京市京橋区南鍋町一丁目二番地と記されている。これは明治三十九年からの隆文館の住所に他ならず、大日本文明協会とその「叢書」の始まりが北星によっていたことを物語っている。

「大日本文明協会叢書」は大正十五年の第六期までに二五四冊が出され、昭和初年の第七期までを含めると三百冊以上になったと伝えられているが、先述したようにそれらのリストは作成されていないし、北星と隆文館の関係、流通販売も大正を通じて変化していったと推測される。

最後に記しておけば、国書刊行会と大日本文明協会は早稲田大学を背景にして、双生児のような関係にあったと判断できるが、その出版物の相違もあり、明暗を分かってしまったようにも思える。国書刊行会は予約出版システムをまっとうし、その明細も残され、また戦後になってはその名を継承する出版社の誕生を見ている。だが大日本文明協会は「叢書」の明細はいまだ不明で、北星が影のプロデューサーに徹していたこともあってか、近代出版史の闇の中に消えていこうとしている。それはあまりに多種多様な翻訳書、玉石混淆とも評される「叢書」が背負ってしまった宿命であるのかもしれない。


〈付記〉
その後、佐藤能丸の「大日本文明協会試論」(『近代日本と早稲田大学』所収、早大出版部)を読み、そこに一九五冊までの明細、及び『財団法人文明協会三十年誌』における全巻の掲載を知った。しかし後者は入手に至らず、全巻は不明のままだった。

ところがアップするにあたってネット確認をすると、驚くべきことに「大日本文明協会叢書」315巻に及ぶ書目明細が松田義男編で掲載されていることを知った。例によって拙稿は以前に書いたものなので、あえて修正を施さず、そのままとした。

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