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古本夜話154 龍吟社、大本教、『白隠和尚全集』

草村北星は隆文館を大正九年に退いた後、龍吟社を設立したとされている。その年代に関してだが、小林善八の、最も詳細だと思われる八百社近くに及ぶ、「明治・大正時代の出版業興廃表」(『日本出版文化史』同刊行会、昭和十三年)によれば、龍吟社は大正十五年に創業で、住所は赤坂田町となっている。

しかしこれはすでに拙稿「浅野和三郎大本教の出版」(『古本探究 3』)でふれているように、大正十年頃から大本教のこの時期の教団名といっていい大日本修斎会編『大本信徒の主張』を始めとする大本教関連書籍を、龍吟社名で刊行している。その発行者は伊藤元治郎で、北星ではないが、住所は隆文館と同じであるから、二回にわたって記した大日本文明協会と同様に、北星が隆文館内において、すでに龍吟社を立ち上げていたと見なすべきだろう。
古本探究 3

したがって隆文館、大日本文明協会、龍吟社はその後、経営も含めて分社化されるようなかたちで、それぞれ異なる出版活動へと歩み始めたと考えられる。それならば、大本教と北星と龍吟社はどのようにしてリンクしたのだろうか。

それにはふたつのことが考えられる。ひとつは浅野和三郎との関係である。彼は東京帝大出の英文学者で、ラフカディオ・ハーンの弟子となり、「美文」の小説家にして『新声』の時評や発行人をも担当していた。彼は大正五年に大本教に入信し、その機関雑誌『神霊界』(復刻、八幡書店)を創刊し、主筆兼編集長を務め、全国的プロパガンダに成功し、大正初年に千人だった信者数は三十万人に達したとされる。この『神霊界』の取次兼発行所を引き受けたのは、東京本郷の有朋堂であった。当時の有朋堂は英語などの受験参考書の出版社であり、これは浅野の英文学者としての出版人脈から決まったのではないだろうか。

また同様に『新声』を介在して、浅野と北星は結びついたと推測できる。なぜならば、浅野は旧『新声』、北星は復刊『新声』のいずれも発行人だったことから、近代文学史と大本教が交差し、龍吟社という新しい出版社へと向かったように思われる。また経緯は不明だが、浅野の霊能者としての目覚めを描いた『出廬』(『近代庶民生活誌』19所収、三一書房)も大正十年に浅野憑虚名で龍吟社から刊行されている。

もちろん『大本七十年史』などに大本教、大日本修斎会、龍吟社、隆文館との関係が明確に述べられているわけではない。ただ大正時代における大本教の雑誌と書籍によるプロパガンダは出版業界と密接につながり、それは大本教内部での出版をめぐる浅野と出口王仁三郎の闘争、すなわち王仁三郎の『霊界物語』の口述と出版へと至るのである。これらの問題は前出の拙稿を参照されたい。
霊界物語

ふたつ目は本連載151で少しだけふれた、大正時代における隆文館からの『日本大蔵経』の出版である。これはやはり隆文館内にその事務所を置く日本大蔵経編纂会が代表名を松本又三郎、編輯者を中野達慧、発行者を隆文館と北星とし、大正三年から全五一巻にわたって刊行されたものである。これらの仏教書古典類の大部の企画と刊行は、大正時代のひとつの出版ムーブメントといってよく、『日本大蔵経』の他にも、本連載105で言及した『国訳大蔵経』(国民文庫刊行会)、それから『仏教大系』(其刊行会)、『大日本仏教全書』(其刊行会)、関東大震災によって刊行中止に追いやられた新光社の『大正新修大蔵経』などはこの時期の仏典ルネサンスを告げるものだった。

これらの大部の企画と刊行に関する全体的なチャートはほとんど端本しか持っていないこともあり、作成できない。だが関係者たち全員による、身を粉にした出版努力の賜物であり、それらが戦後になってすべて復刻されていることからも、貴重な出版であったことがわかるだろう。実際に隆文館の『日本大蔵経』も昭和四十八年に鈴木学術財団(講談社)から復刻されている。

昭和に入って龍吟社が『白隠和尚全集』『日蓮聖人御遺文講義』などを刊行しているのは、隆文館時代の『日本大蔵経』の企画を継承しているからではないだろうか。それは明らかに大本教の出版物とも異なっているからだ。

それらのうちの『白隠和尚全集』全八巻は、その第四巻を所持している。菊判箱入り、天金の堅固な造本で、白隠の画、真蹟の復刻を含んだ五〇頁にわたる口絵写真に、「寒山詩闡提記聞」他の漢文著作が四百頁近く続き、ちょうど『日本大蔵経』の一冊すべてが漢文で占められていたことを彷彿させる。

奥付を確認すると、編纂所は京都市右京区花園妙心寺正法論社内の白隠和尚全集編纂会で、編纂代表者は後藤光村とあった。白隠は徳川時代における臨済禅の復興者とされ、様々な修行遍歴後、享保三年に京都の妙心寺に転じ、そこで白隠と号したとされているので、編纂所はまさにその妙心寺内に置かれていたことになる。

そして発行所は赤坂区の龍吟社で、発行兼印刷者は草村松雄と記されている。これはすでに見てきたように、大日本文明協会叢書などと同様に、編集と製作、流通販売の分離システムで、出版社のリスクが少ない出版形式を採用しているとわかる。しかも定価の記載もないことから、全巻予約出版、おそらく前金による一括払いとなっていたのではないだろうか。

草村北星が金港堂の編集者を経て、隆文館を創業し、文芸書中心の出版展開を試みていたことはすでに紹介した。またそのような単行本出版のために経営は楽ではなく、そのために『人體美論』のようなヌード写真つきの発禁覚悟の本も出す必要に迫られていたのではないか、またそれゆえの負債も重なり、隆文館を退くことになったのではないかとの推論も記しておいた。

だから北星が龍吟社へと転じた時、隆文館の二の舞を演じてはならなかった。隆文館のような文芸書単行本出版ではなく、製作、流通販売において、リスクを伴わない編集と資本のアウトソーシング、予約出版システムが採用され、おそらく龍吟社の出版物の主体はそこに置かれたように思われる。

なお白隠についてだが、大正時代における仏教ルネサンスにあって、白隠もまた霊術や治療法の側からも再発見されたようで、これもまた本連載137で述べておいたが、人文書院の前身である日本心霊学会は「心霊叢書」の一冊として、野村瑞城の『白隠と夜船閑話』を大正十五年に出している。『夜船閑話』(春秋社)は白隠が神経衰弱と肺疾に悩まされたが、「内観の法」によってそれらから回復したことも述べた著作で、『白隠和尚全集』の第五巻にも収録されている。それを野村が注釈を加え刊行したのがこの一冊で、野村は日本心霊学会の機関紙ともいうべき、月三回発行の『日本心霊』の編輯主任であった。このように仏教ルネサンスは様々な霊術や治療法とも結びついていったのである。
夜船閑話

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